ラブレター - 『あんぱん』その後 -
いつもの様に朝起きてやって来た学校。
でも今日はちょっと感慨深い。
普段は校門に立つ先生も今日は居なかった。
私は自転車を降りて、ふと校舎を見上げた。
あまり気にかけて見る事無かったけど、こうやって改めて見ると、結構古い学校なんだとわかる。
今日でこの学校に来るのも最後。
そう。
私は今日卒業する。
教室に入ると、机の上に胸に付けるリボンが置いてあった。
そうか。
去年卒業した先輩たちも胸に付けてたな……。
私はそのリボンを手に取ってじっと見つめた。
三年間。
早い様で、短い様で。
じっと教室の中を見渡す。
早くも泣いている子もいるし、いつもと変わらない子もいる。
人の感情ってそれぞれで嬉しいと泣く子もいるし、笑う子もいる。
「よ、菜緒子」
と三納代今日子が肩を叩く。
「おはよ。三納代今日子」
私はこの三納代今日子を三年間、フルネームで呼んだ。
彼女だけは三納代でも今日子でも無い。
やっぱり三納代今日子だった。
「今日も走って来たの」
彼女は毎朝のランニングを欠かさない。
それはテニス部を引退しても同じだった。
ストイックな性格をしている。
「うん。いつも通り十キロ」
え、十キロ……。
私は三納代今日子が毎朝走る距離を、卒業の日に初めて知った。
最近買ったスマートウォッチで、その距離を見せて来る。
「何か凄いね……。流石はわが校創設以来のテニス部のエース」
私と三納代今日子は声を上げて笑った。
「今日子」
と三納代今日子は友達に呼ばれて、そっちへ行った。
それと入れ替わりに、信治がやって来た。
「おはよ、菜緒子」
信治はいつも眠そうだった。
サッカーでの推薦がダメで、今も必死に受験勉強をしているらしい。
「今日も眠そうだね……」
信治は私の顔を見て一瞬固まると、溜息を吐きながら机に伏した。
「もう死にてぇよ……」
信治はそう言うと、突然顔を上げた。
「俺、浪人しようかな……。浪人したら一年の猶予が出来る……。こんなに素晴らしい事は無い」
信治の性格だと浪人すると、来年の今頃、また同じ事を言っている気がする。
「もう少しの辛抱だ。頑張れ」
私は信治の肩を叩く。
すると信治はまた崩れる様に机に伏せる。
そして直ぐに顔を上げた。
「違うんだよ。菜緒子に泣き言、言いに来たんじゃねえんだわ」
信治はポケットから手紙を出して私の前に置いた。
「何これ……」
私はその手紙をじっと見た。
「お前、脇田って知ってるか」
脇田君。
同じクラスになった事は無いけど、信治と同じサッカー部の子。
身長の高い、結構女子に人気のある子。
私のデータベースにはその程度の情報しかない。
「まあ、何となく」
信治は私に微笑んだ。
「それ、脇田から。お前に渡してくれって頼まれてさ」
ん……。
何だろう……。
私はその手紙を手に取った。
思ったよりも綺麗な字で私の名前と脇田君の名前が書いてあった。
でも残念ながら、私の名前が「奈緒子」になっている。
私は「菜緒子」なんだよね。
この間違いはこの三年でも何度された事か。
信治はそれを見て、
「じゃあ確かに渡したぜ」
と親指を立てて、自分の席に戻って行った。
私は信治が席に戻るのを見て、その封筒を開けた。
可愛い便箋が二枚。
これは……。
もしかして……。
ら、ラブレターというモノ……。
前にもらったのはいつだったか……。
私は慌てて、その手紙を隠す様に読んだ。
ラブレターを隠さなければいけない決まりなんて無い筈だけど、何故か見られると書いた子に悪い気になってしまう。
どうしよう……。
自分の鼓動が耳に響く。
「菜緒子」
と今度は友里と洋子の二人組がやって来た。
まずい……。
有本友里と樫木洋子はいつも一緒。
しかもこのラブレターの差出人である脇田君や信治が所属していたサッカー部のマネージャーをやってた二人。
私はその手紙を机の中に押し込む様に隠した。
「何を隠したのよ」
と友里が言う。
「何でも無いわよ」
私は片手で友里を押し退ける様にすると、私の前の席に洋子が座った。
そして私の机に肘を突いて乗り出して来た。
「あのさ、菜緒子、明日空いてる」
すると友里も私に顔を近付けた。
「サッカー部の男子と一緒にカラオケ行こうって話になってさ」
サッカー部の男子……。
何てタイムリーな……。
私は眉間に皺を寄せて考えた。
「菜緒子も一緒にどうかなって思って……」
友里は私の顔を覗き込んだ。
信治は受験があるから多分行かないだろうし……。
私は手を合わせて、
「ごめん。明日はちょっと……」
と二人に言った。
二人は顔を見合わせて、
「そっか。用事あるなら仕方ないよ。また今度誘うからさ、大学行っても一緒に遊んでよね」
と洋子は立ち上がった。
「当たり前じゃない」
私は二人に微笑んだ。
そしてそのまま二人は別の友達を誘いに行ってしまった。
私はそれを見て、机の中に隠した脇田君からのラブレターをそっと取り出した。
高校に入学した時から私の事が好きだったらしい。
何度も告白しようと思ったけど、勇気がなくて、卒業式の日を迎えてしまった。
大学は離れてしまうけど、出来れば私と一緒に居たい。
付き合って欲しい。
返事を卒業式の後に訊かせて欲しい。
そんな内容だった。
だけど、これが不思議で、私宛のラブレターを読んでいるのに、どうしても他人事の様にしか思えなくて……。
普通は、返事ってもう少し猶予あるわよね。
今日の今日って……。
私は顔を上げて周囲を見た。
信治は卒業式の日なのに、英単語を必死に覚えている。
もう表紙もボロボロになった英単語の本。
そっか。
今日で卒業だもんね。
下手すると、二度と会う事も無い子も居るんだ。
私は、脇田君からのラブレターを折りたたみ、封筒に戻した。
そして今日が最後の制服の内ポケットに入れた。
今日、脇田君に返事をしなきゃいけないんだ。
私は頬杖を突いて窓の外を見た。
卒業式の日くらい晴れてくれたら良いのに、今日は曇りの「あんぱん日和」だ。
私はクラスの女の子を見た。
確か、明音も順子も志乃梨も、脇田君の事が好きなのよね。
バレンタインにチョコ渡してたし。
人気者なのに、どうして私なんだろう。
私より可愛い子なんていっぱい居るのに。
どうしよう……。
遅れて実感と言うか、不安が湧いてきた。
担任の本郷先生が教室に入って来た。
生物の先生だからいつもは白衣を着てるんだけど、今日はスーツ姿だった。
ちょっと出たお腹がパパに似てるかも……。
「ほら、座れ……。最後のホームルーム始めるぞ」
と先生は言った。
そっか。
ホームルームも最後なんだ。
私は少し姿勢を正して座り直した。
卒業式は体育館。
去年、私たちは在校生側の席に座り、卒業生を送った。
ついこの間の事だと思ってたけど、もう一年経ったんだ。
私は並べられたパイプ椅子に座り、燕尾服を来て舞台上に立つ、校長先生を見た。
話の長い校長先生だったな。
校長先生の話の途中で倒れる子も居たっけな……。
他のクラスの子たちが入場して私たちの前の席に座って行く。
ふと、視線を感じて顔を上げると、脇田君がじっと私を見ながら傍を通り過ぎて行った。
脇田君……。
脇田君の事を見ている女子が居る事に気付く。
どうしよう。
確かに脇田君は格好良いし、優しい子だって聞く。
同じクラスになった事無いから、殆ど話をした事は無い。
だけど、あの信治でさえ「良い奴」って言ってた。
脇田君が椅子に座った。
そして私の方を振り返って笑った。
卒業式の日に告白されたら、考える時間とか無いし。
何で少し前とかにしてくれなかったのかな……。
私は脇田君から目を逸らして俯いた。
何で、私なのよ……。
もっと可愛い子、いっぱいいるのに。
私は在校生の拍手が聞こえる中、俯いて溜息を吐いた。
「ただ今から卒業証書授与式を始めます」
教頭先生の声がした。
「一同ご起立をお願いします」
その後に続いて、
「一同、起立」
と学年主任の先生の声がした。
周囲が皆、立った。
私はそれを見て遅れて立つ。
「一同、礼」
その声に皆が頭を下げる。
また私は遅れて頭を下げた。
着席の声に皆が座る。
ふと顔を上げると、泣いている子が居た。
卒業式だもんね……。
私だって泣くんだよ。
多分、この後……。
私は俯いて、スカートの裾を握った。
卒業証書は代表の子が一人で受け取り、卒業生の言葉を読み上げる。
多分、学年トップの成績の男の子。
そして、在校生の贈る言葉。
その向こうのスクリーンに思い出の写真がスライドで流される。
音楽の住田先生が生でピアノを弾く。
多分、これは感動し、涙を誘うモノなんだと思う。
だけど私は、俯いたまま何の感動も無かった。
そんな事より、この後の脇田君への返事をどうするか、それで頭がいっぱいだった。
卒業生が立つ。
私はそれを見て立ち上がった。
だけど、何で立ったのかもわからなかった。
住田先生のピアノの音が聴こえて来た。
多分、私たちが歌う番だ。
何度も練習させられた歌「花吹雪」。
周囲を見ると、殆どの女子はもうハンカチを持って涙を拭いていた。
嘘……。
この歌を歌うと私の高校生活は終わりなの……。
私はポケットからハンカチを出した。
だけど、涙は見当たらなかった。
卒業式は終わり、私たちは一旦教室に帰った。
同じクラスの女子で泣いてないのは私だけ……、ではなく、三納代今日子と私だけだった。
「菜緒子、泣かなかったんだね」
と三納代今日子は言う。
私は、口を瞑って頷いた。
「三納代今日子も泣いてないじゃん」
三納代今日子は微笑んで、
「これから嫌でも泣かなきゃいけない時がいっぱいあるよ」
そう言った。
そうかもしれない。
泣きたくなる事もいっぱいあると思う。
だけど、高校生としての人生で一回だけの卒業式で泣けなかった私は、何かを損した気分だった。
本郷先生が教室に入って来た。
「ほら、卒業証書を渡すから、席に着いて」
と教卓の前で言う。
皆は涙を拭きながら席に着いた。
テレビドラマでは此処で、一人一人に先生が熱い言葉を掛けながら卒業証書を渡して行くんだけど、本郷先生は、単純に名前を呼んで渡して行くだけ。
まるでテストの答案用紙を返す時みたいだった。
そして、全員に卒業証書を渡し終え、教卓に両手を突いた。
本郷先生は、そこで初めて、教室の中を見渡す様に、じっと一人一人の顔を見ていた。
「皆さん、卒業おめでとう」
本郷先生は絞り出す様な声で言った。
その声に、また皆が泣き始める。
「先生は、湿っぽいのが苦手でね。本当は皆さんに一言ずつなんて事を他の先生はするのかもしれない。だけど、先生はそんな事しません。その代わり、一曲歌います」
は……。
歌……うの……。
私は顔を上げた。
三納代今日子も顔を上げて、私を見てた。
二人で首を傾げる。
本郷先生の歌を私たちは初めて聴いた。
上手くは無いけど、心にちゃんと伝わる歌だった。
その後、私たちは写真を撮ったり、寄せ書きを書いたりして教室を出た。
校舎の外や校門の前でも皆が写真を撮ってるのが見える。
三納代今日子は後輩に囲まれて花束をもらっていた。
そのためだけに今日は休みになっている一年生も駆け付けている様だった。
「人気あるなぁ、三納代は」
と私の横で声がした。
ふと見ると信治が立っていた。
「そうだね。流石は三納代今日子」
私は、三納代今日子を見ながら言う。
信治は曇った空を見上げた。
「晴れなかったなぁ……。今日くらい晴れてくれても良いのにな……」
私も空を見た。
確かにずっと曇っていた。
「そうだね……」
私はその曇った空に微笑む。
信治は私の顔を見て、
「お前、泣かなかったんだな」
と言った。
私は、コクリと頷く。
信治はそれを見て微笑んだ。
「卒業式って言ったって、いつか忘れてしまう普通の一日だもんな」
普通の一日……。
普通なのだろうか。
特別な日じゃないのだろうか。
私は周囲を見渡している信治を見た。
すると信治は、
「俺はほら、受験の事で頭がいっぱいでよ。本郷の下手な歌にも感動出来なかったわ」
そう言って笑った。
私もそれに釣られて笑った。
「お前、そう言えば脇田と……」
私は信治の言葉の途中で頷いた。
「今から脇田君に会って来るよ」
信治は小さく頷いた。
「そっか……。まあ、アイツは良い奴だから。俺が保証してやる」
私はクスリと笑って、
「どんな保証してくれるの……」
私は信治の顔を覗き込む様に見た。
信治は少し身を引いて、
「そうだなぁ……」
と考えていた。
「三好堂のあんぱん、三十個でどうだ」
信治は歯を見せて笑っていた。
「一年分」
「い、一年分……」
「うん。一年分」
信治は視線を上に向けて、
「わかった……。一年分な」
そう言った。
そして私に微笑むと、
「行って来いよ。脇田もどうしようもなく緊張してる筈だからよ」
と私の背中を叩いた。
「うん」
私は、信治に手を振り、脇田君の待つ学食の前のベンチに向かった。
学食前の白いベンチは、この学校でカップルになった子たちだけが使える特別な場所。
別にそんな決まりはないんだけど、いつの間にかそんな事になっていた。
冬は冷たくて座れたモノじゃないけど。
この角を曲がると脇田君が待っている。
私はそこで立ち止まり、大きく深呼吸をした。
吐く息が震えている。
私も緊張している。
卒業証書が挟まれた革製のバインダーが少し重い。
持って帰るとその内、何処に行ったかもわからなくなる筈だけど。
私は制服の胸に手を当てた。
内ポケットに脇田君からの手紙が入っている。
うん……。
行こう。
私は学食前に歩き出した。
私は音の鳴る自転車に乗って、学校を出た。
この自転車にももう何年お世話になっているのだろう。
高校に入る前に買ってもらって、毎日通学に使っている。
それも今日で最後。
ご苦労であった。
我が自転車。
私は前の籠に載せた鞄が、道の段差で飛び跳ねるのも気にせずに走り出す。
卒業の日。
曇天の下、気分は晴れていた。
感慨深い日の筈だったのに。
私はその卒業の日を思いっ切り感じる事が出来なかった。
それでも良い。
信治が言う様に「いつか忘れてしまう普通の一日」なんだから。
私は学校を出て大きな川を渡る橋に差し掛かる。
そしてそこで自転車を止めて、春の日差しに輝く水面を見た。
その色彩鮮やかな水面は、多分何度も見た事がある風景の一部で、そんなに珍しいモノではない筈。
だけど今日はその色彩がやけに目に染みる。
卒業したんだ……。
私。
気が付くと頬に涙が流れて来た。
あれ……。
私は手の甲でその涙を拭った。
何で泣いてるの……。
私、悲しいの……、それとも、嬉しいの……。
止めどなく涙が溢れて来る。
そしてその涙はポタポタと制服の袖に染みて行く。
私は自転車を走らせた。
早く家に帰りたい。
こんな姿誰にも見られたくない。
私は一気に橋を渡った。
川に沿った遊歩道。
此処はもうすぐ満開の桜並木になる。
その花吹雪の中をこの自転車に乗って学校に通った。
花びらが口に入ったり、髪の毛に付いてたり。
「口開けて走ってるからでしょ」
ってママは言ってた。
そんな事無いのに。
遊歩道を走っていると、桜並木の間にあるベンチに信治が座っているのが見えた。
相変わらす英単語の本を広げている。
私は今の姿を信治に見られたくなかった。
気付かない振りをして一気に通り過ぎようと自転車のスピードを上げた。
私は自転車をこぎながら涙を拭く。
信治は顔を上げて私に気付いた。
そして立ち上がり、遊歩道の真ん中に立った。
私は慌ててブレーキを掛けた。
不快な音と共に私の自転車は信治の寸前で止まった。
信治は鼻の下を指で擦りながら、私に微笑んだ。
私が泣いている事は直ぐにわかったと思う。
「遅せえよ」
信治はそう言うと笑ってた。
「何よ……」
私は仏頂面でそう言って、信治から顔を背けた。
「そんな怒るなよ。小学校から一緒の仲じゃねぇか」
信治はベンチに座った。
「菜緒子にしか頼めない事があってさ」
私は信治の言葉にピクリとした。
それでも泣き顔を見せたくない私は、ソッポを向いたまま、
「何……」
と訊く。
「そんなんじゃ頼めねぇし……」
と信治はベンチの自分の横をポンポンと叩いた。
「まあ、座れよ」
私は少し考えたが、自転車を遊歩道の脇に停めてベンチに座った。
だけど、顔は上げないまま。
「さっき、三好堂に行って来た」
信治は三好堂の紙袋を取り、口を広げた。
「あんぱん食うか」
私は首を横に振った。
「そっか。美味いのに……」
三好堂のあんぱんが美味しい事なんて私も知ってる。
でも、今はそんな気分じゃない。
信治は袋からあんぱんを一つ取って食べた。
「何かさ……。今日は落ち着かなくてよ」
信治は静かに言う。
私はじっと下を向いたまま信治の言葉を聞いた。
「卒業式どころじゃなかったよ」
信治はまたあんぱんを口に入れた。
「うん……」
私は頷く。
週末が受験の筈だから、信治にはそれどころじゃなかったのも当然だ。
「お前を脇田に取られるって思うとさ」
信治はそう言った。
「え……」
私は顔を上げて信治を見た。
「菜緒子……。俺、お前が好きだわ」
私は多分、一瞬だけど心臓が止まった気がする。
そしてその信治の言葉で、止まっていた涙がまた溢れ出した。
声にならない吐息を漏らしながら私は泣いた。
何度も何度も息を吐き、身体を震わせた。
信治はポケットからハンカチを出して、私の前に差し出した。
「ほら、洗ってあるから……」
私はその信治に匂いのするハンカチで流れる涙を拭いた。
私は声を出して泣いていた。
そんな私の頭を信治は優しく撫でている。
「ごめん……。そんなに嫌か……」
信治は呟く様に言った。
私は泣きながらそんな信治を思いっ切り突き飛ばした。
信治はその勢いでベンチから転がり落ちる。
「お前、あんぱん潰れちまうだろうが……」
信治は三好堂の袋を持ってベンチに座り直した。
「馬鹿……」
私は信治のハンカチで顔を隠したまま言った。
「あんぱんはね、潰して食べるのが正解なのよ。そんな事も知らないの……」
信治は三好堂の袋を開けて中を確認していた。
「そうなのか……」
私はコクリと頷いた。
「貸して」
私は信治から三好堂の紙袋を引っ手繰る様に取ってあんぱんを手に取った。
そしてそのあんぱんを両手で挟み潰した。
それを二つに割ると、その半分を信治に渡す。
信治はそれを受け取って食べた。
「こうすると端っこまで餡子が広がるでしょ」
信治は頷きながら、
「なるほど……」
と言った。
私も半分個したあんぱんを食べた。
今日のあんぱんはやけにしょっぱい。
おばあさんが塩加減を間違ったのかな……。
信治は私の顔を覗き込んで歯を見せて笑っていた。
「しょっぱいあんぱん……」
私はそう言って笑った。
「んな訳ねぇだろ……」
と信治は苦笑してた。
「美味いな、これなら毎日食えるわ」
私は笑って信治を見た。
「あと、三百六十四個と半分ね」
「え……」
信治は口元であんぱんを食べるのを止めた。
「だから、一年分って言ったでしょ」
信治は口を開けたまま頷く。
「それはお前……」
信治は何かを言いかけて止めた。
「そうか……」
「うん。三百六十四個と半分」
私は半分のあんぱんを食べて笑った。
「三百六十四個と半分な」
信治はあんぱんを口に放り込んで言った。
「あれ、今年って閏年だったかな……」
「どっちでも良いわ」
私たちは笑ってた。
美味しいあんぱんを食べながら。
「信治、遅刻するよ」
私は信治の家の前にキコキコ音のする自転車を止めて電話した。
「おう。直ぐ行くから」
そう言うと信治は電話を切った。
信治は何とか大学に合格した。
私が推薦で決まっていた大学に入るために猛勉強したみたいで。
信治はあんぱんを咥えて家から出て来た。
「また朝からあんぱん食べてるの」
私は笑いながら言う。
「時間無い時はこれが一番」
そう言うと信治も自転車で走り出す。
私たちは一気に川沿いの坂を上り、桜並木の中を走った。
もう桜の花びらも殆ど散っていて、いつもの様に髪の毛に降りかかる。
「あんぱん食うか」
と信治は食べかけのあんぱんを私に差し出す。
「いらないわよ。朝食べて来たし」
「そうか。好きなのに、いらないのか」
信治は自転車のスピードを上げた。
高校へ行くのに渡ってた橋を越えると駅がある。
そこまで私たちは毎日自転車で走っている。
私は前を走る信治の背中を見て、
「好きよ……」
と言った。
「なんか言ったか」
と信治は振り返った。
「何でもないわよ。早くしないと電車行っちゃうよ」
私はスピードを上げて、前を行く信治を追い抜いた。
 




