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16 腥の森 3

 背が震えた。ぬるつく汀の声が背を這い、撫で、からまりつく。

 牙月を握る手に力を込める。まるですがるように。指先がひやりと冷たかった。震えている。

 まざまざと、恐怖を感じている。

(何を恐れる)

 何に恐怖しているのだ。死の恐怖か。

 違う、これは。

 汀が地を蹴った。白の長羽織が夜に閃く。籠星の紅の刃が刀風を巻き起こす。紫呉は下がって、刃から逃れた。

 受け止めてはいけない。力比べとなれば競り負ける。己とて相当の力を有しているが、まだ未成熟だ。細身といえども、汀は立派な成人だ。体格差はどうしようもない。力にはやはり劣る。鍔迫り合いになれば力負けするだろう。

 煌く紅から、ただ逃れる。夏の夜を裂く紅の軌跡は美しいと言っても良い。

 夜闇に飲まれることもなく、汀の黒の眼が爛と華やぐ。笑みに曲げられたその黒に映りこむたび、恐怖に鷲掴まれるようである。

 汀は部下の腹を、難なく背から貫いた。昼間、汀が投げた小刀は男の喉を難なく貫いた。相当の力だ。だが、ただの力任せの太刀筋ではない。相当の技量だ。力を操り、我が物にする術を知っている。人体の構造にも詳しいのだろう。筋や骨の隙間を縫って、汀は刃を貫かせている。人を殺す手段に長けている。

「逃げてばっかりじゃつまらない、よ?」

 土を蹴る音、夜風に鳴く葉。荒い呼吸は、己のものばかり。汀は笑みを崩すことなく、ひたすら愉しげに刃を振るう。

 八双の構えから、摺り上げるようにして刃が伸びてくる。躱したものの、二の手で返された刃が、横様から紫呉の首筋を狙い振り下ろされた。

 避ける間もなく、紫呉はその刃を牙月で受けた。ギンと高く鳴る鉄の音に、鼓膜が痺れる。ぐ、と強く押され、牙月の峰が首筋に触れた。ひやりとした鉄の感触が、肌に食い込む。

 柄に両の手を添え押し返そうとするものの、腕の筋が虚しく痛みを覚えるばかりだ。汀の力に押され負け、支える脚も震えている。草履が土を掻き、ざり、と音を立てた。

 脇腹から血が溢れ出るのを感じる。先程、男の身体越しに受けた突きだ。痛みが理性を侵食し始めている。血は帯で止まらず袴にまでも染み、濡れる腿が不愉快だ。じりじりと目の奥が熱く痛む。荒い呼吸が喉を焼く。脈が速い。

 間近に迫った汀の目が、笑みにほころぶ。黒の瞳だ。真黒の眼。歓喜に打ち震えている。熱を感じる。愉悦を感じる。この男は悦びを覚えている。

(……同じだと?)

 己と、この男が? 命のやり取りに愉悦する、この男が?

「ふざけるな……!」

 言い放ったその声は掠れ、揺れていた。

 籠星に更に力を乗せられる。牙月の峰に圧されるその箇所は、ちょうど先程傷を得た箇所だ。峰とはいえど、ぎりぎりと傷口に食い込んで、また新たに血が溢れて垂れる。

 この刃を弾かねばなるまい。弾き、隙を作る。その隙に汀の喉を狙う。喰らいつきやすそうな喉だ。あの喉仏を裂いてやる。いや、喉じゃなくても良い。とにかく傷を負わせる。その隙に一度距離を取る。否、距離を取らずそのまま押し切るべきか。傷に怯んだその隙に、致命傷を負わせるべきか。


 ――今、きみが考えていた事を当ててあげよう、か?


 ふと汀の声が蘇る。


 ――どうやって斬れば良い。

 ――どうすればうまく斬れる。


 は、と紫呉は息を飲んだ。背が震えた。寒い。恐怖が滲む。


 ――きみは血狂いだ。


 違う、

 違う違う違う!

 こんな男と、同じであるものか!

 汀が笑みを深める。舌をなめずり、汀は笑う。その真黒い瞳に、己の姿が映っていた。汀を睨み据えるその目は、確かな熱を宿している。汀の眼と同じ彩りをしている。


 ――ぼくと同じ、ね。


「違う……!」

 ふいに、首を圧する力が緩んだ。汀が刀を引いたのだ。僅かに均衡を崩したものの、紫呉は何とか踏みとどまった。

 だがすぐさまに伸びてきた手に、腹を掴まれる。脇腹だ。ぐい、と傷口を親指でにじられて、声が漏れた。

 伸び来る突きを、身を捩って躱す。伸びた腕を咄嗟に斬りつけようとしたものの、至近ではうまく刀を振るえない。柄で腕を払われ、鈍い痛みが走った。

 何とか牙月は手離さずにいたが、足を払われてその場に倒れた。黴た土のにおいが鼻を突く。背をしたたかに打ちつけ、目が眩んだ。仰向けに倒れた紫呉の首のすぐ真横に、籠星を突き立てられる。

 腹を踏まれた。潰れた声が溢れる。

「つまらない、なあ」

 みぞおちに体重を乗せられて、呻きが漏れる。歯を食いしばり声を殺そうとするが、にじり動く足はやがて脇腹の傷を圧し、紫呉は悲鳴をあげた。

「ぼくはきみと、殺し合いがしたいんだ、よ。殺戮がしたいんじゃない」

 足を退けられ息をついたのも束の間、腹の上に馬乗りになられる。伸びた手は首に絡まり、呼吸を奪われた。爪の先を首筋の傷口に埋められる。にちゃりと濡れた音がした。

 視界が歪む。息がうまくできない。空気を求めて口が大きく開く。まるで獣のような荒い息遣いで、紫呉は夢中で空気を求めた。

「つまらない、な。こんな簡単に死にかけてちゃあ駄目、だよ?」

 汀は懐から小刀を取りだした。咥え、鞘から刃を抜く。吐き出されるようにして落とされた鞘が、紫呉の額に当たって地面に落ちた。

「きみ、さ。もしかして、自分は死なないって勘違いしていない、かな?」

 ずるりと、小刀の切っ先が脇腹の傷に潜りこむ。思わず身を捩るが、逃れる術は無い。首のすぐ間近に突き立てられた籠星が、ぬるりと紅く光っている。

 睨んでみても、涙に濡れた目では滑稽なだけだろう。汀は笑って、切っ先を更に奥に進めた。身を跳ねさせる紫呉に体重を乗せ、動きを殺す。

「ぼくが憎い、かな? 殺したい? 良いよ、好きにすれば良い。きみの殺意は愛でるべきものであり、厭うべきものではない」

 首にまとわる腕に爪を立てる。しかし、指先はただ皮膚をゆるく掻くだけで、汀の力は緩まない。

「繕う必要は無い、よ。きみの業を、愛でようじゃあないか」

 立てた爪に力を込める。笑みに身を震わす汀の振動が腹に伝わり心地悪い。腹立たしい。

 汀は小刀を脇腹から退けた。

「でも」

 小刀は紫呉の血で汚れていた。汀は小刀を手の中で玩んでいる。

「困った、ね。これじゃあきみ、死んじゃう、よ?」

 ひゅ、と喉が鳴った。

「それが嫌なら、命乞い、してごらん?」

 汀は開いた紫呉の口に、小刀の切っ先を突き入れる。血の香りが口中に広がった。切っ先でゆるく舌をなぞられる。咄嗟に舌を奥へ逃がそうとするものの、押し当てられた刃先がやわい肉を傷つけ、更に血は溢れるばかりだ。

 喉に流れ来る液体に紫呉は咽た。しかし舌を這う刃先に邪魔をされ、苦しさを逃しきれない。喉にぎりぎりと手指が食い込み、息が詰まる。だらしなく口の外へ零れる液体は唾液だか血だか分からない。

 痛みと息苦しさに涙が滲む。無様に漏れる声を噛み殺したいのに、口中を犯す刃に邪魔をされ、それもできない。

 見おろしてくる汀の瞳は、ひどく愉しげだ。薄い唇は愉悦に歪められている。

 この男に、命乞いをしろと?

 汀はきっと、たやすく紫呉の命を奪ってみせる。簡単だ。この小刀を、喉に突き入れるだけで良い。首にまとわるこの手に、もっと力を込めれば良い。紫呉の首を動かして、籠星に首筋を擦りつければ良い。

 たやすい事だ。迷いもせずに、汀は己の命を奪ってみせる。

 紫呉は握ったままの牙月を、強く握りしめた。牙月を振り上げ、汀の胸を突けば良い。喉を裂けば良い。さすれば逃れられるだろう。

 しかし、汀が紫呉の命を絶つ方が早い。動こうと身を捩った瞬間、己はきっと死んでいる。

 溢れた血だか唾液だかが首にまで垂れ、傷口に染みた。小刀の峰で上顎をなぞられて身震いする。

(命乞い)

 言葉を奪われたこの状態で、命を乞えと? 助けてくれ、殺さないでくれ。そう、秋波を送れとでも言うのか?

 みじめだ。無様だ。だがそれも、己の弱さと愚かさに因るものだ。愚かしい。本当に、どうしようもなく己は愚かだ。

 生き抜くと決めたのだ。誰を奪おうとも何を奪おうとも。奪った命に潰され這いずり進む事になろうとも。それでも、生き抜くと決めたのだ。

 みじめだろうが無様だろうが知った事か。己の自尊心くらい捨ててみせろ。手繰り寄せろ、命を。生を乞え。

 だが、この男に屈するべきではないと、どこかから声がする。己の魂が叫んでいる。厭っている。

 この手はまだ牙月を握っている。離そうともしない。生を諦めてはいない。

 抗え。まだ、抗えるはずだ。戦えと、魂が吼え猛っている。

 捨てるべきは、矜持でも命でもない。惑う、弱きこの心だ。


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