悪女は王子を騙したい〜あなたの破局、わたしが請け負います〜
「セリーナ! 俺はお前との婚約を破棄する!」
煌びやかな夜会会場の中、勝ち誇ったような男の声音が響く。息を呑む人々。彼の腕には、シルバーピンクの髪色をした小柄な令嬢が縋りついている。鮮やかな藍色のドレス。夜空のような深い青色の大きな瞳を潤ませ小刻みに震えるその様は、男達の庇護欲を大いに擽る。反対に、集まった貴婦人たちは彼女の様子を見つめながら、嘲るような笑みを浮かべていた。
「貴様はここにいるゼパルを虐めた! 俺の可愛いゼパルを! そんな女と結婚など出来る筈がない!」
セリーナは無表情のまま、男とゼパルを睨みつける。唇を固く噤み、眉間に皺を寄せ、何かを堪えるようにして、ほんのわずかに顔を逸らす。その様に満足したのだろう。男はニヤリと口の端を上げ、ゼパルの額にキスを落とした。
「まぁ……! セリーナ様の前でそんなことをしたら、わたくしまた虐められてしまいますわ」
「心配するな。ゼパルのことは俺が守る。これからは婚約者として、今まで以上に堂々と俺の隣に居ればいい」
愛し気な表情。恥じらう様に頬を染め、ゼパルは男の後ろへ身を隠す。
「…………承知しました。婚約破棄を受け入れます。金輪際、あなたとは一切の関係を持ちません。証人も多数おりますし、撤回も受付けませんのでそのおつもりで」
セリーナが言う。周囲に大きなざわめきが起こった。
「ははっ! 何を言うかと思えば……そんなの当然のことだろう」
愉悦に満ちた表情で男が笑う。
「やったぞ、ゼパル! もう少し渋られるものと思っていたが、本当に良かった! これで君を、名実ともに、この俺の婚約者に――――――あれ? ゼパル?」
けれど、男が傍らを振り返った時、そこに居る筈の想い人は居なかった。辺りをどれだけ見回せど、シルバーピンクの髪色をした愛らしい少女は何処にも居ない。目に留まりやすい鮮やかな藍色のドレスさえ、会場の何処にも見当たらなかった。
「ゼパル? おい、何処に行ったんだ、ゼパル!」
男がマヌケな声を出す。先程までの勝ち誇った表情は何処へやら。あまりにも情けないその様子に、周囲の人間は嘲笑を漏らす。
「違っ! おい、ゼパル? もう怖がらなくて良いんだぞ! 俺がお前を守ってやるから!」
(――――憐れな男)
会場の出口で、一人の少女がため息を吐く。
煌めく星色の髪、空色の大きな瞳。小柄だが、堂々としたその立ち姿故、実際の身長よりもずっとずっと大きく見える。
彼女の名前はオルニア――――先程まで『ゼパル』と呼ばれていた少女だ。
「出して頂戴」
予め用意されていた馬車に乗り、オルニアは気だるげな声を出す。何処か退廃的な空気。そこには愛らしさの欠片も見えはしない。
馬車がゆっくりと動き出す。この間、オルニアを追う者も、見咎めるものも、誰も居ない。会場の喧騒が次第に遠ざかっていく。オルニアは小さくため息を吐いた。
***
「本当にありがとう、オルニア!」
一人の少女がそう言って瞳を輝かせる。上品な出で立ち。昨夜の夜会で婚約者と婚約を破棄された伯爵令嬢――――今回の依頼人であるセリーナだ。
「お役に立てたなら光栄よ」
オルニアが微笑む。セリーナは首を横に振りつつ、笑みを深めた。
「役に立ったなんてもんじゃないわ!
だって、あちらの方が格上だから、こちらからは婚約を破棄できないでしょう? 解消してくれそうな様子もなかったし、本気で困っていたの。
あんな不良債権と生きて行くなんて私はごめんよ! 綺麗さっぱり別れられて、本当に良かった!」
ある時は不倫中の女性の交際相手の元に、またある時は、政略結婚を控えている男性の元に赴き、誘惑をし、自分に心底惚れさせる。そうして、依頼人の希望――――不倫を止めるキッカケを作ったり、婚約を破棄させる――――を叶えることが、オルニアの仕事だった。
今回のターゲットは、セリーナの元婚約者だ。
彼は密かに借金を抱えつつ、それを打ち明けることなくセリーナと婚約を結んだ。女遊びの激しい侯爵家の三男。領地経営の手腕もなく、城で出世が出来るようなタイプでもない。その癖、プライドと親の爵位だけはいっちょ前に高い。得が一切無い所か、災いを生みかねない男――――だから、男の方から婚約破棄を言い出すよう仕向けた。
男爵令嬢と身分を偽って彼に近づき、惚れさせ、婚約破棄に持ち込ませたのである。
オルニアは自身の髪と瞳の色を自由自在に変えることが出来る。
また、男たちが望む振る舞いをすることは、彼女にとって容易いことだ。淑やかな女性だろうが、愛らしい女性だろうが、活発だろうが、影のある女性だろうが、オルニアには完璧に演じることが出来る。依頼の度にまるで別人のように変身するため、誰もオルニアを追うことはできない。例えば街ですれ違ったとしても、気づかれない自信があった。
(別れたい人間と自由に別れることも出来ないなんて、貴族ってのは難儀な生き物よね)
依頼人の殆どは貴族だ。報酬は高額だし、依頼の間の衣食住を保証してもらう必要がある。今回のように、経歴詐称が必要なこともあるし、小道具等や伝手が必要なことも多い。
その点、セリーナは協力的で、とても良い依頼主だった。
「ねえ、本当に行ってしまうの? この別荘は使っていないし、ずっと居てくれても構わないのよ? せめて次の仕事が決まるまで、ここに居たら? お父様もそう言ってくれてるし」
「いいえ、行くわ。ここには長く居すぎた」
セリーナ以外にも、引き留めてくれた人間は多く居た。けれど、オルニアには根無し草のような今の生き方が性に合っている。報酬もたんまりもらったし、しばらくは遊んで暮らせそうだ。
「そう。だったら、何かあったら遠慮なく私を頼ってね。あなたは私の恩人なんだから」
差し出された手のひら。オルニアは微笑みながら、ギュッと握り返す。一抹の寂しさを胸に、前を向いた。
***
(さて、次はどの国に向かおうかな)
地続きの大陸を、当てもなく歩き続ける。乗り合いの馬車を使うこともできるが、情緒に欠けるから嫌いだ。行先が決まるまでの間ぐらい、のんびりと過ごしていたい。
行き交う人々。誰もオルニアのこと等気にも留めない。それで良い――――そう思ったその時、前方から歓声が湧き上がった。
「クリスチャン殿下だ!」
「殿下が御出ましになった!」
耳を澄まし、冷静に事態を呑み込む。
エディーレン王国の第三王子、クリスチャン。文武両道、眉目秀麗。兄達を凌ぐ優秀さを持ちながら、決して出しゃばらず、慎み深い性格をしている。その上、しょっちゅう城下を訪れては、民と頻繁に交流と対話を行っている。民衆からの人気が抜群に高い王族だ。
「素敵! こっちを向いてくれないかしらっ」
「本当に良い男ねぇ」
「殿下はどんな令嬢と結婚するんだろう? 楽しみね」
飛び交う黄色声。
兄である第一王子は隣国の王女を、第二王子は国内の有力貴族の娘を、それぞれ妃に迎えた。御年23歳のクリスチャン殿下が誰を選ぶのか――――結婚事情に、皆興味津々だ。
(あの人、わたしの依頼人になってくれないかなぁ)
清廉潔白に見える人ほど、後ろ黒い何かを抱えている。排除したいと思っている貴族の一人や二人、居ても全くおかしくない。例えば、それが目障りな兄二人であったとしても、何ら不思議はなかった。
(わたしなら、あなたを国王にしてあげられるかもよ)
そんなことを思いつつ、群衆に囲まれたクリスチャンを見遣る。
彼が声を掛けたくなるのはどんな女性だろう。慎まし気な女性だろうか。それとも愛らしい女性だろうか。
周囲がブルネットばかりのため、オルニアは髪を金色に変える。瞳も目の覚めるような緑色をチョイスした。まずは目に留まらなければ意味がない。一度で上手く良くとも限らないが――――
「君、大丈夫かい?」
(釣れた)
こんなにも簡単に。
口元を押さえ、オルニアは瞳を震わせる。
「平気です。少々……調子が悪いだけで」
「それはいけない。すぐに治療を受けた方が良い」
クリスチャンは真剣だった。本気でオルニアのことを心配している。あまりの人の好さに、オルニアはため息を漏らした。
「受けたいのは山々ですが――――天蓋孤独の身で仕事もないわたくしに、治療なんて大それたものは……」
「ならば城に連れて行こう。こういう時、民が無償で治療を受けられるようにしてある」
オルニアは決して嘘は言っていない。不調は気の持ちよう。両親は居らず、次の仕事は決まっていない。金子はたんまりと持っているが、言う必要のないことだ。
クリスチャンは自らオルニアを抱き上げる。どうやら掴みは上々らしい。そのまま縋る様にして、城へと連れて行かれた。
***
「本当に、ありがとうございました」
医師の診察が終わり、オルニアは深々と首を垂れる。
「いや、礼には及ばない。その年で過労とは……さぞや大変な仕事に身を投じていたのだろう」
クリスチャンは診察が終わるまでの間、ずっと付き添ってくれていた。心配そうな表情。人の好さが滲み出ている。
「医師の言っていた通り、しばらくはここで静養すると良い」
「まぁ……! それは――――有難いことではございますが、わたくしには身分を証明するものすらございませんのよ? 異国人ですし、そんなに良くしていただく訳には」
「俺が良いと言っている。君は何も気にせず、ここに居れば良い」
快活な笑み。太陽のような温かい手のひらで、クリスチャンはオルニアの肩をポンと叩いた。
(危うい人)
王子の癖に、人を疑うことを知らない。こんなに簡単に人を懐に入れてしまって良いのだろうか。いつか誰かに刺されやしないか、こちらが心配になる程だ。
「では、お言葉に甘えて……」
けれど、そういう人間の隙につけ込むのがオルニアの仕事だ。遠慮なく利用をさせてもらうことにする。
「君の名前は?」
「――――オルニアと申します」
オルニアとて、彼女が持つ偽名の一つに過ぎない。本当の名前は別にある。
「そうか。変わった名前だな。
俺はクリスチャン。クリスと気楽に呼んで欲しい」
満面の笑み。その眩しさに瞳を細めつつ、オルニアはもう一度、恭しく頭を下げた。
***
「オルニア、居るか?」
扉の向こうで、大きな花束が揺れる。その後から響くのは、クリスチャンの快活な声音だ。
「殿下! 今日も会いに来てくださったのですか?」
「ああ。具合はどうだ? 顔色は良さそうだが」
クリスチャンは、花やドレスや宝石を持参し、三日と開けず、オルニアに会いに訪れる。専属の侍女も一人つけてもらった。至れり尽くせり――――寧ろ過ぎるぐらいだ。
「元々過労というお話ですもの。すっかり元気になりましたわ」
「いや、未だ顔色が悪い。しっかりと静養しなければ」
良い依頼人――金蔓になりそうだと思っていたのに、どちらかと言えばクリスチャン自身がカモになっている。彼はオルニアに惚れているらしく、過保護に世話を焼きつつ、こうして貢物を持参するのだ。
(こういうの、ちょっと面倒だなぁ)
オルニアは惚れさせた相手から施しを受けたい訳ではない。依頼人から納得の上、報酬を貰うことが好きなのだ。
見ている限り、クリスチャンは兄達を失脚させたいとか、そういった欲を持ち合わせていない。
(これ以上の長居は無用ね)
ベッドから立ち上がり、オルニアはニコリと微笑んだ。
「ご覧になって、殿下。この通り、もうすっかり元気ですわ。早くお暇せねば、わたくしの気が――――」
「そうか! だったら今日は、俺と一緒に街に出よう」
「…………へ?」
クリスチャンはオルニアの手を取り、嬉しそうに微笑む。
「オルニアの好きなものを何でも買ってやる! ドレスも宝石も、自分で選んだ方が楽しかろう。それから、女性に人気のカフェがあるそうだから、そこに行こう。好きなものを食べると良い」
「えぇ? っと……それは大変光栄なことですが、殿下がそういったことをなさって大丈夫なのですか?」
そもそも、何処の誰とも知らぬ女を城に連れ込んだだけでも十分問題だ。そう仕向けたのはオルニア自身だが、ここまで分別が無いと、さすがに反応に困ってしまう。
「嫌か?」
クリスチャンの整った顔がオルニアに迫る。
「どうしても嫌なのか?」
押しが強い。おまけに、後には侍女や騎士が大勢控えている。嫌です、と言える状況にないのは間違いないだろう。
「まさか! 是非、ご一緒させてください」
(よし、途中でとんずらしよう)
満面の笑み。裏ではそんなことを考えつつ、オルニアはこっそりとため息を吐いた。
***
「良い天気だなぁ、オルニア」
「ええ、本当に」
オルニアは半ばげんなりしながら、目を細めた。
太陽よりも暑苦しい男に手を握られ、まるで恋人同士のように街を歩く。目立たぬよう、クリスチャンの金髪は帽子で覆い隠され、騎士達は目立たぬように離れた所から警護をしている。
けれど、目敏い人は居るものだ。先程から、チラチラ視線を感じるし、『殿下だ』との囁きが耳に届く。
(良いのかなぁ~~噂になっちゃうよ?)
クリスチャンは平民からの人気が高い。けれど、彼の結婚相手として望まれているのが平民という訳では決してない。皆が敬愛するクリスチャンに、素晴らしい妃を迎えて欲しいと願っている。少なくとも、オルニアのような得体のしれない悪女では無いのだ。
「しかし、本当に良いのか? もっと沢山買って良いんだぞ?」
「いいえ。殿下が使うお金は、民からの税金。これ以上はとても……」
「なんて慎ましいんだ! 益々気に入ったぞ、オルニア!」
(そりゃ、どうも)
気に入られたくてした発言ではない。紛うことなき、オルニアの本音だった。
(胸の辺りがモヤモヤする)
人に嫌われるにはどうすれば良いのだったか――――数年前の記憶を呼び起こす。その途端、頭が割れる様に痛く、猛烈な吐き気に襲われた。忘れかけていた痛み。それは未だ、オルニアの心と身体を蝕んでいる。
「オルニア?」
クリスチャンが心配そうに顔を覗き込む。肩を抱く優しい手のひら。温かい眼差し。
(嫌われるのは、嫌)
目の前の逞しい胸板に縋りつきたくなった。
「殿下!」
その時、慌てた様子の騎士達が、一斉にクリスチャンの元へと駆け寄る。
「何事だ?」
「それが、先程ディルム広場に通り魔が出現し、十数名の民が被害に合ったとの報告が――――」
「通り魔!?」
眉間に皺を寄せ、踵を返す。
「すまない、オルニア! 俺はすぐに現場に向かわなければならない。この埋め合わせはいつか必ず!」
騎士達と顔を見合わせると、クリスチャンは物凄い勢いで街を駆けていった。
(通り魔、か)
現場がどのような状況かは分からないが、被害が出ていることは間違いない。軽傷ならば良いが、重傷者も居るかもしれない。犯人が掴まっているのか――――未だだとしたら、被害が拡大する恐れもある。
(いずれにせよ、わたしには関係ないことね)
クリスチャンは去り際に、騎士を一人だけ置いて行った。オルニアを無事、城に送り届ける様にとそう伝えて。
(逃げるなら今)
ソワソワと落ち着きない騎士の方を振り向きつつ、オルニアは真剣な表情を浮かべた。
「あなたも、現場に向かいたいのでしょう? わたくしのことは良いから、早く行ってください」
「そういう訳には参りません! 私は殿下から、オルニア様をお守りするよう、固く言いつけられていますから」
真面目な主人の元には、真面目な従者が付く。焦れったさを感じつつ、オルニアは首を横に振った
「そんなこと言って! あなたが行けば、罪なき民が救われるかもしれないんですよ!」
「ですが! 殿下の言いつけは絶対で――――」
(あぁ……もう!)
「だったら、わたくしもディルム広場に向かいます。これなら、殿下の言いつけを破ったことにはならないでしょう!」
有無を言わさず走り出せば、騎士は焦ったように付いてくる。
(融通が利かない人間はこれだから嫌いよ!)
面倒だ。厄介なことこの上ない。しかし、雑踏に紛れれば、オルニアが逃げやすくなるのもまた事実だ。
自分にそう言い訳をしながら、オルニアは人混みを掻き分けて、広場の中央へと躍り出る。
「何よ、これ……」
辺りは血に塗れ、とても悲惨な状況だった。鉄の臭い。呻き声や泣き叫ぶ声。
オルニア達の警護で王都に降りていた騎士達が応急処置に回っているが、完全に人手が足りていない。城から応援を呼ぼうにも、かなりの時間を要するだろう。
オルニアに付いていた騎士が、青褪めた表情で走り出す。誰にも手当てを受けていない負傷者の側にしゃがみ込むと、泣き出しそうな表情で止血を始めた。
(どうしよう)
足が震える。手足が冷たい。心臓がバクバクと早鐘を打つ。
このままでは、多くの人が命を落とすだろう。例え応援が来たとしても、医療では助けられない者もいる。
(逃げようと思っていたのに)
誰が苦しもうと、悲しもうと、オルニアには関係ない。
けれど、血の気を失った人々が、絶望に歪んだ騎士達の表情が、クリスチャンの叫び声が、オルニアをこの場に縫い付ける。
(あぁ……もう!)
「退いて!」
止血中の騎士を押しのけ、オルニアはその場にしゃがみ込む。ドクドクと噴き出す血液。大きく息を吸い、手をかざす。
「オルニア様、一体何を!」
「黙ってて!」
その瞬間、眩い光がオルニアの手のひらから降り注ぐ。それは傷口を覆う様にして広がり、やがて弾けた。しばしの沈黙。それから、皆が驚きに目を見開いた。
「奇跡だ……」
血が止まっている。痛みもないのか、先程までぐったりしていた男性は、オルニアを呆然と見遣った。
「オルニア様、あなたは――――」
「何をボサッとしているの」
オルニアが立ち上がる。騎士はハッとしたように居住まいを正した。
「騎士を集めて! 早くわたしを重傷者の元に案内なさい! それから、負傷者を出来るだけ一ヶ所に集めて!」
「はい!」
騎士が勢いよく走り出す。再び大きく息を吸い、オルニアは真っ直ぐ前を向いた。
***
「此度のそなたの働きに、国王として心から感謝する」
それは、あの通り魔事件から数日後のこと。オルニアは真っ白なドレスに身を包み、謁見の間にいた。
所々に施された金と銀の刺繍。楚々とした印象を受ける。
(こういうの、柄じゃないんだけどなぁ)
あの後、オルニアは負傷者たちの治療に奮闘した。力を使うのは久しぶりのことだし、十数名に及ぶ重症者を相手にするのはさすがに初めてのこと。治療を終えると同時に気を失ってしまう。
それから今日に至るまで、オルニアはぐっすりと眠り続けていた。物凄い疲労感。ほんの少しの達成感が身体を包み込む。
けれど、目を覚ました瞬間、オルニアは自分の行動を酷く後悔した。瞳いっぱいに涙を浮かべたクリスチャンに抱き付かれたからだ。
「オルニア……! 良かった! 君が目覚めなかったらどうしようと不安で堪らなかった」
クリスチャンの腕の中は温かい。お日様みたいな香り。洒落っ気はないが、気取った香水の香りよりもずっと良い。
これまで仕事で、数々の男達の腕に抱かれてきた。けれど、こんな風に感じるのは初めてのこと。経験のない感覚に、オルニアはそっと俯く。
「わたくしは――――――本当は逃げ出そうと思っていたのですよ」
能力を持ちつつ、それを隠そうとした。知らんふりをしようとした。クリスチャンがこんな風に涙を流す価値はない。言外にそう伝えても、クリスチャンは大きく首を振る。
「それでも君は逃げなかった。多くの人を助けた。それだけが真実だ」
目頭が熱い。もう何年も、仕事以外で流すことのなかった涙だ。
クリスチャンの服をビショビショに濡らし、オルニアは静かに泣いた。
「君を我が国の聖女として、正式に迎え入れたいと思っている」
国王の言葉に顔を上げる。半ば予想していたセリフだ。
エディーレン王国の出身者ならば、問答無用で聖女にされていただろう。けれど幸いオルニアは異国人だ。小さく首を横に振る。
「そんな、聖女だなんて……わたくしはそんな大層な存在ではございません。少し魔法の使える程度の、ただの小娘ですから」
これと全く同じ言葉を、オルニアはとある人物から言われている。決して謙遜しているつもりはない。心からの想いだった。
「何を言ってるんだ、オルニア。君の力は素晴らしい! 俺達は本当に、心から感謝しているんだ。どうかこのまま城に留まり、一緒に国を支えて欲しい! 頼むよ」
クリスチャンが手を握る。オルニアの心が震えた。
オルニアはきっと、こんな風に言って貰える日が来るのを、ずっとずっと待っていた。傷つき、立ち上がれなくなった三年前のあの日から、ずっと、ずっと。
「答えはすぐでなくて良い。城内でゆっくりと静養してくれ」
国王の言葉に、オルニアは小さく頷いた。
***
数日が経った。
「オルニア、おはよう!」
「――――――毎日毎日飽きもせず、よくいらっしゃいますね」
事件以降、オルニアの部屋はクリスチャンの宮殿へと移されている。これまで以上に通いやすくなったため、クリスチャンは毎日、オルニアの元を訪れるようになっていた。
彼が部屋を訪れると侍女達は皆、部屋を出る。騎士達も同じで、扉の向こうからさり気なく警護をするようになっていた。
「ああ、飽きない。オルニアの顔を見ないと一日が始まらないからな!」
満面の笑み。彼の手には、今日も大きな花束が握られている。
「庭師が嘆きますよ? 手塩に掛けて育てた花をこう毎日摘まれちゃ、堪った物じゃないでしょう?」
淑やかぶるのは止めた。面倒くさくなったからだ。
けれど、クリスチャンは態度を変えない。寧ろ喜んでいるきらいすらある。
「庭師のことなら心配ない。俺が想いを遂げる日が来るのを、彼も楽しみにしてくれている。寧ろ、前よりも嬉しそうに花を育ててくれているぞ」
ふわりと優しく抱き締められる。胸が小さく高鳴った。
「優しい庭師ですこと。本当にこの国の人達は、殿下のことを愛していらっしゃいますね」
これまで数々の男達を誑かし、騙してきたオルニアだ。鈍くはない。けれど、クリスチャンが相手だと、どうしたら良いのか分からず、はぐらかすことしか出来ずにいる。
「そうだな。だけど俺は、愛されるよりも愛したい」
そう言ってクリスチャンは跪く。オルニアは目を見開き、息を呑んだ。
「ちょ、ちょっと待って下さい……!」
直接的な言葉を吐かれてしまっては、どうすることも出来なくなる。相手は腐っても王子。本気で請われて断れるはずがない。
これまで、危ういバランスで保っていた絶妙な駆け引き。引き際を見誤ったことに気づき、オルニアは小さく首を振る。
「待たん。元より逃がす気もない」
そう言ってクリスチャンはニコリと微笑む。恭しく手を握られ、口付けを落とされ、それから愛し気に見上げられる。
「オルニア、俺と共に生きよう」
ゆっくりと紡がれた言葉は、とても重い。オルニアの瞳に涙が浮かび上がった。
「俺と結婚してほしい」
心が震える。
これまで数多の男たちに、「好き」だとか「愛している」と言われてきた。「君のために婚約を破棄する」と言わせてきた。それがオルニアの仕事だった。
けれど、どれだけ愛を囁かれても、オルニアの心が揺らぐことは無かった。
「わたしは――――殿下と結婚できるような女じゃありません」
暗い靄が掛かる。胸が張り裂けそうに痛かった。
「これまでわたしがどんな仕事をしてきたか、ご存じないでしょう?
わたしはね、男達を騙すことを生業にしてきたんです。騙して、傷つけて、それから捨てた。依頼人のためなら何だってしてきました。殿下に言えような悪いことを、他にもたくさん。
そんな女があなたの妃になる? 冗談でしょう。無理に決まって――――」
「知っていたよ」
「……え?」
けれど、クリスチャンは思わぬことを口にした。オルニアが目を見開く。心臓が止まるかと思った。
「セリーナ嬢が婚約破棄をされた場に居たからな。あの時、ゼパルと呼ばれた令嬢は君だろう?」
「そんな! 全部……全部ご存じだったのですか?」
涙が数筋頬を伝う。
本当は知られたくなかった。他の誰に知られても、クリスチャンにだけは醜い自分を見せたくなかった。彼の元を去るならばと、断腸の思いで秘密を打ち明けたというのに――――。
「気づいていたなら、どうして?」
「……あの日、オルニアに声を掛けたのは、王子として興味があったからだ。どうして君があんなことをしているのか、見張る必要があると思った。もしも国に害を及ぼそうとしているなら、排除しないといけないからね。
だけど、一緒に過ごす内に、俺は君に心底惚れてしまった。偽りだらけの言葉と笑顔の中に寂しさを滲ませる君を、愛おしいと思ってしまった。笑わせたいと、幸せにしたいと、心からそう思った」
労わる様に手を撫でられ、包み込まれる。心が熱い。涙が零れる。
「オルニアが何をしてきたのか、その全てを知っているわけじゃない。
だけど君は、この国の民を救ってくれた。俺はこれからさきもオルニアと一緒に生きて行きたい。俺にとってはそれが全てだ。それでは、ダメだろうか?」
本当はダメだと言うべきなのだろう。この温かい手のひらを振り払うべきだと――――そう分かっている。けれどオルニアは、縋る様にしてクリスチャンの手を握りしめた。
「わたしも、あなたと一緒に居たい……!」
初めて口にした本音。その瞬間、骨が軋むほど力強く抱き締められた。
***
オルニアの聖女就任と、クリスチャンの婚約は同時だった。国を挙げての祝賀行事が行われ、他国からも多数の来賓を迎える。
「こんなに大掛かりにしなくて良かったのに」
「父上も母上も嬉しいんだよ。我が国に最高の聖女を迎えられた上、末息子の結婚がようやく決まったんだから」
そう言ってクリスチャンは目を細める。
「……なんだか、そう言う殿下の方が余程嬉しそうですけど」
「もちろん! 誰よりも喜んでいるに決まっているだろう?」
温かな笑み。オルニアもつられて笑ってしまう。クリスチャンはオルニアを抱き寄せると、彼女の額にキスをした。
「ちょっ! ナチュラルにそういうことしないで下さい!」
「何でだ? あの男にはさせていただろう? 上書きしたいと思うのは当然だ」
「そ、れは……あれは仕事だったし」
オルニアの頬は真っ赤に染まっていた。心臓がバクバクと鳴り響き、恥ずかしくて堪らない。
「仕事じゃないと――――俺が相手だと、どうしてダメなんだ?」
「どうしてって……そんなの分かるでしょう?」
真っ赤な頬に唇が触れる。指が絡められ、額を重ね合わせる。羞恥心から滲む涙を舐めとり、クリスチャンは不敵に笑った。
「分からないな、俺には。きちんと言葉にしてもらわなければ」
(意地悪っ)
温かくて優しくて、いつでも真っ直ぐなクリスチャン。そんな彼がオルニアにだけ見せる仕草が、あまりにも愛おしい。
彼の笑顔を守りたい――――そんな風に思いつつ、オルニアは何処までも素直になれない。
「そろそろ行こう。主役が来なければ話にならない」
そう言ってクリスチャンが手を差し伸べる。
今夜は祝賀行事のメインイベントとして、夜会が催されている。綺麗にドレスアップをし、準備は万端。イチャついている場合ではない。
「結婚までの間に答えを聞かせてくれよ?」
「――――――善処します」
唇を尖らせたオルニアに、クリスチャンは声を上げて笑った。
***
会場はいつになく、華やかで温かな空気に包まれていた。仕事で幾度となく夜会に参じたオルニアも、これには驚きを禁じ得ない。
「聖女様!」
「聖女、オルニア様!」
温かな賛辞。これまでずっと日陰を歩いてきたオルニアにとって、あまりにも照れくさく、それから嬉しい。
前を歩くクリスチャンと、僅かに視線を交わす。彼は、まるで自分のことのように嬉しそうな表情をしていた。
たくさんの貴族達が次から次へと挨拶に訪れる。その中には、セリーナと彼女の元婚約者も含まれていた。
「オルニアって本当に化けるのね! あいつ、あなたがゼパルだってちっとも気づいてないわよ」
事前に手紙を貰っていなかったら、セリーナすらオルニアに気づかなかっただろう――――二人は穏やかに微笑み合う。また会うことを約束をして、セリーナは静かに去っていった。
「オルニア、すまない。少し席を外すが」
「構いませんわ」
一頻り挨拶を済ませた頃、騎士達に呼ばれたクリスチャンを送り出す。心の中で一息吐いた、その時だった。
「おまえ、ラファエラだろう?」
オルニアの身体が凍り付く。
「やっぱりそうだ。久しぶりだな」
「…………殿、下?」
不敵でどこか陰鬱な笑み。ニブルヘラ王国の第一王子、アダムだ。
「お前、我が国を出てから、こんな辺鄙な所に居たんだな。しかも、寄りにもよってまた聖女。自己顕示欲の強い女。余程王子様が大好きと見える」
オルニアは出身国である、ニブルヘラ王国の聖女だった。今の彼女の出で立ちは、最後に国を出た時とよく似ている。このため、アダムにバレてしまったのだ。
「そんな……そんなこと無いわ」
「あるだろう? 俺から婚約を破棄された癖に、今度はエディーレン王国の第三王子! 昔から聖女、聖女と持て囃されていたが、とんでもない。本当にふてぶてしい悪女だな。俺のおさがりを掴まされたクリスチャン殿下には心から同情するよ」
耳元で囁くようにして、アダムは言う。
彼から婚約を破棄され、国を追われたからこそ、オルニアはあんな仕事をしていた。己を救いようのない悪女だと断じ、男達へ意趣返しのようなことをしていたのである。
「こんな辺鄙な国に来るなんて面倒だし、心底嫌だと思っていたが……とんだ収穫だったな」
「何を……」
「戻って来いよ。今ならお前を聖女の地位に戻してやれる」
そう言ってアダムはオルニアの腕を掴む。
「隣国との戦況が思わしくない。兵士達がかなり負傷し、土地が荒らされ、民が飢えている。
こういう時、本当に便利だよな、お前の力は」
「ふざけないで!」
オルニアは腕を振り払い、眉間にグッと皺を寄せた。
「『こいつは聖女だなんて大層な存在ではない。少し魔法の使える程度の、ただの小娘』だと、そう仰ったことをお忘れですか?」
「その小娘に縋りたくなる程、我が国の状況は最悪だって言ってんだよ」
凶悪な笑み。不穏な空気を察知しているのだろう。周囲の騎士達がアダムを取り囲むようにして剣の柄に手を掛ける。けれど相手は他国の王族。おいそれと剣を抜けるわけではない。
「今なら俺の側妃にしてやるよ。好きなんだろう、王子様って存在が」
その瞬間、オルニアは大きく手を振り上げた――――が、その手がアダムに届くことは無かった。彼女より先に、クリスチャンがアダムを蹴り飛ばしていたからだ。
「殿下! ……クリス殿下!」
「ニブルヘラ王国のアダム、だったか」
温厚なクリスチャンが怒る姿を、オルニアは初めて目にした。彼の瞳は怒りで真っ赤に燃え、拳には凄まじい殺意が込められている。
アダムは恐怖で震えていた。腰が抜けているらしく、顔を真っ青に染めたまま動かない。連れてきたお付の騎士達も、アダムを庇うことなく、困惑した表情で事態を見守っていた。
「貴国は確か、ユグドルシラ王国と交戦中、という話だったな。
我が国はずっと中立を保ってきたのだが――――こんな救いようのない王族の治める国等、滅びた方がマシかもしれん。そちらの国王にも、そう伝えるが良い」
ひぃっと声にならない悲鳴が響き、アダムを小脇に抱えた騎士達が走り出す。
ニブルヘラ王国が降伏したのは、それからほんの数日後のことだった。
***
「まさかこんなことになるとは思わなかったわ」
「こんなことって?」
「この土地に戻ってくることだけは、二度とないって思ってたんだけど」
馬車に揺られつつ、オルニアは小さくため息を吐く。荒れ果てた土地。疲れ切った人々。アダム達王族のせいで苦しんだ人々を癒すため、オルニアは今ここに居る。
今回の一件で、エディーレン王国に隣接した土地の一部――――オルニアが生まれた土地だ――――を、クリスチャンが治めることになった。小さな領地ではあるが、オルニアにとっては、父や母との思い出の詰まった土地である。
「ありがとうございます、殿下」
伝えたいことが多すぎて、上手く言葉に出来ない。けれどクリスチャンは穏やかに微笑み、オルニアを優しく抱き締めた。
「だけどわたし、言いそびれたことが一つあるんです」
「言いそびれたこと? 何だい? 何でも言って。驚きも、幻滅もしないから」
ポンポンと宥める様に背中を撫でられ、オルニアはむず痒さに身を捩る。
口を何度も開いたり閉じたりしながら、ゴクリと大きく唾を呑む。それから、金色に輝くクリスチャンの瞳を真っ直ぐ見つめた。
「わたしが好きなのは――――王子様なんかじゃありません」
オルニアの言葉にクリスチャンが目を瞬く。彼は小さく首を傾げると、オルニアの顔をまじまじと覗き込んだ。
「わたしは、王子様が好きなわけじゃなくて、殿下だから――――クリス様だから好きになったんです! それを、あの時、あのバカに言ってやりたくて…………」
心臓がドキドキと鳴り響く。頬が熱く、真っ赤に染まる。それはオルニアだけじゃなく、クリスチャンも同じだった。
「オルニア――――」
「好きです! わたしは、クリス様のことが大好きです!」
顔から火が出そうな程に恥ずかしい。けれど、こんな自分でも、クリスチャンならば受け入れてくれる。確信を胸に顔を上げれば、彼は今にも泣きだしそうな顔で笑っていて。
「俺も、オルニアが好きだよ!」
二人は顔を見合わせると、互いをきつく抱き締めるのだった。
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