(1)
カロ市北部にある小さな町メンブルムは、首都アーリストンに隣接している。これという特産品もなければ景勝地もないが、セプテム王国のほぼ中央に位置するため、利便性から人口だけは多い。
人の往来の激しい町に点在する四神の礼拝堂のうち、大地の女神の礼拝堂もまた、どこにでもある古びた建物だった。ただ一つ、代々着任する神官は神法院から派遣される者ではなく、町で生まれ育った人間であることを除けば。
そんな、表面上は取り立てておかしなことはないと思われる礼拝堂の地下の一室で、大導師は受けた報告に不満をあらわにした。
「あれほど大がかりな仕掛けを施しておいて、しくじるとはな」
学院もしばらくは警戒するだろうとぼやく大導師に、持ち込んだ他の呪物にまでは捜索が及んでいないことを信者は告げた。
「それも時間の問題かもしれんが……先ほど、奴らが動き出したと連絡が入った」
はっと信者が肩を揺らした。
「狙いが同じであればやっかいだ。『狩人』に待機させよ。あの娘は何としても手に入れねばならん」
あれから二十年以上の時を経て、ようやく主神から託宣を得られた。自分たちの宝を強奪した者たちの子であることは腹立たしいが、連中に同等以上の苦しみを味わわせることができるならば溜飲も下がるだろう。
「恐れながら、御孫様は冷静で聡明なお方ゆえ我らも頼もしく感じておりますが、あの者については懸念する声が少なくありません」
「あやつを『狩人』に任じたことが不満か?」
たとえ罪人として処罰された男の孫であっても、血筋で言えば資格はあるため、あれを扱うことに問題はない。
「勇むあまり、御孫様の足を引っ張るまねをしないかと」
「確かに気は荒いが、無用な心配だ。落ちた名誉を挽回するために必死だからこそ、祖父のような手抜かりをせぬよう十分に注意して立ち回るだろう」
自分の損になることはするまいと答えた大導師に、「失礼いたしました」と謝罪して信者が退室する。ひたひたと石段をのぼっていく足音が消えるのを待って、大導師はため息まじりに目を伏せた。
皆、見えていないのだ。不安というならむしろ我が孫のほうがあやういというのに。
『狩人』として送り出さないわけにはいかなかったため、平静を装って命じたが。
「いらぬ感化を受けねばよいが……」
血を絶やさないためにも無事に戻ってきてほしいと、大導師は崇拝する神に祈った。
「授業参観?」
夕食の準備が整い、席に着いたファイに、リリーはうなずいた。
「今年からすることになったんだって。風の法専攻は一回生にあわせて『翼の法』の実技披露をするんだけど、お父さんに見てもらいたい人がいるの」
おかずを取り分けながら、リリーは一回生代表のエラルド・ラングについて話した。
入学試験で優秀な成績だったエラルドは、風の法専攻の一回生代表にも選ばれたのだが、『翼の法』が安定せず、怖くて飛べない状態になっているのだと。
「ロードン先生は絶対に叱らないし、大丈夫だからと励ましているんだけど、エラルドがすっかり落ち込んでて……」
「見に行くのはかまわないが、保護者の一人でしかない僕が口を出すのはどうかと思うよ」
「ロードン先生からも頼まれたの。ちょっとお父さんに来てもらえないかって」
「……ニトルが手を焼くとは、かなり深刻なようだね」
お互い教官になってけっこうな年数がたつが、いつもゲミノールム学院から神法学院に上がってくる風の法専攻生は、一定以上の実力をつけてくる。それは、ニトルが一人一人きちんと指導しているからだ。
「ロードン先生の教え方が悪いんじゃなくて、エラルドの気持ちが問題なの。だから、神法学院の教官であるお父さんの力を借りたいって」
「そういうことなら、のぞいてみるよ。あまり長居はできないけど」
「よかった。じゃあ、先生に伝えておくね」
リリーは笑っておかずを口に運んだ。
授業参観当日、ゲミノールム学院は大勢の人でにぎわった。各専攻の授業場所は事前に知らされていたため、保護者はそれぞれ我が子のいるところを目指して歩いている。いつもと違う空気のせいか、生徒たちも今日はどことなく落ち着きがなかった。
「そんなに心配するなよ、エラルド」
「お前は絶対に飛べるから」
一人だけ顔色の悪いエラルドを同期生が励ますが、まったく響いていない。むしろますます萎縮してしまったエラルドに、リリーもかける言葉が見つからなかった。
授業の始まりを告げる鐘が鳴る。法塔の前に整列した風の法専攻生たちにニトル・ロードン教官が話をしている間、保護者たちの視線はちらちらとリリーの母に流れていた。長剣をはいている女性が珍しいのだろう。しかしその隣で静かにたたずんでいる父には気づいていないらしい。神法学科生だったことを誇示するかのように杖を目立たせている他の親と違い、父はこの後仕事だというのに、いつも着用している教官服ではなく普通の外套と帽子姿で、ベルトに差している杖も外套に隠れて見えない。
いよいよ実技の時間となった。まず二、三回生たちがさあっと空へ上がっていき、保護者から賞賛と大きな拍手がわいた。そちらに目が向いているすきに、一回生たちが『翼の法』を唱えて順番に上昇していく。
一番に飛んだリリーは、笑顔で手を振る母と穏やかな表情の父に、手を振り返した。自分がまた風の法を使えるようになったことを二人に見てもらえるのが、とても嬉しかった。
他の三人も無事に空へ舞い上がったが、まだ一人だけ残っている。じっと地面をにらみつけたまま動かないエラルドに、しだいに保護者たちも気づきはじめた。
「あの子、まだうまく飛べないの?」
「たしか、一回生代表じゃなかったかしら?」
ざわめきが広がる中、ニトルと視線を交えたファイがエラルドに近づいた。不審げな顔のエラルドに、ファイはリリーを指さして、リリーの父だと自己紹介した。
「原因を知りたいから、ちょっと一緒に飛んでみようか。大丈夫、けがなんてさせないから」
ファイにうながされ、おずおずとエラルドがうなずく。できればやりたくないという気持ちの表れか、非常にゆっくりと詠唱するエラルドにあわせ、ファイものんびりとした口調で『翼の法』をつむいだ。
いきなりエラルドの体がはね上がった。高いところまでまっすぐ急上昇するエラルドに、上空にいた生徒たちが慌てて逃げる。そして今度は急降下してきたエラルドを、ファイは空中で受けとめて着地した。
くすくすと笑い声が起きた。保護者たちの馬鹿にするような目つきに、エラルドの両親も赤面している。
「あれで本当に一回生代表なの?」
「今年の一回生はだめだな」
「でも、編入してきた子は優秀みたいよ」
聞こえてくる容赦ない声に涙ぐんでうつむくエラルドをかばうように軽く抱きしめながら、ファイはニトルをかえりみた。
「この子は術力がかなり高いね。これだけ高いと、制御に苦労するのは当然だ」
ファイの言葉に周囲がどよめいた。まさかと目を見開く保護者たちの前で、ニトルが「そうなんです」と肯定する。入学試験の適性検査では一、二を争うほどの能力をもつことがわかり、学力面でも申し分なかったため、風の法一回生代表に選んだのだと。
風の法の習得の特性上、他の法術も学べば安定してくると思い励ましてきたが、最初に習う『翼の法』がいつまでたってもまともにできないことで、エラルドは自信をなくしてしまい、どう指導しようかニトルも悩んだと聞き、ファイはエラルドの顔をのぞき込んだ。
「何も心配することはないよ。君みたいな子はむしろ、風の法を学ぶのに向いているから」
それからファイは、術力の調整の仕方をエラルドに教え、もう一度挑戦させた。すると先ほどよりははね飛ぶ速度が少しゆるんだ。何度か繰り返すうちに、徐々に安定のきざしを見せはじめたエラルドに、ファイは満足げにうなずいた。
「短い時間でここまでよくなるなんて、たいしたものだね。本当に賢い子だ」
ファイにほめられ、エラルドが顔を赤くする。ずっと暗くよどんでいた瞳が、今は輝いていた。
「君の場合、これから学ぶ法術が増えるごとに楽になるはずだ。ロードン先生は、君の力をきちんと見極めて指導してくれているから、それを信じて頑張ってごらん。君が神法学院に入学してくるのを楽しみにしているよ」
微笑んで肩をたたくファイに、「はい!」とエラルドが元気に返事をする。
ファイは他の生徒たちの飛行の様子を眺めながらニトルとしばらく話をし、仕事があるからと去っていった。その際、エラルドの両親がファイに頭を下げて見送った。
それから後が大変だった。あれは誰だと騒ぎになり、神法学院の風の法担当教官だと知って、特に三回生の保護者が慌てた。もう特待生試験が始まっていたのかと詰め寄られたニトルは否定したが、つい先ほどまでエラルドを嘲笑していた保護者たちはすっかり青ざめ、今後についてファイに相談したいと次はシータに群がった。しかし我が子の同期生を嘲っていた他学年の親に内心腹を立てていたのか、シータと一回生の保護者たちは瞬時に歓談の輪をつくり、彼らに話しかけるすきを与えなかった。
「お母さんたちの連携が鮮やかすぎて、みんなで笑っちゃったわ」
授業終了後、あきらめの悪い二、三回生の保護者をニトルに押しつけて逃げ出したシータに、リリーは同期生全員が感動していたことを伝えた。
一回生の保護者の結託には、はたで見ていたリリーたちもすかっとしたのだ。
「上級生は優しいし、馬鹿にしたりしないのに」
「見下してた親は風の法以外を学んでいた人たちだったみたいね。それでも、習得の難しさは子供から聞いてわかりそうなものだけど」
模擬戦や交流戦で活躍できるほどの実力者が少ない風の法専攻生は、確かに学院内でも何となく軽んじられている。一回生で、しかもつい先日編入したばかりの自分ですら感じるのだから、上級生たちはずっと肩身の狭い思いをしてきたに違いない。
「でも、お父さんはやっぱりすごいね」
「そうね。オルトのお母さんから話は聞いてたけど、ちゃんと先生をしてるのがわかってよかったわ」
ファイと同じく神法学院の教官職に就いているイオタによると、ファイは生徒の力をのばすのがうまく面倒見もいいので、風の法だけでなく他専攻の学院生にも慕われているのだという。
昔は必要最低限の人としか関わらなかったのにと、シータがふふっと笑う。
「ニト……ロードン先生も、いい先生ね」
「うん、授業もわかりやすいし、時々遊びながら学ばせてくれるし、すごく楽しいよ」
リリーがそう答えたとき、前方にいたオルトが「リリー!」と叫んで大きく手を振ってきた。
オルトのそばでは、タウと剣専攻担当のトルノス・カルタ教官が立ち話をしている。二人もシータに気づいて片手を挙げた。
「シータさん、お久しぶりです!」
「元気そうだな」
オルトの父は当たり前として、カルタ教官まで母と親しかったのかと、リリーは目を丸くした。
「タウが参観に来てたのね」
合流したシータに、「聞いてくださいよ、シータさん。今日は俺、教官生命を断たれるかと本気であせりました」とカルタ教官が息をつく。
今日の剣専攻の授業では、後半の余興として保護者も含めた勝ち抜き戦をしたのだが、そこにタウが参戦したらしい。
「授業の最初にタウさんの姿がなかったから楽勝かと思っていたのに、さあ勝ち抜き戦を始めるぞってところで現れるんですから」
オルトをそのまま大人にした顔立ちなので、みんなオルトの父だとすぐにわかったらしい。さらにタウが武闘館の教官であることはとっくに知られていたので、やる気満々で参加を表明していた保護者たちがこぞって逃げてしまったのだ。
引いてしまった大人とは逆に、武闘館の教官と一戦交えることができると食いついたのは子供たちだ。三回生を中心に我も我もと名乗りを上げ、結局タウが一人で生徒を相手に勝ち上がり、最後はカルタ教官との勝負になった。
タウが加減をして引き分けに持ち込んでくれたので、恥をかかずにすんだと言うカルタ教官に、シータが残念そうに口をとがらせた。
「そんな楽しいことをしていたのなら、顔を出せばよかったわ」
「いやいや、シータさんは絶対全力でくるでしょう? 負けたら俺の立場がないので、勘弁してください」
「引退した私にトルノスが負けるわけないじゃない」
「とか言って、ジェソやカラモスさんとたまに打ち合ってるの、知ってるんですよ」
武闘館卒業後、カラモスの娘のミュイアと結婚したジェソが武具屋を継いだので、その近くでカラモスは小さな剣鍛錬所を開いた。シータはそこに時々手伝いに行っているのだ。
「これからちょっとだけやらない? もう帰ってる生徒も多いし」
「そうですね……今の時間なら大丈夫かな」
シータの誘いにカルタ教官が乗り、審判を引き受けたタウと三人で闘技場へと足を向ける。リリーもオルトとともに行きかけたところで、フォルマとレオンとルテウスが来た。
「リリー、まだ帰らないの?」
「キュグニー先生は一緒じゃないのか」
「お父さんは仕事があるから。お母さんはこれからカルタ先生と勝負するんだって」
「本当? 私も行く!」
フォルマが興奮したさまで駆け出す。そこへセピアと姉のマニョリア、ラムダとミューもやってきた。シータとカルタ教官が試合をすると聞いて、面白そうだと言ってやはり闘技場へ歩いていく。
リリーたちが着いたときには、闘技場はもうすでに人だかりができていた。宣伝したわけでもないのによくここまで見物人が集まったなと思っていると、ソールとピュール・ドムス教官までが姿を見せた。
「ソールも見に来たの?」
「ああ、リリーの母さんとカルタ先生が対戦するというから。父さんも見たいって言うし」
ソールが隣のドムス教官に視線を投げたが、ドムス教官の意識はすでに闘技場の中心に立つ二人に向いているらしく、鋭いまなざしをそそいでいる。
「シータさん、頑張ってください!」
剣専攻生の集団から届いた声援に、カルタ教官が嫌そうな顔をした。
「なんでこんなに人がいるんだ……お前たち、帰ったんじゃないのか」
「カルタ先生がシータさんにボコボコにされると聞いて、戻ってきました」
どっと笑い声が生じる。カラモスが営む剣鍛錬所に通っていた生徒たちだ。
「あのなあ、ここは担当教官を応援するもんだろうが」
「カルタせんせー、頑張ってー」
「棒読みするな! お前ら、後で覚えとけよっ」
完全に生徒たちにからかわれているカルタ教官に、シータがぷっと吹き出した。
シータもカルタ教官も鎧は着用せず、護符を胸につけた。向き合って剣を抜く二人に、周囲がしんとなる。
先に動いたのはシータだった。速い振りにしっかり応じて反撃するカルタ教官の剣を、シータも受け返す。一突き、一振りの勢いはとまることなく、互いの剣をはじき続けた。
一息つく暇もない。たった一瞬の隙で負けが決まってしまう緊張感にぞくぞくしてきて、リリーは胸の前でこぶしをにぎった。
いつも家で見る母の姿はどこにもない。相手の剣筋を読むことに集中している薄緑色の瞳の輝きに、リリーは見入った。
父は若い頃、こうして戦う母をずっとそばで見ていたのだ。そして母も、後方で支援する父を信頼していたからこそ、目の前のものに立ち向かえたのだろう。
(お母さん……きれい)
リリーは母の中に、父とはまた違う風を感じた。父が螺旋を描くとしたら、母のそれは切れるほどの直線だ。しかしどちらも動きは自由で、捕まえるのは難しい。
「――やめ!」
生命力あふれるシータに心奪われていたリリーは、審判をしていたタウの一声に我に返った。剣を引いたシータとカルタ教官が息切れしながら一度下がる。それから二人は歩み寄り、握手をした。
わあっと大きな歓声と拍手に包まれる。剣をしまいながら、「危ねえ……負けなくてよかった」とカルタ教官が宙に向かって大きく息を吐き出した。
「引き分けなんて初めてじゃない。本当に強くなったね。さすが教官だわ」
同じく剣を鞘に戻しながら笑うシータに、カルタ教官は顔をしかめた。
「シータさんが強すぎるんですよ。引退したとか言いながら、やっぱりみっちり鍛錬してるじゃないですか」
「腕は鈍っていないようだな。次は俺とやらないか」
歩み寄ってきたドムス教官に、今度はシータが眉をひそめた。
「無茶言わないでよ。さすがに体力は落ちてるんだから」
でも久しぶりに打ち合いたいから、近いうちにまた来るとシータが言うと、本気の誘いだったらしく、ドムス教官はシータと予定の確認を始めた。
そこへラムダも近づいてタウに声をかけ、最後は五人で輪になって雑談する。その様子を眺めていると、確かに母たちはこの学院で仲間とともに学んでいたのだとわかり、リリーは不思議な高揚感を覚えた。
大人になったとき、あんなふうにみんなと笑い合えるだろうか。楽しい学院生活だったとふり返ることができるだろうか。
ようやく解散になり、シータがリリーのもとへ戻ってくる。とても清々しい表情のシータから昔話を聞きながら、リリーは帰宅の途についた。