王弟妃ディカ
ライルがミアに呼ばれてやって来た。
時間帯が時間帯だったので、ミアは食事の準備のために、席を外す。
「うまくいったんですか? 何かありました?」
アイフェは力無く首を振り、持ってきてしまった小瓶をライルに見せる。
「こういう感じのものしかなかったわ」
「普通の香水瓶ですね」
「宝石箱は確認できなかったの。でも、きっと何かあると思う。ディカ叔母様がラザーク叔父様のところに行って、手ぶらなんてあり得ないでしょ」
言いながらも、マムッドに触られた感触が気持ち悪くて、そこをさすり続けている。
それをライルが見咎めた。
「どうしたんです? そんなに腕をこすって」
「マムッドに触られただけ。なんだか――」
ライルはアイフェの腕を取った。
「肌が剥けますよ。触られたって、マムッド様は酔っぱらってでもいたんですか?」
「知らないわ。あたしには素面に見えたけど。でも前にくれた香水は、娼館で使う香水で、それをつけたあたしに今夜会いたいって」
ライルはため息をつくしかできなかった。
恋しい女に娼婦の香りをつけたい男もいるだろうが、それを女に告げるというのはどうだろう。
しかも、まだ少女と呼ぶに相応しい王女に、だ。
アイフェは小刻みに震えていた。
「こ、今夜、マムッドが来たら、どうしよう――」
「来る? この部屋に?」
「なんだかよくわからないけど、勘違いしてるみたいで……。あたしが、マムッドを好きだって。でも」
珍しくアイフェは怯えていた。力では適わないのだと、思い知らされたからだ。
「だったら、ケイヴィラ様のところに避難したらいいですよ。それかバーティン様のところに」
「バーティンは、だって大変なのに」
「ひとが多いほうが心強いでしょう、あちらも」
「うん……」
邪魔になるだけかもしれないと片隅で思ったが、情けないことにマムッドに対する恐怖が勝って、ライルの提案に乗ることにした。
バーティンのところに泊めてもらおう。しかしこれから毎日そうするわけにもいかない。
そんな動揺の中、食事の準備の手を休めて、ミアが取り次いできた。
「アイフェ様。ディカ様がいらっしゃいましたけど……」
「叔母様が? マムッドは一緒?」
「いいえ」
「じゃあ、いいわ。でも……」
ちらりとライルを見やる。
「奥の部屋に入って構わないのであれば、隠れていますよ。覗き見はしてもいいですよね?」
何かあったらきっと助けてくれる――と、アイフェは無意識のうちに頼り、ほっと息をついて、ディカを居室に入れた。
「叔母様、いらっしゃい。珍しいわね」
動揺は現れていないと思う。アイフェはいつものように、当たり障りない笑顔を見せた。
「あら、あなたこそ、わたくしが湯浴みに行っているあいだに、部屋に来たのでしょう?」
アイフェはぎくりとするが、ディカは上機嫌だ。その理由はすぐに知れた。
「アイフェ。マムッドと結婚してくれる気になったんですって?」
その内容を理解するのししばし時間がかかったものの、思い切り否定する。
「なってないわ、叔母様。どうしてそういうことになるの?」
「あら、でも。あの子の贈った香水が気に入ったのでしょう? 違うと言うの? では、わたくしの部屋で何をしていたの?」
「そ、それは」
「香水瓶がひとつなくなっているのよ」
ディカが意地悪く言うところへ、アイフェが観念したように差し出した。
「それは、これよ。この件に関してはごめんなさい。持ってくるつもりじゃなかったの。マムッドがいきなりやってきてびっくりして――」
「わたくしの香水が欲しいの?」
どういうわけが誇らしげな叔母に、アイフェは首を振った。
「違うわ、ディカ叔母様。それに、マムッドは全然関係ない」
アイフェは、真っ直ぐにディカを見つめた。
「叔母様、正直に答えて。ラザーク叔父様のところに、何をしに行ったの?」
この問いに、ディカは目に見えて動揺した。
「な、なんのこと?」
「許可証なしで、叔父様のところに、何しに行ったの?」
再度問うと、ディカがごくりと息を飲む。
「馬鹿なことをおっしゃい。許可証なしで、ラザーク様に会えるわけがないでしょう。そもそも、わたくしにはラザーク様に会う理由が――」
「ディカ叔母様が、ラザーク叔父様に会いに行ったのは、わかっているの」
「……あの門番ね……! あれだけの大金を払って……。秘密にすると言ったくせに……」
ディカは憎々しげに吐き捨て、はっと口をつぐむ。アイフェの疑惑を、自分で認めてしまったからだ。そうして、開き直った。
「わ、わたくしは、義弟を案じて」
「だったら父様に許可証をもらえばいいわ。なのに、こそこそと」
しかしその発言が、ディカのかんに障ったらしい。
「こそこそ? わたくしがいつ? わたくしはただ、魔神を譲ってもらおうと思っただけよ。さもなければ、捕らえるすべを! わたくしと手を組めば、すぐにそこから出してさしあげると言ったのに――」
「お、叔母様……?」
たがが外れたような叔母に、アイフェが怯む。
ディカは威圧するように、姪を覗き込んだ。
「ラザーク様は、忌々しいことに、わたくしには手を貸してくださらなかったわ。わたくしが、王妃ではなかったから! でも、イシュヴァ様にはどうだったのかしらね」
「か、母様……?」
「ええ! こそこそしていたのはイシュヴァ様のほう。まったく何をしていたのやら!」
「母様がどうしたっていうの?」
表情を強張らせるアイフェに、ディカはどこか獲物をなぶるような笑みを浮かべていた。
「ほほ。亡くなった方をどうこういうつもりはありませんけど、イシュヴァ様はラシード様と昵懇だったのよ。あなた、知らなかったの?」
母の行動など、知るはずもない。アイフェは、実の母であるイシュヴァとは親密ではなかったから。
「あなたもイシュヴァ様の娘ということかしらね」
意味ありげに、ふんとディカは鼻で笑った。
「イシュヴァ様は、闇に紛れるようにしてよく行っていたわ。本当に、何をしに行っていたのかしらね?」
「……何をしていたと言うつもり?」
低く問うアイフェに、ディカは肩をすくめた。
「ラザーク様は美丈夫ですものね」
「まぁ、ディカ様! 言っていいことと悪いことがあります!」
ひりつくような空気に、急に割り込んできたのは、クイサだった。
ミアがクイサの背後で、引き留められなかったことを無言でアイフェに詫びている。
「あら、あなた。まだここへ出入りしているの? 隠居したのではないの?」
「わたしのことはお気遣いなく。ディカ様、イシュヴァ様への無礼な発言、取り消していただきたいですわ」
「そうよ、叔母様。母様を侮辱するつもりなら」
それでもイシュヴァはアイフェの母なのだ。
「侮辱? 王妃と言ったところで、王子を生めなかった妃にどれほどの価値があるというの?」
蔑むような発言は、アイフェの胸に突き刺さった。
そうして瞬きひとつの間のあとに、ディカが急にわなないたかと思ったら、ぶるぶると震える指を上げた。
その指先を、アイフェが追う。
そこには、バーティンのところにやってきていた魔神がいたのだ。
クイサは胸元で手を組んで、壁際で魔神を凝視している。
いくつかのことが、起きた。
「き、きゃああああ!」
ディカの悲鳴を合図としたように、いきなり部屋の中に強風が吹き荒れる。まるで小さな竜巻が生まれたかのようだった。
魔神の姿を認めた瞬間に、ライルはエーフを呼び出していた。
飛び交う家具や調度から守るように、ライルはアイフェを抱え込む。
エーフが魔神に飛びかかっていったと同時に、魔神は姿を消した。
そんな中、幸運にもディカは気を失ったようだ。
静まりかえった部屋で、クイサが声を震わせた。
「魔神が、なぜ……。お、おまえ、魔術師なのでしょう? なぜ、こんな」
「生憎、副業魔術師で、全能者じゃないんですよ。とりあえず、ぼくの使い魔が追いかけては行きました」
そうして、クイサはぽかぽかとライルを叩く。
「おまえ、アイフェ様をお離しなさいっ」
「あ、失礼」
どちらかといえば、アイフェがライルにしがみついている状態だったで、はっとしてアイフェが離れる。
そうしてアイフェの視界に入ってきたのは、額から血を流すライルだった。
「や、やだ、ライル、大丈夫!?」
「何かの破片が、かすっただけです」
言いながら、袖口で額の傷を拭う。ついた血に少し顔をしかめたものの、それほど痛みはない。
「額の傷は、出血のわりにそれほど大きくはないんですよ」
「ほ、本当に?」
「ええ、それよりミアさんのほうが」
はっとしてアイフェが振り向くと、ミアがうずくまって頭を押さえているところだった。
「ミア!」
ミアは頭でも打ったのか、近くに壺が転がっている。
「大丈夫、ミア!」
「あ、はい……。ちょっと、くらくらしますけど」
「壺が頭に当たったんですか? どの辺りです?」
そうミアに手を貸そうとするライルを、アイフェが止める。
「あなたもだめ! 怪我をしているでしょう」
「ぼくは医者を目指してるんですよ。このくらいの手当は自分でできます」
それから、じっとミアを見つめた。
「とりあえず、ミアさんはそこに横になってください。頭を打ったのなら、大事になることもあるんですよ」
「いえ、でも、なんとも……」
「ミア、言うことを聞いて」
アイフェに言われて、素直に従う。
「あとは、えっと、包帯? 軟膏?」
「包帯を巻くほどの怪我ではないですね、ぼくのは。ケイヴィラ様の家に帰ってから、手持ちの薬を塗りますよ」
「じゃあ、えと、何が必要……?」
口は動くものの、まだ行動する気力がないようだ。
ライルはそんなアイフェに、ふと視線を変えた。
「クイサさん? 彼女に珈琲でも持ってきてください」
「言われるまでもありません」
きっとクイサはライルを睨みつける。
アイフェはクイサを見てライルを見て、横たわるミアを見て、なんとか言葉を発した。
「珈琲。は、あとで、いいわ。でもやっぱり、手当を。綺麗な布とか、お湯とか」
「ああ、じゃあ、それを」
クイサは渋々動き出す。
「どの辺りを打ったんです?」
「ここですね」
ミアはそう言って、右のこめかみ辺りに手を添える。
「こぶはできていないようですし、出血もないですね。では、この指を追ってください」
ライルは人差し指を一本立てて、ミアの顔の前で左右に何度か往復させる。ミアの視線はそのあとをしっかりと追った。
「目眩や吐き気は?」
「大丈夫、だと思います」
「ゆっくり、起きあがってください」
ミアは言われたように、上半身を起こした。
「どこか動かしにくい場所や、しびれている場所は?」
「ありません」
「そうですよね」
「……あの」
ミアにだけ見えるように、ライルは口元に一瞬だけ笑みを浮かべた。そしてアイフェを振り返るときには、すでに真顔だ。
「でももし今晩あたり、具合が急に悪くなるようでしたら、医師を呼んでください」
「ええ、何かあるようなら、呼ぶわ。ありがとう」
そのときちょうどクイサが戻ってくる。
お湯と布で、ライルが自分の額を拭こうとするのを、アイフェが布を奪う。
「じっとしてて。自分じゃ見えないでしょ。そっと拭いてあげるから」
「鏡でも貸していただければ……」
「じっとしていなさい」
目に涙を浮かべたその剣幕に、ライルが引き下がる。
ゆっくり傷の周囲から血を拭っていく。確かにライルの言う通り、傷はそれほど深くも大きくもないものだった。
ほっとアイフェは安堵の息を漏らす。
「傷は大きくはないわ。血も止まりそうだけど、あて布をしておいたほうがいいんじゃない?」
「大げさに包帯を巻くつもりはありませんよ。止まりそうなら、放っておきます」
そんなやりとりの横では、クイサがミアに怒鳴っていた。
「侍女として失格ですよ!」
「す、すみません」
「まず主人を守るものでしょう? それを――」
「やめてちょうだい、クイサ!」
すると、クイサの矛先はアイフェに向いた。
「アイフェ様は甘すぎます! イシュヴァ様であれば――」
この言い分に、アイフェは反射的に叫んでいた。
「母様が厳し過ぎただけよ! いい加減にして!」
その言葉に、クイサの表情がたちまち歪む。
「なんて、お可哀そうそうなイシュヴァ様……」
クイサは悔しげにそう言うが、それ以上アイフェに食ってかかるようなことはなかった。
「……呪い云々で案じておりましたが、案の定。わたし、しばらく泊まり込みますわ。ミアもあの状態ですから」
そう冷やかな視線を向ける。確かに、軽くても怪我人だ。しかも頭を打っている。
「わ、わたしは大丈夫です」
「何を言っているのです。アイフェ様にご不自由をかけるわけにはいきません」
アイフェは、そんな二人の声が急に遠くなったような気がした。
なぜか自分の体が傾いていくのはわかったが、止めるすべがない。
「アイフェ!?」
ライルの声が、最後に聞こえた。