呪いの向かった先
三度の満月。三度の新月。
『この身が自由を取り戻すまで』
あとしばらくの隷属だ。あとしばらくの辛抱だ。
憎きダーリア。憎き魔術師。憎き人間どもよ。
自由になったなら、目にもの見せてくれようぞ――。
◇ ◇ ◇
北西には不毛の沙漠が広がっているというのに、季節風の吹く都には、この時期にはまとまった雨も降る。雨上がりには、緑の絨毯を広げたようになる景色は一見の価値があった。
もっとも、今日はその可能性は薄そうだ。頭上には、澄み切った青空が広がっていて、小鳥のさえずりも遠くに聞こえる。
そんな爽やかな空気の中で、ミアは瞬きを繰り返し、アイフェとライルを交互に見やっていた。
「アイフェ様。あの、あの男が、本当に」
「本当に呼んだのよ。ちゃんと来てくれてよかったわ」
居室に招き入れられたライルは、アイフェが何か言う前に、口を開いた。
「ひとつ聞き忘れたんですけど」
「何?」
「もし呪いを解くことに失敗した場合、写本のほうはどうなるんでしょう?」
アイフェはほんの一瞬考えたものの、ぼそりと応じた。
「中止」
ライルが軽く目を伏せる。
「ぼくにとって、損ばっかりって感じがしてきました」
「成功する方向で頑張ってちょうだい」
軽口に聞こえるかもしれないが、アイフェは必死で真剣だったのだ。
そうして、アイフェは王妃の宮殿にライルを連れていったのだ、が。
「……そういえば、王女様。あなた、楽しんでるわけではないですよね?」
げっそりとした様子で、ライルがアイフェに声をかける。
「弟が呪われてるのよ? 真面目にやってるわよ、失礼ね」
しかしその声には隠しきれない笑いが滲んでいた。
王妃の宮殿は、基本的には男子禁制である。出入りが常に自由なのは、息子と、夫である国王だけだ。王妃自身の身内であろうと、それ以外の男性であろうと、王妃の宮殿に入りたいのであれば、数日前には申請し、国王の許可を待たねばならない。
ライルが入るには許可がもちろん必要なのだが、アイフェはその手間と時間を惜しんだ。
アイフェは、基本的には常に侍女であるミアとともにいる。ミアであれば、アイフェのそばにいてもなんの不思議もないのだ。そして、王妃の宮殿に入るのにも、問題はない。
「ミアがちょっと急に育っただけよ」
「無理があります」
「大丈夫よ」
ライルは深々とため息をついた。
いま、ライルはミアに変装していた。
変装と言っても、頭からミアに借りた薄衣を被り、全身をすっぽり長衣で覆っているだけだ。見えるのは手だけで、それも布の中にいれておけばわからない。
しかしいくらミアが女性としては長身だとはいえ、男性の中にあってもライルは決して背が低いほうではない。
「まぁ、ミアはめったにそんな格好しないけど、堂々と歩いていれば誰も何も言わないわ」
確かに、王女が連れている侍女がどれほど不審に見えても、面と向かってそれを告げるものはいないだろう。
「ばれたら、打ち首確実な気がします」
「ばれない」
「希望と願望っていうんですよ、それ」
「自信よ」
「根拠のない自信ほど怖いものはないって、いま実感してます」
そんなライルの不安をよそに、強気で歩くアイフェにみな気圧されたのか、目的地に到着するまで、数人の侍女や女中たちとすれ違ったものの、口に出しては誰も何も言いはしなかった。
しかし。
「バーティン。こんにちは」
「姉上、いらっしゃ――。……誰? ミアじゃないね?」
剣の素振りをしていたバーティンは、姉を見て声を弾ませたが、その横に控える怪しい人物に、当然のことながらたちまち警戒心をあらわにする。
「まさか、男のひと? 姉上、いったい何を――」
アイフェはバーティンの口元に指を立てた。
「このひとはライルといって、ケイヴィラ叔母様のところに居候して」
「下宿です」
「ああ、もうなんでもいいわ。とにかく、魔術師なの」
おおざっぱな紹介に、ライルは薄衣を持ち上げて、バーティンと視線を合わせた。
「はじめまして、殿下」
「ま、魔術師……!?」
「殿下は、呪いを受けられたとか?」
「あ、姉上?」
バーティンが青ざめて、アイフェを見やる。
公にしていいものではないと、バーティンでさえわかっているのだ。
「ケイヴィラ叔母様が保証してくれてるわ。ファラーシャ様ともお話がしたいのよ」
そうして人払いをしてもらい、奥の部屋でくつろいでいたファラーシャと対面したのだが、母親は息子と同じような調子で繰り返した。
「魔術師……?」
「はい。こちらのアイフェ様から、バーティン様が呪われているとうかがいました」
今日も薄絹を被っているため細かな表情はよくわからないものの、ファラーシャはアイフェとライルを見やって困惑している。
「でも、魔神が夜中に少し騒ぐだけで、それほどの害はありませんから……」
「少し騒ぐとは、どのように?」
「バーティンを廃せ。さもなくばその命、時を駆けるものと知れ。そう言うのよ」
アイフェの言葉に、ファラーシャはかすかに笑ったようだった。なんでもないことを大袈裟にして、とでも言いたげに。
「ええ。ですが、それだけのことですもの」
「他にはないんですか? そう言うだけ?」
「それだけですわ。現れては、そう言って、消えるだけです」
「どんな魔神です? 姿は? 声は? 何か特徴は?」
「それは――」
口を挟みかけたアイフェだったが、ライルに視線を向けられて黙り込む。
諦めたように、ファラーシャはゆるゆると話し出す。
「……大きな、影のような姿でした。顔立ちなどもわからず、ゆらゆらと定まらない輪郭で……。声も、掠れていて、聞き取りにくいのですけど、なぜか言葉ははっきりとわかるのです」
「そうですか。では、バーティン様? その後、どこかに変化は?」
「わたしは、何もないよ」
「ファラーシャ様は?」
「いいえ、特に……」
ライルはおもむろに動いた。
「失礼します」
そうして手を伸ばし、ファラーシャの顔を覆っている薄絹を持ちあげた。
「ライル! あなた本当に失礼よ、ちょっと――え、ファラーシャ様!?」
「は、母上!?」
ライルを咎めていた二人は、あらわになったファラーシャの顔に息を飲む。
そこにいたのは、五十歳を過ぎているであろう女性だった。
ファラーシャは手で顔を覆うようにして背を向ける。その手さえ、あり得ない皺が刻まれている。
「年齢をお聞きしても?」
あまりのことに動揺しつつ、アイフェが喘ぐように応じた。
「二十九歳よ。時を駆けるって、こういうこと――。どうしてファラーシャ様なの? 呪われているのは、バーティンじゃなかったの――」
「わたくしは、わたくしでよかったと思っております。バーティンではなく」
「や、いやだよ、母上! こんな」
すがりつくバーティンの頭を撫でつつ、ファラーシャの瞳にあるのは息子への愛情だ。
ライルは考えるように顎に手を添えた。
「魔神の声を聞くたびに、もしかして年を取っていく?」
ファラーシャは小さく頷く。
「随分、えげつない呪いですね。それでは、魔神が最初に来たのはいつです?」
「わたくしのことはお気になさらず、放っておいてくださいませ。わたくしはバーティンさえ無事であれば……」
そんな戯言は聞き流し、ライルは再度聞いた。
「いつです?」
「……二ヶ月と、少し前に」
アイフェが、ライルの横で頷いた。
「あたしも一緒にいたわ。あの晩は月がなくて、星がとても綺麗だったの」
ファラーシャは、ゆっくりと話し出す。
「バーティンとアイフェ様と、夕食後に本を読んでいたのです。そのときが最初でした」
「次は?」
「その十五日後に」
「な? どうしてすぐ、あたしに――」
ライルに睨まれて、アイフェが渋々と口を閉じる。ここはライルが情報を集めなければいけない場なのだ。
「その次は?」
「十五日後です」
「次も?」
ファラーシャがこくりと頷く。
「つまり、半月毎に呪いがかかるということですね。それが積もり積もって、この状況ですか」
「ええ。魔神がやってきた翌日、目が覚めると、おかしいと思うようになりました。肌などが違うと侍女にも言われて。鏡を見て、皺が増えたと思いました。髪にも白髪が――」
とうとうアイフェは黙っていられなくなった。
「ファラーシャ様。それは、父様には――」
「言えませんわ。これは決して口外しないようにと、侍女たちにも言い聞かせてあります。どこからか漏れたら、わたくしは犯人を突き止め許さないと」
「でも、放っておいたら」
ファラーシャはどんどん年を取り、しまいには死んでしまうではないか。
声にして続けることができないアイフェに、ファラーシャが静かに言った。
「では、バーティンを廃せとおっしゃるのですか?」
「……ファラーシャ様」
「わたくしの身より、バーティンの身のほうが大切です。陛下にとっても同じことでしょう。ですから、これは」
放っておいて欲しいと願うファラーシャに、ライルが吐き捨てた。
「馬鹿馬鹿しい。このままあなたが呪われて死ねば、バーティン様は無事にすむという保証はないでしょう? 今回乗り切ったとしても、同じ相手がまた呪ってこないとは言い切れません」
「それは、ですが」
ライルが口にした言葉に、困惑し震えるファラーシャの肩を、アイフェが力づけるように抱く。
「大丈夫よ、ファラーシャ様。あたしが、絶対に呪いを解いてみせるから!」
そんなアイフェに、ファラーシャはすがるように懇願した。
「いいえ、いけません、アイフェ様。アイフェ様にもしものことがあったら、わたくしはイシュヴァ様に会わせる顔がございません。ただでさえ、わたくしはあの方にひどい仕打ちを――」
「それは、あなたにはどうしようもできなかったことよ」
二人の会話の意味が飲み込めないながらも、盛り上がっているところに水を差すようにライルが訂正する。
「ファラーシャ様。呪いを解くのはぼくです。彼女は何もしませんから、ご心配なく」
ファラーシャは涙に濡れた目をライルに向けた。
ライルは自分の腕にあった、水晶の粒を繋げてある腕輪に口付けて、それをファラーシャに渡す。
「もし魔神が出たら、投げつけてください。封印できるかどうかはわかりませんが、お守り代わりに」
「……ありがとう」
「魔術師。これで魔神を追い払えるの?」
「いいえ、殿下。残念ながら、ないよりはまし程度でしょう」
ライルの答えに、それまで賢明にも場を見守っていたバーティンは、あからさまに肩を落とす。
「大丈夫よ、バーティン! 魔神を退治する方法をきっと見つけるから。あなたにかかった呪いは、きっと解いてみせるから。それまであなたは、母上様をちゃんと守るのよ?」
「――うん」
バーティンは力強く頷いた。