望み
まだまだ夜明けは遠い。月のない夜、星だけがきらめいている。
ミアは珈琲の支度をすると言ったきり、なかなか戻ってこない。
クイサは、部屋の隅に置かれたイシュヴァの遺体のそばから動かない。
アイフェは座らされた場所で、身じろぎさえしなかった。
「どうやら墓守が、報告を怠ったようですよ。まあ、罰を恐れれば当たり前なんですけど」
「どういうこと……?」
「バーティン様の立太子の儀の直後に、イシュヴァ様の遺体が消えたらしいです」
ライルはあの日の夜、棺の中を見たのだ。
あるはずの遺体はなく、翌日、墓守に聞きただした。
すると、立太子の儀の翌々日、何やら重いものが落ちたような音が、墓所から聞こえたと、震えながら白状した。気のせいかと思いつつ、ランプの油を足すついでに様子を見に行ったところ、墓守の目に入ってきたのは蓋がはずれたイシュヴァの棺――中身は、空だった、と。
墓守にしても、まさか遺体が盗まれるとは思いも寄らないことだっただろう。
蓋を戻してしまえば、きっと誰も気づかない。中を見ることなど、まずないのだから。そうすれば、何も変わりなく過ごすことができる。そんな安易な考えを持ったとしても、仕方がないのかもしれない。
しかし、ではやはり間違いなく母なのだと、アイフェは白い布にくるまれたものを思う。
「あれは魔物が憑いたんです」
「死体に、憑く魔物……?」
「そういう魔物もいますよ」
でも、とアイフェは虚ろに続ける。
「母様の仕業じゃないって言える? 母様が呪っているんじゃないって言える……?」
「死人に呪えるわけがないでしょう?」
「死ぬ前に術をかけたのかもしれない……。そういうことだって、できるんでしょう」
「できないことはないでしょうけど」
そこへクイサがしたり顔で口を出した。
「ええ、ええ、そうかもしれません。イシュヴァ様がお望みなんですわ、きっと」
アイフェはゆるゆるとクイサを見やる。
「母様が、バーティンを廃せと……? ファラーシャ様の年を進めてると……?」
「そうですとも。イシュヴァ様は、第王一妃でありながら蔑ろにされていたのです。ファラーシャを恨み、バーティンを恨み」
そう正当性を訴えるクイサに、アイフェは自分を示してみせた。
「じゃあ、どうしてあたしは無事なの? だっておかしいわよ、そんなの。母様が一番嫌いなのは、あたしだもの」
アイフェは泣き笑いのような表情を浮かべている。
「母様は、あたしによく言ったわ」
――おまえが男の子だったら良かったのに。そうしたらわたくしは国母になれたのに。なぜおまえは女の子なの。
「母様はあたしが嫌いだったの。それとも、どうでもいい存在だったから、あたしには何もしないのかもしれないわね」
アイフェはぐっと唇を噛む。
「ファラーシャ様やバーティンに、会わせる顔がないわ。こんな――」
「あなたに落ち度はありませんよ」
ライルはそう慰めるが、アイフェの瞳が揺れる。
「だって母様なのよ?」
「別の誰かが、妃を使ってるだけかもしれないでしょう」
「イシュヴァ様は何も悪くはありません、アイフェ様。悪いのはあのファラーシャ。あのバーティンではございませんか」
吐き捨てるようなクイサに、アイフェが首を横に振る。
「イシュヴァ様の姫君でいらっしゃるあなたまでが、そのようなことをおっしゃるなんて。イシュヴァ様がお可哀想でございます――」
クイサは鼻をすする。
「わたしは本日は、これで失礼いたします。イシュヴァ様をこのようなところに置いておくのは心苦しい限りですが――」
「では、ここでご遺体を見守られてはいかかでしょう?」
ライルの提案に、アイフェもクイサも驚いて青年に目を向ける。
「イシュヴァ様を見ていろと?」
「また魔神に取り憑かれては、さすがにお気の毒ですからね」
「おまえはアイフェ様に雇われた魔術師なのでしょう? 守るくらいはできると思っていましたが、それほど無能なのですか」
そんな嫌味に、ライルこそ片眉を上げてクイサを刺激する。
「あなたはイシュヴァ妃が大切だったんでしょう? もう一度、埋葬するまでは、心配ではないのですか?」
「心配です、もちろん。ですから、一度家の様子を見に戻り、しばらく王宮で暮らせるようにしようと言っているのです」
苛つくクイサに、ライルは納得したように微笑む。
「そうでしたか。これは失礼しました。あなたがそこまで心酔するのでしたら、素晴らしい女性だったのでしょうね、イシュヴァ様は」
「ええもちろん。わたしの自慢の」
「でも王子を生めなかった」
和みかけたクイサの表情が、凍りつく。
「なんですって……?」
「そして王の寵愛も失った」
「愚かな王――。ええ、イシュヴァ様ほど素晴らしい女性はいないというのに、王にはわからないのです。あの王は、イシュヴァ様に相応しくありませんでした」
「そうでしょうか。イシュヴァ様とやらが、王妃の器ではなかっただけのことでは?」
にこやかなライルに、クイサの表情が消える。
「魔術師――」
「……やっぱり、あなたでしたか」
いつの間にか、ライルはクイサの手首を押さえていた。
クイサの手の中には、硝子の小瓶があったのだ。
「……クイサ……?」
アイフェが小さく名を呼んだ。
クイサは射殺しそうな視線をライルに向けていた。
「いつ、気がついた――」
「あなたの家に行ったとき、おかしな気配があったんです。むせかえるような香りは、遺体の腐臭を消すためでしょう。外側は平気なようでも、中はぐずぐずでしょうからね。それに、あなたの王宮への出入りを確認しましたよ。魔神が出る日には、必ずいましたね」
そうして手首を軽くひねった。
「その小瓶はどうしたんです?」
「おまえになんの関係が」
「それは、母様が持っていたものだわ……」
アイフェが喘ぐように伝えた。
「イシュヴァ妃の形見ですか。イシュヴァ妃はそれをどこから手に入れたんでしょう?」
「さぁ? 魔術師風情には関係のないこと!」
クイサは力いっぱいライルを押した。同時に、小瓶の蓋を開ける。
「行け!」
たちまち現れた影のような魔神が、にやりと笑った、ように見えた。陽炎のように揺らめく姿は、黒一色。その濃淡で、辛うじて顔の表情がわかる。
『殺してもいいのか――?』
「好きにおし!」
クイサはぎらぎらした目でそう命じる。
ライルは魔神と対峙した。
「さて、魔神。おとなしく、呪いを解いてください」
『断る、魔術師。おれの名が刻まれた小瓶を持っているのは、この女だ。忌々しいことに、いまのおれの主はこの女』
クイサは高く笑った。
「この呪いは成就する。ファラーシャが死ねば、次はバーティン。どちらにしても生かしてなどおくものか」
そこへアイフェが声を上げた。
「もう、やめて、クイサ!」
「アイフェ様。あなたはイシュヴァ様の娘でありながら――」
「母様はそんなこと望んでいなかった!」
「いいえ。これはイシュヴァ様の御遺言でございます」
アイフェの動きが、止まった。
わたくしの息子が、わたくしの王子が、王になるはずだったのに。
わたくしの侍女だった女の生んだ息子が、王になるなど。
わたくしの夫を奪った女とその息子。
『憎い。憎くてたまらない――』
手に入れた硝子の小瓶には魔神の名が彫ってあった。薄すぎて読めず、問うても名を教えはもらえなかった。
中にいるのは、悪しき魔神。魔神の国に渡ることを、よしとしなかった魔神。
封を開ければ、わたくしを襲うだろうか。それとも解放した感謝を述べるだろうか。
けれど、この恨みを晴らせるならば。この憎しみをあらわせるならば。
この身を、その魔神に与えても惜しくはない――。
「イシュヴァ様は、病の床で、望んでいたのです」
小瓶を開封したのはクイサだ。
「イシュヴァ様の願い通りに」
イシュヴァの身を墓地から奪い、ファラーシャに呪いをかけたなら、三ヶ月後に尊いその体を与えよう。その呪いが成就したならば、おまえに自由を許そう。
クイサは魔神にそう告げたのだ。
「バーティンを廃せ。さもなくばその命、時を駆けるものと知れ。怯えるがいい。この恨み憎しみ思い知るがいい――」
酔いしれたようなクイサに、アイフェは飛びかかっていた。
「クイサ、小瓶を寄越して!」
「あなたという方には、つくづく失望しました!」
揉み合ううちに、奪われるよりはと、クイサは床に小瓶を投げつけた。
「なんてこと――」
「ここまでくれば放っておいても、ファラーシャは元には戻らない。イシュヴァ様のお気持ちがわからないような、不出来なあなたに渡すくらいなら、魔神の封印など壊したほうがまし!」
粉々に砕け散った小瓶に、魔神の高笑いが響き渡る。
『あははははは! ざまを見ろ! おれは自由だ!』
ごっと空気が渦を巻く。それは、徐々に熱を帯びてくる。放っておけば、じきに発火するに違いない。長い隷属から解放された魔神が暴れだしたら、鬱憤晴らしの八つ当たりだけで、どれほどの被害が出るだろうか。
『手始めに、おまえを殺してみようか、魔術師』
舌打ちしたライルの口から、次々と名前が紡がれる。
「ファシル。エイギ。アーズ。ユーグルガ。ナーリ。ウーマグブ。クル。マッド。ダー」
その手にある小瓶には、びっしりと文字が刻まれていた。魔神が気づいて、手を伸ばす。それをいつの間にか姿を見せていたエーフが払った。
『おれは人間には触れないけど、魔神相手なら問題ないんだぜ?』
『この、裏切り者! ダーリアの一族か!』
『違う。けど、ダーリア様はまだここにいる。おまえにはわからないのか?』
ふんと魔神は鼻を鳴らした。
『ダーリアなど、恐れるに足りぬ。そこの魔術師も、おれの名などわかるものか――』
その間にも、ライルは呟いていた。
「エハド。ロシュ。エツェル。ゼラー。イエレド」
『なん――』
そうして、呆気ないほど簡単に、煙になって瓶に飲まれた。




