アイフェの事情
ケイヴィラの邸をあとにして――女性二人だけでは危険だと、ケイヴィラは無理矢理護衛を二人つけたが、無言のまま数歩あとを付いてくるだけだ。なのでアイフェとミアは、結局二人だけの会話をすることになる。
しばらく歩いてから、ミアがその身を抱くようにして、背後の護衛の耳を気にしつつ、アイフェに小声で囁いた。
「物騒なお邸ですよ、アイフェ様」
「ああ。そういえば、ミアはいつもあんまり奥の部屋まで行かないわよね。そんなに怖いかしら」
「え、ええ、だって、アイフェ様。ケイヴィラ様はお優しい方でしょうけど、あの邸にあまり出入りするのはちょっと……」
言葉を濁すミアに、言いたいことを察したアイフェは、呆れたように息をつく。
「あそこに来るのは危なくない魔神だけよ」
「そ、そんなのわからないじゃないですか」
涙声になっているミアに、アイフェは根気よく言い聞かせた。
「避難所だって言ってたもの。封印されちゃうってわかってて、わざわざ魔神は来ないわよ。それに封印されに来る魔神が暴れたり悪さをしたりするわけないもの。あの邸に来る魔神は、危なくないの。よって、あの邸は別に物騒ではないのよ。わかった?」
「封印されに来たように見せかけて、実は反対にケイヴィラ様をこ、こ、殺してしまおうって、思っている魔神も来るかもしれないじゃないですか……!」
「叔母様は強い魔神が守ってるって、前に聞いたことあるわよ。大丈夫よ」
「で、でも、そうかもしれませんけど……」
それでもぶつぶつと呟いているミアを余所に、アイフェはどうやったらライルを説得できるかを考えていた。
呪文を唱えるでもなく――魔神の名前は必要なようだが、道具を使うわけでもなく――封印するために器はいるとしても、あんなにあっさりと魔神が封じられるとは思っていなかった。
実は、魔神が封じられるところを見たのは、はじめてだったのだ。
もちろん、書で読んだことはあるし、話に聞いたこともある。そのどちらも、もっと派手な様子だった。仰々しい呪文を唱え、護符や魔法円といった小道具をそろえて、臨むものだ。
あれほどの魔術師なら、きっと役に立ってくれるに違いない。
どうすれば、あの魔術師を雇えるだろう。
「アイフェ様? 行き過ぎですよ」
ミアに声をかけられて、はっと立ち止まる。
王宮の正面門から入るわけにはいかない。出るのも裏口からこっそり出たのだし、帰りはその逆順で戻る必要がある。
「あなたたちはもう結構です。ありがとうございましたと、ケイヴィラ様にお伝えください」
王宮の長い塀に差しかかったところで、ミアはそう護衛を送り返した。
そうして、使用人たちが使う裏口に着く。
「こんばんは、バドリさん」
「やあ、こんばんは、ミア。日没後にお帰りとは、アイフェ様に叱られやしないかね?」
長年門番を務めているバドリは、髪も髭も真っ白になっていた。もう孫がいる年なのだが、この仕事が好きで辞める気はないらしい。
「そのアイフェ様のお使いなのよ」
そんなミアとの話の途中で、バドリは長い瞬きをする。そのあいだに、アイフェは門を通りすぎるのだ。そうすれば、バドリの怠慢にはならないだろうとは、アイフェの浅い考えだった。
今日もそうして無事に自室に戻ったのだが、緊張から解放された安堵からか、ミアが再び文句を言いはじめた。
「アイフェ様。やっぱりあまり出歩かれるのはよくありませんよ。せめて護衛なりと」
「平気よ、あたしを襲ったっていいことなんかないんだから」
「ですけど」
しかしそこでミアの言葉が止まる。そして、しゃちこばったような状態で動きまでも止まった。
怪訝に思ったアイフェは、ミアの視線をたどり、同じような状態に陥るはめになった。
「お帰りなさいませ、アイフェ様」
そこにいたのは、小柄な女性だ。黒髪より白髪のほうが多くなった髪を団子状にまとめている。年齢は六十過ぎで、ほんの少しだけ腰が曲がっているものの、髪にも服装にも隙がない。
「ク、クイサ。ただいま。来てたの? き、今日は、来ない日よね!? あ、いえ、別にいつ来てくれても構わないけど、ちょっとびっくりして!」
ひきつった笑顔で応じるアイフェに、クイサは渋い顔をする。
「胸騒ぎがしましたので……。ミアも一緒に、どちらまでおいでに?」
「あ、あああの、さ、散歩してて、ちょっと遠くまで行きすぎて、こんな時間になったというか」
そんなアイフェに何を思っているのか、クイサは絞り出すように告げた。
「ご無事で、ようございました。アイフェ様にもしものことがあったら、わたしはイシュヴァ様になんとお詫びしてよいか……」
目元を拭うクイサに、アイフェは軽く唇を噛む。
「……詫びなくったっていいわよ。母様はあたしのことなんてどうでもよかったんだから」
「アイフェ様、そのようにおっしゃるものではありません!」
「でもあなたに心配かけたのは悪かったわ。ごめんなさい」
そうしてクイサの注意がアイフェに向いている隙に、さっさと逃げ出していたミアが淹れてきた珈琲を飲みながらひと息つくと、待ってましたとばかりにクイサの追及がはじまる。
「で、どちらに?」
クイサは母の乳母であるが、アイフェの乳母でもあった。クイサに、嘘はつけない。
「……ケイヴィラ叔母様のところに」
「ケイヴィラ様のところでしたら、このような時間にお出かけにならずともようございましょう」
「本当に、叔母様のところに行っていたのよ。まぁ、その前は、その、魔術師を探していたんだけど」
開き直ったアイフェの告白に、クイサの表情が険しくなる。
「魔術師を探していた? いったいどうやってお探しになっていたんですか。まさか危ないような場所に出入りしたわけでは」
「辻よ! 夕方頃に辻にいただけ!」
どこかの道だとわかって安心したものの、クイサは困ったものだというふうに首を振った。
「それはもしや、バーティン様の件で?」
アイフェはため息をついた。
「そうよ。だって、あんなふうに言われたら、バーティンがおかしくなっちゃうわ」
「ですけど、実害はありませんし」
「あるわよ。バーティンに悪い噂が立ったらどうするのよ。それを鵜呑みにして父様がバーティンを廃しちゃったらどうするの。呪われてるなら、解かなくちゃいけないわ」
訴えるアイフェに、クイサはぴしりと言い切る。
「でも、アイフェ様に魔力はございません」
「……わかってるわよ」
何度も言われなくても、自分が一番よくわかっている。
「だから魔術師を探してたんじゃないの。ケイヴィラ叔母様のところで見つけたから、明日また行くわ」
クイサはしばし黙り込み、ぼそりと零した。
「バーティン様の件は、本当に呪いなのかどうか……」
それをアイフェが聞き咎めた。
「どういう意味?」
「ファラーシャ様とバーティン様の自作自演ということもありえます」
クイサの発言に、アイフェの眉間に皺が寄る。
「なんのために」
「陛下の気を引くためでございます。過去にはそういうこともあったそうです。妃が寵愛を得るために卑劣な手段を使うと」
「あ! あたしそれ知ってます。でも、それって、お妃様は結局放り出されたって聞きましたけど」
割り込んできたミアを、クイサは冷ややかに一瞥して黙らせる。
アイフェはあり得ないと首を振った。
「父様はあの二人を大事にしてるもの。そんな計画必要ないわ。それに、魔物が出たのは本当よ。バーティンを指さして、『バーティンを廃せ』って言ったんだもの」
◇ ◇ ◇
最初のそれは二ヶ月と少し前になる。
八歳の誕生日に合わせて、バーティンは王太子になった。
その立太子の儀の、三日後のことだ。
アイフェは、バーティンの母であり第二王妃でもあるファラーシャの宮殿で夕食をともにしたあと、ファラーシャに異国の旅行記を朗読してもらっているところだった。
何の前触れもなく、視界の隅に煙が見えた。そう思う間もなく、煙が形を成し、中庭に続く階段に影が落ちたのだ。
侍女たちは声もなく硬直し、それはアイフェもファラーシャも同様だった。
バーティンは真っ直ぐに影を見ていた。自分を指さすその影を。
『バーティンを廃せ。さもなくばその命、時を駆けるものと知れ』
それだけ言って、影は揺らめき消えた。
◇ ◇ ◇
クイサは大きく頷いた。
「ええ、ええ。あの日はわたしも王宮に参上しておりましたし、そのお話は何度もうかがいました。でもアイフェ様はそれ以来、魔神を見ていらっしゃらないのでしょう?」
「まあ、そうだけど……」
「バーティン様は王太子のままですけど、お変わりありません」
「そうね」
「アイフェ様がお持ちの護符をすべてファラーシャ様にお渡しになりました。わたしが、あちらの宮殿に出入りしている使用人から聞いた話ですと、そのお陰かどうか、何も起こっていないとか」
そんなクイサを継いだのはミアだった。
「ところが、起こってるらしいんですよ、クイサさん」
「ミア? 何が起こっていると言うのです?」
またしても割り込んできたミアに、クイサは苛立ちつつも聞き返す。
「わたしの聞いた話だと、最初の日から十日以上経って、来たんですって。それからも何度か」
得々と語るミアを、クイサは苦虫を噛み潰したような表情で睨めつけていた。
「おまえは、それを、アイフェ様にお伝えしたのですね?」
「え、ええ、と、ええと」
クイサの怒りにようやく気づいたミアの目が泳ぐが、ときすでに遅い。
「この馬鹿娘!」
「ごめんなさいぃ!」
ミアが首をすくめるのを、アイフェが庇う。
「あたしは教えてもらってよかったと思ってるわよ。だってバーティンったら、あたしに何も言わないんだもの」
「陛下に申し上げればよいのですよ」
「ファラーシャ様が必要ないって言うものを、あたしが勝手には言えないわ」
「でしたら放っておけばいいのです」
冷たい言い分に、アイフェは声を荒げた。
「クイサ! そんなこと言わないで。バーティンは腹違いでも、あたしの弟なのよ。父様に言わないんじゃ、あたしが魔術師を見つけて」
「その辺りにいるような魔術師が役に立つとは思いません。気休めの護符を売るくらいでしょう」
クイサはそう一蹴する。
「その辺りの魔術師じゃだめだってことくらい、あたしにもわかってるわ」
占いが得意だという魔術師、呪いが得意だという魔術師、市場で話題になる魔術師、侍女お勧めの魔術師、一応出かけてすべて会ってはみたのだ。
「誰も、魔物を捕まえる方法とか、知らないのよ。知ってても、すぐには無理だとか準備がどうとか、しまいには魔神が封印されてる小瓶を金貨百枚で売るって言うんだもの」
「お買いになったんですか」
顔をしかめるクイサに、まさか、とアイフェはひらひらと手を振った。
「買わないわよ。だって封印を解いたら、中の魔神が何をしても責任持てない、っていうの。しかもよ? この国の初代王が封印した魔神だ、って。馬鹿馬鹿しい。そんなの全部、魔神の国へ渡ったか、王宮にあるのに」
「そうですとも。アイフェ様に向かってよくもまぁ。その魔術師は取り締まったほうがようございますね。王家の信用問題になります」
「魔術師って名乗るひとは結構いるわ。王都はとくに規制が緩いって。でも今日ようやく役に立ちそうな魔術師を見つけたのよ」
ね、とミアに同意を求める。ミアもこくこくと頷いた。
「そうですね。あのひとは本物っぽかったですよね」
しかしクイサの表情は緩まない。
「魔術師が必要になったら、陛下が手を打たれます。なんとおっしゃられても、国一番の魔術師は陛下なのですから。初代王の使い魔を従えていらっしゃるのですよ」
「でもその使い魔は、国王しか守らないのよ」
「そういうお話ですけれど、王子様なら」
「それにあたし、見たことないもの」
唇を尖らせるアイフェに、クイサはとにかくと、話をまとめようとする。
「バーティン様の件にいたしましても、本当に危なければ、きっと陛下がなんとかしてくださいます。アイフェ様が危ない真似をなさる必要はどこにもございません」
そして目元を潤ませる。
「ええ、イシュヴァ様がお嘆きになられます」
いつもの締めに、アイフェとミアは目を見合わせて、ただ小さく肩をすくめた。