6各々のバレンタインのその後
悠が自室へ戻り、ベッドに横たわって先ほどの余韻を味わっていると、コンコン、とノックの音が聞こえた。
「はーい。」
「俺だけど。まだだったら、一緒に風呂入らない?」
「ああ、いいよ。すぐ行く。」
声の持ち主が杏哉だと分かり、悠はお風呂のセットを持って、扉を開けた。二人でお風呂に向かって歩き出し、他愛もない話をしていたのだが、杏哉がチラッと悠の方を見た時、何かが目に止まったのか、訝しげに悠の首元をじっと見つめ出した。
「え、何?」
「いや…お前、その痕、どうしたんだよ。」
「え?」
杏哉に指さされ、悠は顔の角度を変えてギリギリ見える位置にあった赤い痣を目にした。
「!」
そういえば、先ほど、悠が調子に乗ってキスマークを付け出して、メイサも同じように返してきたのを思い出した。其の後の、このままだと一線を超えてしまうのではないか、という危機感の印象が強くて、キスマークは記憶から薄れていた。
(そういや…僕、かなりメイサにキスマークつけた気がする…。これは、明日が恥ずかしいやつだ…。)
悠の姿を見ても、杏哉はメイサにつけられたんだろう、としか思わないが、メイサの姿を見れば、悠も彼女につけていたことがバレてしまう。悠は、明日の朝食で恥ずか死ぬ覚悟を決めた。
「あれ、もしかしてキスマーク?」
黙りこくっていた悠に、杏哉がある考えを思いつき、ニヤニヤしながら悠に確認した。
「…そうだけど。」
「へぇ。お前、さっきバレンタインのチョコもらうためにメイサの部屋行ってたろ。もしかして、一線越えた?」
そんなわけない!と強く否定できたら良いのものの、先程の自身の様子を省みて、自分は思っていたよりも自制心がなかったのだな、と嫌気がさした。
「…越えてない。」
「どうしたんだよ? いつもだったら、越えてない!って怒り出すだろうに。」
悠が自信なさげに弱々しく返答すると、杏哉は目を見張って、悠の真似をした。絶妙に言い方が似ていたので、悠は羞恥心に駆られた。
「…何、越えそうにでもなった?」
今度は杏哉が、悠の心中を見透かしているかのように、そう茶化してくるので、悠は思わず立ち止まってしまった。
「え、マジなの?」
杏哉は冗談で先程の言葉を口にしたのに、悠があからさまな反応をするので、あんぐりと口を開け、瞠目していた。
「マジだよ。僕、自分がこんなに自制心ないって初めて知った…。やばい、もう何もかも自信持てない…。」
歩くのを再開しながら、悠がそんな弱音を吐くので、杏哉は慰めるように明るく言葉をかけた。
「まぁいいじゃん。ちゃんと越える前に防げたんだし。楽しかったんだろ。」
「まぁね。疑いようもないくらい、心地良かったよ。危うく、メイサが僕のズボンを下げる前に自制心が働いて、其の先にまでは進まずにすんだんだけどさ。」
悠は先ほどの出来事を思い浮かべ、自身の行動に思わず身震いする。
「えっ、お前ら下着姿でいちゃついてたの? もしかしてベッドの上? 最初に服脱がしたのは悠?」
すると、悠の〝一線を越えそうになった〟をあまり深刻な事として捉えていなかった杏哉は、その発言を聞いて目を見開く。
「…どれも仰る通りです。」
「うわ、何それ。もう少しで中一にして童貞卒業だったんじゃん。惜しいことしたな。それに服脱がしたのお前が先か…。ファーストキスもお前からだし、案外、お前って性的なこと積極的なんだな。」
「もう、変なこと言うなよ! こっちは結構真剣に後悔してんのに!」
杏哉がふざけるので、悠が非難しながら、杏哉の顔の前に顔サイズの水鞠を作った。杏哉が悠を励まそうとして冗談めかした言葉を選んでいるのは理解できるが、あいにく現在の意気消沈した悠にはその戯言を返せるほどの余裕はない。悠は杏哉の顔の前で水鞠を弾けさせ、バシャッと水をかけてやる。
「うわ! 何すんだよっ。」
「杏哉がおかしなこと口走るからだよ。」
服の袖で顔の水をゴシゴシと拭き取る杏哉に、悠はどこ吹く風、といった様子で、スンととしている。
最近訓練をしているおかげで、以前と比較して、悠は桁違いの能力量を得た。昔はこんなおふざけの為だけに能力を使用することは、それによる疲労と割に合わなかったので使うことはなかったが、近頃はこれくらいの使用なら、ほとんど疲れを伴わない。其の為最近は、こうして時折、ふざける為だけに使用することがある。主に杏哉に。
「またやられた…。お前の能力量を増えたこと、素直に喜んでいいのか分かんなくなってきたぞ…。」
「悔しいなら仕返ししたらどう?」
悔しげな表情を作る杏哉に、悠は侮るような余裕の表情でそう言ってやる。
「それマジで言ってる? 俺が本気出したら、お前なんかひとたまりもないぞ。」
「側近家の者と一般人で遣り合うのに、杏哉が本気出すのは大人気ないよ。それに、僕の悪戯は所詮濡れるだけだけど、杏哉が悪戯したら木の枝とかでかすり傷くらい付くからダメ。傷つかない範囲ならいいけど。」
「なんだよ。結局仕返しできないじゃん。」
「だからそういうこと。残念でした〜。」
「は? うざっ! いいか見てろよ。近いうちに、傷つけずにうんと報復してやるからな!」
杏哉が恨み節を吐いている間に、二人は風呂場に着いた。脱衣場で服を脱いで風呂場の中に入ると、服で隠れていたキスマークが丸見えになり、先程からかった仕返しをするように、杏哉に散々揶揄された。
「お前っ、肩から腰まで連続して…っ。ほんと、お楽しみだったんだなぁ。」
「そんなに笑わないでよ…。」
シャワーを頭から被りながら、悠はますます明日の朝食が訪れるのが嫌になった。しかしその感情とは裏腹に、そうやって揶揄われているうちに、元気をなくしていた悠の気持ちは徐々に上がりつつあった。本当に杏哉には感謝の念しかない。
(あぁ〜! メイサにつけられた痕でもこんなに笑われてんのに、僕もメイサと全く同じことしてるからな…。メイサに言われたらもう、おしまいだ…。)
やはり、未来予知の能力を持つメイサでなくとも、明日に恥ずか死ぬ未来しか見えない。穴があったら入れるように、今から庭にスコップで穴を掘っておきたい。
「で? 結局どこまでしたんだよ? ディープキスは当然してるよな。他には?」
「どこまでって…。まぁ、フレンチキスは仰る通りしたけど…。」
湯船に浸かりながら、杏哉が唐突にニヤけ顔で聞いてきた。
「胸揉んだ?」
其の言葉に、悠はメイサの胸の感触を思い出してしまい、うっ、と顔を赤らめた。
「…うん。Dカップを堪能致しました…。下着越しではあるけど…。」
「マジか! お前も案外男なんだなぁ。」
極小のボリュームで馬鹿正直に返した答えに、杏哉はケラケラと声に出して笑う。
「てかDなのか。確かにそれくらいはあるよなぁ。」
「ちょっと、人の彼女をそんな目で見るなよ。」
悠は、先程所有欲の表れであるキスマークまでつけまくった自分の彼女を、そんな風に性的な目で見られていたことに不快感を覚え、杏哉にジト目を向けた。すると、杏哉は慌てふためいてパチン、と両手を合わせて謝ってくれた。
「わ、悪い。けど、こうも毎日暮らしてるとさ、光姫様との差が…。」
「あ、それはわかるかも。光姫先輩も決して小さくはないけど…Bくらいかな?」
「まぁそれくらいが妥当だろうな。俺も平均的だと思う。」
人の彼女を性的な目で見るな、と言った身だが、結局自分も光姫のことを同じ風に見てしまっていた。これはお互い様ということで、二人は湯船から出て、脱衣所に向かった。
すると、隣の部屋、つまり女湯の方から、「えー!」という驚きを意味する叫び声が聞こえてきた。其の後で、「お姉様、声が大きい!」と非難する、彼女の最愛の妹の声が続く。
「あ、光姫様とメイサじゃん。ちょうどいいし、一緒に部屋に帰ろうって誘おうぜ。」
「え、あ…うん。」
恥ずか死ぬのは明日でなく今日だったようだ。悠が絶望していると、ふとあることを疑問に思った。
「ねぇ…杏哉の方は、光姫先輩と何かあったの? もしかして杏哉もチョコもらったの? さっきからなんか上機嫌だけど。」
「あ、そう。そうなんだよ。義理チョコではないが、本命チョコでもないと言われた。」
「何それ。」
「俺もよくわかんないが…なんか、そう言ってる時の光姫様が、照れてて可愛らしかったんだよな。だから意味はよくわかんないけど、すごい充足感覚えてる。」
「そうなんだ。それは良かったね。」
其の時の光姫の表情を思い出しているのか、嬉しそうに目を細める杏哉を目にして、悠も素直に嬉しく思った。光姫も杏哉もどちらも、各々の属性の最高峰の能力の持ち主。杏哉は光姫に想いを寄せているが、光姫にとっても杏哉は特別な男性のはずだ。例えそれが、今は恋愛感情でなくとも。とてもお似合いだと思う。
「…あ、そういえば。さっきメイサにさ、バレンタインのチョコ、何個もらってた?って聞かれたんだけど。杏哉はどれくらい? ちなみに僕は、最高記録三十八。」
「へぇ。なかなかやるじゃん。俺はな、最高記録は四十だ。」
「くっ。めっちゃ僅差で負けた!」
両者とも端正な顔立ちで生まれ、バレンタインにチョコレートをもらえない年がない二人は、余裕綽々で互いの最高記録を言い合う。メイサに話す時はチョコレートをもらうデメリットを述べていたが、当然、チョコをたくさんもらえれば嬉しい。
「あ〜あ、今年もバレンタインに学校に行ってれば、悠と勝負できたのにな。」
「それはずるいよ。僕は彼女持ちになったんだから、それを知ってる人は遠慮するでしょ。」
口を尖らせる悠に、杏哉は綽々とした態度で問う。
「じゃあさ、お前、一番衝撃的なバレンタインの告白ってなんだった?」
「えっとね。何度かあるけど、電車の中で、話したこともない女子から告られたこと。それってほんと、顔しか見てないよね。了承するわけないじゃん。」
「あ〜、わかるわ。俺も幾度かある。でも、俺が一番衝撃的だったのは、バレンタインの日、突然クラスの女子が教壇の後ろに立って、『私、樹護宮君のことが好きです!付き合ってください!』って叫んだことかな。もちろん、同級生全員聞いてるわけ。よく其の状態で告るな、って思うけど、俺の立場も考えてくれよ。断るのすっごいやりにくかったんだから。」
「へぇ、確かに衝撃的だ。」
モテ男二人でバレンタインの思い出を話し合っている間に、両者とも着替えを終え、暖簾をかき分けて風呂場から出た。すると同時に、女湯からメイサと光姫が顔を出した。
「あっ。」
向こうは悠と杏哉が風呂場にいたことに気づいていなかったらしく、悠と杏哉を目にすると、光姫が小さく声を上げた。そして、悠の姿を瞳に映した光姫の顔が、だんだんと赤く染まっていく。
「え、どうなさいましたか、光姫様⁉︎」
杏哉が慌てて駆け寄り、心配そうに光姫の肩に手を置く。
「いいえ、なんでも…。ただ、悠さんの顔を見た途端、先程のメイサさんのお話を思い出してしまって…。」
「そっちもか…。」
杏哉は苦笑いを浮かべ、悠を振り返った後、光姫の後ろにいたメイサの姿を瞳に映した。そして悠の想定通り、メイサの首元のキスマークに反応する。
「メイサ、このキスマークは悠が?」
「そうよ。悠とお風呂入ったんなら、悠の上半身につけたキスマークも見たわよね。悠がアタシにつけた痕を見て真似したの。アタシも、右の首から胸の谷間にかけて、キスマークが残ってるわよ。悠につけてもらって、自慢だし見せてあげたいけど、流石に服を脱ぐのは嫌だから遠慮しとくわ。」
メイサの其の言葉で、キスマークを先につけたのは悠であると杏哉に伝わったのだろう。あんぐりと開いた口元から、大きく開いた瞳へと、顔中にどんどん驚きが伝染していく。
「…え、お前からしたの? さっき、いかにもメイサが勝手にしました、って雰囲気出してたじゃん。」
「そ、そんなことはないよ!」
悠は慌てて否定するが、メイサからのジトッとした視線は免れなかった。
「何よそれ、どういうこと? 紛れもなく悠からだったわよ?」
「いや、言うのが恥ずかしかったんだって! どうせ明日バレるからいいやって思ったんだよ! ごめんって!」
目を三角にするメイサに、悠は慌てて手を合わせて謝った。
「じゃあ今日、悠のベッドで一緒に寝かしてくれたら許すわ。」
「早速する気満々じゃん! 僕が死ぬから、それ! 僕めっちゃ後悔してんだから、これ以上意気消沈させないで‼︎」
「…冗談よ。」
「何だよその含みのある言い方! 冗談に聞こえないんだよ!」
カップルになっても、以前と変わらずに言い合いを始める二人を、光姫と杏哉は呆れながらも、温かい視線を向けていた。
「ねぇ杏哉さん。」
「何でしょう?」
「その…今日、バレンタインで言ってたことなんですけど…。実は私、恋ってどういうものなのかわからなくて。それで、杏哉さんに対して抱いているこの感覚が、恋かどうかわからないんです。もしこれが恋だって自覚したら、その時は私から貴方に告白します。」
いじらしく伏し目になりながらそう語る光姫に、杏哉は声も出せなかった。
(え、それってつまり、光姫様は俺のこと多少は好意を持った目で…。)
「…マジっすか。ずっと待ってます。」
「え、いえ! 待たなくて結構ですよ⁉︎ 杏哉さんは私に構わず、杏哉さんの好きなように恋愛をしてください!」
杏哉の想いを知らない光姫は、自分のせいで恋愛が出来なくなる、と思い込み、慌てふためいた。だが、杏哉の想い人は光姫で、杏哉はこの先も光姫一筋だ。彼女ほど魅力的な女性は、今後一切現れることはないだろう。立場の違いで、一度は諦めかけた恋だが、もしも光姫が杏哉のことを想ってくれているなら、この恋は実ることがあるのかもしれない。杏哉哉はしみじみと、柄にもなく神に感謝をした。
そうして、大掛かりで大胆な、能力者の差別をなくさせる為の作戦実行の一ヶ月ほど前に、四人は各々、甘美な一日を過ごしたのだった。




