いとこの愚策
日が高く昇ってきた頃、市場にもひとが溢れ出していた。
真夏であれば、日中に出かける住人は多くもないが、この季節は日があるうちに出かけたほうがいい。夜になれば、肌寒く感じるときもあるからだ。
買い出しに来た主婦や料理人、使いの小僧に遊んでいる子供たちも入り乱れている。
そんな人混みの中を、アイフェは憤然と歩いていた。
「失礼だわ!」
「まあ、男装が見破られてないってことで、いいんじゃないですか」
「よくないわよ!」
ずんずんと進みながら、ふと店頭の小物に目をとめた。
「なんです、急に止まって」
「あれ、綺麗」
そうして引き寄せられるように、陳列されている耳飾りに寄っていく。銀細工の細かなもの、色の宝石がついたもの、大振りなもの、花の形をしたものなど、所狭しと並んでいる。
「そういうの、たくさん持ってるんじゃないんですか」
いまも、アイフェの耳には小さな真珠の飾りが揺れている。
「そうだけど」
「身はひとつしかないんですし、余るほど持っててもどうかと思いますけど」
「それは男性目線の感想よ」
「そうですか……?」
さっきまでの不機嫌はどこへやら、目を輝かせるアイフェをしばらく眺めて、ライルは店の商品に目を移した。
「これが、似合うと思いますよ」
ライルが選んだのは、小さな雫型の紫水晶がついた、銀製の耳飾りだ。
「本当? じゃあ、これにしようかな」
その姿は普通の少女のものであった。選ぶ品も、高級品というわけではない。商人の娘がお小遣いを貯めれば手が届くような代物だ。
アイフェに手渡したそれを、ライルは再び手に取り、店主に差し出す。
「親父さん、これを」
「はいよ、毎度あり」
そうして支払いが済んでから、アイフェの手に戻した。
アイフェはそこでようやく我に返る。
「え、え? 何、自分で買うわよ、なんで?」
「雇い主の、ご機嫌伺いですかね。もっと好条件になるかもしれない」
アイフェは大きな目をしばたたかせる。
「いま提示している以上の条件は、出せないけど……」
アイフェの困惑した様子に、ライルが破顔する。
「まぁ、今後とも、何かお願いすることがあった場合に備えて、とでも思っていただければ――」
そんなことを言っているライルの目に、満面の笑みを浮かべているアイフェが映った。
「ありがとう、大事にするわ」
「え、ええ」
こんなもので王女があれほど喜ぶのが、ライルには意外だった。この王女様は、いったいどういう生活をしているのだろう。
しかし、ライルはあまり深く首をつっこまないことにした。何か、抜け出せなくなるような予感がしたからだ。
そして思ったこととは、別のことを口にする。
「そろそろ帰りましょうか?」
「あの、ちょっと、実はあたしにも寄りたいところがあって」
言って振り向いたアイフェは、狭いわけでもない通りでなぜか男性とぶつかった。
「痛っ」
「と、大丈夫ですか?」
よろけたアイフェを、とっさにライルが支える。
「だ、大丈夫、だけど」
「おう、痛いじゃねえか、姐ちゃん」
体のがっしりしたいかにも無頼漢といった男に、アイフェは謝りながらも、反論しようとする。
「ごめんなさい、でも」
「でもじゃねえよ。ちょっと顔貸してもらおうか」
ぐっと手首を引かれて、振り払えないとわかるや、アイフェは連れを見やる。
「ちょ、ライル! 黙って見てないで」
助けて欲しい――と言いかけたものの、ライルは小さく指を差してみせた。
「いや、でも。あそこにマムッド様がいるんですよね。そもそも、『姐ちゃん』ておかしいでしょう? あなたはリャエドさんが認めた男装の名人なんですから」
こんな状況だというのに茶化すライルにむっとしつつ、その指先を追うと、建物の影でうかがっているのは確かにマムッドだった。
それでもライルは、アイフェの手首を解放するべく、男の手をねじり上げた。
救われた手首を抱きしめるようにしてさすりながら、アイフェは当然苛立っていた。
「なんなの、どういうつもり」
「あなたの危機に現れて救世主を演じる予定なんじゃないでしょうか」
「……最低っ」
そんな少女の怒りなど斟酌するはずもなく、無頼漢は仲間二人を従えて、わかりやすく脅してくる。
「おい、兄ちゃん、邪魔だ!」
だがいきなり、鈍い音とともに、無頼漢のひとりがのけぞって尻餅をついた。
「殴るほうも痛いんですけどね」
相手の顎に見事に当てた拳を振りながら、青年はそううそぶく。
残った男たちは、目の色を変えて、ライルに飛びかかってきた。背は高いが、肉付きがそれほどあるわけではない、非力な若者に見えたのだろう。
しかしライルは、殴りかかってきたひとりをいなし、もうひとりのみぞおちに膝を入れる。そして振り向きざまいなした男の顎に一発拳を入れた。
うずくまる仲間に、最初の男がよろよろと立ち上がる。
男たちとしても、引き下がれるものではない。
「野郎っ!」
その声を合図にしたように、三人は剣を抜いた。
周囲にいた人々も、さすがに悲鳴を上げ、警邏を呼びに行く声も聞こえる。
相手を見て、ライルも短剣を抜いた。一対三である上に、明らかに間合いが違う。それでもライルの口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
四人がまさに剣を交えようとしたとき、人垣が割れ、同じ制服を着込んだ警邏が現れる。
場慣れしているのか、悔しげにライルを睨みつけ、『覚えてろ!』と月並みな捨て台詞で、人混みを押しのけるようにして逃げていった。
そうしてその反対側に、ライルはアイフェの手を取り駆けだしたのだ。
◇ ◇ ◇
ひとにぶつかり罵声を浴びながらも、二人は足を止めなかった。店が途切れる小道をいくつか曲がりながら、喧噪が遠くなる市場の外れまでやってきて、ようやくライルは速度を落とす。
「ここまで来れば、面倒はないですよね」
アイフェは、息をするのに精一杯で返事が出来なかった。
「すみません、速かったですか!?」
そう案じるライルに、アイフェは咳き込み呼吸を整えてから、笑い声を上げたのだ。
「ふふっ、やだもう、面白い――!」
ライルは唖然として、お腹を抱えるアイフェを見つめる。
「どこに、そんなに笑える要素があったんですかね……?」
「色々、よ。ふふ」
乱闘騒ぎも、こんなに必死で走ったことも、何もかもが面白かった。マムッドの底の浅い計略も、いまなら笑って許せそうな気がする。
しゃがみ込んでひとしきり笑ってから、アイフェはライルを見上げた。
「強いのね」
「暴れる怪我人もいますからね」
どんな怪我人なのか聞きたい気もするが、聞く前にはっと気づく。
「あ、そういえば、マムッドは」
「連中が剣を抜いたあたりで、いなくなりましたよ」
「もう、何考えてんのかしら」
「あなたの愛情を獲得できると考えてたんだと思いますけど」
アイフェは額に手を添えた。
「いちいち説明なんかいらないわ……」
「でも随分一途だということですかね」
「一途?」
はじめてそんな単語を耳にしたとでもいうふうに、少女が繰り返す。
「マムッド様がですよ。それほど、あなたに振り向いて欲しいんでしょう?」
「王になりたいからよ。そういうふうにディカ叔母様が仕向けて、そのままマムッドは言いなりになってるだけ」
ライルはその台詞に引っかかった。
「では、そのディカ様が、夫や息子を王にしたいと、考えているということですか」
「そうよ。今回のこれだって、きっと全部ディカ叔母様が焚きつけてお膳立てしたに決まってるわ。ムイード叔父様はあの調子だし、マムッドとあたしを結婚させておけば、バーティンに何かあった場合、王になりやすいって思ってるのよ」
「なるほど……」
アイフェが立ち上がるのに手を貸して、ライルは問いかけた。
「それで、寄りたいところっていうのは、どこですか?」
さっきの騒ぎで何の話か忘れていたが、そういえば、アイフェには寄りたいところがあったのだ。
「ああ、あの、母の乳母――クイサの家がそばなの」
「例のクイサさん。――母の乳母?」
「あたしの面倒も見てくれたんだけど、クイサの愛情はもっぱら母様に向かってたわね。それで、母様が嫁ぐときも付いてきてずっと王宮にいたんだけど、亡くなったときに引退したの。いまでも時々、あたしの様子を見に来てはくれるんだけど」
どこか寂しそうなアイフェに、ライルは何も聞かなかった。
「たまには、あたしから行くのもいいかと思って。王宮を出て、クイサがどんな生活をしてるのか気になるのよ。不自由してないといいんだけど」
「そうですか。でもこの時間帯だと、昼食時なのでは?」
クイサに二人分余計に支度をさせるのも申し訳ないと、二人はまず昼食を取ることにした。
市場に少し入ると、露天店が何軒も出ている。焼いた羊肉と玉葱を薄焼きのパンで巻いたものを買い、別の店で薄荷入りの紅茶を買う。
市場の片隅の階段に座って、道行くひとを眺めながら、二人はそれを平らげていく。
「……あなただってことに誰も気がつかないのは、男装だからですか?」
「違うと思うわよ。みんなあたしの顔なんか知らないと思うもの」
ライルはそう言うアイフェをまじまじと見やる。
「何? 何かついてる?」
「目と鼻と口がついてますね」
「面白くないわ」
真顔の駄目だしに、ライルが肩を揺らす。
「王家の女性は、公の場に出るときは、薄絹を被って楚々として控えているのよ。公式行事に出席することはまずないけど、何か儀式のときなんかに出ても、女性の顔なんか見えないわ。だから、あたしの顔は知らないのよ」
「なるほど。なのに、あなたはこうやってふらふらと出歩いている」
アイフェは、ほんの少し俯いて続けた。
「ファラーシャ様が、母様の侍女だったって話はしたわよね。あのひとは、貴族でもないし、大商人の娘でもないの。父親は船大工で、生まれはちょっと離れた港町だって聞いたわ。あたしは、ファラーシャ様に懐いてたのよ。姉様みたいに大好きで――。ファラーシャは色んな話をしてくれたわ」
生まれた町の風景、旅人から聞く異国の話、そうしてはじめて目にしたときの都の印象。
「あたしは、何も知らなかったの。ずっと母様とクイサと一緒で、たまに父様もいるけど、ずっとずっと王宮しか知らなかった」
「王女様なら、それが普通なんですよ」
「かもしれないわね。でも、だからいつもファラーシャと一緒にいたの。とても楽しかったから。そうこうしているうちに、父様がファラーシャを見初めたのよ。父様の目は確かだって思うわよ」
そうして顔を上げる。
「ファラーシャが聞かせてくれた世界を、いつか自分の目で見たいって思ってた。ファラーシャが父様の妃になって、母様はあたしのことを凄く怒った。その頃、父様はミアをあたしの侍女につけてくれたの。ファラーシャが、自分の代わりをって、言ってくれたんですって。ミアはあんな感じだったのよ、最初から。あたしが外へ出たいって言ったときも、渋々だけど計画を立ててくれたの。はじめて出かけたときはね、出かけたことを誰にも気づかれなかったのよ」
「気づかない? 誰も? 王女がいなくて?」
そんなことあるだろうか、とライルが疑うと、アイフェは悪戯っぽく続けた。
「具合が悪くて寝込んでいるって言ったの。母様にも、病気が移るといけないからって。食事も断ったから。それに味をしめて、でも二回目には、ばれたわ。クイサに思いっきり怒られた。ミアなんかクビになりそうだったのよ。母様は父様に言いつけた。でも父様は、持て余したようにため息をついただけだったわ」
アイフェは紅茶で喉を潤す。
「妃になって、ファラーシャは自由に外へ出ることができなくなってしまったでしょう。だから、今度はあたしが話をしようと思ったの。怒られても懲りずに出かけるうちに、みんな慣れたみたいで、段々小言も減っていったわ」
そうなんでもないことのように、アイフェは笑った。
途中から、王妃に敬称を付けることも忘れ――幼い頃の思い出のままにアイフェは語る。
そして、じっと自分を見るライルに気づく。
「あ、ごめん。つまらないわよね、こんな話」
「いえ、十分楽しかったですよ。なんとなく、ミアさんの気持ちがわかったような気がします」
「ミアの気持ち? 何?」
ライルは小さく笑うだけで、答えない。
「どういう意味よ?」
「たいしたことじゃありませんよ。食べ終わったのなら、行きましょうか?」
「もう。気になるじゃない。いいわよ、ミアに聞くから」
拗ねたような口調に、ライルがあとをついていく。
そういう理由があるのなら、忍び歩きを咎めるわけにもいかず、ただ供をするしかないだろう。