ライルの事情
医者である母と薬師である父の手伝いを、ライルはバッラ村でしていた。
技量も知識も両親の足下に及ばないまでも、猫の手ほどの助けにはなっていると自負していたのだ。
そこへ三ヶ月ほど前、ケイヴィラがやって来た。
ケイヴィラは気晴らしの旅行をしているのだと、呑気なことを言っていた。
こんな田舎に何しに来たのだろうと、村人は密かに噂した。都でしか暮らしたことのない貴族には、何もないということが珍しいのだろうか。
バッラ村に宿はなく、半日ほどの距離がある別の村に、ケイヴィラは泊まっていた。そしてどういうわけか、そこから足繁く、ライルの家に顔を見せるようになったのだ。
もともと両親は客をもてなすことを得意としていたため、客の出入りは激しい。加えて、膝が痛いだの腰が痛いだのと、毎日やってくる患者もいるため、ケイヴィラのことも、もしかしたらそういう病気があるのかもしれないと思っていた。
しかし、数日経った頃、一家と夕食をともにするまでに馴染んでいたケイヴィラは、ライルをじっと見て言ったのだ。
「魔力があるのね、この子には」
「ええ」
母は困ったように微笑んでいたものの、隠すことはしなかった。
なぜわかったのだろう。ケイヴィラの前ではもちろんのこと、人前で魔神と関わるようなことをしたことはなかったはずだ。
しかしそれを問い詰めるより前に、ライルは二人の言葉に反応した。
「魔力があろうと、ぼくは魔術師にはなりませんよ? 医者になる予定ですから」
「惜しいこと。さぞかし名を残す魔術師にもなれるでしょうに」
「魔術師になりたいとは思いません」
やりとりを見ていた両親はそれぞれの反応をする。
「ずっとこうなのよ。わたしとしては、嬉しい限りだけど」
いうことを聞かない患者を怒鳴りつけることもある母は、肩をすくめたものの、顔は緩んでいた。
「まぁ、ライルがなりたいと言うものになれるように、わたしは応援するよ」
大柄な体型に似合わぬおっとりした口調で、父は穏やかに笑っていた。
「そうね。親御さんの跡を継ぐという考えも立派なことですものね」
ケイヴィラは少しだけ悲しそうに口にした。
「でも、わたくしは、それほど役に立つことはできそうにないから、誰かの協力が必要なの」
そう独り言のように呟き、場に思わぬ餌を投げのだ。
「ライル。王都の王立図書館には、医学書も沢山あるはずよ。薬についてのものも、あるのではないかしら」
「そうなんですってね。わたしも聞いたことがあるわ。まだ翻訳されていないものも、多いとか」
とたんに、母の目がきらめいた。
家にもかなりあるのだが、医学は日々進歩している。誰かが新しい治療法を見つけたり、病のもとを突き止めたりしているのであれば、最新の情報を知りたいと常に望んでいるのだ。
「異国の医学書もあるのかしら、やっぱり。何か新しいものも」
「蔵書は年々増えているようだから、多くあると思うわ」
「それはなんて素晴らしい……!」
「母さん……」
餌に釣られたのは、母であった。
しかし医学書はあっても困るものではない。というより、是非欲しい。
買うには高価すぎる代物だ。手に入れるには、書き写すしかない。
「――ケイヴィラ様」
「なあに、ライル?」
どこか勝ち誇ったように見えるのは、ライルの気のせいではなかっただろう。
「……その図書館ある本は、誰でも写本できるんですか?」
ケイヴィラは優雅に微笑んだ。
「図書館の許可証を持って、しかるべき筋の保証人がいればね」
「あなたは許可証を手に入れられて、保証人になれるしかるべき筋のひとですか?」
ライルの失礼ともとれる問いかけに、ケイヴィラはにっこりと頷く。
「ええ」
「では、ぼくの保証人になってくれますか?」
「もちろんですとも。でも、わたくしのお願いも聞いてくれるかしら?」
嫌な予感しかしなかったものの、問い返した。
「お願い?」
「都で、魔術師をやってちょうだい」
果たして、予想通りの願いをケイヴィラは口にしたのだ。
◇ ◇ ◇
「騙された……」
詐欺の中には、騙すほうが悪い場合と騙されるほうが悪い場合があるという。
この場合はどうなんだろうと、ライルは自問自答する。
世間知らずだったのは否めない。
十五歳になるまで、ライルは両親と旅から旅への暮らしに等しかった。ようやく腰を落ち着けたのは、どうしても村に残って診療をしてくれと村人にこぞって嘆願されたからだ。それまでも何度かあったものの、四年前の村――いま住んでいる場所は薬草を作るのに適していたため、両親も決断したのである。
両親とも人々から感謝され尊敬もされているが、ライルの目には二人とも奇人の部類に入る。
医師薬師を世の為ひとの為にやっている人格者ではなく、お互いのためだけにやっているからだ。
父は母に薬を渡すために、薬師になった。母はその薬を使うために医師になった。
詳しくは教えてもらっていないが、若い頃には色々とあったらしい。
ともかく、そんな奇人両親に育てられ、あちらこちらで鍛えられ、現在のライルは形成されているのである。
人間の悪意も見てきたつもりだ。見た目と中身が違う人間も多いと知っているつもりだ。
しかしケイヴィラのような身分で、少女のような笑みとともに、堂々と嘘を付かれるとは、思ってもいなかった。
「まだまだ修行が足りない……」
とは言え、ここまで来てしまった以上、今更どうしようもない。
あてがわれた部屋は広く、涼しげな中庭が望める。写本の旨を伝えてあったためか、立派な机に、葦筆や墨壺、紙の束までそろえられている。
「エーフ?」
呼ぶやたちまち魔神は現れた。
『何?』
「おまえは、なんともないのか?」
『何が?』
エーフは外見に見合った仕草で、可愛らしく小首を傾げる。
「王都には、魔物が入ってこられないように魔法円があるらしいよ」
そんなライルの説明に、ああ、とエーフは納得した。
『魔神を弾く魔法円って言っても、それほど強力なやつじゃないし、おれみたいな使い魔になってる魔神は別だよ。おまえ、そんなことも知らないの?』
「知らないよ。ぼくは魔術師じゃないからね」
いい加減この台詞も言い飽きたが、ライルはそう口にする。
『だって、しょっちゅう親父さんの本も見てたじゃないか』
「父さんの本は写したけど、そんなことは書いてなかった」
そもそも、ライルは魔術師になりたかったわけではないのだ。そんな書物の内容など、ろくに覚えてはいない。
そうして深々とため息を漏らし、先程のやりとりを思い出す。
保証人など不要だと、少女は言った。ケイヴィラの反応からすると、それは事実なのだろう。
ケイヴィラを問いつめたところで、のらりくらりとかわされてしまうのがおちだと、ライルにもわかっていた。
「……ライル? 怒っているの……?」
恐る恐るといった風情だが、きっと反省はしていない。
「もう、いいですよ、ケイヴィラ様」
「ええ、あなたならそう言ってくれると思っていたわ」
悪意という言葉さえ知らないような無邪気さで、ケイヴィラは両手を合わせた。
そうしてこの件が落ち着くと、もうひとつのほうが気になってきた。
魔術師魔術師と騒ぐこの少女は誰なのだろう。
ケイヴィラのことは、現国王の妹姫だと聞いていた。
写本云々の話がまとまり、ケイヴィラが帰る日に、ライルははじめてそれを聞かされたのだ。両親はとっくに知っていたようで、ライルの反応に驚いたほどである。
なるほど、きっとライルには色々知らされてないことがあるのだろうと、両親を恨めしく思ったものだ。
王妹姫がふらふらとこんな僻地にまで来るのかと呆れる一方、あの浮世離れした雰囲気はそのせいかと納得もした。
そのケイヴィラを叔母と呼ぶからには、王室関係者であるには違いない。しかしそれほどの身分であるのなら、こんなふうに気軽に出歩くこともないだろう。
見極めかねたライルは、なので直截に尋ねた。
「ところで、ケイヴィラ様、このお嬢さんは誰なんですか」
「わたくしの姪よ。この国の王女でアイフェというの。あなた、名乗らなかったの?」
「それどころじゃなかったのよ、叔母様」
気軽に出歩くはずのない肩書きを、耳にしたような気がする。
そしてそれが、ライルの表情に出ていたらしい。
「いま、信じられないって顔をしたわね?」
「……いいえ。まさか」
だが、信じたくはない。王女様に夢を抱いている若者も少なくはないのだ。
しかし目の前の少女にとって、そんなことは知ったことではなかったようだ。
アイフェは息をひとつついて、話題を戻す。
「まあ、いいわ。あなたを、魔術師として雇いたいのだけど」
「さっきから言ってますけど、ぼくは写本をしに来たんですよ」
「いま、魔神を封印したじゃない」
「それはケイヴィラ様との約束です。写本のために都に滞在中、衣食住を面倒みる代わりに、必要だったら魔術師をするっていう」
そこでふとライルは気づく。
「いままでは、ああいう魔神は、封印ってどうしてたんですか」
問いかけると、ケイヴィラが応じた。
「ここ十年ほど王家に魔術師がいなかったから、ほったらかしに近いわね。封印されたい意志のある魔神たちは、わたくしの手助けをしてくれる魔神がここまで案内してくれるの。さっきの魔神たちはこの家で猫になって暮らしていたわ。魔神の姿のままでは、ちょっと不自由でしょう?」
そしてにこやかに付け加える。
「でもあなたが来てくれたお陰で、これからは、封印希望の魔神が増えるかもしれないわね」
なんとなく背筋にぞっとするものを感じたライルである。
「叔母様。それも大事だと思うけど、あたしのほうも緊急なの。あなた、いくらで雇える?」
アイフェはライルの話を聞いていないのだろうか。
「あのですね。ぼくは写本をしに来たんです。医学書を写して、親に送るんですよ」
「だって、あなた魔術師でしょ?」
「だから、違います。しいて言えば、魔術師は副業。医者になる予定で――」
「なんて贅沢な」
少女の呟きを聞き違えたのだろうか。ライルは思わず言葉をなぞった。
「――贅沢?」
「そうよ、贅沢。魔力があるのに、医者になるですって?」
大きな目で、きっと睨んでくる眼差しを、ライルは負けずに見返した。
しばし見合ってから、アイフェはふっと視線を外し、ケイヴィラを向く。
「叔母様、このひとしばらくいるんでしょう」
「その予定よ」
「なら、また来るわ」
そうしてアイフェはケイヴィラの屋敷を辞し、ライルはこの部屋に案内されたのだ――。
ふと、ライルは夜空を見上げた。
星空は、故郷と変わりない姿で広がっていた。