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17 腥の森 4

 紫呉は口中の刃に喰らいついた。切っ先が舌に埋まり、溢れた血が喉に流れ来る。

 僅かばかり、汀は驚きを瞳に宿らせた。だがそれも束の間、すぐさまに小刀を奥に進めようとした。汀の腕を掴み、刃を噛む顎に力を込め、紫呉はそれを阻む。

 血だの唾液だのを嚥下するのは諦めた。垂れ流しながら、生に縋りつく。鉄臭さが喉から鼻に抜けてゆく。

 身を起こそうと紫呉は腹に力を込める。汀の手を掴む指先に力を込める。睨む目に、力を込める。

 汀の目に浮かぶ少しの驚きは、幾許もなく愉悦に染まった。ニィと唇を歪ませて、細い目を更に細めて、汀は悦びに喉を震わせている。

 口中の刃を押し返そうとする紫呉の腕の力に対し、汀は紫呉の喉を圧する手指に力を込める。

 息が出来ない。先程までの比ではない。喉骨が軋むほどの力で、汀は紫呉の喉を潰そうとしている。

 眩み狭まる視界で、汀は笑っている。

 あの喉だ。

 あの喉に。

 ふいに、汀の力が緩んだ。同時に、腹に圧し掛かる体重が軽くなる。汀が身を引こうとしたその理由はすぐに分かった。風を切って飛んできた小刀を、汀は袂で受け止めた。紫呉の喉を圧する手が外れ、急に流れ込んできた空気に眩暈がする。

「おやおや。……若君じゃあないです、か」

 小刀が袂から抜け落ちる。汀の視線が、紫呉から外れる。

 紫呉は汀の腕を押し返し、払いのけた。身を起こす。

 この、喉だ。

 喉笛に喰らいつく。ブツンと音を立てて皮膚に牙が刺さったのが分かった。口中に満ちる血のにおいは己のものではない。汀のものだ。

 呻く声はすぐ側だ。溢れだした血潮が舌を、歯を、唇を濡らして、喉首に垂れ流れ胸元に吸い込まれていく。

 血をすするようにして、牙を肌に突き立てる。

 もっとだ。足りない。もっと、その血潮で、命で、この腹が満ちるまで。

 もっと。

 ふ、と空気が動くのを感じた。その次には吹っ飛ばされていた。地面を転がりながら、横腹から蹴られたのだと判断する。

「失せろ、犬」

 幹に背をぶつけて止まった。息が詰まる。紫呉は上体を起こした。咳きこむ。口から零れ落ちた液体が何かはもう分からない。

 紫呉を蹴りつけたその足を戻し、加羅は爪先で土を軽く叩く。

 金の髪が、夜風に揺れた。息を切らし、汗を垂らし、彼は紅緋の目で己を見おろしている。

 その向こう、汀が喉元を押さえていた。肩を震わせている。笑っている。白の長羽織の肩口に血が散っていた。

「ふ、ふふ」

 ひそかに笑う声が聞こえる。

 紫呉は立とうともがくも、上手く膝に力が入らない。四つ這い、荒い呼吸を落としながら、汀の喉を狙う。

 まだ動いている。あの男は。まだ死んでいない。

 まだ。

「ふふ、……っは、ははは、あっはははは! 良いね! その目だ!」

 汀は地面に刺さったままの籠星を抜いた。

「まるで獣だ! いいや、ケダモノだ!」

 哄笑が響く。

 濃厚な殺気に肌が痺れる。それに応えて、腹の底から熱が湧く。

 だがうまく体を動かせない。痛い。じわじわと、痛みが体を食み始める。

 荒い呼吸の隙間から、ぁ、と小さく声が漏れた。牙月を握る手を、土がべたりと汚していた。己は刃を握り締めたままであった。

 口中に血が香る。ヒュ、と喉が鳴って、ふいに気付く。手を汚すこれは土ではない。乾いた血だ。

 咽た。ごぼ、と喉が嫌な音を立てた。口の周りがやけにぬるつく。

 耳を打つ哄笑がかき消えて、代わりに視線が絡まりついた。

 黒の目だ。汀の。真黒の眼。熱を宿した、愉悦に染まった、黒の色。


 ――きみは血狂いだ。


 蘇るその声を、首を振って打ち払う。口周りを手の甲で拭うも、ただ、頬にまで血が伸びただけだった。


 ――ぼくと同じ、ね。


 ようやくの事で紫呉は立ち上がった。二本の足で、土を踏みしめ、ゆらぐ体をどうにか支える。

 ふう、と長く汀は息を吐いた。つまらなさそうだった。その目の熱は先程よりも冷めていた。

 しかしその身から立ち上る殺気は変わらない。それに応え湧き上がる、この熱も。

 逃れたいと、そう思った。

 後ずさる。一歩一歩。ゆっくりと。首を振って。髪の先が濡れていた。血だ。

 追って、距離を詰めようとする汀の歩みが止まった。

「……おや」

 加羅は向陽で汀の行く手を阻む。腕を伸ばし、汀の首元に刃を向ける。

「嗅ぎまわるなら、もう少し上手くするんだな」

 犬。

 紫呉を見据え、吐き捨てるように言った加羅の白面に、表情は覗えなかった。

 今ならば、と、紫呉は頭の片隅で考える。

 今ならば、ここにいるのは三人だけだ。二人を葬り去ろうとも、見ている者は誰もいない。日生加羅を死なせても、それが己の手によるものだと、知る者は誰もいない。

(馬鹿げたことを)

 この期に及んで、この身はまだ刃を振るおうというのか。

(血狂い)

 秘かな嗤いを浮かべ、紫呉は二人に背を向ける。痛む体を叱咤して駆けた。ほとんどひきずるような足取りだったが、それでも駆けた。

 森のざわめきも、淀む夏の気配も、荒い呼吸も、垂れる汗も、滴る血潮も、何もかもが厭わしかった。

 耳の奥に蘇る、汀の声も。

 見上げた空に月は見えない。ただ星ばかりが、夜空に瞬いている。


**************************************************


 汀は喉元の向陽を見おろした。身に向けられた乱刃は、この夜闇でも煌きを損なわずにいる。喉と刃の距離は一寸も無い。

 すいと指を刃に触れさせる。指先と戯れるようにして赤い雫が生まれた。それを舐め取れば、ぬるつきと共にほんの少しの鉄臭さと、塩の味がする。

「ねえ、若君」

 汀の呼びかけに、加羅は視線で応じる。向けられた刃は尚もそのままだ。

 小刀を受けた長羽織の袂には、ぽかりと穴が空いている。これではまた、仕立て直さねばなるまい。

「どうして止めるんです、か?」

「如月紫呉に関しては、おれに一任されているはずだ」

 燃えるような紅緋の目が、手出しをするなと告げている。

「ぼくは、侵入者を排除しようとしただけです、よ?」

 加羅は真一文字に唇を結び、じっとこちらを見上げている。

 似ているなと、汀はぼんやり考えた。

 まあ、似ているに決まっているのだ。加羅は息子だ。日生与四郎の一人息子。似ていないはずがない。

 とはいえ、汀は与四郎が十五の頃を知らない。だがきっと、こんな姿をしていたのだろうなと思う。

 僅かに癖を含むまばゆい金の髪。少しばかり肩を過ぎるほどに伸ばされたそれはゆるく一つに束ねられ、湿気を多く含む夜風にさやさやと揺れている。

 汀を見上げる切れ長の目は、燃える紅緋だ。焔の色。まさに、日生の名に相応しい姿。

「若君」

 ゆっくりと言い含めるようにして言えば、加羅は嫌悪感を隠す素振りも見せず、汀の喉元から刃を引いた。常態の瑠璃の数珠に戻し、手首におさめる。

 加羅の呼吸は、まだ少しの乱れを残していた。珍しい事だ。それほどに急いで走り来たのだろう。

「どっちを追って来たんです、か?」

 汀は喉の傷を指でなぞった。歯形の残るそこはまだ血を零している。走る痛みが悦を連れくるようだ。

「ぼくを? それとも、彼、を?」

 こちらを見上げる瞳には、少しの乱れも揺れも見えない。感情の一切を排したその目は、ただ美しいばかりだった。

 絡む視線は、加羅の方が先にほどいた。汀に背を向け、来た道を戻る。

「良いんです、か?」

 汀は紫呉の去った森へと目をやった。

「何がだ」

「……いいえ。何でもありません、よ」

 ちらりと肩越しに視線を寄こされる。何かを言いたげな素振りだったが、結局加羅は口をつぐんだままでいた。

 そうだ、部下たちを埋めてやらなければいけない。だがそれも、八重への報告が済んでからだ。

「八重様は、まだ起きていらっしゃいますか、ね?」

 ご報告をしないと、ね。

 そう続け、汀は加羅の隣に並ぶ。

「……それは、貴様の方がよく知っているんじゃないのか?」

 ハ、と鼻を鳴らし、加羅は嘲弄に表情を染めた。

 答えず、汀は笑みに唇を曲げる。加羅は歩みを進め、汀を追い抜かした。夜闇に浮かぶ加羅の背はしなやかに伸び、迷いの影など有りもしないかのようだった。

 汀は指先に浮かんだ血の雫を舐め取り、まるでその背を飲みこむようにして瞑目した。

 ざわと森が風に噎ぶ。

 昂りは今も腹の底で啼いている。


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