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同じ世界線の日本

「こんにちは」に君の名前を

作者: 山内 琴華
掲載日:2026/07/19

「……こんにちは。さっきぶりかな」


 そう言って、目の前の少女は笑う。ここは屋上だ。凍てつくような風が二人の間を通ってゆく。


「……何、してるんだよ」


 少年は少女を睨んだ。


「何っていわれてもなぁ……」


 少女は苦笑する。この期に及んで、まだ少女は笑っていた。



 そうだった。確かに、いつも少女は笑っていた。ただ、穏やかに、綺麗に。いつも同じ形で、角度で。



 だが、その笑顔は今にも消えてしまいそうな儚さをも漂わせていた。




 昼休みとなって、クラスがざわつく中、少年は一人で本を読んでいた。


 少年の名は、雪田 一澄(ゆきた いずみ)。中学三年四組、出席番号三十一番。


(そろそろ、家の本も読み飽きたな)


 そう思い、一澄は家から持参した本をパタンと閉じた。


 一澄は転校生だ。少し前までは学年の人間が興味を持って話しかけてきたが、一澄があまり社交的な性格ではないと分かった今ではそれもない。


(図書室……どこか分からないんだよな)


 一澄は教室を見渡す。たまに話すくらいの関係になれた者はいるが、その者はその者で他と話している。一澄と話す価値はそれほどないと思われたのだろう。


(まぁ、別にそれでもいい)


 小学校でも、前の中学校でも、同じように過ごしてきたのだ。今更だろう。

 一澄は立ち上がり、そっと教室を出た。


「ハァ……」


(見つからん!)


 一澄はもう校舎を何回か回ってしまった。だが、一向に見つからない。


(諦めて教師にでも聞くか……)


 諦めかけたそのとき。


「ねぇ」


 少女のあどけない声が背後から聞こえた。驚いた一澄は後ろを振り返る。


「さっきからこの辺で何回か見かけるけど、何か探し物?」

「……」


 声をかけてきたのは、クラスメイトの湯川 琴葉(ゆかわ ことは)だった。


「あっ、ごめん。名前覚えてないよね。私は――」

「いや、覚えてる。湯川 琴葉さん、でしょ」

「話したことないのに、覚えててくれたんだ~。君は雪田 一澄くんだよね」


 一澄が頷くと、琴葉はニコリと微笑んだ。


(なんか、変な感じ)


 妙な違和感があった。だが、それが何かまでは分からない。


 琴葉は転校してきた日、一澄に話しかけなかった。会話したのは今日が初めてだし、一澄は彼女のことを何も知らないのだ。無理もないだろう。


「それで、何か探し物?」

「図書室を探してる」

「あっ、そっか。転校生だもんね。案内するよ……って言いたいところなんだけど」


 琴葉は一度、言葉を切る。


「もうすぐ授業、始まっちゃうからね。放課後に案内してあげるよ。待っててね」


 再び、琴葉は微笑み、教室へ戻っていった。




 そうして、放課後。一澄は教室内で琴葉を待っていた。

 琴葉は他クラスの友達数人と話している。少し耳を傾ければ、会話が聞こえてきた。


「ごめーん! 今日、学校で用事あるの。先帰ってて」

「そっかー。了解」

「また明日ね、琴葉」

「うん、じゃあね」


 琴葉は友達たちに手を振ると、鞄を背負って一澄のところまでやって来る。


「ごめんね、待たせちゃって。行こっかぁ」

「……うん」


 一澄も鞄を背負い、琴葉に付いていく。


(教室に誰もいなくてよかった。誰かいたら、恋人だのと勘違いされる)


 一澄は心の中で安堵していた。


(湯川さんに悪い噂が広まったら困るだろうし)


「雪田くんは本が好きなの? それとも、読みたい本が?」

「まぁ、そんなとこ」


 図書室にあるかは分からないが、読みたい本はある。


「へぇ、いいよね、本。私もたまに借りに行くよ。最近は受験勉強ばっかりで、あんまり読めてないんだけどね」

「そう」


 少しきまずい空間が流れ、シャランシャラン、と琴葉の鈴のキーホルダーだけが音を奏でる。


 琴葉は三階への階段を昇っていった。


(三階……こんなところにあったのか。道理で分からないわけだ)


 昼休みに、一澄は三階まで探し切れていなかったのだ。無理もないだろう。三階に繋がる階段はこの学校に一つしかない。



 そのまま琴葉と一澄は特に話さず、図書室へ到着した。


「ここだよ。放課後はあんまり長いとき間開いてないから、早めにね」

「あぁ、案内ありがと」

「どういたしまして。……どうせ、日課もあったしね」


 琴葉は小さく呟いた。静かな廊下では、響くことまではなくても、はっきり聞こえる。


「日課?」


 思わず一澄は琴葉に問いかける。琴葉は「聞こえていたのか」と言わんばかりに驚いてから、ニコリと微笑んだ。


「……そうだよ。私だけの日課。誰にも教えてないんだ。君にも、秘密だからね」


 琴葉はクスクスと笑って、人差し指を唇にあてた。


「じゃあね。……また会えたら」

「あぁ、また明日」


 大振りに手を振る琴葉に、一澄は軽く手を振って、図書室に入った。


(……何だ? 『また会えたら』って……どういう意味なんだよ)


 一澄は疑問に思いつつも、目当ての本を探した。



 本を借りて、一澄は図書室を出た。

 そのまま廊下を歩けば、何故か通学カバンが置いてあることに気がつく。


(来たときはなかったような気がするけどな)


 そこは、四階――否、屋上へと続く階段の目の前だ。階段の手前には、机が並べられていて、行けないようにされている。


 ふと、カバンのキーホルダーが目に入った。

 鈴のキーホルダー。それは琴葉が付けていなかったものではなかったか。

 嫌な予感がする。

 だが、それを否定したい自分がいた。


(優等生の湯川さんが? おかしいだろ。この机……明らかに立ち入り禁止の場所のはずだ。優等生が校則を破るわけがない)


 そう思っても、足は止まらない。間違いであってほしい。それを確かめるために、一澄は行く。


 一澄はカバンを置いた。キーホルダーも何もついていないカバンはドサッとした音が鳴るだけ。

 一澄は机を少しどけて、階段を昇った。



 古臭い階段だ。しかも、殆ど使われていないせいか、手すりには埃が被っている。癖で軽く触っていたので、手にも埃がついた。


(最悪)


 パンパン、と手を叩き、埃を落とそうとした。少しは落ちた気がするが、埃を触った感覚が残っていて気持ち悪い。

 こんなことなら、来るんじゃなかった――そんな考えがよぎる。

 だが、ここまで来た以上、引き返す訳にも行かない。


 一澄は階段を昇りきって、扉を開けた。



「…………こんにちは。さっきぶりかな」


 そう言って、目の前の少女――琴葉は笑う。安全のために置かれていたフェンスを握っていた。


「あ、それが読みたかった本? へぇ、私も一回読んだよ。面白いよね」


 置いてこればよかった、と途中で思い出した本。わざわざ置きに戻るのは面倒くさかったし、置いた後、再び階段を昇る勇気がなかった。

 静かに一澄を見て、琴葉は口角を上げる。


「……何、してるんだよ」


 一澄は琴葉を睨んだ。「何っていわれてもなぁ……」と琴葉は苦笑した。

 この期に及んで、まだ琴葉は笑う。


 そうだった。確かに、いつも琴葉は笑っていた。ただ、穏やかに、綺麗に。いつも同じ形で、角度で。


「何でだと思う? 何で、ここにいると思う?」


 琴葉は挑発的な笑みを浮かべた。一澄は考える。

 思いついた答えなど、一つしかなかった。だが、他の答えを口にする。


「……一人になりたかった、とか」

「あっはは、そうだね。そうかも。せーかい! ……でもまぁ、この世からのっていう前置きがつくんだけどね」


(あぁ、やっぱり)


 一澄はそう思った。ここは本来、立ち入り禁止の屋上なのだから。

 琴葉は自殺しようとしている。今、目の前にいて、笑っている少女が。


「日課って、何だよ。こんなところで、毎日フェンスの前にでもつっ立っていたってのか!?」


 一澄は珍しく感情を露わにした。特に友達がいない一澄は感情を表に出すことは少ない。基本無表情なので、感情が読めない、と友達は離れていくのだ。


「……すごいね。当たり」

「はぁ!?」


 琴葉は驚いた様子で笑い、一澄は再び大声を出す。


「……何で、そんなことしてんだよ」

「言ったでしょ。……あ~、言ってはない、のかな? まぁ、いいや」

「……」

「――私は死にたい。でも、死ぬ勇気って……ないんだよねぇ」


 琴葉は一澄から目を逸らして、空を見上げた。


「だから、毎日ここで死ぬことを躊躇ってる」

「……」

「馬鹿らしいって思った? でも、意外と私は切実なんだよ?」


 悲しむように、琴葉は眉を下げる。だが、口角はいつまでも上がっているばかりだった。


「何かが不幸だったわけじゃない。ちょっとの不安にまた小さい不安が積みかなさって。不安だけじゃない、恐怖だったり、絶望だったり……たくさんの負の感情が積み重なって、今私はこうして君と話してる」


 琴葉は曖昧に笑った。


(ずっと笑ってばっか。何が面白いんだよ)


「……何なんだ? あんなところにカバンを置いておいて。今まで気付かれなかったのか?」

「何でだろうね。私にも分かんない。あっ、私がいつもあんな分かりやすいところにカバンを置いてるって思ってるの? そんなわけないじゃん。ちゃんと隠してるよ、いつもはね」

「なら……」

「多分、私は君に気付いてほしかったんだろうね」


 一澄は青みがかった瞳を、少しだけ見開いた。言葉が出なくなって、二人の間に沈黙が落ちる。冬の凍てつくような風が、琴葉の長いストレートヘアを揺らした。明るい外に出ると、茶色に見える髪だ。


「……何で」

「そんなに何で何で、って言われても私にも分かんないよ」


 琴葉は不服そうな声を出しながらも、顔は困ったように微笑んでいた。


「事情を話す気はあるのか」

「えっ、聞いてくれるの? 君はそう言うのにあまり口出ししない人だと思っていたのだけど」

「うっせ。そのままいつか、死ぬ覚悟ができたとき、俺が何もしなかったことでお前が死んでたら夢見が悪いだろ」


 琴葉はびっくりしたように、目を見開いていた。色素が薄い薄茶の瞳がよく見える。


(そんなに驚くことじゃないと思うんだけど)


「ありがとう、嬉しいなぁ……」


 しみじみとした、儚くて消えてしまいそうな言葉を口にする琴葉。


「降りるぞ。寒い」

「そうだね」


 先に扉を開けて戻っていく一澄を、琴葉は追い掛ける。そうして、歩幅を合わせて、隣を歩いた。


「ねぇねぇ、一澄くんって、呼んでいい?」

「勝手にすれば」

「うん、じゃあ勝手にするね。一澄くんって、案外可愛いんだぁ」

「はぁ!?」


 一澄は大声を上げた。下の名前で呼ばれることへの抵抗感はあまりないが、可愛いと言われることには物申したい。


「アンタ、俺のどこが可愛いって言うんだよ」

「そういうところだよ、そういうところ」


 ニシシッと笑う琴葉に、一澄はため息をつく。


「ハァ、勝手にしろ、琴葉」

「へっ」


 びっくりして立ち止まった琴葉を放って、一澄は階段を降りていく。「ちょっと! 置いていかないでよ!」という少女の声を聞きながら。




 二人は学校を出る。時刻は十七時頃。日が落ちるのが早い季節だ。すでに空は茜に染まっていた。冬の夕焼けは澄んでいてとても美しく見える。

 そんな光に照らされて、二人は住宅街の中を歩いた。



 一澄と琴葉は人気のない神社の前にいた。琴葉がよく来ていた場所らしい。



「私ってさ、真面目なタイプに見えるでしょ?」


「でも、私全然そんなんじゃないんだよねぇ。テスト前でもゲームしたりしてるし。夜更かしして、塾で寝てたりもするし。部活やってた頃は、塾サボったりもしてたし。それに──ううん、まぁいいや。君には……うん、言いにくいかな」

「……」


(気になる……けど)


 彼女は笑みを浮かべていた。だが、一歩を踏み込めないような、壁を作るような笑み。一澄は何も言えずに言葉を飲み込む。



「あはは……あー、でもね、みんな『勉強で寝不足だったの?』とか『部活頑張ってるんだね』って言うの。そんなんじゃない。ただ、ちょっと疲れただけ。自分がやりたいこと、優先しただけなのにっ」


「あ……あと、『優しい』ってのもよく言われる。全っ然、優しくなんかないのにね。何かしようって思っても、『必要なかったら?』『余計なお世話だったら?』って考えばっかり先行して。馬鹿みたいだよね」


「そういうとき、死ねたら楽なのになぁって思うよ。できれば、世界から存在を消してほしいけどね。私なんて、いなかったことにしてほしい。死ぬのは――痛いからさ」



 琴葉は笑った。世間話でもしているかのように。


「……何で、お前は周りに相談しなかった」

「イメージが、壊れてしまうのが怖かったんだろうね」

「はっ?」

「私が小さい頃から積み上げてきたイメージ。真面目なキャラでしょ? 私」


 ちゃんと、できてるでしょう? と言って微笑み、首を傾げた。


「でも、その分君はさ、私の積み上げてきたイメージを知らないわけじゃん? だから、相談できると思った。それに……今日は結構しんどかったからね」


 琴葉は柔らかく、どこか無防備に頬を緩ませる。


「悪かったな、俺で」

「何でそんなこと言うかなぁ」


 謝る一澄に、琴葉はむぅ、と頬を膨らませる。


「俺なんかで……良かったのか」

「当り前でしょ? 君に相談できて、良かったと思う。それに、こうやって人に相談できたのは初めてだったし」

「……」

「だから――ありがとう、一澄くん」


 琴葉は笑った。一澄が見た限り、初めて本当に笑った気がした。


「なぁ、お前は――何で、笑わない?」

「わら、う? ふふっ、何のこと? 笑ってるでしょ、いつでも」


 眉を下げて、琴葉は笑った。先程のような心からの笑みではない。


(違う、それじゃない)


 いつも少女は笑っていた。ただ、穏やかに、綺麗に。いつも同じ形で、角度で。

 誰の前でもそうだ。友達だろうが、先生だろうが、一澄だろうが。彼女はきっと、同じように笑みを向けている。


「普通に、笑えよ……!」


 一澄のささやかな願いだった。


「普通にって、なに?」


 琴葉の顔が初めて歪む。切羽詰まったような表情に、一澄は言葉を詰まらせた。


「普通って、言うか……」

「そんなこと、いわないでよ」


 ポツリと、琴葉がそう言った。顔を上げれば、泣きそうになっている琴葉がいる。


「だって、ね? わらって、たら、みんなが、えがおになるんだよ……?」


「だったら、それで、よくない……? わたし、わるいことしてないよね? ねぇ、そうでしょ? いずみく──」


 琴葉は、最後まで言葉を紡ぐことができなかった。一澄が人差し指で琴葉の唇を塞いだのである。抱き締めるなんて論外。一番接触が少なくて済む方法だと思ったのだが、この方が恥ずかしいと今更ながら気がつく。


(しまった)


 呆然としたままこちらを見る琴葉を見て、一澄は慌てて手を離した。


(くそ……最悪だ)


 一澄は絶望する。だが、びっくりしたままの琴葉を放っておく訳にもいかないので、ゆっくり深呼吸をして再び琴葉を見た。


「……それ以上は、言わなくていい。お前は、好きに笑っていたらいいんだ」

「……」

「笑いたいときに笑って、泣きたいときに泣けばいいんじゃないか。俺は、そういうの、人の気持ちとかあんまり察せる方じゃねぇ、けど……さっきの笑顔は、いつもの笑顔は好きじゃない」

「……一澄くんの好みの話?」

「違(ちげ)ぇよ! 一般論……違う。お前を大事にしてる奴にとって、ってこと。お前の友達とか、少なくとも俺は……」

「……そう、かなぁ」


 眉を下げて、琴葉は呟くようにそう言う。未だに自己評価が低い琴葉に一澄は眉間を寄せる。


「友達は少なくとも、お前のこと見てくれてるんじゃないか?」

「うん、そう。みんな、良い人たちなんだぁ……」



「……その友達は、お前がそうやって笑って苦しんでることに喜ぶと思うか?」

「……どう、だろ」

「じゃあ、琴葉は友達が無理して笑ってるのにどう思うんだ」

「……うん、ちゃんと自分の意思で笑ってほしいって思うよ」

「そーいうことだ。きっと、その友達だってそう思ってる」


 それでも尚、琴葉は眉を下げる。納得はしているのだろうが、他がどう思ってるかなんてわからない、とでも思っているのかもしれない。


「ま、今日のところはいい。これから、ちょっとずつでいいから、自分の意思で笑ってみろ。ゆっくりでいいから」

「……」

「それと、屋上に行くのも日課じゃなくて、〈逃げ場〉くらいの感覚にしとけ。分かった?」

「……うん、やってみる」

「あぁ、あと――」


 お小言のように言い募っていく一澄に、琴葉は「ふふっ」と笑った。本来の笑みで。


「なんか、お母さんみたい」

「は……はぁ? 誰が母親だ」


 琴葉の本来の笑み――そのせいか、一澄は少しだけ反応が遅れてしまった。


「一澄おかーさん」

「おい……。はぁ、あと、辛くなったり、何か言いたいこと……まぁ、どうでもいいことでもいいから、俺に話せ。言いたいところまで全部吐き出せばいい」

「……ありがとう、一澄くん。本当に、君に話せてよかった」

「……あっそ」


一澄は少しだけ照れて赤くなった顔を隠すように、琴葉から目を逸らした。




 数週間後。


「おはよ、一澄くん」

「あぁ、おはよ」


 琴葉はたまに一澄に話しかけに行くようになった。そういう日は、何かしらの理由で一澄に話したいことがある日だ。しんどい、という日も、今日は平気そう、という日もある。だいたい、三日に一度くらいのペースだ。屋上に行くのも、テスト返却後は少し増えたが、一週間に二度か三度くらいのペースで収まっているらしい。


 話しかけるための口実としては、大体は勉強に関することだ。お互い、成績は同じくらいなのもあって、初めは驚いていたクラスメイトも慣れてきている。


「ねぇねぇ、この問題なんだけど……」


 あの日以降、琴葉は少しずつ本来の笑みを見せるようになった。雰囲気に合わせて、ニコリと微笑む癖はあまり変わっていないが、友達と話しているときなんかは本来の姿で笑っている。


(ちょっとずつ、琴葉も変わってる)


「……話聞いてる? 一澄くん」


 少しぼんやり考え事をしていた一澄に、琴葉は首を傾げた。


「あ、ごめん。何だっけ?」

「もー、ちゃんと聞いてよ?」


 ふふ、とまた琴葉は笑った。一澄の前では特に、本来の笑みを見せてくれる。事情を知っている一澄の前では、「無理しないで笑っていいって思えるんだ」と琴葉は言っていた。


「それでね……」


 すると、登校してきたクラスメイトの加藤(かとう)が二人を見て言った。


「おー、また勉強の話かよー? もうすぐ冬休みなのに」

「何言ってるの~? 二か月後には私立受験だよ、加藤くん?」


 琴葉はニコリと眉を下げて微笑んだ。仮面の笑顔に戻っている。受験の話を思い出したからだろうか。

 一澄の握られた両手が少しだけ強くなる。


「思い出させないでくれよぉ……」

「怠慢の極みだな」

「……あははっ、ごめんごめんっ」


 少しだけ戻りかけた仮面を思い出したのか、意図的に取り払って、本来の笑みで琴葉は笑う。一澄はほんの少しだけ握り締めた手を緩めた。


 すると、こそっと加藤は一澄に耳打ちする。


「頑張れよっ、雪田! 俺は応援してるぜっ」

「……何の話?」

「何言ってんだよ! んじゃ、お邪魔虫は去りま~す」


 ひらひらと手を振って、自分の席に行ってしまう。


(一体、何なんだよ……)


 そう思いつつも、ちらりと琴葉を見上げる。


「……湯川?」

「どうかした? 一澄くん」


 その笑みは本来のもの。だが、少しだけ遅れた。きっと、一澄だけが気付いた変化だろう。だが、少し胸がざわついた。




「……ハァ」


 今日はやけに、彼──雪田 一澄がため息をつく。今日は終業式。中学校生活最後の二学期が、終わりを告げる日。

 一澄が気になった琴葉は学活の時間に声をかけた。先生が忘れ物をしたらしく、少し教室がザワついたときだ。


「ねぇ、一澄くん。今日、元気ない? 何かあった?」


 琴葉は一澄に放課後、相談があるときに話しかけることが殆どだ。だが、今日は何か言いたいことがあったわけではなかった。


「……なんでも」

「……そう?」


 だが、先程から小さく咳をしたりしているし、ほんの少しだけいつもより顔が赤い。


「熱……?」


 琴葉はぴと、と額に手の甲を押し当てた。

 伝わる体温はじんわりと熱い。


「熱じゃん!」

「ねぇよ」

「ある!」

「ねぇ」


 押し問答が続く。絶対に、熱がある。多分微熱くらいだろうが、放っておくのはよくないというのだけは分かった。


(無理やり一澄くんを早退させるなんてできないよね……。一澄くん、頑固だもん。言っても、先生が戻ってきてほんの少しだけ話したら終わりだろうし、一応家まで着いて行ったらいいかな。今日、部活はないし、体育館辺りに集合して、そこから帰るなら大体の人と鉢合わせになることはないはず)


 考えをまとめ、琴葉は一澄に耳打ちした。


「……今日、体育館待ち合わせで」

「……はいはい、琴葉」

「……」


 琴葉は小さく口を開けて、一瞬固まってしまう。


(え)


 琴葉。今、一澄はそう言った。お願いしてもクラスでは絶対に、湯川としか呼んでくれなかったのに。

 一澄の頭は全く回っていないので、二人きりの呼び方が出てくるのも致し方ないだが。


(……へっ!?)


 きちんと認識した瞬間、妙に心臓が跳ねた。


「先生帰ってくるぞ。戻れ」

「……っ、分かってるよ!」


 少し強い口調になってしまった。


(熱あるじゃん……。ばか)




「……待たせたな」

「ううん、全然」


 流石に、病人の一澄を待たせるわけにはと思って早く来た、とは言えない。


「帰ろっか~」


 二人は歩き出す。

 琴葉は一澄の様子を観察してみる。じんわりと赤い頬に、汗ばんだ身体。


(……受験前なんだから、身体は大事にしないとなのに)


 むぅ、と膨れそうになった頬を沈める。

 いつもなら、観察されるとすぐに気づく一澄が気付かない。周りのことが見えなくなるくらいにはしんどい、ということだ。


「……ここだっけ、一澄くんの家って」

「まぁ……ってか、何でお前ここにいる??」


 熱で頭が回っていない一澄に、琴葉はもう、と小さくため息をついた。


「心配だから、付いてきたの」

「……ストーカー?」

「何でそうなるの! ……とにかく、今日は暖かくしてすぐに休むこと。勉強なんてしたら許さないからね?」


 琴葉が眉を吊り上げ――たつもりの顔でそう言うと、一澄は「うんうん」とぼんやりした顔でそう言う。


(……分かってなさそうな気もするけど、いつまでも外にいさせたら悪いし)


「うん、じゃあね。いずみく――!?」


 ふらり、と一澄の身体が琴葉の方に倒れる。


「っ……ご、ごめん」

「う、ううん、大丈夫」


 頭がズキズキしたのか、少しこめかみを押さえる一澄に、琴葉は何だか申し訳ない気持ちになってしまう。


「……風邪なんて、私にうつしてくれたらいいのに」


 それなら、苦しいのは琴葉だけで済むのに。

 小さく呟いた声を、一澄は拾った。


「お前、すぐそういうこと、言うなよ」

「……?」

「自分が犠牲になればいいって考え方」


 自己犠牲。たまに一澄に注意されていたことだ。


 体調が悪そうな顔を隠しもせず、一澄は琴葉を睨む。視線だけが妙に鋭かった。


 分かってはいるのだ。それでも、この考え方だけは変わってくれない。一澄はきっと、琴葉のことを思ってそう言ってくれているのに。結局、琴葉は他人のことを第一に考えてしまうのだ。



「早く、良くなりますように」


 神様でも、何でもいいから、彼を治してあげて。

 琴葉はそう願って、一澄の頭を撫でた。心の中で、一澄がばか、と呟いていたことは琴葉には知る由もないことである。




 冬休みが終わり、約一週間が経った。皆、受験モードに入り出している。先日、志望校最終決定のための面談があったのもあるだろう。


 今日一日、琴葉は本来の笑みをほぼ見せなかった。友達と話しているときも、どこか上の空で、仮面の笑みですら笑うのが遅れたり。数秒、呆然とするようなこともあった。流石に、クラスメイトの前で事情を聞くわけにもいかないので、見守ることしかできなかったが。


(あぁ、もう。早く放課後なれよ……)


 いつも小食な琴葉だが、明らかに給食を減らす量が多かった。通りかかったときに近くで見ると、いつもはしていない眼鏡の下には隈も浮かんでいる。


 琴葉の一挙一動が、目に留まってしまって仕方なかった。流石に見すぎていたら変なので、見ないふりをしようとしたが、視線は勝手に戻っていってしまった。



「一澄くん」


 深刻な顔で、琴葉は一澄に声をかける。呼び出されたのは屋上だ。〈逃げ場〉として使われた屋上に行く頻度は減っていたが、一澄と一緒に、というのは初めてだった。


「ごめんね……こんな時期に」


 琴葉は泣きそうだった。唇を噛んで、必死に耐えようとしているが、目には涙が溜まっているし、爪を立てて握った手には赤い爪の跡が残っている。


(そんな顔してるときまで謝るなよ……)


「そんなこと、どうでもいい。言いたいとこだけでいいから話せ」

「うん……うん、ありがとう、一澄くん」


 フェンスの前に立っている琴葉を、扉の前にまで来させる。

 今日は晴れている。雪は降らないが、初めて会話したときなんかより、ずっと冷たい風が吹くが、そんなこと気にしていられなかった。


 そして、着いた瞬間に琴葉は吐露する。


「ちゃんと、笑えてる……ってね、思ってたんだ私」


「でもね……言われたんだ。前に親戚に会ってね。『何で、そんなに他人行儀に笑うの?』って……。私より二つ年下の男の子にだよ? 馬鹿みたいだよね。一澄くんあれだけ協力してくれて。話も聞いてくれたのに……」

「……」


 言葉と共に、ボロボロと溢れてゆく涙。一澄はただ、黙って聞いていた。


「…………あと、ね。駄目、だった」

「……?」

「志望校。今の成績じゃ、駄目だって……!! 頑張ったのに……ちゃんと、真面目にっ、頑張ったのに!」


 変な呼吸になる琴葉の背中を、一澄は優しくさすった。

 ゆっくりと深呼吸していけば、琴葉は何とか通常の呼吸を取り戻していく。


「ごめんね……。今日、ここに来たら、もう死んじゃえそうな気がして」

「……」


 ずっとさすっていた一澄の手が、止まる。


「多分、一人なら死んでたかもしれない。一瞬だったらね、痛み感じないんだって。だったら、いいかなぁって思っちゃった。……だから、来てくれてありがとう」

「……ばか」


 ぽこ、と一澄は琴葉の肩を叩いた。


「何でー? ちゃんと相談したでしょ?」


 少しだけ出かかった、涙を堪えるように一澄は琴葉を睨んだ。


「お前が笑えなくなっても、受験で何があっても、琴葉の価値は変わらない。生きてる限り、人間には価値があるんだ。……だから、死のうとしないでくれ。頼むから……!!」


 懇願するような声だった。声が震える。前髪に隠れて、琴葉からは顔が見えなかったが。


「一澄くんにそう言ってもらえるなんて、私幸せ者だね」


 聖母のような、慈しむ笑みを浮かべ、琴葉は一澄の柔らかい髪を撫でた。


「今日は……帰ろっか」

「ちゃんと、家まで帰れるか?」

「……うん、今日は大丈夫」

「ちゃんと、話せよ。何かあったら」

「うん、分かってるよ、一澄くん」


 琴葉は笑った。本来の笑みとも、仮面の笑みともとれぬ、二つが混ざった笑みで。


(紛らわしいな……くそ)




「ごめんね、また呼び出して。……来てくれて、ありがとう」


 あれから、二か月半が経った。今日は卒業式。琴葉はセーラー服に赤い造花をさし、手には卒業証書を握っている。


「高校、離れちゃったね。残念だなぁ」

「……まぁ、仕方ねぇよ」

「学校に一澄くんがいないって考えると寂しいな。会いに来てね。私も、会いに行くからさ」

「家、校区内なんだからすぐ会いに行けるだろ」

「そうだね。でも、寂しい。いっぱい来て」


 楽しそうに本来の笑みを見せる琴葉。目尻には、少しだけ赤さが残っている。


「……我が儘」

「我が儘なんて、今更じゃない? 一澄くんはなんだかんだ、最終的に私の我が儘を聞いてくれるでしょ?」

「うっせ」


 確かに、琴葉には少し甘い自覚もあった。ずっと気にかけてしまっている、という自覚もある。


「お前が危なっかしいのが悪い」

「悪口ですか?」

「事実」

「むー、言い返せないのが悔しい」


 少しだけ頬を膨らませて、琴葉はそう言う。

 その後、ゆっくり息を吐いて本来の笑みで、精一杯笑った。


「ありがとう、一澄くん! 私ね、君と一緒にいれて良かった。君がいたから、こんなにちゃんと……笑っていられた」

「……」

「君がいたから……! 受験でも、苦しいことがあっても、楽しく生きれた。ありがとう、としか言えないけど、ありがとう、本当に」


 泣きそうな、でも嬉しそうな顔で、琴葉は笑った。


「……そうかよ」


 一澄は、小さく呟いた。桜は咲かない季節だが、やんわり暖かくなってきた風がふわりと吹いて、まだ蕾の白いアイリスが揺れた。



 一澄や琴葉は高校へと進学した。

 一澄の高校は部活動強制なので、テキトウに放送部に入った。琴葉は美術部らしい。


 高校の美術部は活動日が多いらしく、お互い会うのは月に一度程度だった。一澄も一澄で、中学の頃の放送委員と変わらないだろう、と碌に体験も行かずに入ったため、週四で活動日があることに疲弊している。


(ハァ、考えなしに放送部に入ったのは馬鹿だった……。琴葉とも全然予定合わねぇし)



 高校生活はあっという間、というのは本当らしく再び受験生となった一澄と琴葉。中学校生活も早かったが、高校は本当に一瞬だった。


『同じクラスになった白藤 姫乃(しらふじ ひなの)ちゃんって子がすっごく可愛くて! いい子だし、仲良くなれたんだー!』

「そ、良かったじゃん」

『あ、そういえば、一澄くんは大学決定した~?』

「志望校は流石にな。でも、親が五月蠅いから、多分国公立のどっかになると思う」

『わぁ~、おんなじだね。私も、多分国公立。まだ夢もないから、行ける範囲で決める予定』


 高校のレベルも同じくらいなこともあって、二人の志望校は被っている大学もいくつかあった。


『じゃあ、お互い頑張ろう。またね』

「おぅ」


 電話を切って、一澄は「ハァー」と一息つく。


 琴葉の仮面の笑みは消失しかけていた。いつでも、楽しそうに笑う。少し離れたところから俯瞰していたような少女が、ちゃんと一人の少女として笑っている。琴葉は多分モテる。琴葉は好意には鈍感らしく、全く気付いていないが。


(……っと。こんなこと考えてる場合じゃねぇ)


 一澄は再び、机の上の参考書に視線を落とした。




 季節は巡り、一澄と琴葉は大学に進学した。学部は違うが、大学は一緒だ。


「……あれ、一澄くん?」


 ポツリ、と琴葉は呟くが、人が多い入学式。一澄は気付かずに行ってしまった。


(……まぁ、同じ大学なんだし、また会えるよね)


 そうは思いつつも、少し不安が胸の中に残った。




 入学式は恙なく終え、琴葉は同じ大学に進学した友達――白藤 姫乃と合流した。勧誘の圧が怖すぎて、全力で逃げてきたのである。

 姫乃が来ても、ボーッとしている琴葉に、姫乃は首を傾げた。


「どうかしたの? こと」

「あ、ううん。何でもない。行こっか、ひな」


 広いキャンパス内を歩く。桜は美しい花を見せ始めていた。


「……そういえば、ひなの彼氏さんはいいの? 近くの大学でしょ?」

「え、あ、いや……まぁまぁまぁ。多分、あっちも友達といる、と思うし……」


 姫乃にはもうすぐ四年になる彼氏がいるそうだが、姫乃は未だに初心である。こういう恋愛の話を振ると、すぐに照れるのだ。


「そ、そういう、ことはいいの? 中学のお友達は」

「ちらっとは見かけたけど、私はひなたちみたいな関係じゃないし。同じ大学なら多分、いつか会えるからいいの」

「ふーん、そっか」


 途中の電車で姫乃と別れ、琴葉は帰宅した。




 入学式から一週間。たくさんの勧誘に晒されつつも、琴葉は美術サークルに仮入部している。まぁ、まだ仮なので、他にもちょこちょこ見学に訪れていた。だが、勧誘の圧が強すぎて疲れてきていた。


(図書館でも行って、ちょっと落ち着こう……)


 ちなみに、一澄はサークルには入らなそうなものだが、高校の放送部での編集関係に興味を持ち、放送研究会に入るそうだ。メッセージで言っていた。


「……同じ大学とはいえ、あんまり会えないなぁ」


 食堂で見かけることはあったが、一澄も琴葉もそれぞれの友達といるので、入りにくいのだ。見かけることはあっても、話すことはない。それが、今の二人の立ち位置である。


 受験ということで、年が明けてから会っていないのだ。しかも、見かけることはできるのに話せない、というのがすごくもどかしい。



 図書館の落ち着いた雰囲気に安心して、琴葉は図書館を散策する。


(こんなにゆっくりできるの、いつぶりだろ……)


 窓から程よく光が入って来る。近くに大きな木があるらしく、木漏れ日がキラキラとしていて神秘的だ。


 面白そうな本でも探そうと、ゆったりとした歩みで、琴葉は進んでいく。


(へ)


 柔らかくて真っ直ぐな黒い髪。雪のような日焼けを知らない白い肌。青みがかった理知的な瞳。その瞳は、本棚から視線を離さないので、琴葉の存在には気が付いていない。


 琴葉は一澄の近くに寄ってみるが、集中している一澄は気付かない。昔から、一澄は一つのことに集中すると、周りが見えなくなるところがあるのだ。


「一澄くん」


 小さな呟き。でも、この距離なら、この静けさの中なら、聞こえる。一澄は大きく目を見開いて、琴葉を見つめた。




 何度も聞いたはずの言葉。でも、最近はあまり聞かなくなっていた、優しい声。春風のような柔らかさを持つ声。


 一澄は驚きすぎて、言葉を失った。思わず、資料を強く握る。


(いつぶり、だっけ)


 その先では、前会ったときより少しだけ大人びた琴葉が立っている。まだまだ少女のような幼さも残っているが。


 彼女は大きく息を吸って――誰よりも眩しい表情で、花が咲くように笑った。それは仮面ではない。だが、本来よりも眩しい笑み。


 その笑みに、思わず目を奪われる。


「こんにちは、久しぶりだねっ、一澄くん!」



 ――少女とも女性とも言えない十八歳の、湯川 琴葉だった。



(もう笑える。ちゃんと、笑えてるよ。琴葉は)


 あの日、まだ中学生だった自分に。彼女に笑ってほしいと願った一澄に、伝えたくなった。


「おぅ、久しぶり、琴葉」


 一澄の顔にも穏やかな笑みが浮かんだ。

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