亡き王妃の乳母クイサ
王宮には、イシュヴァとの思い出がありすぎて辛いと言う。
こぢんまりとした集合住宅の一室に、クイサは住んでいた。本当であれば、どこかの離宮に悠々と住まわせたかったのだが、アイフェが気になる、時々は王宮に行きたいと、クイサが望んだのだから仕方がない。
扉には鍵がかかっていなかった。そっと開けながら、アイフェは乳母の名を呼ぶ。
「クイサ?」
アイフェはふと息を止めた。
漂ってきた香りが、少々鼻についたのだ。香辛料のようなぴりっとした感じに、甘さの混ざった匂いだ。
扉を開けて空気が動いたためか、その匂いはすぐに薄れた。
「クイサ、いないの?」
乳母はひとりで暮らしていたが、奥の部屋にいたらしく、すぐに出てきた。
「まあ、アイフェ様――」
嬉しそうに綻びかけた表情は、たちまち厳しいものになる。
「なんです、そのお姿は! ミアは何をしているのですか、休日はつい先日でしょう。まさかおひとりでお歩きになっているわけではないのでしょうね」
「え、いえ、あの」
いきなり説教を食うとは、実は想定内だった。それに、クイサはアイフェを怒っていたほうが元気なのではないかとも思うのだ。
そしてクイサの意識は背後のライルに向く。
「その男は? 従者のわりには躾がなっていないようですね」
じろじろと眺めやって、遠慮無くそう言う。確かに、従者であればアイフェのすぐ横に並びはしないだろうが、ライルは従者ではないのだ。
「彼はライルというの。従者じゃないわ。バーティンの呪いを解いてもらおうとしている魔術師よ」
「魔術師!」
クイサは顔色を変える。
「そういえば、以前そんなことをおっしゃっていましたね。でも、陛下以外の魔術師は危険なものですよ、アイフェ様! いったいいままで、王家でどれほどの謀反が企まれ、国民ではどれほどの呪いが成就したと思っておいでですか!」
「ケイヴィラ叔母様の知り合いなの。大丈夫よ」
それでもクイサの心配が和らぐことはなかったようだ。
「アイフェ様。そろそろお年頃なのです。落ち着かれて、陛下に縁談のお願いでもなさったほうがよろしいです。イシュヴァ様の姫君が男装して魔術師と出歩かれるなんて――」
想定内だったとはいえ、想定以上に機嫌を損ねた乳母を、アイフェはなだめることにした。
「き、気をつけるから。えっと、クイサ、今日はね、あなたの様子を見にきたの。ひとり暮らしで不自由はないかって聞いても、あなたはいつも平気だとしか言わないから」
そんなアイフェの言葉に、クイサは感極まったように袖口で顔を覆う。
「お優しいこと――。さすがイシュヴァ様の姫君でございます。イシュヴァ様もそれはお優しくお美しい姫君でございましたもの」
そうしてしばらく、クイサのイシュヴァ礼賛に耳を傾け、アイフェは頃合いを見計らってクイサ宅をあとにしたのである。
クイサの家を離れてから、アイフェはライルに謝った。
「ごめんなさい。不愉快だったわね」
「いえ、別に」
平気だと笑うライルに、アイフェはため息をついた。
「クイサは母様が一番大事なのよ。亡くなったときはもう、号泣で大変だったの。放っておいたらあとを追いそうな勢いだったわ」
どこか淡々と話すアイフェに、ライルは怪訝な顔をする。以前にも感じたが、まるで他人のことのようだと思ったのだ。
「……それにしても、随分と香を焚きしめていましたね」
「うん。没薬を随分使ってたみたい」
「なんの香りかと思っていたら、没薬でしたか。ちょっと、きついくらいでしたけど」
「でも没薬は、異国では死者に使うって、クイサはあんまり好きじゃなかったはずなのよね」
好みが変わったのかしらと首を捻るアイフェに、そうかもしれませんねと応じながら、ライルは一度だけクイサの住まいを振り返った。
◇ ◇ ◇
ケイヴィラ邸に戻ると不機嫌にミアが出迎えた。
「お帰りなさいませ、お早いお戻りで」
「た、ただいま」
「市場は面白かったですか?」
「うん、いつも通り、面白かったわ」
「そうですか。結構なことです」
置いてきぼりを食わされて、立腹らしい。
「ご、ごめんね、ミア。でも、叔母様が何かご用があるって言うから」
「ええ、行って参りました」
つんけんしながら、ミアはケイヴィラに場を譲った。
「お帰りなさい、アイフェ。ミアにはこれをお願いしてきたの。この子なら、王宮内でも問題ないだろうと思って。はい、どうぞ」
差し出された小さな紙を反射的に受け取って、アイフェは目を丸くする。
「お、叔母様、これ」
「ラザーク兄上のところへの許可証よ」
手に入らないとアイフェが嘆いたのは、つい今朝方のことだ。
「もしかして、偽造ですか?」
ケイヴィラは恨めしそうにライルを睨む。
「あなた、わたくしをなんだと思っているの。ちゃんとハリーク兄上にいただいたのよ。名前のところをちょっと書き足しただけよ」
うふと笑うケイヴィラに、罪悪感はないらしい。それでも必要としていたものだったので、アイフェも目をつむることにした。
「大丈夫なんですか、ここの王族は……」
ライルは思わず額を押さえた。
「わたくしの申請だったけれど、ミアが行ったんだもの。アイフェが関係していることなんて明白でしょう? でも許可してくれたのだから」
ケイヴィラはそれでも一言付け加えることを忘れなかった。
「今日は遅いから、明日になさいね」
アイフェはおとなしく頷いたのだ。
◇ ◇ ◇
そうしてアイフェは王宮へ戻り、夕食になる前にと、そのままの足で王妃の宮殿に向かった。
ファラーシャに会う前に、まずバーティンに顔を見せる。
「姉上!」
自室で本を読んでいたバーティンは、それを放りだして駆け寄ってくる。
「バーティン。今日は買い物をしてきたの。あなたにもお土産買って来たのよ。市場に行ったの、それで木彫りの馬が――」
たちまちバーティンの顔が強ばり、差し出されたものを、ぱしっと払った。
「いらない!」
「バーティン……?」
常日頃にない弟の乱暴に、姉は信じられずに唖然とする。
しかしその理由はすぐにわかった。
「母上が危ないっていうのに、こんなの――」
バーティンは必死に耐えていたのだ。しかし耐えきれなかった。
「わたしは、王になんかならなくたっていい! 母上を助けたいよ、姉上!」
バーティンはアイフェにすがりつく。
「父上に、ぼくを廃して欲しいって、お願いに行こうとしたんだ。そうしたら、母上はぼくの手を取って放してくれなかった!」
アイフェはバーティンの頭をそっと撫でる。
「ごめん、ごめんね。バーティン。ちゃんとやってるわ。いま、一所懸命、捜査中なの。でも、魔神が動いてくれないと、わからないこともあるのよ。魔神が来るのが十五日おきだってわかってるから、それまで」
「ち、違うかも、しれないじゃないか」
しゃくりあげるバーティンに、アイフェは胸をつかれた。いつも聞き分けのいい子だった。しかし、まだ八歳の少年なのだ。
「……そうね。ライルに言って、強い護符を用意してもらう。ライルは使い魔を持ってるから、あなたに預けるようにお願いするから」
「うん……」
バーティンは袖口で目元をごしごしとこする。そうしてばつが悪そうに、払った木彫りを馬を拾い握りしめた。
「ごめんなさい、姉上。ありがとう」
「ファラーシャ様は必ずもとに戻す。あなたの呪いも解く。絶対よ」
「……ぼくに、出来ることはないの?」
いじらしい弟の頬に残る涙のあとを、姉はそっと拭った。
「あなたにできることがあったら、すぐに言うわ。でも、ファラーシャ様を心配させないことが、あなたのしなければいけないことだと思う。姉上の言っていること、わかるわよね?」
バーティンはこくりと頷いた。
アイフェはファラーシャには会わずに、帰った。いまのやりとりのあとでは、とても顔を合わせられそうにはなかった。
居室に戻って、アイフェはミアに呟く。
「はしゃぎすぎたわ……」
市場の話を、バーティンやファラーシャにしようと思っていた。
しかし確かに、それどころではない。ライルに任せれば、魔神の件はなんとかなると、安心しすぎていたのかもしれない。
まだ何も解決してはいないというのに。
「魔術師と買い出しなんて、貴重な体験でしたからね。まぁ、気分が高揚するのも無理はありませんけど、バーティン様にしてみれば、買い物どころの状態じゃありませんしね」
「そうよね。今後、気をつけるわ」
反省するアイフェに、ミアが目を細める。
「わたし、アイフェ様のそういうところ大好きですって、言ったことありましたっけ?」
「ないわ。え、何、どういうところ? 急にどうしたの?」
「そういうところです」
「わかんないわ」
「いいです、わからなくても」
「ミア?」
首を傾げるアイフェに、ミアは柔らかく微笑んでいた。