侍女が休みの日
鼻歌まじりで嫌いな刺繍に臨んでいるアイフェに、ミアが思わずこう聞いた。
「アイフェ様? ご機嫌ですね」
「ええ。バーティンの呪いが解けそうなんだもの」
刺繍を進んでやっているからといって、その出来が良いわけではない。
しかし賢明にもミアは、やる気が出ている女主人の機嫌を損ねるようなことはしなかった。
「あのライルってひとが、協力してくれるとは思いませんでしたけど。もしかしたら、下心があったのかもしれませんね」
ミアがアイフェにちくりと言うと、アイフェは顔を覆ってしまいたくなるような羞恥を必死で押し隠した。
体が動いてしまったのだ。器物に魔力が宿るというのであれば、自分にだって宿るかもしれない。
アイフェは単純にそう考えたのだが、別に頬や額にでも試してもらえばよかったのである。
それにしたって、よくよく思えばかなり勇気のいることだ。
あのとき、自分はいったいどうしていたのだろう。
「アイフェ様? 顔が随分赤いですけど?」
「なんでもないわ! ライルに、し、下心なんかあるわけないでしょ。報酬を弾んであるんだもの!」
「写本師五人でしたっけ? 陛下にお願いしていたらいかがですか? アイフェ様のお小遣いがなくなってしまいますよ」
そんなミアに、アイフェが強く言う。
「だめよ。ファラーシャ様は父様に知られたくないんだから」
「遅かれ早かれ、いずれお耳に届くことです」
「それまでにはなんとかするわ」
「無茶はなさらないでくださいね」
「うん――。ミア」
随分真剣な声音で呼ばれたような気がして、ミアが自分の刺繍から顔を上げる。
「なんです?」
「ありがとう。いつも」
「……はぁ?」
いきなりの感謝に、ミアは気の抜けたような声を出した。
「アイフェ様、具合でも悪いんですか。そういえば、自主的に刺繍なんておかしいですよ。熱があったりとか、頭が痛かったりとか」
「どこも悪くないわよ。いつも感謝してるのよ、これでも!」
一瞬胸を突かれたような表情をしたミアだったが、その感動に流されることはなかった。
「本当にそう思ってるんでしたら、もう少し行動を控えてください」
「そこは、いい加減慣れてちょうだい」
「……慣れましたよ、もう……」
眉尻を下げるミアだったが、思い出したというふうに告げた。
「アイフェ様。明日のわたしの休日の件ですが。返上します。また日を改めて。代理の侍女が見つからないんですよ。わたしは別に休日はなくとも、問題ないですし」
「そんなの、だめよ。ちゃんと休まないと。城下で買い物するなり、図書室で本を読むなり、息抜きが必要でしょ」
「ですけど、代理が」
「一日くらいあたしひとりでもなんとかなるわよ。珈琲くらい」
「淹れられます?」
「――お水を飲むわよ」
ため息をつくミアに、アイフェは言い張った。
「大丈夫だってば」
「おひとりで勝手に出歩かれたりとか」
「……」
「アイフェ様ったら、正直者」
ミアはじっとりと女主人を見据えた。
「だって、出かけたくなるかもしれないじゃない。バーティンのことで緊急事態があるかもしれないし、あたし、できない約束はしないわよ」
「アイフェ様のそういうとこは美徳なんでしょうねぇ……」
「しみじみ言うのはやめてちょうだい!」
ミアは微苦笑を浮かべる。
「クイサさんに声をかけましょうか」
「冗談よね?」
クイサのことは嫌いではない。嫌いどころか好きなのだが、苦手意識があるのはどうしようもない。幼い頃から、出来の良かった母と比べられ、躾られてきた。クイサは『怖い人』の上位に分類されている。
「でも、じゃあ、やっぱり延期を」
「わかった! 出かけるときは誰か一緒に出るから。ひとりでは出歩かない。約束する」
「そうですか……?」
疑わしげなミアに、アイフェはこくこくと首を振った。
◇ ◇ ◇
アイフェは、ケイヴィラの屋敷を訪れていた。
「叔母様、おはようございます」
「おはよう、本当に早いわね」
朝食前の珈琲を味わっているところで、ケイヴィラは苦笑する。
もっとも一般市民はとっくの昔に仕事をはじめている頃なので、ケイヴィラには自分が遅いのだという自覚はちゃんとある。
「アークにも、叔母様は起きたばかりだって言われたんだけど、出直すのも面倒だったから無理に通してもらったわ」
「悪い子ね。アークにあなたが止められないことは、わかっているでしょう」
隅に控え恐縮しているアークに頷いて見せて、ケイヴィラはアイフェを眩しそうに見やる。
この姪は常に全力疾走をしているようなものだと思う。いつか息切れをして、倒れてしまいそうだと不安になる。
しかし、それを伝えたところで、きっとアイフェは変わらないのだろうとも思っていた。
それにしても、自分が王の娘として王宮に暮らしていたときは、もっと寝坊だったような気がする。
そんなことを片隅に押しやりながら、姪の背後をうかがった。
「あなた、ひとりなの? ミアは?」
「今日はお休みなの」
「代わりの侍女は?」
「日が合わなくて、今日はいないのよ」
ケイヴィラはさすがに眉間に皺を寄せた。
「馬鹿なことを。あなたは王女なのよ。代わりの侍女くらい真っ先に」
「必要ないわよ、叔母様」
「でも……。あなた、ここまでひとりで来たの?」
「ううん、バドリと一緒。えっと、裏口の門番なの。ここまでちゃんと送ってもらったわ。ミアと約束したの、ひとりで出歩かないって。でもバドリは仕事があるから、帰ってもらった。ここからは、叔母様にひとを借りようと思ってるの、いい?」
上目遣いでねだられて、ケイヴィラは承知する。
「ええ、それはもちろん……。あなた、朝食は済んだの?」
女中たちが並べはじめた食事を前に、ケイヴィラはアイフェを案じた。
「食べたわ。ミアがちゃんと手配してくれてあったから」
アイフェはそう笑って、問いかけた。
「と、ところで、ライルは?」
「そういえば、今朝は少し遅いようね。まだ寝ているのかしら……。あなた、どうしたの? 熱でもあるのではない? 顔が随分赤いようだけど」
「平気よ、叔母様、今日はちょっと暑いだけ!」
そうかしら? とケイヴィラは外を眺めて首を傾げる。
アイフェはさりげなく頬を隠すように、体を動かした。
「それより、ライルはまだ寝てるのね?」
「いつもは、わたくしよりずっと早起きなのだけどね。昨夜遅くまでごそごそしていたようだから」
「ごそごそ? でも朝食なんでしょう? あたし、ちょっと起こしてくるわ」
「あら、アイフェ?」
止める間もなく、アイフェの足はライルの居室へ向かっていた。