離婚して
ディートリンデは一つの決意を胸に、エドムントの帰りを待っていた。
伝えるのは少し怖い。けれど、こういうことは早いほうがいいだろうと決めたから。
「なんだ。まだ起きていたのか。遅くなると言付けは伝わっていなかったか?」
「いえ。聞きました」
エドムントがディートの隣に腰掛けると、ふわりと甘い香水の香りがする。
この香りはアデラの香りだ。
前に、すれ違ったアデラから香っていた香り。
いつか袖口から香ったのも、この香り。
夕暮れ時の逢瀬からは何時間も経っているのにまだ香るということは、夜にも会っていたのだろう。それとも、あれからずっと一緒だったということ……。
「ディー?どうした?」
甘い香りを嗅ぎたくなくて、つい顔を背けたディートリンデを不思議そうにエドムントは眺める。
(話をするならちゃんと向き合わなければ)
意を決して向き直る。が、視線を合わせることができない。
「陛下」
「ん?」
「私と離婚していただきたく――」
「なんだと?」
ディートリンデの心臓がドクンと強く収縮した。
それまでの気安い雰囲気を一瞬で変え、急に発せられた平伏してしまいたくなる覇王らしい低い声に、喉がしまり勝手に手が震え出す。
たった一言でここまで凍りつかせるのはさすが覇王としか言いようがない。
しかし、今は怯えている場合ではなかった。ディートリンデは強く手を握り込み、震えを誤魔化す。
「今、何を言おうとした?」
「…………あの、わ、私と離――」
「何があろうとも裏切ることは許さないと申したであろう。離婚は認めない」
取り付く島もなく、静かに怒った様子のエドムントは部屋から出て行ってしまった。
怒られる可能性も考えていたが、話し合いにもならなかった。
(どうして離婚が裏切りになるの?陛下には愛する人がいて、私とは白い結婚のままなのに。どうして?)
◇
あの日からディートリンデは自室から出ることを禁止された。
城全体は結界で保護されているため、今までは外へ繋がる出入口の数箇所にしか見張り役はいなかったが、あの日からディートリンデの部屋の前にも張り付いている。
ディートリンデが少しでも部屋の外へ出ようとすると、困り顔で押し戻す見張り役。
申し訳なさそうにしている様子に、自分が悪いことをしている気分になり外へ出ようとするのはやめた。
もう一つ変化があった。
あれからエドムントはディートリンデの私室に通わなくなった。以前、忙しくて食事さえ共にできないときでさえ寝にきた形跡があったが、今はそれさえない。
(自分の私室で寝ているのよね。きっとアデラ様を呼んで……)
離婚をしなくてもこれでは不仲説が流れてしまうのは時間の問題。
「…………」
「……王妃様…………」
「……あ、ごめんなさい。どうしたの?」
「お茶をご用意いたしました。今日は甘いお菓子もございます」
「ありがとう」
事情を知らない人から見ると、急にパタリとお渡りがなくなったように見えるのだろう。
ジョアナとケイリーがいろいろと気を遣ってくれる。
(本来、私のほうが低い身分なのに申し訳ないわ)
「おいしい。良い香り……」
スヴァルトではお茶の香りを楽しむため、基本的に香りを邪魔するようなお菓子は食べないとされている。だけど、ディートリンデが『ファンデエンではお茶にお菓子は必須だったわ』と以前言っていたことを思い出して付けてくれたのだろう。少しでも元気づけたいと思わせてしまっていることを申し訳なく思いつつ、閉じ込められてから気持ちに余裕がなくなり始めていた。
今日のお茶は少し甘くて洋梨のようなフルーティーな香りがした。甘い香りがさざめく心をほっとさせる。
ディートリンデは冷遇されることにも放っておかれることにも慣れていた。奴隷に身をやつすことになった幼少期のほうがもっと辛かった。
(だから、これくらい平気。希望さえ持てなかったころだってあったもの。……なのに、あのころよりも辛く感じるのはどうして)
「……解放されたい」
「王妃様…………」
ケイリーの声が耳に届き、はっとした。心の声が漏れてしまっていたのだ。
ケイリーとジョアナが痛ましいものを見る目をしていた。
気を使わせてしまって申し訳なくなる。
だけど、ディートリンデは本当に解放されたいと願っていた。
ここから出ることを禁止されて以降、王妃教育もなくなった。一日一日が長く感じる。
何もすることがないディートリンデのために、コラリーがミステリーの本を用意した。
普通だったらのめり込んでしまいそうな名作も、今話題だという一冊も、なんとなく文字を追うだけになっていた。
それ以外は寝室と居室の二間を行ったり来たりするだけで、ただ生きながらえているだけのような生活をしていた。
何もすることがないと、エドムントとアデラのことばかり考えてしまう。
エドムントへの恋情と、どうにもならない現実。
自分の立場や二人のことを思うと、いよいよ自分が王妃としている意味がわからなくなった。
(私がいなくなれば陛下は新しい王妃様を娶れる。というより、立場的に娶らなければいけなくなる。次は自国内からという声が上がるはずだし、そうなれば堂々とアデラ様を迎えることができるはず……。私をこんなふうに閉じ込めていてもなんの意味もないのに)
お飾りでも王妃という存在が必要な理由が何かあるのだろうかと考えるが、何も思いつかない。
名前だけのお飾りの王妃。
もう二度と会いに来てくれないのだろう。
そう思うと、エドムントへの気持ちが一層募る。
焦がれるからこそ、辛い。
ディートリンデにとって、家族だと言って慮ってくれるエドムントの存在は大きくなっていて、ずっとこの縁を切りたくないと思うようになっていた。
我慢し諦めることに慣れているディートリンデにとって、こんな感情は初めてで、身を焼く思いだった。
自分の中の感情に戸惑い、持て余した。
しかし、持て余したところで、取り巻く環境に変化がなければ、気持ちも次第に落ち着きを取り戻す。
持て余した感情を見ないふりをしていたら、吹っ切れたように、ただこの苦しみから逃れたいと思うように心境が変化していった。
◇
魔術で調節された心地よい温度の風がディートリンデの頬を撫でる。
バルコニーは部屋の一部と見なされていたため、気分を紛らわせるために時折風にあたりにバルコニーに出ることが習慣になっていた。
最近では朝から晩まで、ただ一日が終わるのを待つだけの日々。
早く解放されて平民として生きていきたいと考えていた。
城下に行ったときに見た限り、この国では女性が一人でも生きていきやすそうだった。
「……ははっ」
ディートリンデの口から乾いた笑いが漏れる。
(身代わりにさせられてスヴァルトに来たときは、苦しまずに死ぬことへの希望しか持てないとまで思っていたのに。いつの間にかこんなにも生きることを考えているなんて)
下に視線を向けると、バルコニーの下はふかふかな芝生。
真下まで覗き込んでみるが、見える範囲に見張りはいない。
(……飛び降りても怪我しないんじゃない?もしかしたら、少し足が痛くなるかもしれないけど、二階からなら折れるほどではなさそうよね。あの姫様でさえ脱走できたんだから、私もこれなら逃げられ――)
「ディー様」
「はいっ!?」
逃走できるのではと真剣に考えていたため、コラリーが来たことに気づかなかった。
急いで振り返ると、目が合う。
コラリーは胡乱げな目でディートリンデを見ていた。
「……よからぬことを考えていらっしゃいませんか?」
「え?なんのこと?」
「私の勘違いならいいのですが」
(これは絶対にバレている……)
コラリーはディートリンデの正体を知る一人。
共闘する仲間だと言ってくれていたが、今は監視役でもあるのだろう――――