さほど関心がない
女性の足を見てもそれには無関心の様子のエドムントは、大きな手でいきなり太ももに触れてきた。
いきなり触られ、驚くと同時に忌々しい印に焼けるような痛みが走る。
「な!?い、痛っ!?」
「消去魔術だ。少し痛むだろうが我慢しろ」
体が勝手に逃げようと動くが、エドムントに捕まり動けない。
痛みで冷や汗が額から滴りそうになる頃、エドムントの手が離れた。
咄嗟に患部を見れば、本当に奴隷印が消え去り、あれほど痛みを感じたのに傷跡一つなかった。
「え……消え、た?」
「なんだ。消せることを知らなかったのか」
思わず呟いた独り言をエドムントに拾われ、顔を上げればまた緋色の瞳と視線がぶつかる。
どうして消してくれたのかわからないが、一生消すことができないと思っていた奴隷印が消えた衝撃は大きい。
「……あ、ありがとうございました」
「いや、これくらい構わない。それにしても、ファンデエン人はずいぶんと白いな」
エドムントはしげしげとディートリンデの顔を見て言う。
どうでもいいようなことに話を変えてきたということは、元奴隷であることや身代わりであることにさほど関心がないのだとわかる。
そう思うと自分の中の緊張感が少しずつ薄らいでいくのがわかった。
「そういえばファンデエン王も王女も色白だったな。寒い国の者は色素の薄い者が多いが、これまで会った人の中でもダントツで白い」
スヴァルトは南方に位置するため、北方にあるファンデエン人に比べると浅黒い肌をしている。
スヴァルト人から見たら、確かにディートリンデはずいぶんと白く見えるだろう。
ただそれは、神をも恐れぬ覇王と呼ばれている男を前にした緊張と、転移の浮遊感で酔ったせいだと思われる。
今は白いのではなく、青白いのだ。
「名は?ディアーヌとはあの国の王女の名だな?君の本当の名前はなんと言うのだ?」
「ディートリンデと申します」
エドムントは「んむ」と曖昧に相槌を打った後、黙ってしまった。
よくわからない沈黙に、再び緊張感がじわりと増していく。
「では、ディーと呼ぼう。ならばばれまい」
ディートリンデは、ぽかんと呆けた顔になる。
一瞬、初めて聞く言語のように何を言っているのか理解できなかったのだ。
頭の中でぐるぐると、『ナラババレマイ』という言葉が高速で回った。
(あ!ばれまい、ね。でも、誰にばれないようにする必要が?そしてなぜ愛称で呼ぶ必要が?)
疑問ばかり浮かぶが、それを聞くことはできない。
今できることは、逆らわずただエドムントに命を委ねるだけ。
エドムントが改めてディートリンデの上から下まで視線を巡らせる。
今度は本当に聞き取れないほどの小声で何か呟いたエドムントは、ベールを戻すと「少し待て」と言い、部屋を出ていった。
部屋の中には誰もいなかったが、ディートリンデは微動だにせず、直立不動で待った。
人がいないことはわかっているが、魔鏡で監視されている可能性もある。
(……ひとまず助かった、の?)
ディアーヌの身代わりが送られてきたことを知ったエドムントが怒ったのは明らか。
しかし、その怒りのままに殺されることはなかった。
むしろ、息つくことで怒りの感情を逃し、冷静に振舞っていた。
ファンデエンには、覇王は直情型で気分屋と思われる話が届いていた。
しかし、案外話せばわかってくれそうである。
実際のところ、感情のままにディートリンデを殺しても何も解決しない。
感情をコントロールし、理性的な判断ができるのは、優秀な王の証。
短期間に国土を広げたことを思うと、噂で聞くよりも理性的で優れた人物なのだろう。
しばらくすると、エドムントが一人の男性と二人の女性を連れて戻ってきた。
ただ、分厚いベール越しなので、お互いに顔はよく見えない。
「お初にお目にかかります。ディア――」
「カルヴィン、待て」
部屋に入ってきたうちの一人がすぐに挨拶を始めたが、エドムントはそれを制した。
声からして、この国に来たときに初めて声をかけてきた男性のようだ。
エドムントの側近なのだろう。
「私は彼女のことをディーと呼ぶことにした。皆もそう呼ぶと良い」
部屋の中に一瞬の静寂が訪れた後、「は?」と言う男性の声が部屋に響く。
はぁ?に近い「は?」だった。
大国の王が何を考えているのか、私のような凡人には到底理解できない――とディートリンデは思っていたが、側近でさえもエドムントのこの言動は理解できないらしい。
「ディーを例の場所へ連れて行け」
「拝承しました」
エドムントの指示を受けて近づいてきた女性の後をついて行く。
部屋を出ると、付いてこいと言わんばかりに女性はスタスタと歩き出した。
女性はスッキリとしたワンピースの下にゆったりとしたズボンを穿いているため、足さばきが楽そうな服装をしている。
一方、トレーンを引きずっているディートリンデは、速く歩くことができない。
振り返ることもせずに前を行く女性を必死に追いかけた。
廊下が滑らかな床で幅広いことだけが、今は救いだった。
「こちらです。お入りください」
「はい」
女性は両開きのドアの片側だけを開いて、手のひらで入れと指し示す。
しかしディートリンデはまごついた。
染みついた侍女の性か、(ドレスの裾がドアに引っかかったら繊細な刺繍が駄目になってしまうかも。お直しに出したら衣装部に嫌な顔されそう)などと考えてしまったのだ。
「えっと、ドアをりょ――」
「早く入ってください!」
「っ!?」
背中に衝撃を受け、前のめりに転んだ。
転んだ勢いで体が室内へと入ると、廊下にまだ残された状態のトレーンやベールを女性が足ではらって室内へと押し込める。
そして後ろ手でドアを閉めると、ドアの前に立ったようだった。
(とりあえず大人しくしておいたほうが良さそうね)
立ち上がり、分厚いベールの繊維の隙間から目を凝らして部屋の様子を窺う。
どうやら他に監視役の姿はない。
それに、格子があるような牢ではなく、いくつか家具が置かれた部屋だった。
ただ、この部屋に窓はない。
灯りは、ローテーブルの上と壁に小さなランプが二箇所だけで薄暗い。
明らかに普通の部屋ではなかった。
(貴人用の牢かしら?)
ディートリンデが元奴隷とはいえ、今の地位がわからなかったため、念の為に貴人用の牢に入れられたのだろう。
ファンデエンから転移陣を使って移動してきたのは間違いないのだから。
エドムントが緊張を弛めたとき、助かったのかと思った。
しかし、貴人用の牢に入れられたということは、尋問されてファンデエンと交渉材料に使われるか、裁判にかけられる可能性が高いということ。
無理やり身代わりにさせられたことは理解してくれたが、無罪放免で解放してくれるわけはなかった。
(だけど、すぐに殺されると思っていたのに)
来る前にイメージしていた「覇王」よりも、話せる余地のありそうなエドムントを思い出し、微かに生きられる可能性を期待し始めていた。