10プロポーズ
カーテンから溢れ出る、あたたかく爽快な光を浴びて、メイサは目を覚ました。目を開き、メイサは一瞬、自分が何処にいるのかわからなかった。
そうして隣に光姫がすやすやと気持ち良さそうに眠っているのを見て、メイサは昨夜の出来事を思い出す。そうだ、自分は杏哉の部屋で一晩過ごしたのだ。壁にかけられた時計を見ると、まだ起きるには早かったので、メイサは再び眠りにつこうとした。しかし、早朝の日光を浴びたせいか、なかなか寝付けず、メイサは観念して体を起こした。そして光姫を起こさないようにそっとベッドを抜け出す。
ベッドから降りると、そこには同志で親友である杏哉と、愛しの彼氏である悠が眠っていた。
メイサは悠の隣で横になり、彼の寝顔を眺めた。白皙にして幼さの残る輪郭に、今は閉じているが、くりくりとした大きな瞳。それらは彼が気にしている、女子に見間違えられる原因である。勿論メイサはそんな悠の容姿全てを含めて彼を愛している。
だが、出会った頃に比べると、断然男の子らしくなっていることに、本人は気づいていないのだろうか。
色素の薄い亜麻色の髪は、以前は顎あたりまであるショートボブだったが、今では丸いシルエットにカットされた、マッシュヘアになっている。これは誰の目から見ても歴然な変化だ。さらにそれだけでなく、いつの間にか身長はメイサを追い抜かし、かつての華奢な体つきは所々が角ばっていた。
メイサは彼の手を自分のそれに合わせる。やはり違いは顕著で、数ヶ月前はメイサとほとんど差異が見られなかったのに、今ではメイサの手を包み込めるほど大きく、骨ばっている。メイサはそんな悠の手が好きだった。
(悠…寝顔、可愛い。)
いつも可愛らしい容姿をしているが、眠っている時はさらに際立っていた。いつもに増しあて無防備で、どこか庇護欲をそそられる。しかし、握った手は確かに男性特有のものだ。
(悠って、やっぱり顔は整ってるのよね。)
杏哉からいつも女子みたいだ、と揶揄されているが、それはつまり、彼の見目が端正である事と表裏一体だ。長い睫毛や形の良い唇を見て、メイサは思わずキュンとする。そして、メイサの瞳はそのまま、彼の唇に吸い付けられていた。メイサは心の奥底から湧き出るマグマのような衝動に耐えきれず、意を決して、行動に移した。
(アタシたちは付き合ってるんだし…これくらい、いいわよね。)
メイサはまず、重ねていた悠の手を自身の頬に触れさせた。悠の体温が身体中に染み渡っていくようで、メイサは心地よくなり、目を細めた。そして悠の手を押さえたまま、メイサは眠っている悠に、やおら顔を近づける。おろしたままの長い黒髪が垂れてきて、それを耳にかけた。
数秒間、至近距離で悠を見つめた後、メイサは思い切って、彼我の距離をゼロにした。三度目の接吻だが、過去二回は悠からだったので、改めて自ら行うと、心臓がうるさいほどに音を立てる。また同時に、胸の奥が燃えるように熱を持っていた。
(…なんて幸せなのかしら。)
ドキドキして心臓がはち切れそうだが、この上ないほど心が満たされている。悠を心の底から好きだ、という感情が胸の器から溢れ出し、どうにかなってしまいそうだった。いつまでもこの幸福感を終わらせたくなくて、メイサは十秒余りそうしていた。すると、呼吸がしづらかったのか、悠が唐突に唸り出し、一瞬にして寝ぼけ眼を開いた。
数秒間、唇を重ねたまま、二人は至近距離で見つめ合う。
我に返り、慌ててメイサはガバッと顔を上げた。同時に体を起こした悠の顔を伺うと、彼の端正な顔は、夕焼けのように真っ赤に染め上がっていた。メイサも似通ったりだろう。暫時見つめ合った後、握るように心臓を押さえている悠が恐る恐る口を開く。
「えと…今、何してた?」
「……わかってるでしょ。」
自分から行動に起こしたくせに、口にするのが気恥ずかしく、何故か悠を非難するようにジトっとした視線を向けた。悠はメイサの欲しい回答をはぐらかして、言葉を続ける。
「……起きたらメイサの顔が目と鼻の先にあって、本当に驚いたんだから…。」
「もう、本当に驚いたのはそこじゃないでしょ。」
「…なんで僕が非難されてるの…。わかってるから…。…キス、してたんでしょ…?」
悠は言いにくそうにしながら、また頬だけでなく耳まで朱色に染めながら、そう口にした。
「うん。ごめん、悠。なんか我慢できなくて。嫌だった…?」
「メイサからのキスが嫌な訳ないけどさ…状況が稀有すぎて混乱してる。なんていうか、起きてる時にしてくれると嬉しいんだけど…。これじゃ、反応できないじゃん。まぁ、目覚めはバッチリだけどね。眠気なんて塵みたいに吹き飛んじゃった。」
悠の返答を聞いて、メイサは胸を撫で下ろした。悠はメイサの意外な反応に瞠目しながら、彼女の言葉を待っていると、
「嫌じゃないなら良かった。また機会があったらするわね。」
「…人の話聞いてた?」
と、まさかの斜め上な返事が返ってきて、悠は苦笑する。「…まぁ、本当に、嫌な訳じゃないからいいけどね。寧ろ嬉しいし。」と呟くように付け足すと、メイサは目を見開いた後、にっこりと微笑んだ。それに釣られて、悠も彼女に深い愛情を伝えるように、暖かく微笑み返した。
其の後、両者とも目が冴え切ってしまい、一抹の眠気なんてなかったので、光姫と杏哉を起こさないよう、二人で部屋から出た。
「じゃあ、また後で。」
「ええ、中央庭で集合ね。」
悠とメイサは、服を着替えたり顔を洗ったりするために一旦自室へ戻ることにした。そして支度が終わり次第、正面玄関とは反対側にある庭で再会することになった。
庭は色とりどりに咲き誇る薔薇の柵で覆われ、屋根で覆われた白いテーブルと椅子が設置されている。薔薇の柵の出口には、薔薇の蔦が絡まったアーチがあり、そこから先には森が生い茂っている。この屋敷は都会から離れた、割と寂しい田舎にあるので、自然豊かなのだ。庭の奥に繋がる森一帯も、全て守光神家の敷地である。恐ろしい限りだ。
悠はメイサと別れて、杏哉の隣にある自室の扉を開ける。寝巻きから無地の白Tシャツと青いジーンズに着替え、そしてコートを手に取って、顔を洗うために洗面台に向かった。メイサはまだ来ておらず、顔を洗い、髪を整えた。きっとメイサの準備は時間がかかるだろうから、自室に戻って本を一冊手に取り、庭へ向かった。
庭に行くには一階の中央にある扉か、リビングから出ることができる。わざわざリビングまで行く必要もないので、悠は中央扉から外へ出た。
まだ空は仄暗かったが、山頂から顔を覗かせた太陽が、わずかに薄明を作り出している。悠はガゼボのような建物の中に入り、椅子に腰掛けた。この屋敷の中央に属する庭は全体的に洋風であるが、実は屋敷の右側にもこじんまりとした和風な庭がある。そこは柵の代わりに全体が竹で覆われ、趣のある東屋が佇んでいる。悠は右庭も心が落ち着くので好きだが、メイサはこちらの方が瀟酒で好みらしい。
そうして、悠はコートを羽織り、持ってきた本を開き、しおりを抜いて読み始めた。
「悠〜! お待たせ〜!」
読み耽っていると、メイサの声が頭に響いてきた。普段は集中している時は人の声が届かないのに、彼女の場合ははっきりと聞こえてくるので不思議だ。悠は顔を上げて、愛する人の姿を捉える。メイサは黒いシンプルなデザインのワンピースを着て、其の上から赤と白のチェックコートを羽織っていた。彼女の話によると、これは光姫からの贈り物らしい。珍しく髪はおろしていて、こちらへ駆け寄ってくる際に、艶やかな長い黒髪が揺れている。メイサは満面の笑顔で、悠に向かって手を振っていた。
「…やっぱり可愛いな。」
全身で悠への愛情を振り撒く彼女を愛おしく思っていると、自然とそんな言葉が溢れ、悠は慌てて両手で自分の口を押さえた。其の様子に、ガボゼに辿り着き、悠の隣に腰掛けたメイサは首を傾げる。
「どうかしたの?」
「いや…なんていうか…。やっぱり、メイサは可愛いな、って思って。」
迷った末に、やはり心に浮かんだ素直な気持ちは言っておいた方が良いと考え、悠はメイサにそのまま伝えた。すると、メイサは山頂から顔を出した朝日のように、みるみるうちに顔を赤らめ、悠の胸にポスッと頭を預けた。
「何よそれ…そんなの急に言われたら…反則よ…。」
目と鼻の先にあるメイサの頭を見下ろすと、其の耳が、この庭を囲う赤薔薇のように真っ赤に染まっている。悠も気恥ずかしくなり、顔を逸らそうとした時、メイサが徐に顔を上げた。自然と、至近距離で見つめ合う形になる。
「えっと…ありがとう…。悠も、いつも通り格好いいわよ。悠が好き。大好き。心の底からあなたを好いているわ。本当に、名状し難いくらい…。一生、離さないから。」
メイサは顔を赤らめながらそう言って、悠の服をぎゅっとしがみつくように握った。悠は其のいじらしさ、其の言葉にうっと言葉を詰まらせる。
「うん…あ、ありがと…。僕もメイサのことが好き。衷心から恋慕ってる。僕の方こそ、ずっと隣にいて欲しい。愛してるよ。」
悠が言葉を選びながらそう返答すると、メイサはこのままではのぼせてしまうのではないか、と思うほどに顔を真っ赤にした。思い返してみると、互いに完全にプロポーズの台詞を言い合っている。
(全く…新年の朝から、僕らは一体何をやってるんだ…。)
自分で自身に呆れながら、心中で呟いた言葉に、悠はハッとした。
「そういえば、言ってなかったね。新年、あけましておめでとう。」
悠はメイサの頬に手を添え、顔を上げさせた。すると、メイサも新年であることをすっかり忘れていたようで、目をぱちくりとさせていた。やがて、目尻が下がり、口角が上がって柔らかい顔つきになり、メイサはふんわりと微笑んだ。
「本当ね。今日は新しい年なんだわ。あけましておめでとう、悠。今年も…ううん、金輪際よろしくお願いします。」
先ほどプロポーズまがいの台詞を言い合ったせいで、真面目な発言だというのに、悠はなんだかおかしくなって、ぷっと吹き出した。初めは悠の反応に瞠目していたメイサだったが、暫くすると、つられてくすくすと笑い出した。
「ねぇ悠、大好きよ。」
悠は心中で、この短時間で何回目だろう、と思いつつ、体を悠に預け、とろけるような甘く優しい笑みを浮かべるメイサに向けて、
「うん、僕も愛してる。」
と、極上の微笑みを浮かべながら、愛しの彼女にそう返した。
そうして次第に、初めから短かった距離が、自然と、双方から更に縮まってゆく。
メイサの吐息が唇に触れ、悠はくすぐったい気持ちになりながら、ゆっくりと彼我の距離を無にした。変わらず触れるだけの口付けなのに、胸の奥がじんじんする。まるで、かじかんだ指先をストーブで温めているような。其の熱はさらに燃え上がり、胸を焼き尽くすように熱くなった。
十秒余りで、相互から自然と、彼我の距離が伸びてゆく。
「ねぇ、初めてじゃない? どっかが急にキスするんじゃなくて、こんな風にお互いが同時にしようとするなんて。」
メイサは興奮したような口調でそう口にする。悠は彼女の言葉に首肯した。
「そうだね。なんかパズルのピースが合わさったみたいで、凄く気持ちが良かった。勿論、キス自体も。なんで唇を重ねただけで、こんなにも幸福感が得られるんだろうね。」
「もの凄く同感する。ずっとキスしていたいくらい。それに、キスすると、悠を好きだ、っていう気持ちが溢れ出して、もっと貴方の事を好きになるのよね。」
メイサも悠の言葉にうんうんと頷いた。
朝日は、いつの間にか山の頂上から完全に其の姿を現し、影を重ねる二人を照らしていた。




