表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/21

12 蝉時雨降る昼市

 ざわめきが聞こえる。市場を満たす喧騒は低く尖り、不安を呼び覚ますようである。

 空気を揺らすどよめきは夢緒にも伝播したらしい。夢緒は紫呉の手を一層強く握り、こちらを振り仰いだ。何があったのだ、と言いたげな夢緒に、紫呉は首を振る。

 ざわめきの中心には人垣があった。二人はその垣の後方に陣取り、隙間から様子を窺い見た。

 垣の中央に、揃いの羽織を着た者達が見える。白の長羽織だ。風に揺れて覗いた羽織裏は、黒味の強い紅色だ。

「護焔隊……」

 夢緒が小さく呟いた。

 そうか、これが耳にしていた護焔隊か。日生八重が、己の守護の為に創設した武装集団。

 護焔隊の面々は一人の男と対峙している。男は足を負傷しているらしい。蹲り、歯噛みしながら護焔隊を見上げていた。

「ねえ。きみ、さ」

 カラン、と高下駄の音が響いた。

「今、ぼくたちを見て、逃げたよ、ね」

 汀だ。

 斉藤汀。護焔隊の隊長を務める男。

 汀はカラコロと高下駄の音を響かせて、懐手のまま男に近づく。はためく白の長羽織が眩い。

 細い目をさらに細め、汀は男の眼前に立った。

「言い訳があるなら聞く、よ?」

 笑う。まるで、蛇が舌なめずりをするように。

 男は食い縛った歯の隙間から、荒い呼吸を漏らしている。睨みあげる瞳は力強い。

「ぼくねえ、きみの顔に見覚えがあるんだよ、ね」

 ほとんど白に近い薄茶の髪をかき上げ、汀は何かを思い描くように空を仰いだ。

「見回りの時に、いっつも見かけるんだよ、ね」

 もしかして、と汀は空を仰いだまま、一際笑みを深めた。

「監視。……されてるの、かな?」

 男の肩が揺れた。

「ぼくたちの見回り経路を、調べてるの、かな?」

 喉を震わせ、汀は笑う。ささめくような小さな笑いは、やがて哄笑に変わった。

「ふ、ふふふ、あは、あははははは!」

 汀の笑み声が市場に響く。市場にはいつの間にか、静寂が満ちていた。ただ、蝉の鳴く声ばかりが耳を打つ。

「愚かしい、ね」

 かくりと折れるように首を曲げて、汀は男を見下ろした。

 絞り出すように、男は呼吸を繰り返している。ごくりと、男が唾を嚥下する音すら聞こえそうな程、周囲は静けさに支配されていた。

「……あああ」

 男の喉から、震える声が発される。

「ああああああ!」

 わななく声を叫びに変えて、男は懐から小刀を取りだした。小刀の鞘を払う。

 いや、払おうした。男は柄に手をかけたまま、ぴたりと動きを止めた。

 その喉元には、打刀の切っ先が突きつけられている。

「懸命な判断ではないな」

 聞いた声だ。

 男の喉元に切っ先を突きつけたまま、加羅は言った。一つに束ねた蜜色の髪が、高く昇った日の光を受けて煌いた。

 紫呉は身が震えるのを感じていた。手に絡む夢緒の手をほどき、襟巻きを引き上げる。

 動く気配は感じた。鞘走りの音は聞いた。

 しかし、抜刀のその瞬間は見えなかった。いや、視覚としては捉えていた。だが、抜刀したのだと知覚したのは、加羅が男に切っ先を突きつけるその様を目にしてからだ。

 汗が頭皮を伝い、首筋に流れていく。奥歯を噛みしめ、ともすれば昂り荒くなる呼吸を押し殺す。

 紫呉は襟巻の下で、ゆっくりと長く息を吐いた。熱い体、早まる鼓動。今すぐにでも斬りかかりたいのを、必死で抑える。

「叛意あり、という事、だね」

 汀は薄い唇を笑みの形に曲げた。

 加羅は、藍鞘を皮の腰帯ベルトに差した。隊服の長羽織がはためく中、加羅だけが隊服を身に纏っていない。白の薄物、黒の洋袴ズボン。澪月のあの雨の夜に見かけた着姿であった。

「粛清を」

 静かな市場に、汀の声が朗々と響いた。人垣が息を呑む。張り詰めた空気が息苦しいほどだった。

 加羅は左の手を鞘に添えたまま、男に視線を落とす。

「早計ではないのか?」

 ク、と汀が喉を鳴らした。

「見た、でしょう? 今、この男は、ぼくたちに刃向かおうとした。もしかして、若君の御身を傷つけようとしたのかもしれません、ね」

 加羅はそれには答えずに、男を眺めている。やがて切っ先を退け、流れるような動作で刃を鞘に納めた。

 キンと鳴る硬い音に、男はびくりと肩を跳ねさせた。何か言いたげな視線で、加羅を見上げる。

「捕らえて、吐かせるべきじゃないのか」

 男を見おろす加羅の顔には、笑みの片鱗も窺えない。

「若君」

 ことさらにゆっくりと、汀が呼びかける。まるでがんぜない子供を諌めるような調子が、ねっとりと絡みつく。

「隊長は、ぼくです、よ」

 加羅は汀には一瞥もくれずに、男を見つめたままでいる。

「粛清を」

 汀は己の指から、何かを抜き取った。銀の指輪だ。それは見る間に、一振りの打刀に姿を変えた。陽光の中、黒塗りの鞘が染みのように真黒く綾を成している。

 汀はそれを、ずいと加羅に差し出した。

 人垣がさわさわと音を発し始める。恐る恐る、人々がその場を去って行く。

 だが多数は尚も残ったままだ。一歩二歩の距離は取ったものの、固唾を飲んで男と護焔隊を取り囲んでいる。

 加羅は黒塗りの鞘を睥睨した。しかし手は伸ばさずに、強く汀を睨み据えた。

「下がれ斉藤」

 汀は、それは楽しげに笑みを浮かべた。薄い唇をニィと曲げて、細い目を更に細めてこっくりと頷く。

 視線で部下達に下がるように示し、汀もまた、数歩の距離を取った。

 柄に手をかけ、加羅は刃を抜いた。男の背後に立つ。

「何か言い残す事は?」

 わずかな瞑目の後、加羅は静かな声を落とした。

 男は、先程とは打って変わって落ち着いた様相をしている。うっすらと笑みを浮かべて、姿勢を正した。

「偽焔滅ぶべし」

 正座し紡いだ言葉が、空気を裂く。

「……我らの希望は潰えていない。我らの希望は、尚も美しく照り輝く」

 嘲弄を含んだ声音は毅然としていた。強い眼光が、汀を射る。

 だが汀はやはり笑うばかりだ。黒い眼には、男の紡ぐ言葉を愉しむような色が有る。

 加羅が向陽を振りかぶる。乱刃が眩い程に煌いた。

「我らの希望は決して消えはしない! 同胞よ、我らの希望は尚もまば、べ、げぇ、え」

 言葉を遮るように、男の首に小刀が刺さった。ごぽりと濡れた音と共に、男の口から鮮血が溢れだす。

 男は、どうと横様に倒れ伏した。砂埃が立ち、男の死相に白くもやをかける。

 男の口から、ヒュウヒュウと空気の漏れるような音が聞こえる。

 口から首から溢れた血がどろどろと地面に広がり、加羅の長靴ブーツの爪先を赤く濡らした。

 やがて人垣から悲鳴があがった。女の悲鳴だ。しかしその女は護焔隊に視線を寄こされ、慌てて口を押さえた。ガタガタと震えながら、悲鳴を飲み込もうと必死の様子だ。

 その女だけではない。人々は悲鳴を飲み込み、それでも事の様を見守っている。カチカチと歯の鳴る音、ひぃと喉が掠れる音。押し殺した嫌悪、恐怖、畏れ。様々な感情が渦を巻いていた。

 振りかぶっていた向陽をゆっくりと下ろし、加羅は視線を巡らせた。

「……首を抱かせてもやらないのか」

 紅緋の眼が、汀の姿を捉えた。

 汀は小刀を放ったその姿勢のまま、浮かべた笑みをなぞるようにして唇をなめずった。

「こういうのはさっさとやらない、と。何かの暗号だったら、どうするんです、か? ベラベラと喋らせちゃダメ、でしょ?」

 汀は手を下ろし、懐手を引き直した。長羽織の裾をばたばたと鳴らして、風が駆け抜けていく。

「懸命な判断ではない、な」

 先程の加羅の言葉を、己の声で汀はなぞる。加羅は見るからに不快そうに目を細めた。

 絡み合う二人の視線の下で、男の呼吸が止まった。静寂の中、遠く鳴く蝉の声が響いている。

 柄を握る加羅の手に、力が込められたのが分かった。甲にくっきりと骨の形が浮かびあがる。

 胸が上下するのが窺えた。らしくもない。得物を手にしている時は、呼吸をひた隠すのが常であるのに。

 そのうちに加羅は、ふ、と息を抜いて汀から顔を背けた。提げた向陽を常態の瑠璃の数珠に変じさせ、左の手首にはめる。

 それが合図になったのかは知らないが、他の隊員達が男の死体の処理を始めた。布で包み、二人がかりで遺骸を運ぶ。

 歩みだす護焔隊を避けて、人垣が割れる。ささめく声は徐々に大きくなり、ほどなく市場を興奮で埋め尽くした。

 残された血だまりを見ていた加羅が顔を上げ、隊員の後に続いた。

 思わず紫呉は右の足を踏み出す。

 だが、踏みとどまった。

 追ってどうする。斬るのか。この衆目の中で?

(馬鹿な)

 できるわけがない。

 こめかみがドクドクと脈打っている。冷静になれと、どこかで声がする。

 数歩駆けて踏み込めば、届く距離だ。背に届く。その背を撫で斬れる。

 届くのに。

 届くはずなのに。

 ふいに、加羅が振り返った。

 ちらと寄こされる視線は、確かに絡み、一瞬でほどけた。

「……っ……は、ぁ」

 詰めていた息が抜ける。

 紫呉は口中に溜まった唾液をこくりと飲み下した。

 絡んだ視線には、何の表情も無かった。面めいた笑みも、揶揄の調子も、何も。

 遠ざかる背を見送る。加羅の長靴を濡らした男の血が、加羅の歩みと共に跡となって地面を彩っていく。

 人垣がばらばらと砕けだす。紫呉はギリと音を立てるほどに噛みしめて、加羅の背に背を向けた。固めた拳がぶるぶると震えていた。

 散り散りになりゆく人々に、紫呉たちもまた続こうとした。

 途端、背に強い視線を感じた。

 咄嗟に紫呉は振り返る。這うように、舐めるように、視線が体をのぼっていく。

 辿った先には、汀の姿があった。

 汀はニィと笑った。

 白い歯がこぼれる。

 なめずる舌先がいやに赤い。

 悪寒が背を駆けた。汗がうなじを伝って、背を流れ落ちる。

 その向こう、汀を呼ぶ隊員の声がした。それにひらひらと手を振って、汀もまた隊に続く。

 視線がほどけるなり、どっと汗が吹き出した。

 浴びる日は確かに熱く、まといつく空気も確かに暑い。

 そのくせ、皮膚を這う恐怖ばかりが寒い。

(恐怖)

 そうだ、恐怖だ。確かな恐怖を感じた。

 あれは殺気だ。怒りも憎しみも含まない、純然たる殺気。

 純白の、欲。

「大丈夫かい? 顔色が優れないよ。……血が苦手だったかい?」

 夢緒の声もどこか遠い。わんと広がる蝉の声が頭の奥で鳴り響いている。

 頷いたのかどうかも、定かではなかった。

 今も地面には、男の残した血溜まりが赤く蹲っている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ