8悠とメイサと杏哉
翌日。現在時刻十六時十分、水氣悠は制定のリュックを背負い、中学・高校の交流を許された、こじんまりとした中庭に足を踏み入れた。特に何もない普通教室サイズの小さな空間で、中庭の周りには木が植えられ、大きな石で囲まれている。ここで人の姿はあまり見かけたことがない。存在自体は存じていたが、悠も訪れたのは初めてだ。
(…あれ?)
その時、悠はある違和感を覚えた。中庭の端に、教室で使われている椅子と机が並べられていた。何らかの理由で一時的に外に出しているのだろうか。普段はないはず。不思議に思いながらも、悠は机の元へ駆け寄り、机のフックにリュックを引っ掛けて椅子に腰掛けた。そして、悠はリュックから筆記用具、数学の問題集、ノートを取り出す。理由はどうであれ、置かれているものは利用してもいいだろう。悠は一人でうんうん、と頷いて問題集を開いた。悠は出された課題はその日に終わらせる主義で、今もどうせ待つのなら、今日出された課題を終わらせようと考えた。
そう、悠は昨日、光姫の高級車の中で彼女らと約束したのだ。どうにも、彼女らは毎日放課後、この中庭に集まっているらしく、悠もその会にお呼ばれしたのだ。人けの少なさを理由に、この何もない空間を利用しているらしく、能力者関連の話であろうと想定できる。同年代の能力者とそういった話ができるのは、悠にとってもプラスなことだろう。
約束の時間まではあと二十分ある。終礼が早く終わったため、特にすることもない悠は、早めにここへやってきたのだった。
悠は問題集を解き始め、一度も止まることなく手をすらすらと動かし、数式を書いていく。今の悠には問題集の問題番号、そして数字の羅列しか見えていない。その他の景色は真っ白。この課題を、能力者の先輩三人がやってくるまでに終わらせる。それしか頭になかった。時間の経過も彼を取り巻く空間も、集中した悠には一切の干渉を与えない。集中すると、悠は自分だけの世界に閉じこもることができる。
言い換えると、集中した悠は自分で自分の世界を破る――つまり目的を達成しない限り、外の世界には戻れない。もしくは――。
その時、数字の羅列しか見えていなかった視界に、何やら肌色のものが映り込んで――。
「う、うわぁっ⁉︎」
悠は思わず飛び上がり、椅子を後ろにひっくり返してしまった。
「だ、だだ大丈夫⁉︎ ごめんなさい、悠‼︎」
「…め、メイサ先輩…?」
悠がぶつけた頭をさすりながら体を持ち上げると、そこに立っていたのは、同じく中学の、しかし自分とは違う制服を身に纏った、中学二年生の能力者の先輩、月輪メイサだった。
「さ、さっき何したんですか…?」
一瞬の出来事だったので、悠の記憶は曖昧だった。肌色のものが瞳に映ったことしか――。
「え? 顔覗き込んだだけ。」
「は⁉︎ えっ?」
悠は思わず手で顔を覆ってその場に座り込んでしまった。女子に顔を覗かれるなんてこと、小学校以来――果たして、小学校低学年でもあったろうか。
「なんでそんな顔赤くなってるのよ? 自分の顔に自信ないの? よく言うわよ、あんた相当可愛いのよ。女子であるアタシが、それも一軍女子がジェラシー感じるくらいには。」
悠はうんともすんとも言っていないのに、メイサは相変わらず一人で勝手に話を進める。突っ込んだところで彼女を説得できないことはわかりきっていたので、悠は口をつぐんだまま彼女を軽く睨む。強引な人は苦手だ。
そして、男に〝可愛い〟は誉め言葉ではない。それをメイサも光姫もわかっていないのか。いやそれ以前に、眼前のメイサは、女子が男子の顔を覗き込むことに対して、何も思わないのか。
(いや…もしかして、僕が女子みたいな顔してるのが原因…?)
悠が本気で自分の顔をどうにかしようか、例えばマスクなどで半分を隠そうか、など考えていると、
「というか、悠。なんでさっき、ずっと無視してたの?」
「え、無視…ですか? 何のことです?」
メイサは眉を曇らせ、不機嫌そうに悠にそう問うた。だが、悠は本当に心当たりがなく、彼女に問い返す。すると、メイサは溢れんばかりに目を大きく見開き、
「え…う、うそ。じゃあ悠、さっき勉強してた時、マジでアタシに気付いてなかったの?」
「勉強してた時?」
と、メイサはまたもや意味のわからないことを言い出す。悠も先ほどの彼女のように眉を顰め、先ほどと同じように問い返した。
「いやいや。なんで悠が被害者みたいな顔するの。どう考えてもさっきのは悠が悪かったから。…はぁ〜、あのねぇ…。本当に自覚ないなら教えてあげるわ。悠、さっきその机で勉強してたでしょ。で、アタシはあんたが勉強してる間にここにやってきたわけ。それで、来たこと知らせようと思って、悠に声かけたらガン無視されたの。何度も声かけたのに、何も言わないんだもの。そりゃ、こっちだって怒るし、顔も覗き込むわよ。」
「えっ…。」
メイサに彼女が不機嫌な理由、そして先ほど悠の顔を覗き込んだ理由を説明され、悠は絶句した。自分のあまりの酷さに対して。
「それは…なんというか……ほ、本当に申し訳なかったです…。」
メイサのことだから、謝るだけでは許してもらえないだろうな、と思い恐る恐る呟くように謝罪の言葉を発すると、
「そう、分かったならいいわ。これからは気をつけるのよ。それ、絶対にアタシ以外にもやってるからね。」
と、メイサは先ほどの渋面が嘘のように、人の良さそうな笑顔を浮かべ、にっこりと微笑んだ。その代わりざまに、悠は思わず口をあんぐりと開けてメイサを見つめてしまう。
――いや、〝見つめて〟いたのではない。頬を紅潮させ、悠が〝見惚れて〟いたのは、彼女の普段の言動からは考えにくい、柔和な笑顔の所為かもしれない。
「ていうか、その話ほんと? 悠ってすごいのね! 集中してたら周りの音が聞こえなくなるの?」
「えっ…まぁ、自分では無自覚ですけど、そういうことになりますね…多分…。」
「へ〜! すごいわね!」
メイサは大きく目を見開き、真に悠の集中力に感心していた。その後も、何度もすごい、すごい、と繰り返し、悠はもうそれくらいでやめてほしい、と照れてしまった程だった。
彼女と昨日初めて出会い、一日で出来上がった悠の勝手なメイサのイメージ像では、彼女は人を褒めることも感心することもなく、人を揶揄ったり馬鹿にしたりする毒舌な人だと思っていた。悠は彼女のことを悪く評価しすぎていたようだった。
再び、悠の脳裏に、先ほどのあたたかく優しいメイサの笑顔が浮かぶ。
メイサは悠を女子みたい、可愛い、と揶揄ったり、時によって強引だったりするが、それ以上に、オーバーなほどに人のことを褒めることのできるすごい人だ。
彼女のことをもっと知りたい、そう思った。
その時、
「メイサさんに悠さんっ。申し訳ありません。終礼が長引いてしまい、遅れました。」
「俺も同様に。すまん。」
ほぼ同時に、中庭に光姫と杏哉が駆け込んできた。そして、メイサはすぐさま、姉と慕う光姫に駆け寄ったため、メイサと話し続けることはできなかった。
その後、光姫たちから、彼らの出会いの経緯を教えてもらったり、昨日よりも詳しい自己紹介などをしていると、あっという間に時が過ぎ、下校時刻となった。彼らによると、これまでも今日と同様に、特にこれといった内容はなく、世間話をしていたようだった。だが、それらは能力者である故にクラスメートとは話せない会話がほとんどだった。帰り際、光姫は天使のような微笑みで悠にかく言った。
「私たちはこれからもずっと放課後はこの中庭で集まるので、悠さんもよければお越しください。」
「はっ、はい…! 喜んで!」
それはむしろこっちからお願いしたいほどの喜ばしいことだった。悠はぱあっと花が咲いたように微笑んだ。
光姫は車で送り迎えしてもらっているので校門前で別れたが、悠も含め、メイサも杏哉も電車帰りなので、とりあえず駅まで三人で帰ることになった。昨日はイレギュラーだったが、一昨日まではメイサと杏哉二人で下校していたらしい。その中に、今日は悠も入れてもらっている。が、昨日知り合ったばかりなので、馴染みいい人たちだとはいえ、居心地が悪く、悠はメイサと杏哉二人の後ろからついて行くことにした。
(それに…メイサ先輩とは割と話せるようになったとはいえ、杏哉先輩は…なんかなぁ…。僕のこと、あんまりよく思ってなさそうな気が…。いやまぁ…仕方ないよな……だって昨日、僕は女子更衣室に………。)
思い出しただけで顔が熱くなる。あの時はどうかしてた。いくら非常事態だからといって、あの教室に留まる必要はなかった。確かに、自分の見た目ならば、もし女子が来てもやり過ごせるかな、とは考えた。いや、そんなことを考えること自体がおかしいのかもしれない。――まぁ、実際は一人も来なかったが。
何にせよ、もう過ぎ去ったことだ。過去はやり直せない。杏哉とも、少しずつ親睦を深めていけば良い。
悠はそのように考え、再び前を向く。背の差が凄まじい、メイサと杏哉の後ろ姿が見える。
「どうしたの、悠?」
少々疎外感を覚えて俯きながら歩を進めていると、ついさっきまで前列で歩いていたはずのメイサが、いつの間にか悠の隣に並んでおり、悠にそう声をかけた。もしかして、悠が仲間はずれになっていると思い、心配してくれたのだろうか。やはり、メイサは親切で、良い人だ。そう、悠が感心していると、
「仲間はずれは寂しいわよね。ふふ、悠ってほんと女子みたいね、性格までもが。」
と、思いっ切り期待を裏切られた。悠は呆れの意も含め、懲りないメイサを鋭く睨んだ。
「それ、絶対に性別関係ないですからね?」
悠は念の為同性の杏哉に同意を求めると、今の会話のどこが面白かったのか不明だが、杏哉は盛大に吹き出した。つられるように、もしくは堪えていたのか、メイサも続けて笑い出す。だが、悠の頬は緩み、不思議と悪い気はしなかった。いや、それは違う。悪い気どころか、メイサは笑いに包まれることを見越していたのではないか。そう、メイサはわざと悠の怒りを買うように揶揄ったわけではなく、二人の輪の中に入れてくれようとしたのだと。悠は屈託なく笑うメイサの横顔を眺め、笑いがおさまった後、自然と口元が緩んだ。
やはり、メイサはとても親切な良い人だ。
それを実感すると同時に、悠の胸の奥で何かが灯ったような気がした。