少しでも苦しまずに死ねそう
輿は、慎重に運ばれた。
ディートリンデが自分の人生を呪い、完全に諦めるのに充分な時間を掛けて。
ゴトンという衝撃と共に揺れがなくなり、輿が転移陣の上に置かれたのだとわかる。
ファンデエンとスヴァルトは、世界の端と端にあると言っていいほど距離が離れている。
長距離移動に適しているとされる魔馬車でも時間がかかりすぎてしまうため、輿の中に入ったままの移動は現実的ではない。
そのため、特別にあちらとこちらの転移陣を結ぶことになった――と誰かが言っていた。
「ディアーヌ。私たちの愛しい子。どうか元気で」
「あぁ。ディアーヌ……――」
ファンデエン国王の静かな、少し寂しそうな声が聞こえてきた。続いて王妃の声も。
声を出せば、中にいるのがディアーヌではないことがわかる。
ただ、助け出された後のことを思うと、ここで声を出すべきか迷った。
怒ったディアーヌの仕置きも恐ろしいが、今回ばかりは相手がいる。それも強大な。
互いの国の城内にある転移陣を結ぶため、警備面から転移陣を結ぶ時刻や一度限りの暗号が決まっている。
身を隠すと言ったディアーヌを探し出し、急いで支度をして……としても、約束の時間には間に合わない。
ディアーヌが逃げようとしたことを隠し通し、仕切り直しができるだろうか。
両国には外交力にも大きな差がある。
ファンデエンの外交官や王では、大国相手に誤魔化しきれないだろう。
ディアーヌが逃げたことをスヴァルト側に知られてしまったら、覇王エドムントが怒るのは想像に難くない。
誰かが責任を取らなければいけなくなる。
侍女のせいにしてそれで解決するとは思えないが、被害を最小限にしようと思えば、侍女が一人で画策し謀ったのだと主張するのが簡単。
ディートリンデは罪人に仕立て上げられてしまうだろう。
ファンデエン国で罰を受けるとしたら、磔の刑――――
(死ぬのはいいわ。この国から出られるならそれもやぶさかではない。だけど姫さまの身代わりで犠牲になる上に、ここで磔にされてじわじわ苦しんで死ぬなんて絶対に嫌)
ディートリンデは大国スヴァルトで身代わりがばれた場合の行く末も考えた。
(わからないけど、覇王と名を轟かすほどの人が国の頂点に立っているのだから、偽物とわかった瞬間に殺されそうよね。噂を鵜呑みにするなら直情型そうだし)
死ぬという結果は同じでも、スヴァルトのほうがまだ苦しまずに死ねそうである。
狭い輿に閉じ込められて冷静な判断ができなくなっていたディートリンデは、どうしたら楽に死ぬことができるか……それだけしか考えられなくなっていた。
少しでも苦しまずに死ねそうなほうを選びたい。
しかし、今までそんな選択をしたことがないので、簡単に答えが出せない。
結局、どちらが良いのか判断できないまま、転移陣が作動してしまった――――
◇
「うぇ……っ…………」
転移と言っても瞬間移動できる魔術はまだ開発されていない。
長距離になればなるほど転移が完了するまでに時間がかかる。
輿の中は独特の浮遊感が続き、ディートリンデは完全に酔っていた。
窓もない狭い輿の中で吐こうものなら大変なことになる。
別の意味で「死ぬ!」と思い、必死で他のことを考えた。
死期を悟ると、何故だか過去の良い記憶を思い出す――とどこかで聞いたことがある。
が、ディートリンデの人生に、良い記憶はなかった。
ただ一つ思い浮かんだのは、つい最近初めて感じた希望の光だった。
大国スヴァルトからの申し出で急に決まったディアーヌの輿入れ。
侍女は不要とスヴァルトから断ってきたので、王女宮の侍女たちはディアーヌから解放されることになった。
ディアーヌ輿入れ後は、同等の仕事に空きがないということで、全員がメイドになることが決まった。
当然給金が下がるのではと心配する同僚もいたが、そんなことはどうでもよかった。
我儘で苛烈なディアーヌから解放されることが、何よりも嬉しかった。
メイドになれば今後は城の外から通ってもいいとのことで、城の近くに一人暮らし用の部屋を探している最中だった。
これまでの給金も貯まっているし、これからはもっと好きなように生きてみたい!と、最近は意気揚々とした日々だった。
(それなのに、どうして……。自由が待っていると思ったのに……)
――――と回顧していたとき、急に体が重くなる。
無事にスヴァルト側に転移が完了したようだ。
なんとか吐く前に着いたことにほっとした直後、知らない男性の声が聞こえる。
「ディアーヌ様、スヴァルト王国へようこそお越しくださいました。これより陛下がおられます別室へと移動いたします。どうかそのまま、もう少々お待ちください。――丁重にお運びせよ」
着いたら着いたで、気持ち悪さを忘れてしまいそうなほどの緊張が襲ってきた。
このまま運ぶということは、ファンデエン流の輿入れの仕方を尊重してくれるらしい。
決められた時間に決められた暗号を使って転移してきたので、輿の中の人物が本物かどうかの確認をしなくても良いと判断されているようだ。
「着きました。――――陛下、ファンデエン国より王女ディアーヌ様がお着きでございます。我々は一旦退室いたします」
バタバタと複数の足音が遠ざかり、ドアの閉まる音が耳に届く。
輿には窓もないので音でしか状況が判断できないが、ドアが閉まって以降、音がしない。
本当に部屋の中にはスヴァルト国王エドムントしかいないのだろう。
いよいよ、ばれるとき――それはつまり死の瞬間が近づいていると思うと、否応なしに心臓がドクンドクンと音を立てる。
輿に詰め込まれたときから諦めの境地に至っていても、いよいよそのときが近づいているのだと思うと、恐怖を感じる。
ディートリンデは生まれてから、何度も死にたいと思うことがあった。
本気で死んでしまおうかと思ったこともある。
それなのに、いざその時がきたのだと思うと、死の恐怖に襲われる。
(叶わなかった希望なんか回顧してないで、どうしたら少しでも良い結果になるか考えておけば良かった……)
シンと静まり返った部屋の中、衣擦れの音が耳に届いた後、足音がゆっくりと近づいてくる。
足音がピタリと止むと「開けるぞ」と声が聞こえた。
声だけで平伏したくなるような、威厳を感じる低く落ち着いた声。
けれど耳触りがよく、輿の中と外とは思えないほどよく通る声だった。
カチャリと音がした後、ゆっくりと扉が開かれ、暗闇の中に光が差し込む。
厚いベールで視界をほぼ遮断されている上に、目の前の人は光を背負っているため、影ができて顔がまったくわからない。
「出られるか?」
エドムントが輿の中に向かって手を差し出した。
気遣いのある行動をされ、ディートリンデは少し違和感を覚える。
神をも恐れぬ覇王という異名から想像していた人物像の行動に思えなかったからである。
若い侍女が『最近は穏やかになったらしい』というようなことを言っていたが、噂は本当だったのか。
それとも異名から想像するほど恐ろしい人物ではないということか。
差し出された手を無視するわけにもいかないので、恐る恐る手を出す。
すると、ぐいと引っ張られ半ば強制的に輿の中から出された。
反動で少しよろけてしまったが、支えてくれたので転ぶことはなかった。
ぐっと支える手の力強さに、安心感さえ与えられる。
それを(大きな手……)と気を取られていると、真上から見下ろされているような視線を感じた。
「エドムントだ」
「私はディー、あっ。ディアーヌと申します」
(普通に自分の名前を名乗るところだったわ……)
「ディー・ア・ディアーヌ?それが正式な名前だったか?もっと長かったような……」
「い、いえ。ディアーヌでございます」
「これはこちらから送ったというベールか?思ったより厚いな。一度取っていいか?」
「いえ……あ、いえ、はい」
「良いのか悪いのか、どちらだ」
死への恐怖心からか、反射的に否定してしまった。
しかし、先に延ばしても結果は同じ。
後からばれたほうがもっと怒らせることになるかもしれない。
先ほども咄嗟にディアーヌのふりをしてしまったが、近いうちに必ずばれることは覚悟している。
ならば、少しでも早いほうが良いだろう。
「取ります」
息を吸い込み、意を決して宣言した。
が、もたもたしてしまう。
後ろは引き摺るほどの長さだし、前も胸の下まであって長いうえに、ドレープもたっぷり。
最高級シルクのツルツルサラサラのしなやかな布に翻弄された。
前側を上げて顔を出したいだけなのに、ベールの海にワタワタしてしまう。
早くしないと苛立たせると焦っていると「ぷっ」と吹き出す声が耳に届く。
(……え?今、笑われた?)
「ゴホンッ。手伝おう」
「……恐れ入ります」
一歩近づかれた気配と共に、サッと持ち上げられたベールが後ろに流される。
伏せていた目を上げて真っ直ぐ前を見ると、目の前には服の上からでもわかるよく鍛えられていそうな胸板。
随分と豪奢な飾りやバッジがたくさんついている式典用の軍服のようだが、見慣れないデザインの服を着ている。
そのまま視線を上げていくが、しっかり頭をもたげて見上げないといけないくらい長身だった。
しっかり顔を上げるとエドムントと目が合う。
その瞬間、意志の強そうな緋色の瞳にディートリンデは魅入られた。
エドムントの眉間にどんどん深い皺が刻まれていき、自分がただ見つめ続けていたことに気が付く。
「……誰だ?」
低い声で誰何され、白昼なのに金縛りにあった気がした。