早起きと寝坊
勝手知ったる叔母の邸だ。
ライルが使っている部屋の扉を叩いても、なんの反応もない。
アイフェは、ごちっと扉に額を押しつけた。
口付けてしまったのはつい一昨日のことだ。しかもこの邸のこのライルの部屋で。しかしあれは、別におかしな意味合いをもったものではない。
しかし、落ち着いて考えれば、別に口ではなくともよかったのだ。腕とか、手とか、他にも適切な場所はもちろんある。
思い返せば返すほど、焦っていたとか必死だったとか、言い訳はできるものの、恥ずかしいことこの上ない。
しかし、やってしまったことはもとには戻せない。次は気を付けよう、次はないと思うけど。
ぶんぶんと記憶を放るように首を振り、よしと気合いを入れて、アイフェは扉をそうっと開けるが、やはり物音ひとつない。
そうしてそのまま部屋に入ると、すぐに見えたのは、散らばっている書籍の山だ。
「ああ、写本……。まとめてたのね……」
医学書を写したいと言っていた。勉強にもなるからと。
悪いことをしたと思いつつ、アイフェも必死だったのだ。この件が落ち着いたら、できるだけ便宜をはかろうと心に誓う。
そうして続きになっている奥のほうへそろそろと進む。寝台にかかっている布団は、ひとの形に盛り上がっていた。
「ライル……?」
朝なのだ。起こしに来たのだ。そんな使命感を言い訳に、アイフェは悪戯心をあおられた。
「朝よ! いい加減起きなさい!」
ばっと布団を剥ぐと、裸の上半身が出てくる。
一瞬の、間があった。
「っきゃああああああ!」
屋敷中に響き渡るような悲鳴に、さすがにライルも跳ね起きる。
「な、何? あ、え、なんでここに」
何が起こったのか理解できていないライルが、アイフェの姿を見て瞬きを繰り返す。
アイフェは顔を背けて、指を差した。
「な、なんで裸なのよ!」
「ああ、昨夜はなんだか寝苦しくて……。それに裸じゃないです。下衣はちゃんと」
「いいから! 何か着てちょうだいっ。女性の前で失礼よっ」
「あなたが勝手に入ったんでしょうが……」
そうして衣擦れの音に続き、顔を洗っている音にようやくアイフェが振り向く。
「あー、しまった、寝過ごした……」
夜着を上下着込んで伸びをするライルに、赤面したままのアイフェはようやく息をついた。
「ところで、これから着替えますけど」
「出て行くわ!」
最初からそうすればよかった、と言い置くアイフェに、入らなければよかったんですよ、とライルはぼそりと呟いた。
そうして着替え終わるまでアイフェはライルの部屋の前で待っていたのだ。
「だいたい夜着を着直すってどうなのよ。起きたときにちゃんと着替えればよかったじゃない」
ぶちぶちひとりごとを垂れ流しているアイフェだが、そもそも年頃の少女がいる部屋で、着替えなどできるわけがないということには、思い至っていない。
扉の前で腕を組んで立っているアイフェに、身支度を整えて出てきたライルは苦笑する。
「ぼくが逃げるとでも思ってたんですか」
「二度寝されたら困るからよ」
そんな言い合いをしながらケイヴィラの前にやってくる。
ケイヴィラはおっとりと二人を迎えた。
「まあ、悲鳴が聞こえたようだけど」
「だって、叔母様」
「彼女が王女様だって忘れてましたよ。でも、好き好んで入った部屋にいた男の裸体で悲鳴をあげるだなんて」
「いかがわしい感じに言わないで!」
叫ぶアイフェにライルは耳を押さえている。
「顔が赤いですよ、何か薬を調合しましょうか?」
「いらないわ!!」
そんなアイフェの反応が面白くて、もっと構っていたかったようだが、さすがにケイヴィラがやめるようにと首を振っている。
「ええと……。それで? どうしたんです、こんなに朝早くから」
「それほど早くもないわ」
ライルは外を眺めて、確かに、と頷く。
「昨日、道具を買いに行くようなことを言っていたでしょう? もう手に入れた?」
「いえ、すみません、まだです。写本のほうのあれやこれやで」
アイフェは仕方がないというふうに息をついた。
「わかったわ、それはしようがないわね。今日は、迎えに来たの。ムイード叔父様がそろそろ領地のほうに行くって小耳に挟んだから、話を聞くなら急がないとって思って」
しかしケイヴィラは朝食の真っ最中で、ライルにも当然勧めてくる。
「とりあえず、ライルには食事くらいさせてあげなさい、アイフェ」
「そ、それは、もちろん」
アイフェは壁際に置かれた長椅子に座り、女中から甘い珈琲を受け取って、二人が食事をしているのを眺めている。
絨毯に広げられた食布の上には大きな盆があり、小麦粉を水で練って薄く焼いたものに香辛料の効いた羊の挽肉を挟んだものや、数種類の豆を入れた卵焼き、炒めた葉物野菜に、糖蜜の糸素麺菓子や干し無花果が並んでいる。
明らかに、ケイヴィラひとりのときとは食事内容が違う。ケイヴィラは食が細く、朝食などは珈琲と果物で済ませてしまうことがままあった。
案の定、ケイヴィラは少しずつ手を付けただけで、食事は次々にライルの口の中に消えていく。
大量の食料がどこに入るのだろうと、思う。背は高いが、どちらかと言えば細身だ。もっとも、つくべき筋肉はついている――と確認したばかりの事実を思って、ぱっと頬を染める。
そんなとき、ライルと目があった。
「……観察されてるみたいで、食べにくいんですけど……」
ライルがそう苦笑すると、アイフェがわたわたと手を振った。
「ご、ごめんなさい。ゆっくり食べてちょうだい」
「そうさせていただきますけど、それはともかく、あなたはまたひとりでうろうろしているんですか?」
ミアの姿がないことに、ライルは気づいていた。
「違うわよ」
アイフェはケイヴィラにしたのと同じ言い訳を繰り返した。
「ミアにはちゃんと休みを取らせたいの。あたしはバーティンの呪いを早くなんとかしたいの。そうしたら、こういうことになるでしょう?」
「まぁ、そうですね。ひとりでふらふらされるよりはずっといいでしょうけど。ミアさんは、あなたの性格をよく把握しているようですね」
「何よ、無謀とでもいいたいの?」
「自分の立場が軽いなんて言う王女様の性格ですよ」
小さく火花を散らす二人に、ケイヴィラが割り込む。
「あなたの立場が軽いなんて、誰が言ったの?」
「え、そ、れは――」
ケイヴィラは追求しなかったが、アイフェが自身を蔑んでいるのだと、わかっているのだろう。
「あなたは現在この国の唯一の王女で、本来であれば、王宮の奥深くにいなくてはいけないのよ」
「でも! バーティンが!」
ケイヴィラは笑いながらも、たしなめる。
「バーティンを理由にするのはよくないわね。この件は関係ないでしょう? あなたは随分前からふらふらと出歩いているもの」
そんな指摘に、ぐっとアイフェが詰まる。
「そうなんですか?」
「そうなのよ。ここや、市場をうろつくくらいなら、随分前からね。付き合わされるミアが困っていたわ」
ライルがじっとりとアイフェを見やる。
「と、とにかく。それはあたしの問題よ。あたしとミアの」
「その通りですけど」
「でしょ。そんなことより、約束通り、写本師は雇ったわ。あなたもちゃんと仕事をしてちょうだいね」
食事が終わり、珈琲を手にしたところを見計らって、そう訴えるアイフェに、ケイヴィラも同意する。
「そうね。ファラーシャ妃がお気の毒よ。早く呪いを解いてちょうだいね、ライル。それに、このままで王家の沽券に関わるわ」
「え? 叔母様、それどういうこと」
「もしこのまま、ファラーシャ妃を見殺しにしてしまったら、バーティンは母親を見捨てた王になることになるわ。ハリーク兄王陛下も王妃を見殺しにしたことになる。陛下は自身と国家のためにしか魔神を使えないというのに、悪し様に言うものも出てくるでしょうね」
アイフェは様々な可能性に、ようやく思い至った。
「父様にはこのことは」
「きっともうお耳には届いているでしょうね。王宮には、色んなひとがいるもの」
賢しらに忠告するもの、余人を蹴落とそうというもの、権力に取り入ろうとするもの。そんな連中が放っておくような出来事ではない。
「じゃあ、どうして手を打たないんでしょう?」
ライルの疑問に、アイフェが答える。
「言ったでしょ。国のためじゃなきゃ」
「王しか守らない使い魔だって、魔術師探しくらいはできるでしょうに」
それにケイヴィラが考えを口にした。
「ファラーシャ妃から直接願いをしていないからなのだと思うわ」
「ああ……。それはあり得ますね。王太子を廃されるのを、気にしていましたから。でも、何か手を打って」
「兄上は、きっともうすべてご存知だとは思うの。でもファラーシャ妃から言ってこない限り、無視するつもりなのよ」
そうすれば、バーティンを廃する必要はないと、二人とも思っているのだろう。
ライルは腕を組んで険しい顔をした。
「命より息子の地位が大切なんですか?」
「この場合はね」
「王家っていうのは、外面が大事なんだっていうのがよくわかりましたよ」
不服そうなライルに不安だったのか、アイフェが念を押すように言う。
「やってくれるんでしょう?」
「写本師五人分ですから、やりますよ」
ライルは淡々と応じた。
「ただぼくは、命のほうが大事だと思っていますけどね」
アイフェは、きつく唇を引き結んだ。