自己嫌悪
自分は身代わりの偽者。仮初の王妃。
とりあえず王妃になったものの、そういう状況だっただけで、望まれたわけではない。将来的にエドムントの隣に立つのは自分ではない。
――ディートリンデはそう認識していた。
「……様」
「…………」
「ディー様、いかがいたしましたか?」
「……あ、えっと?」
「昨夜陛下をお待ちになっていたので、寝不足でしょうか?」
「そう、かも」
「…………」
「………………」
昨夜、エドムントの袖口からした甘い香り。
それは、間違いなく女性用の香水の香りだった。
(陛下が女性と……。もしかして、遅くなっていた二週間ずっと?陛下は案外寂しがり屋でいらっしゃるから、慰めるための女性が必要になるのかも。――……ううん。違うわね。王侯貴族は結婚と恋愛は別だから、恋人がいるのかもしれないわ)
貴族らへのお披露目会も、王都のお披露目パレードも終わった。
結婚後の一通りの義務は済んだとして、恋人のところへ通うようになっても不思議ではない。
仮初の妻に、わざわざ恋人がいることを事前に教えておく義務はない。
ディートリンデは身代わりの偽物なのだから。
エドムントが女性と会っていても問題はないし、『女性と会っているのか』と聞くこともできない。そんな権利はない。
頭ではわかっているのに、ディートリンデの心は晴れない。
朝食が進んでいないことを心配したケイリーとジョアナが顔を見合わせていることさえ、ディートリンデが気づく様子はない。
「ディー様。本日の王妃教育はお休みにいたしましょう」
「……えっ?あ、大丈夫。できるわ」
「しかし、ディー様はお疲れのようですし」
はっとしてコラリーの顔を見ると、心配そうな表情をしていたが、目が合うとさりげなく逸らされた。エドムントの事情を知っていて不憫に思われているのだろうと、ディートリンデは感じた。
「そうですわ!久しぶりに陛下とお会いして夜更かしされたのですから、今日くらいお休みしても良いと思いますわ」
「お疲れのときはご無理なさらず。王妃様はぜひお休みくださいませ!」
コラリーの様子とは反対に、何故かケイリーとジョアナが頬を染めて盛り上がっている。
昨夜はエドムントと一緒に寝たが、先日と逆で抱きしめられているのになかなか眠れず、寝不足なのは事実だった。
結局、朝食後は休め休めと侍女たちに部屋に戻された。
気を利かせて皆部屋を出て行き、久しぶりに一人になった。
(休めと言われても眠くはないのよね……)
昨夜は、エドムントに『湯浴みをしてくるから先に寝ていろ』と言われて、先にベッドに横になった。
執務から戻るのを起きて待っていようとしていたのだから、湯浴みから戻る時間くらい待てる。しかし、待つ気になれなかった。
寝てしまおうとしたが、寝付けなかったディートリンデは、エドムントが湯浴みから戻っても眠ったふりをしてしまった。
湯浴みを終えたエドムントはディートリンデの隣に横になると、いつものようにそっと抱き寄せた。
しかし、ディートリンデはそれがすごく嫌だと思ってしまった。
「はぁ……」
(身代わり王妃の分際で寝たふりをして、あまつさえ嫌だと思うなんて。何様だろう。ほんと、烏滸がましい。初めからわかっていたことじゃない)
エドムントは半年乗り越えると『半年』を強調して言った。ということは、離婚はしないまでも、頃合いを見て愛妾を迎える予定があるのかもしれない――と初めに考えていたことだ。
ディートリンデは、てっきり半年過ぎてから愛妾を見繕うか、王妃としてふさわしい女性が見つかり次第離婚するのだと思っていた。それなのに、そういう存在の方がすでにいるのだと思っただけでこんなにもショックを受けている。
◇
エドムントは朝から険しい顔で書類を見ていた。日が昇るとともに執務室で仕事をしているので、もう既に目が疲れ始めていた。
目頭を押さえようとしたとき、執務室のドアがノックされる。
書類を引き出しにしまい、応答すればコラリーが入ってきた。
「朝から珍しいな」
「おはようございます」
「あぁ、おはよう」
普段この時間に来ることのない乳姉弟は何か言うでもなく、エドムントに応えることなく顔をただじっと見てきた。
「どうした?何か用があるのではないのか?」
「ええ。…………」
「だから、何用だ?暇ではないのだぞ」
「昨夜、ディー様は起きてお戻りを待っていたそうですね」
目的のよくわからないコラリーに面倒臭さを感じ、強めに問えばようやく何か話し出す。
「あぁ。いじらしいことにな。遅すぎてソファで眠っていたが。それがどうした?」
「そんなに遅かったのですか」
「ディーが待っていてくれるとは知らなかったしな」
「……何故そこまで遅くなられたのでしょうか。また何か面倒なことが?」
「例の件で遅くなっただけだ。何か問題があるか?」
探るようなコラリーの態度に少し不快感を覚え、強い視線を投げる。
しかし、コラリーはこの程度では怯まない。「例の件……」と低い声で言った後、真っ直ぐにエドムントの目を見て、本題を話した。
「ディー様の妃教育ですが、本日はお休みにさせていただきます。よろしいですか?」
「構わないが。何か他にやりたいことでもあるのか?」
「体調が優れないようですので」
「は?それを早く言え。悪いのか?侍医は呼んだか?」
「不要と仰いましたので、呼んでおりません」
「ディーのことだから、必要でも不要と言うだろう。聞かずに呼べば良いものを。体調が悪いとはどのように?頭痛か?腹痛?それとも熱があるのか?起きてから不調を訴えたのか?」
「……心配なら陛下が直接様子を見に行けばよろしいかと。私室でお休みになられていますので」
◇
ディートリンデが自己嫌悪に陥りソファに座ってぼーっとしていると、居室のドアが勢いよく開いた。
「ディー!?大丈夫か!?」
「え……陛下!?どうなさったのですか?」
「具合が悪いんだろ!?どうした?侍医を呼ぶか!?横になっていないと駄目だろう!」
「え?いえ、具合は悪くありませんが……?」
「具合は悪くない?王妃教育を休んだのだろう?私室で休んでいると聞いたのだが」
(わざわざ?私が王妃教育を休んだと聞いて心配して来てくれたの?)
覇王なんて呼ばれているが、エドムントは優しい。身代わりの王妃もこんなに心配してくれる。睡眠時間を削るほど忙しいのに、わざわざ来てくれた。
それなのに、侍女たちに勧められるまま自分の仕事である王妃教育を休んでしまった。
今の自分にはそれしかないのに……。
ディートリンデはますます自己嫌悪に陥る。
ディートリンデは顔を伏せた。
だめな自分を責める気持ちと、エドムントの優しさに触れ、涙がせり上がってきたから。
きつく瞳を閉じると、自分の役目の自覚が足りなかったと思い至る。
唇を噛んで心を落ち着けてから顔を上げた。
「具合が悪い訳でもないのに王妃教育を休むなど、するべきではありませんでした。まだ午前中ですし、今からでも――」
「休んだことを責めている訳ではない。具合が悪い訳ではないのなら良いのだ。体の具合に関係なくたまには休んだって良い」
「申し訳ございません」
「……何故謝る?」
エドムントはこのとき、急にディートリンデが線を引いたように感じた。
「私はちゃんと王妃を演じなければいけないのに……」
その言葉を聞き、そういうことかと納得する。
この大国の王妃という重責を感じているのだろうと思ったエドムントは、気持ちを軽くさせるつもりでディートリンデに声をかける。
「私はディーにそこまで高いものは求めていないぞ。大丈夫だ」
エドムントは何事もなかったと安堵して息をつきながら言った。
しかし、ディートリンデには、ため息交じりに初めから何も期待していないと言われたように聞こえ、突き放された感覚になった。