亡き王妃
揺らめく影は、笑ったようだった。
『時は満ちたぞ!』
今宵は三度目の新月だ。
墓から目覚めるものがある。
約束のものを、手に入れよう。
◇ ◇ ◇
アイフェは自室に籠もっていた。
なぜ魔神がアイフェの部屋に来たのかわからない。そしてミアの怪我もライルの怪我も、責任を感じてかなり参っていた。
クイサはおとなしいアイフェに至極満足そうに、いまだ王宮にとどまっている。
「アイフェ様、しっかり刺繍と、あと織物の腕を磨かれると、嫁ぎ先で恥ずかしい思いをしなくてもすみます。少々本気になるのが遅かったかもしれませんけど、いまからでも十分上達しますからね」
アイフェはそんなクイサに力なく微笑むだけだ。
ライルからは手紙で報告が来ている。芳しい知らせはないままに、半月に一度の魔神がやってくるときが迫っていた。
バーティンは怯えているだろうか。ファラーシャはもう諦めているのだろうか。
クイサが席を外した隙に、ミアがアイフェに詰め寄った。
「アイフェ様? 本当にこれでいいんですか?」
「……でも、あたしには結局何もできないのよ」
「ライルという魔術師を見つけたじゃありませんか。彼はエーフを使って、王都中の使い魔と接触しているようですよ。誰かが何かを知っていないか」
「そうなの?」
そんなこと、手紙に書いてあっただろうか。
「彼は自分で写本するのは諦めて、こちらの件に専念してくれているみたいでしたね」
「……写本師五人分だもんね。でも、悪いことしちゃったわ。自分でも勉強になるって言ってたのに……」
きっとライルなら、立派な医者になれるだろう。
世の中、思い通りにはいかないものだ。医者の才能があるのなら、魔力などいらないではないか。譲って欲しいくらいだ。
うじうじとする女主人に、ミアはふうとため息をついた。
「クイサさんがいると、わたしこそ仕事がないですからね。図書館とかケイヴィラ様のお邸とか、行っているんです」
時折姿を見かけないと思っていたら、そういうことだったらしい。
「アイフェ様らしくないですよ、いま」
呆れるべきか、叱るべきか、褒めるべきか。
「ミア……」
「なんですか」
「ありがと」
アイフェはぱんぱんと自分の頬を叩いた。
「うん!」
刺繍を放って、アイフェは立ち上がった。
ミアはそんな女主人に、嬉しそうに従ったのだ。
◇ ◇ ◇
久し振りに、ライルはアイフェを見た気がした。
最後に見た涙の残る顔はいつもの笑顔になっていて少しだけ安心するものの、この笑顔はちゃんと笑っているのだろうかとも勘ぐってしまう。
準備の済んだ小瓶はすでにしまってある。面倒なことだったが絶対に必要なものだ。
「今日は新月よ」
開口一番そう言ったアイフェに、ライルは苦笑を押し殺す。
「そうですね。エーフはファラーシャ様の宮殿に置いてありますが」
アイフェが思い悩んでいるあいだにも、ライルは動いていた。
「ちゃんと、やってくれてたのね」
「写本師五人分ですからね」
「……そうよね」
そういう契約だ。ライルとアイフェは、そういう関係なのだ。
「どうしました?」
「ううん、なんでも」
なぜかかすかに痛んだ心を、アイフェは胸の奥底に閉じこめた。
「日が落ちる前には、ぼくも王宮に行きます」
「――あたしは、何をすればいい?」
「できれば自室に引っ込んでいてください」
これにアイフェは腰に手を当て反論した。
「あなたひとりでファラーシャ様の宮殿に入れるわけないでしょう? 本来、父様以外の男性は出入り禁止なのよ? だから前回だって女装して――」
「ミアさん、また薄衣を貸してください。あなたは、近くまで送ってくれればいいです。そのあとは自室にこもって――」
「いやよ! あたしだって何かの役に立つわよ。そりゃ、このあいだ魔神が来たときはびっくりして、何もできなかったけど」
そう悔しそうに言い募るアイフェをライルはじっと見つめて、根負けしたように長い息を吐いた。
「わかりました。王宮に行ったら、とりあえずあなたのところに行きますよ」
絶対よ、と念を押してから、アイフェははたと気づく。
「ここにいて、あなたと一緒に戻ればいいのよね。そうすれば、仲間はずれにされることはないわけだもの」
言って、アイフェはそれを実行したのだ。
日没の時間が早くなっている。これからどんどん夜が長くなる季節がやってくる。
新月の夜にも、月は昇っているという。ただ、目に見えないだけだ。
王女と侍女は、いつになく剣呑な雰囲気で睨み合っていた。
「どいてちょうだい、ミア」
「だめです」
アイフェは、ライルとともにケイヴィラの邸を出た。
そうして、ファラーシャのところに使いを出し、来訪する旨を伝えた。正式な訪問の手続きをして欲しいと、ライルが希望したからだ。
何をどう書いたのかアイフェにはわからないが、ケイヴィラの紹介状は国王に届けられ、どういうわけかすぐさま許可が下りたのである。
しかしその後は、ミアにアイフェを部屋から出さないように言いつけて、ライルはひとりでファラーシャのところへ行ってしまったのだ。
今回は堂々と正面から出入りができるため、アイフェが一緒である必要はないと言って。
「つまり何? あたしは、ライルに、騙されたってこと?」
「騙してはないと思いますよ」
「どうして、ここにいないといけないの?」
「魔術師がそう言うんだから、言われたようにしたほうがいいに決まってますよ」
そこへクイサがやって来る。
「ミア、アイフェ様になんですか、その態度は」
叱られて、ミアは首をすくめる。
「あぁ、クイサ。よく来てくれたわ。あたし、バーティンに会いに行きたいの。でもミアがだめだって言うのよ」
まぁ、とクイサは驚いたふうな声を上げる。
「それは珍しく、ミアが正しいでしょうね。そもそもアイフェ様、いつまでもファラーシャに親しげにしているものではありません。あの女は、イシュヴァ様から陛下の寵愛を奪った恩知らずなのですよ」
クイサの刺々しい言葉に、アイフェが顔を歪める。
そのとき、遠くのほうからかすかな悲鳴が届いた。
「ちょ、だめですよ、アイフェ様! 部屋にいて――」
「どいて!」
アイフェはクイサとミアを押しのけて、その発信源へと向かって行った。
それは複数の侍女のものだった。
「きゃああああ!」
喚き、慌てふためく侍女たちに、部屋を出るようにファラーシャは毅然と告げる。
バーティンは母を守るように立っている。ファラーシャは微動だにせず姿勢を正し座っていた。
二人は、床に描かれた円の中にいた。
「その魔法円から、決して出ないでください。そこにいる限り、直接手出しはできません」
そう言うライルの前には、魔神の姿がある。
そこへ、アイフェが飛び込んできたのだ。
「ファラーシャ様! バーティン!」
「なんてこと――! だめ、アイフェ様! 来てはいけません!」
ファラーシャに制止されて、思わずたたらを踏む。しかしその勢いは止まらなかった。
「来るなと言ったはずだ!」
はじめてライルが声を荒げた。
けれど、そんなことを気にする余裕は、アイフェから一瞬で吹き飛んだ。
アイフェの目に入ってきたのは、思いもしなかった人物だったからだ。
「……うそ、母様……?」
よく知っている姿。よく知っている顔。けれど、埋葬されたときの真っ白な衣装に、金の装飾品、無表情な面差し、青ざめた肌は触れずとも氷のように冷たいだろうと分かるものだ。
「……なに、どうして、母様……」
アイフェはかくりと膝をつく。
そして魔神――イシュヴァが一歩前に出る。
魔法円の中では、母子が抱き合っている。
イシュヴァが口を開いた。
『バーティンを廃せ。さもなくばその命、時を駆けるものと知れ』
にいと唇を歪めて告げるその醜悪さに、気が遠くなりそうだった。
「……憑きましたか、ひとの体に。あまり質のいい魔神ではないようですね」
ライルの挑発にのることはなく、魔神は高らかに笑う。
『三月経った。この体はおれのものだ。そしてこの呪いが成就すれば、おれは自由になる!』
しかしその笑いは、たちまち消えた。
ライルが前触れもなく投げつけたのは、細い短刀だった。掌に隠せてしまいそうなほどの小振りなものが、数本、まだライルの手の中にある。
そのライルの腕にいきなりぶら下がるようにしたのは、アイフェを追ってきたクイサだった。
「イシュヴァ様に向かって刃物を投げつけるなんて――」
「あれは、魔神が憑いた遺体です。魔神は鉄に弱いので、これで刺せば、魔神が抜けるんですよ」
力づくで振り払うわけにもいかず、ライルはクイサを持て余す。
「わかったら、放してください」
「あれはイシュヴァ様です!」
「ク、クイサさん、だめですよ!」
一緒に来たミアが慌ててクイサを押さえる。
自由になったライルは改めて魔神に向き直るが、イシュヴァは窓から身を投げようとしているところだった。
「エーフ! 逃がすな!」
『はいよ』
エーフが魔神が出ようとしていた窓を塞ぐように、現れる。
『どけ、若造!』
『やだね』
舌を出して嫌がらせのように窓を左右に動くエーフに構っている隙に、ライルの短刀はイシュヴァの喉元に突き刺さった。
しかし傷から、血が流れることはない。
クイサの絶叫が聞こえる。
そうしてその傷口から、細い煙が漏れ出して、風に吹かれるように霧散した。
煙が完全に消えるのを見届けて、ライルが口を開く。
「……エーフ。戻っていいよ」
『おまえ、いくらなんでもおれのこと使いすぎ』
「おまえも承知しただろう。もう少し、手伝って」
『しようがないなぁ。感謝しろよ』
静かなライルの声に、エーフも消えた。
ミアの拘束から逃れたクイサがよろよろと近寄って、イシュヴァの首に刺さった短剣を抜き放り投げる。
「なんて、なんておいたわしい……。魔術師の分際で、イシュヴァ様になんという狼藉を――」
「体はイシュヴァ妃のものかもしれませんが、イシュヴァ妃の魂はもうそこにはありません。魔神に操られるより、ましでしょう?」
それでもクイサはライルを憎々しげに睨むことをやめない。
ライルはイシュヴァの身を白い布でくるんで、アイフェの部屋に運んでもらうようにファラーシャに手配を頼んだ。
ライルはアイフェを抱きかかえるように、立ち上がらせる。
「だから、部屋にいるようにと言ったのに……」
そうして、アイフェの部屋に戻ったのだ。




