この先
幼い頃から、数え切れないほどやって来ていた。
逃げるように、救いを求めるように。
ケイヴィラがいなかったら、自分はどうなっていただろうかと、アイフェは思う。
ファラーシャがいなかったら、イシュヴァとクイサのもとで、自分はどうなっていただろうか、と。
自分は自分だと言い切る強さはアイフェにはなかった。いままでのすべてが、アイフェを作っているのだ。
いまのアイフェには、ほかに方法が見出せなかった。
「叔母様、おはよう!」
「……アイフェ、おはよう……。あの」
ライルとハリークの双方から、事の次第の報告を受けたケイヴィラは、アイフェにかける言葉が見つからずにいた。
「あ、あの、アイフェ。久し振りね? 元気だったのかしら? あなたがこんなに長いあいだ顔を見せなかったのも、なかったことだし、あの」
「あたしは元気よ、叔母様」
確かにアイフェは朗らかだった。しかし、空元気という言葉もある。
「ライルは?」
「ええと、まだ寝てるんじゃないかしら」
「は? もう、お昼近いのに」
「夜のほうが静かで涼しいし、写本がはかどるって、ちょっと夜更かしが続いているみたいなの。でも、そろそろ起こすべきかしら。昼食にもなることだから」
「なら、あたし、起こしてくるわ」
ケイヴィラの答えを待たずに、アイフェは動きだした。
扉の前で一度だけ深呼吸をして、部屋に入り込み、アイフェは彼の耳元で叫んだ。
「ライル!」
「うわ。……あなたはまた……」
さすがに今回は、布団をはぐことはしなかった。
「男の寝ているところに、ずかずか入る王女様というのはどうなんですか……」
「あなたこそ、写本をするために下宿しているのに、寝坊のしすぎじゃない?」
うっと珍しくライルが怯む。
痛いところをついたようだと、アイフェは青年をやりこめたことに意地の悪い満足を覚えた。
「わかりました、今後気をつけます。で、あなたはどうなんですか。ミアさんは、こういう行動を注意しないんですか?」
「今日はミアは一緒じゃないの」
また休みなのだろうか。使い魔として、そこまで人間じみているのもどうだろうか。それにしても門番を供にするのも、詭弁といえば詭弁だろう。
ライルのそんな思い悩みを知るはずもなく、アイフェは明るく告げる。
「あたし、しばらく離宮に行くことになったの。ミアは王都に置いていくわ」
「どこへ行くにしろ、それはたぶん無理だと思……」
「でも置いていくの。すぐに出るから、ちょっと挨拶に寄っただけ」
にっこりと笑う少女とは対照的に、青年は様子がおかしいことに気づいて眉間に皺を寄せる。
「どういう」
「写本師五人はちゃんと仕事するように言ってあるから大丈夫よ。製本師にも依頼をしておいたわ。ええと、それから。あれ以来、魔神は来ないわ。念のため、一ヶ月待ったけど、大丈夫みたいね。お陰様でバーティンもファラーシャ様も無事だったし、ありがとう。あと、エーフにもお礼を言っておいてね。じゃあ」
言うだけ言って去ろうとするアイフェの手首を、寝台から飛び降りたライルが捕まえる。
「ちょっと、待ってください」
「何?」
「王様があなたを離宮に送るんですか?」
「自分から言ったのよ」
「そんなことする必要は――」
「だって。他にどうすればいいのか、わからないわ――」
ラザークは死亡が発表された。密やかな埋葬で、王家の墓所には、棺が三つになった。
ディカは監視がつき、マムッドは、何も知らないムイードと、馬の世話に勤しんでいるらしい。もともと主体性の乏しいマムッドである。父と一緒に馬にかまけていれば、きっとそちらに夢中になることだろう。
クイサは、ラザークと入れ替わりに幽閉された。
「クイサの件は、父様は物凄くあたしに気を遣ってくれたみたい」
本来であれば、斬首しても足りないほどの罪なのだ。しかし、イシュヴァとアイフェの乳母であり、本人は何をしたのかよく理解していない節がある。
「あの宮殿で暮らすようにって言われたとき、クイサは凄く恐縮してたんですって。こんな立派な暮らしができるなんてって感動して泣いていたって。それで、『イシュヴァ様がいつ王子様をお産みになっても、すぐに駆けつけることができます』って」
クイサは、イシュヴァが愛しすぎて、壊れてしまったのだ。しかし本人は、幸せな国に住んでいる。それが、救いだ。
「ちょっとだけ、クイサが羨ましかったわ。クイサはきっといま、とても幸せなんだもの」
ライルはじっとアイフェを見つめる。
「母様にとって、あたしは必要なかったの。クイサも、母様だけが大事だった」
幼い頃、一番近くにいた二人は、アイフェを見ていなかった。
「だから、あたしの相手をしてくれたファラーシャ様の役に立ちたいって思ってた。そうすれば、あたしを必要としてくれるかもしれないって」
なのに真相を暴いてみれば、母の仕業であったとは、滑稽である。
「母君は母君で、あなたはあなたですよ」
「あたしが男の子だったら、母様はこんなこと願わなかったかもしれないわ。そうしたら、いまとはまったく違う状況になっていたでしょうね。それとも、あたしがもっと母様が満足するような娘だったら――」
そんなことを重ねるアイフェの頬を、ライルは両手でそっと包んだ。
「そういう仮定法に、あまり意味はないですよ」
そんなライルの慰めに、アイフェは薄く笑う。
「あたしには魔力がないの」
「知ってます」
「あなたが羨ましかったわ。魔力があったら、父様はあたしを気にかけてくれたかもしれない」
いまでも十分気にかけてますよ、とはライルが伝えるべきことではないのだろう。
「でも、ないものはどうしようもないものね。あたしは、あたしができることを頑張るしかないのよね」
そうしてアイフェは微笑む。
「離宮に図書館があるわ。こっちの図書館にはない本があるはずだって、父様が教えてくれたの。だから、それを取りに行くだけよ」
気が抜けたように、ライルは顔を覆った。しかしふと、アイフェを見やる。
「それを持って、王都に戻ってくるのは、いつです?」
アイフェは答えなかった。戻るつもりがないのは、明白だった。
「では、一緒に行ってもいいですか。写本したい本は、自分の目で見てみたいですね」
「だめよ。必要な本は、手紙で教えてくれればいいわ」
事後処理は、ケイヴィラにも教えてもらっていた。ファラーシャとバーティンから、丁寧な礼状も届いた。
しかしライルは、アイフェの口からじかに聞きたかったのだ。
なのに元気な王女は、この一ヶ月ほど引きこもって出てこない。
ようやく出てきたと思えば、こんな感じだ。
ライルは腕を伸ばして、アイフェを引き寄せる。
「ちょっと、ライル……!」
「だから、頑張りすぎだって言ったでしょう。我慢することはないですよ」
アイフェは、おずおずとライルの背中に腕を回した。
マムッドに無理矢理抱きしめられたときとは、全然違う。
なぜかひどく、安心するものだった。
そうしているうちに、母のこと乳母のこと、諸々が押し寄せて涙が溢れて止まらなくなっていた。
アイフェが泣いているあいだずっと、ライルはただ黙って、胸を貸していた。
「……ありがと。ちょっと、すっきりした」
「それは、何より――」
そんなアイフェの耳に、雫型の紫水晶の飾りを見つけて、それにそっと触れる。
「似合う?」
気づけばライルは、赤い目元をしながらふわりと笑うアイフェに、口付けていた。
少しだけ長く重なっていた唇が離れたとき、少女が小さく呟いた。
「未練がましいけど、魔力が移ればいいのにって思う……」
「残念ながら、そんな伝染性はありません」
「わかってるわ」
甘い台詞を期待していたわけではないが、魔力の話題は想定外だ。
ライルはこつんと額を合わせた。
「もし今後、あなたがまた魔力を欲するようなことがあれば、ぼくに言ってください。出来る限り、手伝いますから」
「……報酬はそんなに払えないわよ?」
少女の現実的な台詞に、青年は喉の奥で笑う。
「そこは、話し合いましょう」
そうしてアイフェは自分の唇に指を当てる。
「なぜ、あたしに口付けたの?」
「したかったから。という理由では、不敬罪になりますか?」
ならないって前にも言ったでしょ、とはアイフェは口にしなかった。代わりに、こう答える。
「……じゃあ、敬った感じの口付けをして」
アイフェがじっとライルを見上げる。
「仰せのままに――」
魔術師は王女の望みを叶えるべく、首を傾けた。
最終回となります。
ざっとですが読み返してみると、視点ぶれぶれで読みにくいですね……。
つたない作品にお付き合いいただき、ありがとうございました。




