決意を胸に
転移に備え、エドムントと手を繋ぎ、ディートリンデはぎゅっと目を瞑る。
ファンデエンからスヴァルトへの転移の記憶が強く、身構えた。
しかし、ふわりと一瞬の浮遊感があっただけ。
思えば、城に連れ戻されたときには気づけば王城にいたくらいであったとディートリンデは思い出していた。
「では、行ってきます」
「あぁ、待っている」
馬車ごと転移陣を通ってパン屋のある街までやってきた。
エドムントは約束通り馬車で待っていてくれるらしい。
その代わり、私服を着た女性の護衛とコラリーがディートリンデの側にいる。
窓から見る限り店内にお客がいないことを確認してディートリンデが店内にはいると、奥さんが笑顔で顔を上げた。
「いらっしゃ……リンっ!?あ、お、王妃様……」
すぐに顔を強ばらせた奥さんに駆け寄り謝った。
騙すつもりはなかったが、素性を隠して世話になったのは確かだった。
「奥さん。ご無沙汰しております。その、ごめんなさい!騙していたつもりはなかったんですけど」
「へ?やめくださいよ!騙していただなんて、そんな風に思っていませんから」
始めは緊張した様子に見えた奥さんだったが、ディートリンデがパン屋のリンデのときと変わらない様子で話したため、奥さんも態度を軟化してくれた。
「……ごめんなさい。あんなふうにお別れしてしまったから、気になっていて。すぐに謝りに来られなくてごめんなさい」
「とんでもない。あたしこそ何も知らずにうちの愚息となんて……大変失礼なことを言っちゃって」
「いえいえ!私が何も言わなかったからで……」
「…………」
「……その、お元気でしたか?」
「えぇ。おかげさまで、みんなも元気に過ごしています。今日は旦那も息子も隣町まで買い出しに行ってるんだけど」
「良かった、お変わりなさそうで」
「……あ、そうだ。――これ!いつでも取りに来られたら渡そうと思って纏めておいたんだ。荷物が部屋に置いていったままだったから。って、王妃様をあんな屋根裏部屋に、大変申し訳なかったです」
「やめて下さい。あの屋根裏部屋は、あの時の私にとっては自分だけの場所を貰ったようで、本当に嬉しくて……とてもありがたかったんです。ほっとする場所でした」
「そう言ってもらえると……良かった」
「荷物、邪魔ですよね。今日持って帰ります。後これ、気持ちばかりですが、急に仕事を辞める形になってしまったし、ご迷惑をおかけしたお詫びに、お菓子です。受け取ってください」
「そんな、受け取れませんよ!」
「私が好きなお菓子なので、食べてみてください。……それじゃあ」
「あ……あの!」
呼び止められ振り返ってみると、奥さんは完全にあの頃と同じお人好しのお母さんのような顔をしている。
「……大丈夫なんだね?もう」
「え?」
「リンデちゃんがうちに来た日は、少し……なんていうか心配になる表情をしていたから。……あんなふうにお別れになってしまったし、王妃様にあたしなんかが心配するのは烏滸がましいけど、ちょっとだけど一緒に暮らした仲として、少しは家族のような親のような気持ちになってたからさ……。リンデちゃんがいなくなってから、使いの人が来て『王妃様は決して騙そうとしたわけではありません』とかいろいろ、事情を少し話してくれてはいたから大切に扱われているのだろうなとは思ったんだけど……」
「奥さん……ありがとうございます。もう、大丈夫です。……また、顔を見に来てもいいですか?」
「もちろん。いつでも来てください。お待ちしてます」
「ありがとうございます。皆さんにもよろしくお伝えください。また来ます!」
ディートリンデは奥さんの前で表情に出していなかったが、家族のように思っていてくれたことを噛み締めて、感極まっていた。
(素性を隠して騙していたような状態だったから心配だったけど、家族のように思ってくれていたなんて。嬉しい……。それに、使いの人って、ちゃんと手配してくれたのね。私が気にしているのを気づいていたんだわ)
「おかえり」
「お待たせしました」
「ディー、どうした?泣いたのか?」
「……大丈夫です。嬉しかっただけで。あの、ありがとうございました」
「そうか。――それじゃあ行くか」
「はい」
ゴトゴトガタガタと暫く山の中を登っていく。
馬車が停まると、そこは渓谷を遥か下に見下ろすことができる場所だった。
「…………」
「……どうだ?私は好きな景色なんだが、ディーは気に入らなかったか?」
「……いえ。……凄いです。凄すぎて言葉が…………こんな景色見たことないです」
「そうだろう。もう少しで日が傾いてくると、この渓谷を赤く染めるんだが、その景色はこの比ではないぞ」
「それは楽しみです」
持参したお茶を飲みながら待っていると、あっという間に日が傾いて渓谷を赤く染めた。岩肌も木々も青く見えていた川さえも、赤くなっていく。
そして、渓谷の谷間に日が吸い込まれていくようで、雄大な景色に本当に言葉が出てこない。
「ディー、おいで。そろそろ冷えるだろ」
「はい……」
エドムントに後ろから抱きしめられると、ディートリンデはすっぽりとその腕の中に収まる。
背中に温もりを感じ、気持ちまで温かくなったように感じた。
しばらくただ静かに景色を見ていたが、エドムントがぽつりぽつりと話し出す。
振り返ろうにも、ぎゅっと抱きしめられているため、振り返ることができない。
ディートリンデも静かに耳を傾ける。
「これまでは武力や国力で従わせた土地が多かった。その土地に住む者の中には、スヴァルト国民であることを厭う者もいる。……目標は国を広げ、豊かにすることだった。その目標は叶ったと言っていいだろう。だが、遺族からは恨まれている。恨みや憎しみのない世界にすることが、私の目標だ」
「それが次の目標というわけですね」
「スヴァルト国王は、いつの間にか覇王という異名が付き、自国の民からも怯えられるようになってしまった。自分の目標のために前進するどころか、これでは後退しかねない。恨みや憎しみのない世界にすることは、容易ではないだろう。けれど、不可能ではないと信じたい」
「エド様ならできる気がします」
「私一人では無理だ。共に歩む仲間が必要だ」
「カルヴィンやオーフェルですね」
「仲間の中にはディーも入っているからな」
「私も?」
「王妃のお披露目パレード。それ以前のデートで行ったレストランでの対応。どちらもディーの親しみを感じさせる言動に、民は心を動かされていた。間違いなく民は王妃に魅了されていた」
「魅了なんて、大袈裟です」
「そんなことはない。それに私を支えてくれている」
エドムントは慈しむようにディートリンデの肩をさする。
自己肯定感の低いディートリンデに自信を与えるように。
「……急激に大きくなった国のため、しばらく私は恐怖の対象である必要がある。まだ力を見せて抑えつけておかねばならぬ地があるのも現実。畏怖と親しみ――相反する要素がこの先必要になってくる。ディーには王妃として、この国の良心になってもらいたいと思っている」
「良心……と言うと?」
「“王妃とはこういうもの”ということを変に気にせず、ディーらしく、思うように民と接してくれたら良いのだ」
ディートリンデはとても難しいことを言われていることがわかった。
人付き合いが得意ではないため、とてもできる気がしないし、何をすべきかピンと来ない。
けれど、生きる意味や目的を与えられたような気がして、初めて感じる高揚感が胸の底から湧き上がっていた。
それからずっとふたりで、完全に日が落ちるまでただ静かに渓谷を見ていた。
良い未来のための決意を胸に秘めて――――