求婚された理由
(なに……?)
体を揺り動かされた違和感に目を覚ますと、ディートリンデは大きな影に見下ろされていた。
何度か瞬きをすると、影の正体と――緋色の瞳と目が合っていることに気づく。
「ディー、目覚めたか」
「っ!?な、何――」
一瞬にして身を固くしたディートリンデを無視し、エドムントは淡々と伝える。
「何って、ソファで寝ていたから運んだだけだ」
「……お、お手を煩わせてしまい申し訳ございません」
「謝らなくていい。だけど、目覚めてくれてよかった。今宵は初夜だからな」
「……しょ、や」
エドムントはキョトンとした顔をして、覆い被さろうとしていた体を起こした。
ベッドの上にあぐらをかいて座る。
ディートリンデはそれを見て、急いで夜着の乱れを整えてできる限り距離を取る。
ベッドから落ちそうな位置でエドムントと向き合うように姿勢を正す。
ディートリンデの表情は硬く、視線は忙しなく動いている。
一方、エドムントの顔にはなんの感情も浮かんでいない。
(それにしても、目のやり場に困るのだけど……。服の上から見るよりも逞しいのね……)
エドムントは簡単なシャツとゆったりしたズボンだけの姿だったが、はだけたシャツの隙間から厚い胸板や割れた腹筋がチラリと見えていた。細かな傷跡も見られるが、それが妙に色気を出している。
ディートリンデの目には、シャツのはだけ方も、湯浴み後だと思われる少し濡れたままの髪も艶かしく、大人の色気が漏れているように映っていた。
今年二十五歳になるが、生い立ちや未婚の王女の侍女という仕事柄、男性免疫が薄かった。
「ファンデエンでは初夜と言わないのか?」
大人の色気にあてられて意識が散漫になっていたが、(そうだ。何を言っているのか確かめないと)と意識を集中させる。
「初夜とは、その、夫婦になった者同士が最初の夜に、その――」
「それだ。同じではないか。私たちは夫婦となったのだから今夜は初夜だ」
「…………」
「どうした?結婚の儀をしたではないか」
「そうなのですが……そのようですが……その……」
「ファンデエン流と違っていてピンときていないのか?結婚の誓いを宣言し、国王夫妻の証として神器も授けたではないか」
(ジンギ……って、待って。もしかして、神器!?)
息を呑んだディートリンデは、自分の左手首を見る。
お風呂のとき、意地悪メイドに『外せるわけがありません』と小馬鹿にしたように言われて、手枷なら外さないのが当たり前かと納得したそれである。
――神器とは、いわば国宝。
(そんな恐れ多い物が私の手首に!?身代わりの偽者になんてことを……!)
あのとき、言葉がわからずにぼけーっとしていたディートリンデは、分厚いベールも手伝い、周りがあまり見えていなかった。
結婚の儀では、腕輪は同じものが二つ用意されていた。
まずは腕輪の一つをエドムントによってディートリンデの左手首に付けられた。
ディートリンデは自分の腕ばかり気にしていたので気づいていなかったが、二つあるうちのもう一つはエドムントが自らの手首にはめた。
そして、エドムントがサイズを調節するための手首を掴んで呪文を唱え、互いの腕輪が同時にぴったりと抜けないサイズに変化した。
――これで、国王夫妻の証の交換が済んでいたのだ。
「結婚をしたって、本当に?陛下と私がでしょうか!?」
自分が今対峙している相手は、あの神をも恐れぬ覇王と呼ばれている男であることを忘れ、ディートリンデは大きな声を出して詰め寄った。
「そうだ。そうだろうと思ったがディーは古語がわからなかったか」
王族に仕えるほどの立場の者なら教養も必要で、優秀な者。当然、古語を理解しているのが普通――けれど、元奴隷という立場だったディートリンデには理解できなかった。
ディートリンデにとって元奴隷という絶対に忘れたい過去に繋がる話題が出て、少し冷静さを取り戻せた。
掴みかからん勢いでエドムントに接近してしまっていたことに気づき、慌てて座り直す。
「…………不勉強でして」
「まぁいい。結婚の儀は滞りなく終わった」
「発言の許可をいただけますでしょうか」
「今更だな。君はもう王妃なのだから、いちいち許可など不要だ」
(王妃って……本気?いえ、これはきっと王妃のフリよね)
自分は王女ディアーヌの身代わりとなって送られた偽者。
エドムントはディートリンデが偽物で、さらには元奴隷だということは知っているのだから、殺される可能性はあってもそのまま結婚するはずがない。普通なら。
だから、一時的な対処として、結婚したフリをしたのだろうと考えた。
(殺されると思っていたのに、どうして……。まさか――――)
元奴隷だという身分まで明かしたが、エドムントは忘れてしまったのではないか……ディートリンデはそう考えた。
「恐れながら……私はディアーヌ王女の侍女をしていた元奴隷です」
「そうか。侍女だったのか」
元奴隷だとはっきり言っても、エドムントはそのことには触れてこない。忘れているわけではないのだ。
「――その、陛下は私がディアーヌ王女ではないとご承知かと思われましたが……」
こんな言い方は不敬だと思いながら口を開くが、エドムントは「もちろん、わかっている」と気にしていない様子。
「以前の世界会議で見かけた姿と違うからな。だけど、事前に貰っていた姿絵とディーは、まぁ似ていなくもないから他の者は気づかないだろう」
「では……なぜそのまま結婚を?」
「それは、まあ……、健康そうだからな」
「…………??」
(姫さまを見初めたから求婚したのではないの?健康そうってどういう意味かしら??)
実のところ、ファンデエンでは王女ディアーヌが求婚された理由がわかっていなかった。
国力に差がありすぎて、ファンデエンとスヴァルトが縁を結んでもスヴァルトにメリットなどない。
唯一考えられる可能性があるとしたら、昨年の冬に行われた世界会議。
暇を持て余していたディアーヌが、お得意の父王へのおねだりで世界会議に付いて行った。
会議の間、ディアーヌは開催国を観光してまわり、楽しかったと上機嫌で帰ってきた。
しばらく機嫌が良かったが、時間が経つと退屈になったディアーヌは反動のように我儘加減が悪化したため、ディートリンデはよく覚えている。
ファンデエンでは、世界会議でエドムントに見初められたのだろうと予想されていた。ディアーヌは黙っていたら、見惚れるほど儚げで可憐な美女だから。
「陛下はディアーヌ王女を見初められたため、望まれたのではないのでしょうか?恋文が毎日のように届いていたかと……」
「恋文?誰かが気を回したんだろうな。私は出していない。……つまり、見初めたことにしてあるが、違うのだ。世界会議のとき、従者に喚き散らしていたから見た目のわりに元気が有り余っていると思った記憶はあるが」
ディアーヌは世界会議の場でもヒステリーを起こしていたようだ。
大人しくしていれば、恐ろしいイメージのあるエドムントよりも前に、本当のディアーヌの性格を知らないどこか別の国の王子から縁談の申し込みがあった可能性もあるのに。
そうなっていれば、ディートリンデがこうして身代わりをさせられることはなかっただろう。
「それならどうしてディアーヌ王女に求婚をされたのでしょうか?」
この根幹が理解できないと、全て納得することができないと思ったディートリンデは、緋色の瞳をまっすぐに見てはっきりと聞いた。
エドムントは逆に、ディートリンデの全てを見透かすような透き通った瞳に射貫かれ、それまで外さなかった力強い視線を逸らした。