待ち伏せ
今日はお昼を食べた後からずっとダンスのレッスンが続いているディートリンデ。
まだ一応若い王妃ということで、夜会などでは招いた他国の要人や国内の有力貴族を相手に立て続けにダンスを踊ることがある。
王妃のお披露目会も予定されているため、今日は連続して踊るための練習をした。
本番を想定して、重たくて豪華なドレスに高めのヒールを履いてのレッスンは、普段の軽めのドレスよりも運動量が増す。
物凄く辛いけど、ダイエットには最高に効きそうだと思ったディートリンデは気合いの入り方が違った。
「はぁ、はぁ、はぁ…………!」
「お疲れ様でございました、王妃様。かなりご上達なされまして、当初に比べて長時間のレッスンにも耐えられるようになられていますよ」
「そうね……自分でも、そう思うわ。はぁ……だけど、もう少し体力を付けないと……はぁっ…………」
運動は漠然と痩せたいという思いだけでは、なかなか続けられない。
しかし、王妃教育の第一の目的は、王妃をまっとうするため。
そこに更に痩せたいという気持ちがプラスされて、より真剣にダンスレッスンに取り組むことができていた。
余裕のなかったドレスが、最近ほんの少しだけ緩くなった。と言っても、パツンパツンがパツパツになった程度。
着ている本人にしかわからない程度ではあるものの、効果が実感できるとそれがまたやる気の源になる。
今日もいい汗をかいたと気分良く、レッスン場のある執務棟から居住棟へと戻ろうとしていた。
角を曲がったところで、視界の端に一人の初老の男性を捉える。
嫌な人に出会ってしまったと思ったディートリンデは、すぐに王妃としてのスイッチを全開にした。
「これは、王妃様」
「ご機嫌よう」
彼は、国防に関係する政務官をしているというペータル・リーコック。
今、侍女以外で気軽にディートリンデに話しかけてくる唯一の人物だ。
まだ正式には貴族へのお披露目会が行われていないこともあり、王城内をディートリンデが歩いていても、皆は廊下の端のほうに控えて通り過ぎるのをただ待つ。
しかし、リーコックは違っていた。
彼は当初からディートリンデを見かけるとわざわざ声を掛けに近づいてきていた。
現在、王城でのディートリンデの行動範囲は狭い。執務棟では、エドムントの執務室やレッスン場、図書館程度しか行かない。
関わる人が増えると、それだけディートリンデが偽者であることがばれるリスクが高まる。
それを避けるためでもあった。
しかし、数日前からリーコックとの遭遇率が高まったため、昨日から私室へ帰るルートを変えた。
にもかかわらず、リーコックは予想して待ち伏せしていたのだろう。
立ち塞がるようにして話しかけられ、仕方なく立ち止まったディートリンデに対し、リーコックは無遠慮にじろじろと視線を送ってくる。
ある意味で貴族らしい鼻につく言動や視線で、明らかに粗を探そうとしているのがわかる。
遠回りしてでも避けてしまうほど、ディートリンデはリーコックが苦手だった。
「本日も精が出ますなぁ。何も無理をして身に付けなくとも。一から覚えるのは大変でしょうから、既に備わっているものに譲ると楽ですぞ」
「これも他国から嫁いだ妃の務めと思えばこそ。当然のことよ」
ディートリンデがたおやかさを意識して微笑んで見せれば、つまらなそうにふんっと小さく鼻を鳴らす。
「ところで、来週行われる王妃様のお披露目会は楽しみですな」
「ええ、そうね」
リーコックは悪い顔で『楽しみ』と言うが、まったく楽しみにできない。
(貶めようと何か企んでいるわけではないわよね?)
彼がこのように悪意をむき出しに絡んでくるには理由があった。
彼の孫娘は、臣下らが推すエドムントの最終妃候補の一人だった。
そのため、未だに孫が王妃になるべきと考え、どうにかして半年以内に離婚させられないか画策しているのである。
スヴァルトほどの大国ならば、力を欲して動くくらい気概のある者は必要だ。
そのくらいのことはディートリンデも理解している。
ただ、その矛先が自分に向かうと厄介である。
実際に絡まれると緊張する。
いつ偽者だとばれてしまうかとハラハラする。
だけど、疚しいことがあるのかと思われてしまうので、警戒心を顕にすることもできない。
こういうこともあるだろうと予想していたが、実際に対峙することになれば非常に面倒くさいことこの上ない。
笑顔の裏で今日はどう乗り切ろうかと考えていると、エドムントが通りかかった。
強い味方の登場に内心ほっとしてしまう。
「リーコック。我が妃に何用か?」
「陛下」
「まさか、言いがかりをつけているのではあるまいな?」
エドムントの逞しい腕がディートリンデの腰に回された。
腰を抱かれることはまだ慣れていないディートリンデも、このときばかりは守られている安心感に包まれる。
「とんでもないことでございます。王妃様を慮ってのこと」
「そうか?」
確認するようにディートリンデを見るエドムント。
ここではその通りだとしか言いようがなく、ディートリンデは微笑んで頷く。
エドムントは口を結ぶと、ただじっとリーコックを見下ろした。
リーコックは礼の姿勢を取ったまま、エドムントの出方を見るためか微動だにしない。
エドムントが度々こうして無言で臣下をただ見るという場面をディートリンデは目にしている。
国王が言葉を発さない時間というのはとても空気が重くなり、対峙している相手は相当な重圧が掛かる。
悪巧みをしている者なら、見透かされているのでは!?と強迫観念に駆られることだろう。
何もしていない者でも、何か失態を犯したか?と不安になる。
リーコックの額にもじわりと汗が滲み始めた。
「……ディー、行くぞ」
「はい」
結局、何か言うことなくエドムントがくるりと方向転換する。
ディートリンデがチラリと後ろを振り返れば、礼の姿勢を取りながらも恨めしそうに睨みつけるリーコックと目が合った――――
「すまんな、ディー。嫌な思いをしているのではないか?」
「大丈夫です」
「しかし。私はディーを守らなければならぬのに」
「何をおっしゃいます。こうして守ってくださっています」
「うむ。何かあれば遠慮なく言ってくれ。辛い思いはさせたくないからな」
ディートリンデとしても、エドムントの立場が悪くなるようなことはしたくないという思いが強い。
(頑張らなければ。まずは、来週の王妃のお披露目会とパレードを無事に乗り越えるぞ!)
来週の頭に貴族向けに王妃のお披露目会と、その翌日に民へのお披露目として城下で結婚祝賀パレードがおこなわれる。
ディートリンデにとっては王妃として初めてのイベントだった。
パレードは馬車に乗って城下を練り歩くだけだが、お披露目会は貴族たちとの接触は免れない。
『結婚式の参列は伯爵家以上の当主のみでしたが、この会は爵位に制限はないため、国中から多くの貴族が来る予定です』
『そ、そんな催しが……!?この国の王侯貴族の名前をまだ全然覚えられていないのに……』
貴族連中に違和感を持たれないように演じなければならないプレッシャーが掛かる。
このとき相当不安が顔に出ていたのか、ただ純粋に王妃の顔を貴族に覚えてもらうための会だと、カルヴィンから説明された。
『挨拶に来る貴族たちに微笑みかけるだけで、会話をする必要はありません。口を開かなければ、何も問題は起こりません』
『でも、話しかけられたら?』
『それでも微笑むだけで結構。そもそも、自己紹介や挨拶以外の言葉を目下の者から発するのは、この国ではマナー違反になります。挨拶の口上も決まっていますから、何も心配ありませんよ』
挨拶の場で雑談をすることはないと言われ、ディートリンデは少しだけ安心した。
後日、ディートリンデはマナーの講師にお披露目会でのマナーなどを一通り習った。
挨拶の対応はカルヴィンの言う通りで、口上が決まっているので微笑みで応えたらいいと教えられた。ぼそっと『それでも勝手に話す輩もいますけど』という講師の声は聞こえなかった。
『あぁ、そうそう。挨拶の順番ですが、我が国では序列順などの決まりはございません』
『そうなの?ファンデエンでは高位の者からだったわ』
『両陛下が入場されましたら、挨拶のための列ができまして、並んだ順に挨拶をしていくことになっております。実際は自分よりも高位の者が並ぼうとしたら先を譲るのが慣例になっておりますが』
名簿通りに覚えたらいいと思っていたディートリンデは、その日から必死に貴族名鑑に載っている顔と名前を暗記した。