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13 瑠璃へと続く間道

 あの目はいけない。あの黒い眼はいけない。

 飲み込むような、舐めるような、這うような、真黒い眼。

 あれから、遠ざからなくてはいけない。

 直感だ。理由など分からない。

 ただ、嫌悪した。恐怖した。捕らわれてはいけないと、ひたすらに心身が厭っている。

 それに汀は紫呉が何者かを知っている。

 如月の人間が供も連れずにこの場所にいる、それはつまり断りもなく玻璃に立ち入ったという事だ。

 八重の耳に入ったら大事となるだろう。いや、汀は八重を守護する護焔隊の隊長だ。必ず八重の耳に入るに違いない。

 ならば、一刻も早く立ち去り、瑠璃に戻るべきである。

 理性ではそう分かっている。玻璃にいた、という状況証拠を消さねばなるまい。いつになるかは分からないが、玻璃から知らせが入った際、紫呉が瑠璃にいるという状況を作る必要がある。

 早く立ち去るべきなのだ。分かっている。分かってはいる。

 もしかしたら、既に瑠璃に知らせが入っているのかもしれない。手遅れなのかもしれない。

 分からない。判断のしようがない。不安が胸を締め付ける。

 とにかく、早く戻るべきなのだ。

 しかし、紫呉は尚も玻璃の地に在った。そろそろ夜は色を深めようとしている。昇る月も皓々と冴え冴えしい。

 嫌になるほど分かっているのだ。しかし、だがしかし、加羅は奪うと言った。それが嫌なら追って来いと言った。それに従いここまで来たのに、愚かしいと分かりながらも従い来て、なのに、何も成していない。追えと、捕まえろと加羅は言ったのに。奪われたくないのなら、と。

 だというのに。何もできず、ただ見ているばかりだった。加羅の背を見送るしかできなかった。

 まただ。また何も出来ずに失うのか? 

 見ているだけだった。あの十三の夜も、翔太の首が舞う様を見ているしかできなかった。

 違う、違う違う。それも己の所為だ。翔太は己を護って斬られたのだ。殺された。首を斬られて。

 それも、己の無力が招いた結果だ。

 もう嫌だ。己の所為で誰かが苦しむのも、哀しむのも、死ぬのも嫌だ。もう嫌なんだ。

『おれは奪うよ』

 奪われるのも、もう嫌なんだ。

 だから追ってきたのだ。なのに、何も成していない。何も。奪うと、加羅は、そう言ったのに。

 紫呉は長く息を吸い込み、同じだけの時間をかけて、長く息を吐いた。肺が痛む程に、長く長く、息を吐く。

(……早く、戻らないと)

 己一個人が受ける痛み。如月紫呉が瑠璃の里に及ぼす損害。どちらを避けるべきかは、分かっている。

 紫呉は握った両の拳で、閉じた瞼を強く押さえつけた。

「……戻らないと」

 手を離し、顔を上げる。思った以上にだらりと腕が垂れて、指先が砂利に触れた。割れた窓から差し込む月明かりが、指先を照らしている。

 外れの地のあばら屋である。本来ならば夢緒の住処なのだが、気を使って紫呉に貸し与えてくれたのだ。彼女はしばらく、友人の宅で過ごすと言っていた。

 紫呉はそろそろと指を動かし、砂利の上に書いた。ありがとうございました。

 しかしすぐに思い直して、手のひらで消した。彼女の記憶に己をあまり留めさせない方が良い。最初からいなかったのだと、そう思っていてくれる方が良い。もしも問われた際、咄嗟に、そんな奴は知らないと答えられるくらいに。己と彼女が繋がっていたと、何らかの事で汀なり加羅なりに知られてしまうのが怖かった。

 立ち上がり、あばら屋を後にする。手のひらについた砂利を叩いて落とした。

 全く、何をしているのだ。玻璃に来てしたことといえば、巻き込む可能性のある者と禍根を無駄に増やしたばかりだ。

(愚かだな)

 己を嗤い、夜道を行く。時折すれ違う姿があったが、誰も紫呉に気を取られてはいないようだった。家路につく足取りは軽く、待つ家族があるのだろうと感じた。すれ違いざまに漂う酒気も陽気で、それがやけに胸を締め付けてくれる。

 壁に手をつき、足を止める。夏の夜の空気はぬるく、垂れる汗が不快だった。包帯の下、傷が痛いやら痒いやらで、とにかく気を削がれてしまう。

 紫呉は懐から痛み止めを取り出し、噛み砕いた。喉の奥まで広がる苦味に眉を顰める。だが、効果は既に己の体で実証済みだ。そのうちに効いてくれるだろう。

 何しろ、足を止めている暇は無いのだ。休む事無く瑠璃まで、支暁殿まで駆けねばなるまい。

 やがて瑠璃へと通じる森が見えてきた。森は黒く夜の麓に寝そべっている。一つ息を吐き、足を踏み入れた。

 短い呼吸と、土を蹴り上げる音が響く。気配を隠す余裕は無かった。早く、早く。気ばかりが急いている。弱った体が疎ましかった。

 頭上では月が照っているはずなのに、闇に染まった森に覆われてしまい、それも見えない。夜目が利くとはいえ、月明かりも覚束ない森は暗く、時折躓き、転んだ。手をついた折に傷つけたのだろう、手のひらが少しばかりひりひりと痛んだ。舐めると、血と土の味がした。

 立ち上がり、幹に手をつき息を整える。

 ふいに、背を走るものがあった。

 気配を探るが、明瞭ではない。だが、気配を押し殺している、というその張り詰めた空気は感じる。

 誰かがいる。

 それも複数だ。

 背に、視線を感じる。

 おとがいから滴った汗が、足元でポツリと微かな音を立てた。

 同時に、耳元で風を切る音がした。首を僅かに傾けて躱したそれが、紫呉の眼前の幹に刺さる。

 小刀だ。

 左手首の数珠に手を伸ばす。牙月の名を呼び、緋鞘の打刀に変じさせた。

 背後に迫る足音が踏み切った。上だ。振り下ろされた刃を躱し、抜き様に斬りつけた。

 腹から臓物が零れる。男はぐうと唸った。落ちてくる体を、半身を引いて避ける。

 どっと土に伏せた男の背に、紫呉は刀を突き立てた。もがく指先は、じきに止まった。

 男の背を踏んで、牙月を抜く。締め付ける筋肉が厄介だった。

「良い反応速度、だね」

 ぱん、ぱん、と手を打ち合わせると共に、声がした。

「ためらいがない。それでこそ、殺戮としてあるべき姿、だ」

 紫呉は血振りして、足元の死体を蹴り転がした。反応は無い。それで良い。

「……斉藤汀」

「おや。覚えていて下さいました、か」

 わざとらしく驚く声はうすら笑う色を宿している。

 ほとんど白に近い薄茶の髪。白の長羽織。暗闇の中、汀の姿がぼうっと浮かんで見えた。

 彼の背後には数名つき従う者がいた。皆、白の長羽織姿だ。

「光栄です、よ。――如月の、次男殿」

 笑う気配がした。悪寒が背を這う。

 紫呉は護焔隊を見据え、牙月を握る手に力を込めた。

 血のにおいが鼻腔を突いた。


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