(2)
「リリー、オルトたちが乗馬場で遊んでるんだって。見に行ってみない?」
数日後の昼休み、ルテウスと一緒に図書館に向かおうとしていたリリーをセピアが呼びとめた。
「あいつらが遊んでるのを見て、何が楽しいんだよ」
眉をひそめるルテウスに、レオンが笑った。
「武闘学科三専攻で集まって勝負をするって、珍しいじゃないか。ソールとフォルマもいるみたいだし、何か面白いことが起きそうなんだよね」
リリーはルテウスをかえりみた。神法学科に編入してから、リリーの勉強はおもにルテウスが見てくれている。今日もこれから図書館で課題に取り組むつもりだったのだが、セピアたちの誘いに心が動いた。
「ルテウス、ちょっとだけいい?」
「ったく、しょうがねえな」
赤茶色の髪をかきむしり、ルテウスがため息をつく。そのまま四人で連れ立って歩いていると、同じように噂を聞いた一回生たちが、はしゃぎながら脇を過ぎていった。
「うわあ、すごい人だね」
乗馬場の柵を押して中に入ると、すでに見物する生徒でいっぱいだった。女生徒が多いのは、オルトとソールがいるからだろう。どうにか詰めてもらって場所を確保したセピアの言葉にうなずいたリリーは、乗馬場の中心に集まっているオルトたちを見た。
どうやら各専攻五名ずつくらいのようで、順番にお題を言っては、誰が一番にそれを取るかで得点を競っているらしい。棒で地面に数字を書いていて、三専攻が接戦だった。
「水の紋章石!」
槍専攻一回生副代表のカルパ・ウォークの出題に、十五人がいっせいに水の法専攻生へと走る。観客も巻き込んでの勝負に、女生徒たちがきゃあきゃあ騒いでいる。水の法専攻生の杖を一番につかんだのはフォルマだった。足の速さは男子にも負けていない。背も高く、見た目もさわやかで凛々しいからか、女の子たちから人気があるらしく、フォルマの勝利に女生徒が拍手と声援を送っていた。
「フォルマ、格好いいね」
「まあね。でもお昼を食べたばかりなのに、よくあんなに走れるよね」
ほめるリリーに、レオンが肩をすくめる。
「じゃあ、次のお題は……」
勝った人が次のお題を決めるらしく、フォルマが周囲を見回した。それを見て、すかさずレオンが叫んだ。
「リリー・キュグニー!」
空気がかたまった。遊んでいた武闘学科生だけでなく、見学していた生徒たちの視線がいっせいにリリーに集まる。
「――え?」
唖然とするリリーを目指して、武闘学科生たちがわっと駆け出した。
「馬鹿、お前ら待て!」
オルトが怒鳴るが、制止の声を聞く者はいない。突進してくる武闘学科生におののいて、リリーは法衣をひるがえした。
「リリー、お題は場内から出ちゃだめなんだよー」
レオンがにやにやしながら注意する。勝手に標的にされたのだから無視すればよかったのだが、そのときのリリーは慌てるあまり、律儀に決まりを守って乗馬場の中を逃げ回った。
「リリー、意外と足が速いねえ」
ひゅうっと口笛を吹いたレオンが、「これは脱落者防止の策が必要かな」とつぶやいた。
「一番に確保した人は、リリーから熱い口づけがもらえるかもよー?」
「ちょっとレオン、ふざけすぎっ」
追加報酬を口にしたレオンの肩をセピアがどつき、訂正させようとしたが、その前に武闘学科生たちが加速した。
「なっ……おい、やめろってっ」
オルトが行く手を遮り、リリーに向かおうとする同期生たちを捕まえている。フォルマと男子生徒の一人も足をかけて転ばせているが、きりがない。
「くそっ、ルテウス、『盾の法』だ!」
「あー? 面倒臭えなあ」
オルトの指示にぶつぶつ言いながら、ルテウスが詠唱を始める。一番リリーに近かった弓専攻生があと一歩でリリーに手が届くというところで、いきなり地面から突き上がった土壁にはじかれて尻もちをついた。後ろから来ていた生徒たちも次々に折り重なっていく。
「ルテウス、邪魔をするなっ」
妨害されて抗議する武闘学科生たちの目が血走っていることに、「あいつら、本気だぞ」とルテウスが頬をひくつかせる。「うーん。ちょっとあおりすぎたかな」とレオンも苦笑した。
「も……嫌……」
頑張れだの、後ろに迫っているだの、応援が次々に飛んでくる中、リリーは息を切らしながら懸命に走っていたが、限界が近かった。背後には猛烈に追い上げてくる武闘学科生たちの足音が響いている。涙目になったリリーの前方にやがて、自分を待ち構える剣専攻生の姿が見えた。このままでは挟み撃ちにされる。
逃げられない、と思ったとき、横から男子生徒が突っ込んできた。自分に飛びついて抱きかかえた相手の顔を見る間もなく、リリーはぎゅっと目をつぶった。
ざざあっと一緒に地面に転がり滑る。砂ぼこりが舞ったが、痛みは襲ってこなかった。自分が相手を下敷きにしている感触に気づき、リリーはおそるおそる目を開けて驚いた。
「……か……く、ほ」
ぜえぜえと荒い息を吐きながら、ソールが宣言する。一瞬後、大きな悲鳴と歓声がわいた。
大丈夫かと聞きたいのに、声が出ない。ぐったりしつつもしっかり自分を抱きしめているソールに、心臓がバクバクと激しく鳴り響く。
「リリー、けがはない?」
セピアが走り寄ってくる。レオンとルテウス、オルトとフォルマもやってきた。
「ソールがそんなへまをするわけないでしょ」
横倒しになる寸前、自分が下になるように体勢を変えるなんて器用だよねと、レオンが感心した様子で言う。
「ソール、お前、リリーのく……くち……」
完全に狼狽した様子で口をパクパクさせているオルトに、ソールは一度大きく息を吐き出し、前髪をかきあげた。
「もらうわけないだろう。本人がいいと言っていないのに」
「へえー? じゃあリリーがいいと言ったらもらうんだ?」
にやりとするレオンに、「そのへんでやめときなよ、レオン。後で串刺しにされるよ」とフォルマがあきれ顔でたしなめる。
「なんだよ、ソール。もらう気がないなら捕まえるなよ」
「くそう、あとちょっとだったのに」
「リリー、足が速すぎるって」
「俺らより速いって、どういうことだよ」
集まってきた他の武闘学科生たちが恨めしそうにぼやくのを聞き、オルトがわなわなと震えた。
「お前らーっ!!」
「うわ、オルトが怒った」
「まずい、逃げろっ」
身をひるがえす同期生たちを、オルトが片っ端から首根っこをつかんでは投げ飛ばしていく。結局勝負そっちのけで追いかけっこに転じた彼らを横目に、レオンがしゃがんで二人をのぞき込んだ。
「で、君たちはいつまでそうやって抱き合ってるつもりなの?」
言われてリリーは我に返った。
「ご、ごめんなさいっ」
慌てて飛びのいてぺこぺこ頭を下げるリリーに、「いや……巻き込んで悪かった」とソールも身を起こす。そらしたソールの顔がうっすら赤くなっているのを見て、リリーも恥ずかしさにうつむいた。
「もうっ、レオンのせいでひどい目にあったわ」
乗馬場の騒ぎからの帰り、次の授業のために教室へ向かいながら、リリーはふくれっ面でレオンをにらんだ。
「本当だよ。へたしたら大けがするところだったんだよ」
セピアにまで非難されたが、レオンはまったく悪びれる様子もなく、こぶしを顎に添えながらつぶやいた。
「いやー、ソールが本気を出してないように見えたから、ちょっとつついてみたんだけど。でも意外だったな。オルトはルテウスまで使ってリリーを守ろうと奮闘してたのに、ソールはまさかの一番乗りだもんね」
「変な人にリリーを捕まえさせるわけにいかないから、先に確保に向かったんだよ、きっと。ソールならそういうことに気が回りそうだもの」
レオンが勝手に変なおまけをつけるから、とセピアが文句を追加する。
「まあ、そうだろうね。それにしても、みんな見事な全力疾走だったなあ」
ソールですらなかなか追いつけないって、君ってどれだけ足が速いのさ、とレオンがくつくつ笑う。
「お前さ、飛べるんだから、空に逃げればよかったんじゃないか?」
ルテウスの冷静なつっこみに、リリーは「あっ」と頭をかかえた。確かに、それなら武闘学科生たちは絶対に手が届かない。
あのときは必死すぎて思いつきもしなかった。がっくりとうなだれるリリーに、レオンが「いや、さすがにそれはまずいでしょ」と続けた。
「リリー、今日はスカートだから。飛んだら見えちゃうよ」
そんなことになったら、オルトがみんなの目をつぶして回るはめになってたよ、と恐ろしいことを言うレオンに、ルテウスも髪をかきながらため息をついた。
「あいつならやりかねんな」
「いくらなんでも、そこまでは……」
オルトが心配症なのは間違いないけれど、とリリーはセピアに同意を求める視線を送ったが、セピアは肩をすくめて困ったように笑うだけだった。
放課後、補修授業の課題を片づけるため、リリーとルテウスが図書館に入ると、受付の若い女性司書が笑顔で迎えた。
「今日も勉強? 頑張るわね」
「そうなんです。これ、返却です。それからこの本なんですけど……」
リリーが手にしていた四冊の本と一緒に紙を渡すと、司書は目録をめくって本の場所を調べてくれた。配架先の書かれた紙をリリーが受け取るより先に、ルテウスが横から奪い取り、数冊に印をつけた。
「これと、これと……これなら大丈夫だろう。ほらよ、お前の持ってくる分。後は俺が取りに行ってくる。さっさとすませるぞ」
言うなり歩いていってしまったルテウスに、「本当にせっかちね」と司書が苦笑する。
「頭のいい子なのは間違いないけれど、教え方はどう?」
「先生より理解しやすいです」
リリーの返事に、「あら」と司書が目をみはる。リリーもふふっと笑ってから、必要な本を探しに行った。
本棚を一段ずつ指でなぞりながら、必要な本を取っていく。自分の担当する本はどれも薄めだった。それが偶然ではないと気づいたのは、つい最近だ。
リリーより勉強が進んでいるルテウスは、どの本がどれくらいの厚さか知っているのだ。そしてリリーが持ち運ぶのに負担がなさそうな分だけを任せ、重いものや大きいものはいつもルテウスが持ってくる。
口は悪いけれど優しい。仲良くならなければ、ずっと気づかなかっただろうと思う。
「あった……けど、届くかな」
一冊は、探すのに少し時間がかかった。前に読んだ人が別の場所に戻したらしく、所定の位置より高いところにあった。
周囲を見回してみたが踏み台は近くになかったので、つま先立ちになって必死に指をのばす。
あと少し、というとき、不意に後ろからのびてきた手が本の背を指した。
「これか?」
「ひあっ!?」
吐息とともに耳に触れた声に、びくりとする。おかしな悲鳴をあげたリリーに、ソールが失笑しながら本を取って渡した。
「あ、ありがとう」
昼休みのことが頭をよぎり、リリーは伏し目がちに視線をさまよわせた。なんとなく、ソールの顔をまともに見られない。そんなリリーの気持ちを知ってか知らずか、ソールは隣で黙って本棚を眺めはじめた。
「……ソールも何か借りにきたの?」
思い切って話しかけてみると、ソールは並んでいる本に指をはわせながらうなずいた。
「ああ、植物学の課題でちょっとあやふやなところがあったから、確認にな」
目当ての本が見つかったらしく、ソールが一冊を取り出してパラパラとめくる。そのまま立ち読みするソールのそばで、リリーは最後の本を探した。
静かな時間が不思議と心地よかった。セピアやオルトといるときはいつもにぎやかで楽しいけれど、ソールと一緒だとなぜか落ち着く。
初めて一緒に帰ったときは、続く沈黙に緊張したけれど、今は怖くない。むしろ安心できるほどで、こういう空気は好きだなと思っていると、ソールが本を閉じて棚へ戻した。
「お前は、今日も時間いっぱい残るのか」
「うん、まだまだ遅れてるから、急いでみんなに追いつかないと……これ以上足を引っ張るわけにはいかないし」
探していた最後の一冊を手にしたリリーの返答に、ソールは首をかしげた。
「リリーは呑み込みが早いと、ルテウスが言っていたが」
「それは、ルテウスの教え方がうまいからだよ」
レオンもセピアも優秀なので、みんなきちんと教えてくれるのだが、ルテウスの説明は簡潔なのにわかりやすいのだ。
それからリリーは、神法学科に編入してからのことを話した。レオンが言ったとおり、人数が少ない風の法専攻生と担当教官のニトル・ロードンは、リリーを熱烈に歓迎してくれた。一回生代表のエラルド・ラングは代表の座まで譲ろうとしてきたので、さすがにそれは断ったのだが。
今は補習もあるし大変だけれど、毎日が充実していてとても楽しい。話題がつきないリリーをじっと見つめていたソールが、やがて顔をほころばせた。
「やっぱり神法学科に編入して正解だったな。よく笑うようになった」
「……そう……かな」
優しいまなざしに胸が高鳴り、リリーは目線を下げた。
みんなから同じことを言われたけれど、ソールが相手だと妙に鼓動が速くなってしまう。
そのとき、本棚の陰からひょこっとルテウスが顔をのぞかせた。
「おいこら、こんなところでいちゃいちゃしてんじゃねえよ。人に本を探させておいて何やってんだ、お前は」
本日二度目の悲鳴が漏れそうになるのをなんとかこらえたリリーを、ルテウスがじろりとにらむ。
「い、いちゃいちゃなんか――」
してない、と否定しかけたリリーより先に、ソールが口を開いた。
「リリーがほめてたんだよ。ルテウスの教え方がうまいって」
「ふん……そんなの当たり前だろ。そもそも、キュグニー先生の子供に落第なんかさせられるかよ」
ぷいっと顔をそむけるルテウスの耳が赤いのを見て、リリーはくすくす笑った。
「ルテウスにお世話になってるってお父さんにも話してるからね。そう言えば、前にルテウスが探してた本、うちにあったよ。よければ貸そうかってお父さんが……」
「本当か!?」
がしっとリリーの両肩をつかんでルテウスが詰め寄る。あまりの勢いにリリーが驚いてかたまったところで、背後からやって来たオルトがリリーを抱き寄せながら、ルテウスの顔をぐいぐい手で押して引き離した。
「ルテウス! お前はまたっ」
「痛えぞ、オルト! 俺は今、リリーと大事な話をしてるんだっ」
「二人とも、図書館なんだから静かにしようね」
喧嘩を始めるオルトとルテウスに、レオンが割って入る。その後ろからセピアとフォルマも現れた。
「勉強してるのかと思って様子を見に来たら、これだもの」
腰に手を当てて、セピアが眉間にしわを寄せる。
「大事な話って?」と尋ねるフォルマにリリーが説明すると、フォルマが納得顔でうなずいた。
「それは、ルテウスにとっては一大事だね」
「敬愛するキュグニー先生の蔵書を借りられるなんて、俺はもう死んでもいい」
芝居がかった調子でルテウスの心情を代弁するレオンに、「俺は絶対に死なんぞ。死んだらキュグニー先生から借りられなくなるっ」とルテウスが大真面目に反論する。オルトは怒る気も失せたらしく、あきれ顔でよそを向いた。
「それとね、ちょっと時間がたっちゃったけど、魔物退治のお疲れ様会と冒険集団結成のお祝いをうちでしないかってお母さんが言ってて。みんなの都合があうなら、この休みにでもどうかな?」
「行く!」
くるっとふり向いて同時に叫んだルテウスとフォルマに、オルトがぼそりとつぶやいた。
「……なんか、鼻息の荒いのが増えてないか?」
「うちの双子の姉と幼馴染がお騒がせしまして」
どうもすみません、とレオンがあははと笑う。
「ソールは? あいてる?」
ぼんやりした様子でみんなのやりとりを眺めていたソールを、リリーは見上げた。はっとしたようにリリーを瞳に映したソールは、ややあって微笑した。
「ああ、たぶん大丈夫だと思う」
「よかった。お母さん、ソールと一度話してみたいって言ってたから」
「俺と?」
首を傾けるソールに、リリーは耳打ちした。
「ソールのお父さんがお母さんの成績のことを漏らしたのが許せないって……だから、ソールのお父さんの恥ずかしい話をばらしてやるって」
一度目を丸くしてから、ソールは発笑した。
「それは、ぜひ聞きたいな」
「何の話?」
セピアに尋ねられ、リリーはソールと目を合わせてから、「内緒」と人差し指を唇に当てて笑った。
「えー? 二人だけの秘密なの? あやしいなあ」
セピアがにやにやしながら、ひじでリリーの脇腹をつつく。腰をひねって逃げていたリリーは、自分をじっと見つめるオルトの視線には気づかなかった。