不審な男
「店の前、掃き掃除してきます」
「はいよ、ありがとね」
朝でも昼時でもない時間。
客足が落ち着いた頃合に店の周りを掃除する。
下っ端でパン作りに関わることのないディートリンデは、自分からこの掃除を買って出た。
実績はないが、侍女時代にも王妃時代にもハウスメイドの掃除の様子はよく見ていたから、掃除ならできると自負していた。
ディートリンデが店の外に出るのはこのときくらいしかない。
若くて綺麗な外国人女性が働いていると噂になったため、パン屋の店主一家が一人で出歩くような仕事はさせないようにしていた。
店の前の掃除はディートリンデがやりたがったのと、目が届く範囲であるためやらせている。
箒を持って外に出たディートリンデは、周囲を見渡した。
以前常連のおばあちゃんが教えてくれた不審な男がいないか確認するためだ。
自分には関係ないと思っていたが、パン屋の奥さんからも「掃除のときにも注意しなさい」と言われたため、毎日見渡してから掃除を始めている。
街の中心部にあるこのパン屋の前の道はそれなりに幅広く、人通りが多い。
しかし、ディートリンデは今のところ、それらしい人を見たことがない。
今日も周囲を見渡し、どうせいないと思いかけたとき――――
「えっ……!?」
(今……店の前を通った馬車に姫さまによく似た人が乗っていた気がした……。まさか、ね?)
ファンデエンとスヴァルトは、普通の馬車で移動できるような距離ではない。
長距離移動に適していると言われている空を飛ぶ魔馬車でさえ、現実的ではないとされる距離。
転移陣を使えば一日とかからず移動できるが、王族用の転移陣は安全性を考慮して双方で設定しないと作動しない。かと言って、気位の高いディアーヌが一般の人も使う転移陣を何度か経由しながらここまで来るとも思えない。
(それとも姫さまが国に戻って、ファンデエンで私が身代わりの王妃として送られたことが判明して、姫さまが連れてこられた……とか?今ごろ王城では、王妃は偽者だったと大騒ぎになっているのでは…………)
ここにいたら危ないかもしれないという危機感がディートリンデを襲う。
(折角仕事にも慣れてきたけど、ここを離れよう。もっと、似た容姿の多い国に行きたい。他国に渡るにはどうしたらいいのかしら)
働き出したばかりだが、多少は給金も支払われている。ケイリーが渡してくれたお金もまだ残っている。
他国に渡ることも可能だろう。
「おねえさん」
「はっ、はい?」
箒を握りしめて思考に耽っていたディートリンデは、ガラの悪い青年が近づいて来ていたことに気づかなかった。
話しかけられて顔を上げると、値踏みするように不躾な視線を向けられた。
「この店で買ったパンがカビてたんだけど」
「カビですか。それはいつ買ったパンですか?」
「昨日だよ」
このパン屋さんは人気があり、早朝に焼いたパンはその日の夕方前には大体全て売り切れる。――それはディートリンデ効果でもあったが、あまりに早く売り切れた日は追加で焼くこともある。
そうするとたまに店仕舞いまで残ってしまうこともあるが、それも一つか二つ位のもので、翌朝のパン屋一家の朝ご飯の足しになるだけ。
ディートリンデが働き出してから、売れ残ったパンを翌日以降も販売しているのは見たことがない。
さらに、暑いが乾燥しているこの国で、今日や昨日販売したパンにカビが生えることはあまりないと思われる。
言いがかりなのは明白だった。
パンの代金を返せと言われるのか、お腹を壊したから医者代を出せと言われるのか……と身構えていると、後ろからロシュが声を掛けてきた。
「リンデちゃんどうしたの?」
「ロシュさん。こちらの方がパンにカビが生えていたと……」
「お客さん。それは何かの間違いでは?」
「うるせぇな。カビてたんだよ!謝罪としておねえさんに付き合ってもらおうか」
「え!?私ですか!?」
「ほら、来いよ」
「痛っ」
ガラの悪い青年に手を掴まれて引っ張られた。
掴む力が強く、痛みを感じる。
咄嗟にロシュが間に入った。
「リンデちゃん!お客さん、やめて下さい!」
「あぁ?なんだって?」
「や、やめて、くだ…………」
止めに入ろうとしたが、ガラの悪い青年に一睨みされただけでロシュは黙ってしまった。
「ちょっと、痛いわ!離して!」
「いいから来いよ。大人しくしていたらいい思いをさせてええぇえぇぇ!?」
ガラの悪い男性が急に声を裏返して奇声を発する。
(怖いっ!)と思って確認をしたディートリンデの目に、ひょろっと細くて背の高い男性が映った。
ディートリンデを掴んでいるのとは逆の腕が、見知らぬ男性に捻り上げられていたのだ。
「痛え!痛えよ!?やめ……っ!やめろ!折れる折れる!」
ディートリンデを掴む青年の手が離れたので、急いで距離をとる。
助けてくれた男性はディートリンデに見覚えはない顔だったが、常連のおばあちゃんが言っていた不審者と重なる。
ひょろっと細くて背が高い。ただ、フードを目深に被ってはおらず、顔を見ることができる。
(誰?でも、不審者が助けてくれたりしないわよね?)
「ディー」
「!?」
いい人なのか不審者なのかと様子を窺っていると、聞こえてくるはずの声が真後ろから聞こえ、ディートリンデは飛び上がりそうなほど驚いた。
(違う、わよ……ね。そ、そんなはず…………)
恐る恐る振り返ると、マントを目深にかぶっている大きな男性が真後ろに立っていた。
マントのフードで顔は殆ど見えないため、傍から見ると不審者この上ないが、ディートリンデには誰なのかすぐにわかってしまう。
「帰るぞ」
「どうして、ここに……?え、帰るって……」
「城に決まっているだろう。来い」
「ま、待ってください。どうして?私たちはもう何も……」
「もう何も?手続きもせず、何もなかったことになるわけがないだろう。神器が外れていないのが証拠だ」
ディートリンデは城を出てから、何度も手首に嵌った神器を外そうと試みた。
よく観察し、留金っぽいところを見つけて引っ掻いたりしたが外れなく、最近は諦めていた。
エドムントの口ぶりでは、婚姻関係にある間は外すことができないということなのだろう。
「神器はちゃんとお返ししますから、手続きはしてくだされば――」
「死別ではないのにお互い同意しなければ離婚もできん!」
(あ、逃げるだけでは駄目だったの?ちゃんとお互い手続きをしないと離婚できない制度なのね)
王妃教育で婚姻の制度は教えられていたが、新婚ということもあり『王族には平民や貴族と違う手続きもあるのですが……これは必要ありませんな』と詳しい離婚の手続きは教えられなかった。
「死んだことにしてくれても良かったんですけど」
「そんなこと!……できるわけがないだろう。行くぞ」
(だからってわざわざ陛下が足を御運びになるなんて……。使いの人を寄越してくれてもいいのに)
そう思いながらも、わざわざエドムント自らが迎えに来てくれたと思うと、ディートリンデの心は勝手に期待しそうになってしまう。
けれど冷静な自分もいて、いち早く離婚するためだと頭ではわかっていた。
「リンデちゃん!だ、大丈夫かい?その人は知り合いかい?」
ひょろっと細くて背の高い男と、フードを目深に被った大きな男二人に囲まれているディートリンデを心配した奥さんが、怖々と声を掛けてきた。
「あ、奥さん。大丈夫です。知り合、い……で、す?」
言ってる途中で、覇王エドムントを『知り合い』なんて軽く言っていいものか迷ってしまった。
ディートリンデの言い方で、無理やり言わされているように思ったのか、奥さんが「本当に大丈夫なのかい!?」と身を乗り出してきた。
「大丈夫なのは、大丈夫です。えっと、知り合いと言いますか、その――」
「ディーは私の妻だ。連れて帰る」
エドムントが奥さんのほうへと振り返った拍子に、風でフードが脱げた。
この国の王族にだけ伝わるという緋色の瞳が露わになり、奥さんの細い目が限界まで見開かれていく。
「ん?どこかで……は!?へっ!?ま、まさか。陛下!??つ、つつつ妻!?妻って!おおおおお王妃様!?ぁ……」
「えええ!?覇王様に、おっ、王妃様ぁ!?」
「あ!奥さん!!」
驚いた奥さんはふらりと目眩を起こして倒れそうになり、ロシュはどすんと尻もちをつく。
エドムントの腕を振り払い、倒れかけた奥さんと転んでいるロシュに駆け寄るディートリンデ。
「奥さん!大丈夫ですか!?ロシュさんも」
「ひゃあ!お、恐れ多い!」
「これまでのご無礼、何卒お許しを!」
駆け寄り伸ばされた手から逃れるように、二人は後ずさりした。
そして、ガクガクと震えながら地に額を擦り付けるようにして平伏する二人の姿に、相容れぬ溝ができたことをディートリンデは痛感する。
(本当の私なんて何者でもないけど、王妃という肩書きだけでこんなにも……)
「……ごめんなさい、私のほうこそ。本当に、ごめんなさい。騙すようなことを……そんなつもりではなかったのですけど」
拒絶されたかのように感じてショックを受けたが、原因を作ったのは自分だったとやるせない気持ちになりながら、ディートリンデは少しでも二人に歩み寄ろうとした。
「あの、どうか顔を上げて――」
「ディー。行くぞ」
額づく奥さんを起こそうと再び手を伸ばしたが、彼女には届かなかった。
ディートリンデの腕はエドムントに捕らわれ、力強く引っ張られる。
そのままスタスタと足を進めるエドムントに引き摺られるようにしながら、精一杯声を張り上げた。
「本当に、本当にごめんなさい!ごめんなさい!」
腕を引かれて馬車に乗ったと思ったら、馬車の中に転移陣があり、息つく暇もなく王城に戻ってきた。
そして、少し控えめな笑みを浮かべるコラリーに出迎えられた。
「ディー様。おかえりなさいませ」
「……ただいま、戻りました」