王弟ムイード
王宮に戻って、ライルはアイフェと歩いていた。王一家の住まう宮殿ではなく、王弟一家の宮殿へ向かっているところだ。
「ムイード王弟殿下と、その子息のマムッド殿下でしたっけ?」
「そう。ムイード叔父様は、いつもは領地で馬の繁殖に勤しんでるわ。いまは王宮にいるけど、二、三日中にまた領地のほうへ行くって聞いたの」
「ええと。領地? 馬?」
意外な言葉を耳にしたように、ライルが聞き返す。
「叔父様は子供の頃から馬が好きなんですって」
「国王陛下は、それでいいんですか?」
「父様が? どういう意味?」
「良い馬は戦にはもってこいでしょう。反乱を起こされたらどうするつもりです?」
アイフェはまるで不思議な話でも耳にしたかのように目を見開く。
「そうか、そういうこともあるのね。でもきっと大丈夫よ」
「……大丈夫の根拠はどこにあるんですか」
軽く呆れたような口調に、アイフェは手を振った。
「ムイード叔父様は、王都にもしょっちゅう来てるし、そういう感じじゃないのよ」
アイフェはムイードを慕っていた。近づきがたい父より、ずっと親しみが持てたからだ。確かにちょっと面倒なところもあるが、アイフェが何をしても何を言っても、いつもちゃんと相手をしてくれる。
なぜあの強烈なディカと結婚したのか、なぜマムッドのような息子が生まれたのか、謎である。
「では、その息子は?」
「はっきり言って愚息ね」
たちまちアイフェの眉間に皺が寄る。
「我がいとこながら、芯がないというか、流されやすいというか、なんというか」
憮然とするアイフェに、嫌な思い出でもあるのかとそれ以上追求せず、ライルは別のことを尋ねた。
「これから行くムイード様の宮殿に、魔術師が出入りしているような形跡は? 堂々を出歩きはしないでしょうけど」
「ミアにも聞いてみたけど、侍女たちは何も言ってないみたいよ。怪しい出入りはないし、忍びで出かけた様子もないわ」
そうしてちょうどいい間合いというか、マムッドが向こうからやってきたのだ。今日も一分の隙もなく、全身を飾り立てている。
「アイフェ!」
アイフェはライルを見上げて小声で教えた。
「あれがマムッドよ」
そうこうするうちに、マムッドがアイフェの前に立った。
「アイフェ。どこへ行っていたんだい。今日はわたしと遠乗りに行くはずじゃないか」
「遠乗り? 約束なんかしてないわ」
「ああ、わたしが誘っているんだよ、断らないだろう」
アイフェはその言葉の意味を飲み込んで、怒りのあまり絶句した。
ライルは珍しい生き物でも見るかのように、マムッドを見ている。
「――あたし――忙しいの――。じゃあ――」
そうしてアイフェが一歩を踏み出したときに、マムッドは少女の脇にいたライルの全身を無遠慮に眺めやってから顎をしゃくる。
「アイフェ。その男は? 新しい従者? 陛下からの」
「魔術師よ」
アイフェは、ライルのことは魔術師だと言って歩くことに決めていた。そのときにどういう反応を示すか。魔術師がバーティンの呪いを解くために動き出したら、首謀者がどう動くか。
それが見極められると思ったからだ。
マムッドは、目に見えて動揺した。
「ま、魔術師だって?」
「そう。あたしが雇ったのよ。バーティンの呪いはあたしが解いてみせるわ。あの子が王になるのよ」
宣言に、マムッドは怯みながらも、余裕ぶって見せた。
「お、お手並み拝見と、い、いこうじゃないか」
そうして虚勢を張ったままその場を去っていった。
その後ろ姿を見送って、ライルが口を開く。
「よくわかりました。俗物って感じですね。あれが王になったとしたら、初代王も泣くに泣けないでしょう」
「バーティンが王になるのよ、マムッドじゃないわ」
断言するアイフェに、ライルは肩を上下する。
「あんなふうに啖呵を切って」
「逃げ道はないわよ。あなたには絶対に呪いを解いてもらうから!」
ライルはもう一度ため息をつく。
「マムッド様に話を聞けなくなりましたよ」
「放っておいてもいいと思うのよね。何かできるとは、あたしには思えないわ」
「はぁ、まぁ、あれが素の状態なら、そうでしょうけど」
「素よ。裏も表もないわ。ムイード叔父様は宮殿の厩舎にいるわよ、きっと。城にいるときは一日中あそこだもの」
行きましょう、と先を行くアイフェに、ライルは続くしかない。
◇ ◇ ◇
集合住宅と見まごうばかりの巨大な厩舎に、ライルが感心したように吐息を漏らした。
「これはまた、立派な厩舎ですね」
何頭もの毛並みのいい馬が並ぶ中、アイフェは叔父を呼んだ。
「ムイード叔父様! 叔父様、どこ?」
そうして馬のあいだから、ひょこっと顔を覗かせた四十歳前後の男性がいる。
「アイフェ? なんだね、馬を見にきたのかね」
ムイードはにこにことアイフェに寄ってくる。髪はぼさぼさで、着ている装束にも干し草や泥がくっついている。しかしがっちりとした体格は堂々としたもので、きらめく瞳は少年のような印象を与えた。
「ご覧、立派な葦毛だろう。ハリーク兄上が新しい馬を買ったというので見にきたんだよ。うちの牝馬と掛け合わせてみたいとお願いしたところなんだ」
「あの、叔父――」
「次に来るときには牝馬を連れて来ようと思っているんだ。いい馬が出来たらバーティンの馬にしてもいい。そうだろう? わたしは漆黒の馬にいま凝っていてね。黒と黒を合わせても違う色が出てくるんだよ、不思議だと思わないかい? 色より足にこだわるべきだっていう話もあるけど、艶やかな黒はとても」
「叔父様!」
「うん? なんだね?」
アイフェはムイードの言葉を必死に遮った。
「叔父様。こちら、魔術師なの」
「魔術師?」
きょとんとした顔で、ライルを見やる。
「王宮で呪いの話は耳にしていない?」
「呪い? 物騒なことだね。でもハリーク兄上がなんとかしてくださるよ」
任せておけば問題ないと、全面的な信頼を寄せ微笑むムイードの表情は、嘘をついているようには見えなかった。
やっぱり知らないか、とアイフェは聞こえないように漏らす。
ムイードはふと思い出したように話し出した。
「呪いといえば、以前、バーティンに似たようなことがなかったかね」
「え、ええ。バーティンが生まれた直後に、ラザーク叔父様が父様を――」
ムイードは悲しげに首を振った。
「ああ、そうだ。ラザーク。ハリーク兄上と同腹だというのに……。魔力を持って生まれたものの、王位に遠い四男であるということに、鬱屈していたのだろうかねえ。サヒード兄上がおいでなら。どうしただろうねぇ……」
何に思いを馳せているのか、遠くを見ながらそう呟く。
そこでライルが気を遣いつつ、口を開いた。
「あなたには、その……、魔力は、ないんですか?」
「ああ、ないとも」
ムイードはどこか誇らしげに見えた。
「あったら玉座を望みましたか?」
不躾な質問にも、ムイードが機嫌を損ねた様子はない。
「あの世界を? わたしはお断りだね。ハリーク兄上がすべて背負ってくれている。お陰でわたしは好きな馬と過ごせる。幸せなことだ」
ところで、とムイードはライルを見やった。
「きみは何色の馬が美しいと思う?」
ライルの名前を聞く前に、ムイードはそんな問いを発した。