とある四つ辻にて
某小説賞の落選作です。それをふまえてお読みいただけるとありがたいです。
それは、女性の拳の中にさえすっぽり入ってしまうような、小さな硝子の瓶だった。
瓶の底にはうっすらとだが、文字が刻まれている。
読めはしなかったものの、教えてはもらっていた。
きゅっと、樫の木の皮で出来た蓋をひねりながら、外す。
そして、震えた。
それは歓喜の震えだった。
これがあれば、すべての望みを叶えることができる。
そう、思った。
◇ ◇ ◇
バーティンを廃せ
さもなくばその命
時を駆けるものと知れ
東に遙か見える水平線から昇った太陽は、西に広がる沙漠に姿を消しつつあった。
日没と同時に鳴る銅鑼の音が、つい先程、響いたところだ。それは、王都イヴラの市門が閉まる合図である。
砂埃の舞う道を来た旅人は、無事に着いただろうか。それとも、遠くその音を耳にしただろうか。
もっとも、市門の内外への出入りが禁止されるだけであって、内側にいる人々にとって、特に規制があるわけではない。
日中の暑さを避け、日が落ちてからはじまる作業も少なくはないからだ。
しかし、妙齢の女性が二人だけで出歩いているという状況は、あまり一般的とは言い難いものだった。
年長のほう――二十歳過ぎと思しき長身の女性は、腰まで届く真っ直ぐな長い髪を揺らしている。美しいというよりは人好きのしそうな面差しで、何やら怯えたふうに周囲に目を走らせていた。
その横にいる十五、六歳の少女は、軽く波打つ髪を邪魔そうに払い除け、きょろきょろと何かを探すかのように、大きな双眸を忙しなく動かしている。
どこかおどおどとした年長の女性が、少女の腕をがしっと取った。
「アイフェ様。ねえ、ちょっと。暗くなりますよ、怖いですってば」
少女――アイフェは、小さくため息を漏らした。
「もう! 帰ってもいいわよ、ミア。ついて来てなんて、言ってないわ」
その言葉に、女性――ミアがぶんぶんと首を横に振ると、長い髪がさらさらとあとを追う。
「馬鹿なこと言わないでくださいよ! ひとりで行かせたなんてクイサさんに知られたら、わたし、侍女をクビになっちゃいます!」
「今日はクイサが来る予定の日じゃないし、ばれないわよ」
「でも」
「それにばれたところで、クイサにそんな権限はないわ。前にも言ったでしょ?」
権限はなくとも押し切りそうだ、とはミアは言わなかった。それにどれほど邪険にされても、侍女という彼女の立場では、この少女だけをここに残していくわけにはいかない。
「そもそも、アイフェ様。どうしてこの辻なんですか? 辻なら他にもありますよ?」
広場を持つ大通りは、侵入してきた敵が直進できないように、互い違いに道が繋がっているため、四つ辻はない。しかし小さな辻なら、この王都内には、それこそ数え切れないほどあるのだ。
ここは西市場のはずれにある小さな四つ辻だ。昼間であればもちろん、商人や買い物客で賑わっている道なのだが、この時間帯では市場の大半の店舗は閉まり、当然のことながら客もいない。
闇の迫り来る人気のないこの四つ辻は、はっきり言って不気味だ。
なぜここを選んだのだろうと、訝るミアの質問も、無理のないものだった。
それにアイフェは胸を張る。
「図書館で占星術の本を読んだの。それを実践してみたら、この辻が良いって出たのよ。あたしのためになる存在がここにあるって、出たの!」
しばし、沈黙が場に落ちた。
「……アイフェ様、占星術なんてできましたっけ?」
「はじめてやったわ」
「アイフェ様……」
こめかみ辺りに指を添え、再びミアは何かを言いかけたが、それはアイフェに止められた。
「しっ」
誰か来た、とアイフェは暗くなりつつある世界に目を凝らしたのだ。
ジャウハラ王国は北東から南西に長い国である。
北西方向には沙漠が広がり、他の三方位は海に囲まれていた。もっとも、西側の海は、天気のいい日には隣国が見えるほどの幅の海ではあったが。
その国の東端にある都市マディンは巨大な貿易港として栄え、王の住まう都イヴラに次ぐ規模を誇る。
そのマディンから北西に向かった沙漠の入り口辺りにある、バッラ村というところに、ライルは父母と三人で暮らしていた。
マディンは都会であるが、沙漠の入り口は僻地である。
そんな僻地のバッラ村にも、商魂逞しい商人が組んだ隊商はやって来る。もちろん、住人がいる以上、来てもらった方がありがたいに決まっている。
隊商は品物の売買だけをするわけではなかった。手紙の集配や配達、そして向かう先が同じなら、旅の連れにもなる。
今回、ライルは、リャエドという四十代の男性が隊長をしている隊商に同行して、王都イヴラまでやって来た。
はじめてリャエドと会ったのは、およそ三年前になる。リャエドが行き倒れの旅人を拾ったことが、きっかけだった。
ライルの母はバッラ村で唯一――というより、近隣で唯一の医者であり、ライルの父でもあるその夫は薬師だったため、リャエドはそこへ旅人を担ぎ込んだのである。
幸い、その旅人の衰弱は空腹と疲労によるものだったため、ライルの家で数日休養した結果、健康を取り戻し、再び目的地に旅立っていった。
その時のライルの両親の対応――旅人ということでほぼ無償だった――にいたく感激したリャエドは、それ以降、この地方に来るときには、必ずライルの家に寄るようになった。ライルの両親も、手に入りにくい薬草や医学本などを注文するようになり、親交を深めていったのだ。
ライルが王都に来ることになり、リャエドが一緒なら大丈夫だと、両親は全幅の信頼を置いていた。
「本当にここまでで大丈夫かい、ライル?」
髭を蓄え日に焼けた精悍な顔立ちを曇らせながら尋ねるリャエドに、ライルは笑顔で答える。
「大丈夫ですよ。ありがとうございました。リャエドさん」
「……先生たちに、目的地まで送るようにって言われてんだけど」
「王都が目的地ですが?」
「でもな」
「ぼくは、もう十九歳になるんですよ。小さな子じゃないんです」
骨格のがっしりさではリャエドに負けるものの、身長は一年ほど前にライルが追い越している。
どこからどうみても立派な男なのだが、リャエドにとってはまだまだ子供なのだろう。
しかしリャエドの不安は、体格年齢の問題とは別のところにあった。実は、ライルは方向音痴で有名だったのだ。うっかりすれば、家の中でも迷うという。
とはいえ、リャエドにもリャエドの仕事がある。
ライルとしては、自分がそれほど方向音痴だという自覚はないし、本当に、ここまでで十分だった。
「すぐそこですから」
リャエドは葛藤を無理矢理封じたような、ため息をついた。
「わかった。じゃあ、またな。おれはしばらくこの西隊商宿にいるし、横にある西市場に店を出すから、何かあったら必ず来てくれよ」
「そうします」
そうしてライルは、心配そうな顔を隠しもしないまま隊商宿に入っていくリャエドと、別れたのである。
小さな要塞めいた隊商宿の前から足を動かしたとき、ライルは太鼓の音を聞き、リャエドに言われた注意事項のひとつを思い出す。
市門は一度閉まってしまえば、次の夜明けまで開くことはない。緊急時用に小さな通用門はあるが、基本的に出入りは門が開いている時間だけだ。入り損ねれば、そういった商人や旅人を当て込んで作られた、市門外の宿に泊まるか野宿しかない。
リャエドのことだからもちろん計算しての道程なのだろうが、市門が閉まる前に着いて良かったと改めて思い、ライルはゆっくりと歩を進めた。
しばらく行くと、足下に珍しい葉が落ちていたので、しゃがんで拾ってみる。しかし結局は見慣れたものだったので、それを放り出してまた歩きはじめた。
ライルが目指す彼女の邸は、西広場の通りを北へ真っ直ぐ、王宮方面に向かえばいいと聞いていた。その途中に邸はあるから、すぐにわかるはずだと。
リャエドとは、西広場の角にある隊商宿で別れたのだ。そのまま北へ、間違いなく、向かっていた。
それなら王宮は右手側にあるはずなのに、なぜ左側に見えるのだろう。
小さな四つ辻付近で、ライルはとうとう足を止めた。
リャエドの懸念は、懸念に終わらなかったかもしれない。
「迷った……?」
しかしライルには、なぜ迷ったのか理解できなかった。
言われた通りに進んでいたつもりだ。
先のほうはよくわからないが、見える範囲には民家ばかりで、夕食時なのか人気もない。
ライルは日が沈んだ藍色の空を眺め、昇りつつある月を眺め、周囲を眺めた。
そしておもむろに、右手の中指にはめていた指輪に口付け、呼んだ。
「エーフ」
『はいよ』
たちまち呼びかけに応じたのは、指輪――指輪の中から出てきた一条の細く白い煙だった。
そしてそれは六、七歳の男の子の姿を取ったのだ。幼児から少年に変わりかけた華奢な体に、悪戯っ子のような笑みが口元にある。一見したところ、犬や猫を追いかけ回したあげく逆襲されて生傷だらけになるような、ごく普通の腕白小僧なのだが、その耳の先が随分尖っていた。
人間と異なる尖った耳は、どんな魔神にも共通する特徴だ。
「エーフ。ケイヴィラ様の邸はどこだろう?」
少しだけ腰を屈めて視線を合わせるライルに、呆れたように腰に手を当てエーフは片方の眉を上げた。
『また迷ったのか? 何、探せってこと?』
「あれ? できない?」
『できるよ! ちょっとここで待ってろよ!』
負けず嫌いの子供がむきになったような口調で言い置いて、エーフはふっと姿を消した。
この後は、水曜日と土曜日の昼に更新予定です。
現在ネット環境が不安定なため、ちゃんと更新できるか不安ですが、よろしくお願いいたします。