6杏哉の誕生日
大晦日の朝。アラームがけたたましく響く目覚まし時計を止め、杏哉はうーん、と伸びをして起き上がった。残念ながら、クリスマスから四日たった今も、光姫たちからの謎の疎外感はまだ覚え続けている。
(そういや今日、誕生日だな…。)
杏哉はベッドから降りて、寝巻きを脱ぐ際にカレンダーの前に立ち、しみじみとそう思った。光姫たちには誕生日を告げていないので、今日、特別な何かがあるとは思わない。少々寂しい気もするが、杏哉自身が故意に伝えなかったので仕方がない。
(誕生日言ったら、祝って欲しいみたいって言ってるみたいで嫌だったんだよな…。あ、家族からお祝いのメッセージ来てる。)
私服に着替え終え、スマホを開くと、母親と妹と弟から誕生日のお祝いの言葉が届いていた。父親からのメッセージがないのは、照光に側近として付き添い、彼もハンターに捕まえられたからである。杏哉はあるべき人からのメッセージが届いていないことでその事実を再認識し、うっと胸が苦しくなった。
『杏ちゃん、16歳のお誕生日おめでとう! いつでもいいけどさ、たまには家に帰ってきなよ〜! お正月とかさ! 母さん、杏ちゃんがいなくて寂しいよー。みんな寂しがってるよ。じゃあね、杏ちゃん、大好きよ!』
杏哉は母親からのメッセージを読み、文脈に込められた愛情が胸いっぱいに染み渡る。そばに母親がいない今だからこそ思い返してみると、彼女には悪いことをしたと反省する。杏哉も例に漏れず思春期の男子になり、母親からのストレートな愛情表現が恥ずかしくなって少々ぶっきらぼうになっていた。次家に帰ったら、しっかり母親からの愛情を受け止め、その上で同じ愛情を返そう、杏哉はそう心に決めた。
『お兄、たんおめー。ちゃんと働いてんのー? 別に、家とか帰ってこなくていいからー。』
そして母親の次に妹からの簡素なメッセージを読み、クスッと笑いが漏れた。現在中学三年生の彼女は、数年前から思春期に入り、兄である杏哉に反抗的な態度を取るようになった。けれども決して仲が悪いわけではない…と、兄としては信じたいので、メッセージは否定的だが、帰省したらきっと彼女なりに喜んでくれるだろう。しっかり兄の誕生日にメッセージを送ってくれているのがその証拠だ。
『にーに、誕生日おめでと〜! にーにが家にいなくて寂しいよ! 仕事とかしなくていいから、早く帰ってきて! また遊んでね!』
最後に開いたのは現在中学一年生の弟のメッセージ。彼は反抗的な妹と違って杏哉に大変懐いており、大きくなってからも幼い頃からの呼び方は変わらないまま。それがなんとも愛おしい。メッセージからも母親とは違う意味で杏哉への遠慮のない愛情が漏れ出ており、杏哉は自然と口角が上がった。
(家か…全然その考えに至らなかったけど…そうだな、帰りたいな…。)
彼らからのメッセージを閉じた後、杏哉は天井を仰いで心の中でそう呟いた。母、妹、弟と共通して、帰省する話題が入っていた。…たった一人、帰ってくるなという厳しい言葉があったものの。家に帰るという発想がなかった杏哉からしたら、家族たちの言葉は新鮮だった。
光姫、メイサ、悠のおかげで毎日が充実していて、ホームシックになることは考えにも及ばなかった杏哉だが、家族からの温かいメッセージを胸に刻んだ途端、彼らが恋しくなった。頼り甲斐のある父親、優しく芯の強い母親に、今は反抗的だが、本当は甘え上手な妹、そして杏哉を慕ってくれる弟。杏哉は四人の顔を頭に思い浮かべた。
そうして感慨に耽っていると、いつの間にか、いつも光姫と稽古する時間を過ぎていた。約束はしていないが、共に訓練に励むことが不文律となっていたので、杏哉は慌てて部屋から飛び出た。駆け足で稽古部屋に駆け込むと、そこには目を見張る光景があった。というより、そこにいつもあるべき光景がなかった。
(光姫様が、いない…⁉︎ こんなことってあるのか?)
これまで、杏哉が訓練を始めてから、光姫が稽古部屋に来ていない、なんて事態には遭遇したことがなかった。必ず杏哉が訪れる前、もしくは廊下で出会ってここへ向かうというのに。
(もしかして、体調が優れないのでは…? いやでも、光姫様は光の能力者なのだから、体調不良なんて一発で治せる…。)
考えてもキリがない。杏哉は今日は訓練をすることをやめて、光姫の部屋を訪れることにした。光姫の部屋の前までやって来て、いつもであれば逡巡する杏哉であったが、今は光姫が心配でたまらなかったので、一切躊躇うことなく、ドアをノックできた。
「…いらっしゃらない?」
しかし、寸刻経ったが、彼女が出てくる気配がない。それどころか、物音ひとつせず、中に人がいる気配がしない。
その時だった。
「杏哉っ!」
突然、背中側から威勢の良い声が聞こえた。
「うわぁっ!」
杏哉は思わずその場で飛び上がり、その勢いで壁に背中をぶつけてしまう。ぶつけた場所をさすりながらしゃがみ込み、杏哉が少し睨みつけるように声の主を見ると。
「あ、ごめん…杏哉。」
声の主・悠は不自然なほどに激しく瞳を動かし、ペコっと頭を下げた。こういう可愛らしい動作が、女子と揶揄される要因なんだぞ、と心の中で呟きながら、杏哉は立ち上がる。
「てかお前…その服どうしたんだよ。いつもにまして格式ばってんな…。いや、それフォーマルの類なのか? どう見ても執事服じゃないか? コスプレ? え?」
杏哉が悠の服装を眺め、困惑して尋ねる。悠は子供じみたヨレヨレの部屋着しか所有していないため、屋敷の中ではいつも制服、もしくはそれに似たシャツとズボンを着用している。だから彼のフォーマルな姿には見慣れているのだが、今日の服装は明らかにそれらとは異なっていた。ワイシャツを着ているのは平常通りなのだが、その上から黒に近い紺のジャケットとスラックス、ダークグレーのウェイトレスコートを羽織っている。さらに彼の両手には、白い手袋がはめられていた。
杏哉が指摘すると、悠は伏目がちになり、よく見るとその耳が茜色に染まっている。
「…め、メイサに頼まれて…。」
悠は苦し紛れに言い訳を考え、杏哉にそう告げた。すると、杏哉は意外なことに、悠の嘘をあっさりと受け入れ、なるほど、と呟く。悠は拍子抜けして、思わず聞き返してしまう。
「あ、え、何が『なるほど』なの?」
「いや、メイサならやりそうじゃん。彼氏にコスプレ要求するの。」
「そ、そう、だね…。」
悠は自分の彼女はとんだ偏見で見られていると苦笑したが、暫くして、はて、と思い返す。そういえば、先日、メイサは悠のコスプレが見たい、と言っていなかったか。そんな悠の思考を遮るように、杏哉の言葉が降りかかってくる。この執事服について、深く触れないでいてくれるのは有り難いが。
「で、なんでお前がここにいるんだ? というか、光姫様が稽古場にも部屋にもいらっしゃらないんだ。お前、光姫様の居場所、知ってる?」
「…知らない。じゃあさ、杏哉。これからダイニングルームに行ってみない? もしかしたらそこにいるかもよ。」
「そうだな。行ってみるか。」
悠の提案に、杏哉は二つ返事で首肯した。自分を含めたこの屋敷の学生陣は、皆時間を持て余し、人寂しくなると、だいたいダイニングルームに集まる。暫くすると、誰かしらがやって来ることも多いからだ。
そうして、杏哉と悠はダイニングルームへ続く、長い廊下を二人並んで歩き出した。
「そういや、今日は大晦日だな。紅白歌合戦とか、この屋敷の人は見るのかな。俺は毎年、年越しそば食べながら家族で観るのが恒例行事だったんだけど。」
悠とは、もはや沈黙が居心地悪くなるような間柄ではないが、杏哉は静寂を埋めるため、何気なくそう切り出した。それに近頃、彼らと話をする回数が減っていたように思えるのだ。しかしそれらは全て、杏哉の気のせいの可能性もあるのだが。
すると、何故か悠は少し肩を震わせ、慌てたようにこくりと頷いた。
「あ、うん。そうだね。大晦日だ。…紅白かぁ…。僕は九時くらいまで観て寝てたな…。遅くまで起きてる習慣はなくて。ほら、僕の弟、まだ小さいからさ、一緒に寝てやらないといけないんだ。」
「へぇ。偉いなぁ、お前。俺の妹と弟は、俺とあんま歳変わらねぇし、寝かしつけなんてしたことないや。弟は可愛いけど、妹は最近反抗的だし。ま、もちろん二人とも好きだけどな。あ、じゃあ今夜はさ、俺の部屋で一緒に紅白見ようぜ。」
「おぉ、いいね! すっごく楽しそう。そういえば、確かに杏哉の部屋、テレビあったよね。あれ、どこから持ってきたの?」
悠は以前に杏哉の部屋を訪れた時のことを思い出しながら、そう尋ねる。
「ああ。家から持ち出したやつが。小さいけどな。いちいちダイニングルームに行かないとテレビ見れねぇの、面倒じゃんか。」
瞠目し口をあんぐりと開けた悠を見て、杏哉はそんなに驚かれる内容か、と逆に驚く。
「で、どうする? 今夜、俺の部屋来る?」
杏哉が逸れた会話を軌道修正し、再び、動揺して恥ずかしかったのか、耳を赤く染めた悠にそう尋ねた。すると、悠の瞳がどんどん細まり、口角が上がって、途端にやがて破顔した。
「うん、行く。もちろんっ。何それ、絶対楽しいじゃん。」
「よっしゃ、今夜が楽しみだ。せっかくならお菓子とか持っていこうぜ。ま、光姫様もメイサもダイニングルームで観るってんなら、二人と一緒に観るがな。」
「じゃあ、どうせなら二人も杏哉の部屋に呼んだら?」
軽口を叩くようなノリで口から飛び出した、悠のその提案に、杏哉は思わずその場に硬直し、片手で口元を覆った。
「えっ…僕、なんか変なこと言った…?」
杏哉を、石のように固めた、その原因を作り出した張本人が、おろおろと杏哉に歩み寄る。
「お前…何言ってるか分かってないのか…。いいか、俺らは男だ。そして光姫様やメイサは女だ。男と女が夜に同じ部屋で寝るなんて…。」
杏哉がボソボソと呟くように、顔を夕焼け色に染め上げた理由を告げると、悠は途端に顔を茹蛸のように真っ赤にさせた。
「そ、そんなこと…お、起こるはずないよ。しかも、四人で寝るわけじゃん。単純に、お泊まり気分で寝るだけさ…。」
「お前、顔隠しながら、そんなことよく言えるな…。まぁ、お熱いお前らはどうぞ好きにやってもらってもかまわないけどよ。」
杏哉の衝撃的な台詞に、悠は隠していた手をどけ、真っ赤に染まった顔をあらわにしながら杏哉に向かって躍起になって言い返した。
「そっ、そんなことするわけないだろ‼︎ 僕は責任が取れるようになるまで、彼女に手を出すなんてこと誓ってしないからなっ…! というか忘れてないか、僕はお前より三つも下なんだぞ。杏哉の倫理的価値観で僕のことを考えてもらったら困る。」
杏哉が本気でそう言っているとは、無論悠も思っていないが、戯言にしてもあの言葉は酷い。杏哉は時々、不意を突いてかなりの下ネタを振りかけてくるから困ったものだ。まぁ今回の場合、悠がこの下ネタの原因を作り出したから、悠の責任でもあるが…。
「そんなガチにならなくてもいいだろ。冗談だよ。というか、本当に四人で集まる気か? まぁ、俺は自分のこと理性的だって思ってるし、光姫様の同意なしに手を出すなんてこと、神にかけてしないから、そこは問題ないが…。」
「自分だけ正当化するな。さっきの言葉はなんだったんだよ。というか僕もそんなことしない。」
いつもの穏やかな口調に戻らないまま、悠は少し余裕を持って言い返す。
「いや、お前ら付き合いたての熱々カップルだから。もしかすると過ちを犯すかも…。」
「誰が犯すか、バカ。」
悠が珍しく暴言を吐くと、杏哉はくくく、と笑った。
「じゃあさ、光姫様とメイサに聞いて、オッケーもらったらみんなで集まろう。」
「そうだな。」
数歩歩いて、不意に杏哉は悠に顔を向け、
「そういやお前、そんな乱暴な言葉遣いできるんだな。お前の事、ちょっと見直したかも。」
「それどういう意味。」
「男味を感じたってこと。」
杏哉が素直に答えた途端、悠の大きな瞳がギラっと鋭利に輝いた気がして、杏哉は慌てて駆け足で悠から距離をとった。言うまでも無く、もはや何度目かわからないが、婉曲的に普段が女子のようだと揶揄われ、悠は杏哉を追い回すこととなる。
そうこうしているうちに、気がつけば杏哉と悠はダイニングルームにたどり着いていた。そして、杏哉は強烈な違和感を覚える。ダイニングルームの扉と床の隙間から、一才の明かりも見えないのだ。
「なぁ悠…おかしくないか。この時間ならばダイニングルームには数人か使用人がいるはずだろう。なのに、今日は明かりが点っていないとか…。光姫様もいらっしゃらないし、何かあったんだろうか…。」
杏哉は、通常とは異なる屋敷の人や様子に、胸中がざわついた。同時に、最近の親友らの自分に対する振る舞いも、どこか違和感を覚えていたことを思い返す。もしかすると、何か関係があるのだろうか。自分だけが知らない状況下で、何かが起ころうとしている。認めたくないが、それは事実なのかもしれない。
杏哉は意を決し、隣に並ぶ悠に声をかけようと横を向いた途端、視界が暗闇に包まれ、何者かに背中を押された。そしてほんの数秒後、視界に光が戻り、その眩さに目が眩みながらも、うっすらと瞳を開けていく。