認めない
(どうしてまた王妃様用の部屋で、一人で優雅にお茶を飲んでいるのかしら。手続きをしないと離婚できないらしいから、一応ここはまだ私の部屋なのかもしれないけど)
ディートリンデはモヤモヤしていた。
転移まで本当にあっという間で、エドムントとまともに会話もできなかった。
てっきりすぐに離婚手続きに入るのかと思ったが、一人で私室に戻された。
そして、コラリーによって風呂に入れられ、着替えさせられた。
テーブルにはお茶まで用意されている。
まるで、ただ外出から戻っただけのように、以前と変わりない様子に違和感しかない。
それから夕闇が迫る時間まで、何事もなかったかのようにゆったりとした時間が流れた。
(この時間はいったい……?早く手続きして解放してもらえないと、さすがに夜に街を一人では歩けないわ)
そわそわと視線をさまよわせても、コラリーと目が合わない。以前は直ぐに側に寄ってきてくれたのに。
寄り添ってくれていたコラリーを裏切るような行為をしたのは自分だと、ディートリンデ自身わかっている。
それでも故意に目を合わせないようにされている気がして、話しかけるのも躊躇われた。
「出ていろ」
「承知いたしました」
夜、やっとエドムントが来たと思ったら、部屋からコラリーを追い出してしまった。
(……怒っている。怖い……)
なんとなくソファの端へと寄ると、エドムントも逆側に腰掛けた。
部屋の空気が重くなる中、エドムントはなかなか口を開かない。
エドムントが国王として臣下らにあえて無言を貫き、従わせる姿を見たことのあるディートリンデは、緊張した。
ディートリンデが今すべきことは離婚の手続き一択だが、エドムントは手ぶらでやってきた。
コラリーを退室させたことといい、明らかにエドムントから何か話があるのだと思われたが、この沈黙が何を求められているのかわからない。
ちらりと横目で見ると、エドムントの左手首に自分の手首のそれとお揃いの腕輪が目に入る。
ディートリンデにとって、エドムントと家族の証でもある腕輪。
偽物でも、仮初でも、一時的でも、家族だと言われたことが嬉しかった。時間の許す限り守っていきたいと、いつの間にか思っていた。
それが今、いよいよ終わろうとしている。
勝手に終わらせようとしたのは自分だが、はっきりと区切りが付くことが寂しく感じる。
鼻がツンとして俯くと、隣でエドムントが動いた気配がした。
「ディーは、なんであんな男がいいんだ?」
「………………えっ?」
見ると、エドムントはディートリンデのほうにしっかりと体を向けていた。
「困っているときに助けることもできないような男がいいのか?あんな男と添いたいのか?」
(一体なんの話を……?)
「…………」
「なんとか言ったらどうなんだ!」
「っ!?」
「……すまん」
言われていることがわからず、必死に自分の中で答えを探すディートリンデ。
反応がないことに苛立った様子のエドムントが、テーブルをドン!と叩いた。
その音に反応してディートリンデの体が勝手にビクッ!と跳ねる。
それを見て、エドムントは気まずそうに手を引っ込めた。
「えっと、その」
「なんだ」
「陛下がなんの話をされているのかがよくわからなくて。困っているときに助けもしない男というのは……?申し訳ございませんが、何のことだか……」
「さっきディーが絡まれていたのに逃げた男だ」
(逃げた男……?男――って。あ、もしかして私が逃亡中に不貞を働いたと疑われている?)
「ロシュさんのことですか?あの方はパン屋さんの息子さんで、私の雇用主なだけです。何もありません。不貞を働いたりしていませんから、慰謝料の請求はご容赦ください」
ファンデエンでは、不貞による離婚は慰謝料が発生するのが常識だった。
だから、慰謝料を請求されてしまうのかもと思ったディートリンデは、それだけは勘弁と乞い願った。
容赦なく連れ戻され、働いた給金も荷物も全てあの屋根裏部屋へ置いてきてしまった。慰謝料を請求されても払うあてがない。
反応がないため、ちらりとエドムントを見ると、ぽかんとしている。
「…………慰謝料って、何を言っている?」
「誓って、不貞は働いておりません」
真剣な表情を作り、今度はしっかりと目を見て繰り返した。
「……そうか…………」
「はい」
拍子抜けしたかのように弱々しく返事をするエドムント。
エドムントの怒気がシュンと萎んだのがわかった。
(あら?何か間違えた?)
またエドムントは黙り込んでしまった。
勘違いで熱弁して呆れ返って言葉も出ないのだろうか……と思ったディートリンデは、何か言われるまでもう何も言うまいと口を噤んだ。
「失礼いたします」
とはいえ、気まずいと思っていると、カルヴィンがワゴンを押して部屋に入って来た。
ワゴンの上には書類が積み上がっている。
「王妃様、お久しぶりでございます。早速、離婚手続きを行いますが、先に一つだけ確認させていただきたいことが」
「……はい。なんでしょうか?」
「どうやってこの城から抜け出されたのでしょうか?この部屋の前は別として、執務棟は一見手薄に見える見張りも、計算された配置で抜かりはないと自負していました。しかし、見張りたちは誰一人として外に出ていく王妃様の姿を見ていなかった。穴があるなら教えていただきたい」
「穴なんて。私はただ気配を殺しただけ。唯一、私が得意としている魔術なんです」
「なるほど。……そのような魔術が得意だったとは盲点」
カルヴィンは目を細め思案し始めたが、すぐにまた表情を改めた。
「では、本題に移ります。――こちらを。少々多いですが、これらの書類に目を通して、ご了承いただけましたら次々とサインをしていってください」
「え、こんなに?」
ディートリンデの目の前には積み上がった書類がドン!と音を立てて置かれた。
「はい。この量のサインをするのは嫌になりますでしょう。半年以内なら離婚可能なので、些細な喧嘩や誤解から安易に離婚しようとする者も大勢いるのです。本当に離婚したければこの量でもあっという間にサインできてしまいますが、一時の気の迷いならこの量をサインしている間に考え直すこともあるので。まぁ王族ですので一貴族が手続きに必要な書類の数倍の量がありますが」
「なるほど……」
積み上げられた書類を見て、今日中に書き終えるのは無理だろうと考える。
(だって、姫さまの正式な名前って実は超超超長いのだもの。明日の朝までに終わればいいけど……)
サインをしなければならないから、夜に一人放り出されることはなさそうだと安心する。
結婚の儀ではこんな書類書いていないのに、どうして離婚の手続きだけこんなにあるのかと内心ため息を吐く。
しかしやらないと終わらない。
ペンを手に取り、黙々とサインをし始めた。
黙々とサインをしていたが、長い時間ペンを持つことに慣れていないディートリンデは、十数枚記入したところで早くも疲労を感じてしまう。
ふと手を止めると、エドムントのカリカリ、カリカリ、シャッ!とサインする音や時折紙を捲る音だけが、部屋に響いていた。
ディートリンデは王妃として、時々エドムントの執務室へ行くことがあった。
ディートリンデが行くと臣下らは気を使って皆執務室から出て行くため、執務室は静かで、この音がよく聞こえた。
特に用があるわけではなく、周囲への仲良しアピールが目的で訪問したときには、邪魔をしないようにディートリンデはただ静かにお茶を飲んだり読書をしたりして過ごすのが基本だった。そうしながら、この音を聞く。
不思議と心が落ち着く音に聞こえて、この音が好きだった。
その音が、今のディートリンデには寂しい音に聞こえていた。
「…………」
(このまま最後の一枚までサインをしたら、本当に縁が切れてしまうのね)
手を止めて寂しさを感じていると、いつの間にか先ほどまで聞こえていたペンの音も紙を捲る音もしていないことに気がついた。
もしかして、エドムントはもう書き終わったのか――――
終わりを直視するのが怖くて隣を見られない。
(ただでさえ私は姫さまの長い名前をサインするのに時間がかかるのに、陛下は執務でサインをするのには慣れているし私より早いのかも)
一刻も早く離婚したいから急いだのだろう。馬車の中に転移陣を用意するくらいだ。
そう思うと悲しみが込み上げてくるが、理性で押さえつけた。
(私が思い悩んだところで意味がないわ。早く書いてしまわないと)
ペンを持ち直してサインを再開しようとした瞬間、エドムントにパシッと手を掴まれた。
戸惑ってエドムントのほうを向くと、力強い緋色の瞳に捕らえられる。
「…………」
「…………」
一度目が合ってしまえば、逸らすのを許されない気がしてくる。
初めは逸らしてしまいそうになる視線を外さないようにとディートリンデも力を込めるばかりだったが、よく見てみると、エドムントの瞳には怒り以外の何かが浮かんでいるように思えた。
「……陛下?」
「離婚は認めない。何があっても裏切ることは許さないと言ったはずだ。城から出ることも許さない」
前にも聞いたことのあるそれだけ言うと、エドムントは身を翻し部屋から出て行ってしまった。
「……えっ!?陛下!?」
(言い逃げ!?どういうこと?離婚の手続きをするために私を連れ戻したんじゃないの?)