【短編】忘却の香を焚かれ続けた薬師令嬢ですが、記憶を消せない体質だったので全部覚えてます~婚約破棄の当日、公爵家の悪事を焚いた香ごとお返ししますわ~
「セラフィナ・エルネスト。お前との婚約を破棄する」
王城の大広間。数百の視線が突き刺さる夜会の只中で、王太子アルベルトの声が高らかに響いた。
金の髪を揺らし、彼は勝ち誇った笑みで告げる。
「お前のような『何も覚えていない愚鈍な女』は、王妃にふさわしくない」
シャンデリアの光が、扇で口元を隠した私の琥珀色の瞳に落ちる。
——ああ、やっと。
心の中で、私はそっと息を吐いた。
(前世の研究室で徹夜明けにコーヒーを飲んだときと同じ感覚ね。ようやく報われる、という)
表向きは、ぼんやりと首を傾げてみせる。何も理解していない、憐れむべき令嬢の顔で。
「まあ……何かの、お話でしょうか?」
「これだ! この鈍さだ! 会話の一つもまともに覚えていられん」
アルベルトが大仰に両手を広げ、周囲へ同意を求める。くすくすと嘲笑が広がった。
その隣で、栗色の巻き髪の少女——男爵令嬢ミレーユが、甘ったるい声で追い打ちをかける。
「かわいそうに。あなたは何も覚えていないのでしょう? だから何度も同じ失敗をなさるの。もう、王太子殿下のお側にいる資格なんてないのよ」
彼女は口元に手を当て、勝者の顔で微笑む。
(何も覚えていない、ね)
私は扇の陰で、静かに目を細めた。
(三年前の雨の夜、公爵家の客間。あなた方が焚いた甘い煙の中で、密輸のルートについて何を話したか。日付は雨季の第三週、時刻は午後十一時過ぎ。発言者は——ええ、全部、覚えていますわ)
私、セラフィナ・エルネストは前世の記憶を持つ転生者だ。
前世では、毒物耐性と調香を極めた薬学研究者だった。
そして、この世界で私が授かったギフトの名は——『忘却無効』。
あらゆる記憶操作を、無効化する。
公爵家が私の私室に長年焚き続けてきた『忘却の香』。吸えば直近の記憶が少しずつ溶けていく、忌まわしい魔法の香料。
彼らは私を『何も覚えていない愚鈍な令嬢』に仕立て上げ、あらゆる罪をかぶせるつもりだった。
だが——その香は、私にだけは一切効かなかった。
(つまり、あなた方が「どうせ忘れる」と油断して密室で語った悪事のすべてを、私はこの頭に完璧に保管しているのですけれど)
それを、彼らはまだ知らない。
アルベルトが勝ち誇ったまま、次の言葉を口にしようとする。
その瞬間、私は静かに扇を閉じた。
パチン、と。
乾いた音が、広間に妙な緊張を落とした。
──
扇を閉じた私の脳裏に、一人の顔が浮かんでいた。
ハンナ。
私付きの侍女。かつては聡明で、私の些細な体調の変化にも気づいてくれる、気の利く女性だった。
だが今の彼女は——同じ言葉を何度も繰り返す。昨日食べたものを思い出せない。廊下の角を曲がるたび、自分がどこへ向かっていたのか分からなくなって、立ち尽くして怯える。
公爵家が『忘却の香』の効果を確かめるため、彼女を実験台にしたのだ。
私という本命に使う前に、無害な侍女で試す。それだけの理由で、一人の人間の記憶と心が壊された。
(先週、ハンナは私に三度、同じことを尋ねましたわ。「お嬢様、お茶をお淹れしましょうか」と。三度とも、初めて言うような顔で)
私はそのたびに「ありがとう」と微笑んで、そのたびに、心の奥で何かが軋んだ。
私は耐えられる。ギフトがあるから。
だが、彼女は違った。
無害な微笑みで受け流し続けてきた日々。愚鈍を演じることで証拠を集め、時を待つという戦略。それは正しかった。研究者として、私はいつだって最適解を選んできた。
でも——待つ間に、失われていくものがあった。
「セラフィナ? 聞いているのか?」
アルベルトの苛立った声が、私を現実へ引き戻す。
私はゆっくりと顔を上げた。
もう、ぼんやりとした令嬢の顔はしていなかった。
背筋を伸ばし、まっすぐに王太子を見据える。琥珀色の瞳に、はじめて冷たい光が宿る。
広間のざわめきが、ふっと静まった。
「——もう、忘れたふりは終わりですわ」
静かな声だった。
だが、その一言は、大広間の隅々まで、はっきりと届いた。
アルベルトの顔から笑みが消える。
「……何を、言っている?」
私は懐に手を入れ、小さな香炉を取り出した。
銀細工の、掌に収まるほどの香炉。
それを、そっと目の前の卓に置く。
「一つ、思い出話をいたしましょう」
私は微笑んだ。今度は、無害な微笑みではなく。
「三年前の雨の夜、公爵家の客間。あの香を焚いた部屋で——あなた方が、何を話したか」
──
「三年前、雨季の第三週。午後十一時十二分」
私は淡々と語り始めた。喚くこともなく、声を荒らげることもなく。ただ、事実を読み上げるように。
「公爵家客間にて。隣国トラキアからの密輸品——違法魔法成分を含む香料の受け渡しについて。発言者、レーヴェンハルト公爵。『関税は通さん。夜のうちに東門の裏から入れろ』」
アルベルトの喉が、ひくりと動いた。
「翌月、第一週。午後九時半。税務長官との会合。横領した国庫金の分配比率について——発言者、あなたです、殿下。『半分は母上へ、残りは私の遊興費に』」
「な……なぜ、それを」
「まだ続きますわ」
私は指を一本立てる。
「昨年の冬。隣国への機密漏洩。国境の防衛配置図を、香料の代金と引き換えに渡した。発言者、公爵夫人。同席、ミレーユ・ダルクール男爵令嬢」
ミレーユの甘い顔が、みるみる青ざめていく。
「な、なによ! でたらめよ! だってあなたは——あなたは何も覚えていないはずでしょう!? あの香を、ずっと——」
「あら」
私はミレーユを見つめ、わずかに首を傾げた。
「今、なんと? 『あの香をずっと』——何ですって?」
はっと、彼女が口を押さえる。だが遅い。
数百の証人の前で、彼女は自ら『香を焚いていた』事実を認めてしまった。
「墓穴、というものですわね」
私は淡々と言った。
アルベルトが顔を真っ赤にして喚き散らす。
「黙れ! そんな作り話、誰が信じる! 証拠がどこにある! お前の妄言だ! この愚鈍な女が、追い詰められて出まかせを——」
長い、長い罵倒だった。
私はそれが終わるまで、静かに待った。
そして、彼が息を切らしたところで、たった一言、返す。
「証拠なら、あなたの後ろに」
アルベルトが振り返る。
広間の奥の扉が、静かに開いていた。
──
開いた扉から現れたのは、白髪交じりの威厳ある人物——国王グスタフ・レーヴェンハルトだった。
その傍らには、黒髪に鋼色の瞳の長身の男。近衛騎士団長ヴィルヘルム・アッシェンバッハ。
そして騎士団長の手には、恭しく捧げられた——見覚えのある、古びた香炉。
アルベルトの顔から血の気が引いた。
「父上……! なぜ、ここに」
「面白い思い出話が聞けると聞いてな」
国王の声は、氷のように冷たかった。
「セラフィナ嬢とアッシェンバッハ団長から、すでに証拠は受け取っている。お前たちが彼女の私室で使っていた香炉。そして、その中の香料」
国王は一歩前へ出る。
「宮廷魔導士に分析させた。含まれていた違法魔法成分は——隣国トラキアからの密輸品と、成分が完全に一致した」
ざわり、と広間が揺れた。
私は、震えるアルベルトへ向き直る。
そして、卓に置いた小さな香炉を、そっと指で示した。
「ところで殿下。私が今、ここで焚いたこの香——『忘却の香』だと思っていらして?」
「……!?」
「違いますの。これは前世の——いえ、私が調合した『真実の香』。自白を促す、精神作用の香ですわ。だからミレーユ様も、あんなに素直に口を滑らせたのでしょうね」
ミレーユが崩れ落ちる。
「そんな……わたし、自分から……」
私は最後に、静かに問うた。
喚くこともなく。ただ、一番聞きたかったことを。
「あなた方は、私が何も覚えていないと思ったから、密室で堂々と悪事を語ったのでしょう?」
一拍、置く。
「——なぜ、忘れると思ったのです?」
アルベルトは、何も返せなかった。
口を開き、閉じ、また開く。だが言葉は出てこない。
「……っ、わ、私は……」
私の短い問い一つに、この国の王太子は、崩れ落ちた。
国王が、静かに宣告する。
「レーヴェンハルト公爵家は取り潰し。王太子アルベルトは廃嫡。男爵令嬢ミレーユ・ダルクールは共犯として捕縛する。——連れて行け」
近衛兵が動く。
喚き散らすアルベルトと、泣き崩れるミレーユが引き立てられていく。
私は、指一本汚してなどいない。
ただ——覚えていた。それだけで。
──
騒ぎが去った後の、静かな一室。
私は、ハンナの前に座っていた。
彼女は不安げに、私の顔を見上げる。同じ問いを、また繰り返す。
「お嬢様……あの、お茶を、お淹れしましょうか」
「ええ。でもその前に、一つだけ」
私は懐から、もう一つの香炉を取り出した。
今度のものは、淡い若草色の香りを放つ。
前世の知識で調合した——『記憶回復の香』。
壊された記憶の糸を、少しずつ、丁寧に繋ぎ直す香。
細く立ちのぼる煙を、ハンナがそっと吸い込む。
数呼吸の後。
彼女の瞳に、ゆっくりと光が戻っていく。
「……お、嬢様……? わたし……あれ、わたし、ずっと……」
「おかえりなさい、ハンナ」
私は微笑んだ。今度は、心からの笑みで。
涙をこぼす彼女の手を、そっと握る。
「あなたの記憶は、私が全部、覚えていたわ。少しずつ、返していきましょうね」
そのとき、背後に静かな気配。
振り向くと、騎士団長ヴィルヘルム・アッシェンバッハが立っていた。
鉄面皮のまま、けれどどこか居心地悪そうに。
「……終わったな」
「団長。証拠の段取り、感謝いたしますわ。あなたは初めから、私の演技を見抜いていらしたのでしょう?」
「初対面のときから、な」
彼は短く言い、それから、少し口ごもった。
「お前が……忘れたふりをして、全部覚えている姿を、ずっと見ていた」
そして、鋼色の瞳をまっすぐ私に向け——手を差し出した。
無骨で、大きな手。
「セラフィナ。前から、言おうと思っていた。……あなたのことは、香がなくても、一生忘れません」
私は、思わず数秒、固まった。
(この方……)
国宝級の実力を持つ武人が、渾身の勇気で紡いだであろう、その決め台詞。
「……口説き文句まで、香の話ですのね」
私が半眼でそう返すと、鉄面皮の団長の頬が、ほんのりと赤くなった。
「……っ」
ハンナが、久しぶりに、くすりと笑う。
窓の外では、夜会の喧騒はもう聞こえない。
甘い煙も、理不尽も、すべて焚き払った後の、澄んだ夜だった。
私は、差し出された手に、そっと自分の手を重ねる。
「ええ。——喜んで、団長。でも、口説き文句はもう少し研究の余地がありそうですわ。よろしければ、私が調合して差し上げましょうか?」
「……手加減してくれ」
覚えていた女は、これから先の日々を——一つ残らず、幸せに刻んでいくのだろう。




