第七十五話
おれ達“蔭”は一部の人達から怖がられているけれど、他の一般人となんら変わらないよ。
安定した職業ではないけど、毎日危ない橋を渡っている訳でも後ろ暗い仕事ばっかりしているわけじでもないし。普段は各々、王城で侍女や衛兵をしていたり、街で別の商売をしていたりしているよ。現におれの普段の仕事だって、善良なるお客様に美味しいお菓子を提供するお店の調理人だし。
考えてもみてよ。見るからにヤバい奴が明るい表の街で溶け込めるわけがないでしょ。どんな想像しているの。お仕事する前に警備隊に職質されるよ。
え? そんな闇夜を駆けて悪人を切る…なんて格好いいこと滅多にしないよ。舞台の見すぎだって。
なんで夜に活動しているのかって言われても…任務の対象者は後ろ暗いことをしているから、夜に活動することが多いだけ。だからこっちも夜に活動しないといけないだけだよ。ほんとは寝たいよ。夜だもの。次の日も仕事だし。
そりゃあ任務とあれば、諜報活動をしたり、他国の国民を暴動へと扇動したり、ちょっと王の政敵に王城から御退場いただいたり、必要であれば善良な人を陥れたりしているけれど、それは仕事の一部であって全てではないよ。そういった任務を遂行するまでに非常に地味で地道な活動が下地にあって、寧ろそれが主務だよ。表社会にも目に見える形で仕事の成果が出るときにはおれ達の仕事はもう終わり。表社会の華々しい出来事の“仕上げ”は表社会の住民が担うものだ。おれ達は“蔭”だからね。
美味しいご飯が好きだし、観光地で遊びたいし、物忘れもするし、怪我もするし、休暇が欲しい普通の人間だよ。おれ達だって。
…まあ、でも…強いて違うところといえば、―――くらいかな。
つまり…
ノックターンの王都ジュレーブのすぐ隣に位置する町シュゼッテ。王都からほど近いこの町には王都に構えられるほどではないが、それなりに裕福な者達が多く居を構えていた。そんな数ある内の一つである家の令嬢ビアンカは完成した自作の刺繍を満足げに見つめた。手巾に施された刺繍は、まだまだ未熟なビアンカにしてはなかなかの出来だと思う、が…。
ネイリアスは受け取ってくれるかしら…
ネイリアスは王都で遊んだ帰りの途中で助けた男性だ。彼は旅の途中だという。何かの拍子に転んだかしてざっくりと切れてしまった足を庇い蹲っていたところをビアンカが見つけたのだ。幸い見た目に反して酷い怪我ではなかったらしく、傷は殆ど治っている。あと少し静養すればすっかり元通りになるだろうというのが医師の診断だ。
それまではゆっくりとしていればいいのに、ネイリアスは日常生活に支障はないのだから、と謝礼を渡してビアンカの家を出ていこうとしたのを引き留めたのはつい最近だ。幸いこの件に関しては父も味方に付いてくれたから、彼は今も家に居候している。
だけど、流石にもう怪我のない男性を理由もなく引き留めておけない。
これからもこの家にいてもらうには理由がいる。使用人として雇ったりだとか、他には…そう、身内に…迎え入れるとか。
…でも、遊び歩いている娘を嫁にしたい男なんていないわよね。
そう気づいた途端、身を焦がすような焦りが背筋を駆け抜けた。これまで深く考えずに遊び惚けていた自分を殴りたくなった。それからというもの、夜遊びを自粛し、あれだけ嫌だった淑女としての勉強を始めた。その変化を両親もとても喜んでいて、嫁に出すより婿をとって跡を継がせてもよいかと考えを改めた。立ち居振る舞いから、旅人とはいえ、元はそれほど悪い出身ではなさそうだと判断し、今はまだ知り合って間もないネイリアスを、婿として相応しいかを見定めているそうだ。相応しいと判断すればネイリアスに打診するとのことだが…
ネイリアス自身にしてみれば、助けてくれたビアンカ達に恩義は感じても、婿になるなんて思ってもみないだろう。何せ旅人だ。国から国へと旅をする。一所に落ち着くなんて考えていないかもしれない。独身だという情報は本人から得ているが、別の町に情を通わせた相手がいないとは限らないのだし。
でもでもっ、家はそれなりに裕福だし、私もそこそこな容姿だと思うし、勉強も頑張るし…何より若い。ここに残ることだって、悪い話じゃない…と思う。
私のこと、どう思っているんだろう?
最近のネイリアスは構ってくれない。昼間は路銀を稼ぐべく仕事を探しに王都ジュレーブまで行っているらしく、夕方まで戻ってこない。いても宿代替わりだといって家の手伝いをしている。さらに夜は夜で父の晩酌に夜遅くまで付き合ったりしている。
両親も、他の使用人も、果ては近所のおばちゃん達も、ネイリアスに好意的だ。
私が初めに出会って助けたのに! 家に連れてきたのも私なのに!
「どうしたの? 浮かない顔をしているね」
直前まで考えていたネイリアスの声に、思わず手巾を落とした。
「あっ! …ネイリアス…」
ネイリアスは落ちた手巾をさっと拾い、ビアンカの手のひらに戻す。
「おや、刺繍の手習いをしていたの? とても上手だ」
まっすぐな称賛にビアンカの頬に赤みが差す。
「練習用に作っただけだし…あげるわ…へたくそだけど」
顔を見られなくて、そっぽを向く。
「いいの? ありがとう」
年上のくせに笑みがやたらと素直で柔らかくて…私のことをきちんと見てくれる。聞き上手で、ついついネイリアスには色々なことを話してしまう。
「…別に」
そんな可愛くないことを言っても全く気にした様子もなく曇らない笑みに、そっぽを向きながらもひそかに彼に向けていた目をもう一度そらした。
日雇いの不安定な仕事なんかしなくても、この家にずっといればいいのに…
顔を赤くしてうつむくビアンカは、ネイリアスが自身を感情の見えない瞳で見つめていることに、ついには気づかなかった。
バルデロ国の側妃ローゼは使者としてノックターン国にいた。
「緊張されておりますか」
侍女のダリアが気遣わしげにローゼの顔色を伺う。
「平気よ」
ローゼは気丈に答えた。この国に来るまでに、こなすべき役割は頭に叩き込んである。ローゼの教養や立ち居振る舞いは完璧だ。何を恐れる必要があるのだ。とはいえ、やはり初めて国外に出て、国の使者として立つのだ。不安でないはずがない。
「お茶を、ローゼ様」
「……」
ローゼは差し出されたそれを黙って口に含んだ。不安は拭えないが、干上がりそうだった喉は潤いを取り戻した。
この訪問がうまくいけば、ローゼの功績となり、政治に対する発言力を得られる。それはつまり、ローゼが正妃として遇される可能性があるということだ。
王も否定されなかったわ。
今回のこのノックターンの訪問はなんとしても成功させなくては…
「お待たせいたしましたローゼ妃。謁見の間へご案内いたします」
ノックターンの女官がローゼを迎えに来た。ローゼは音を立てず優雅に立ち上がった。
「――参ります」
この機会を王に直接願い、自らこうして赴いたのだ。
ローゼは己の矜持を胸に最高位の妃となるべく、バルデロの代表として、ノックターンの王と王妃達と対面した。
ノックターン王都の花街。そこで一、二を争う高級娼館『白桃楼』。シリーグスはここ最近贔屓にしているお気に入りの娼婦を侍らせていた。
「…あ、もう…旦那様ったら。だぁめ」
内股をまさぐる手をやんわりととめる繊手。甘やかな声にシリーグスは熱を高め、一層指を強める。
「まこと、お前の肌は吸い付くようだ。私以外の者に触らさせてはおらぬだろうな?」
「ん…もちろんですわ。この身体は旦那様のもの…あぁっ」
この手の台詞は何人もの女の口から聞かされてきた。本気にするのも馬鹿らしいお決まりの台詞だ。だが目の前の女から甘えるように言われると、それが事実であると感じ、シリーグスは歓喜した。そして、今宵もひたすらユンケを味わった。
「…ねえ、旦那様。お城のことを聞かせてくださいませ。お城には見たこともないような美しい庭園や美術に、食べたこともないような珍しいお食事なんかも出るんですよね?」
ひとしきりユンケの身体を貪った後、抱いたままの状態で寛いでいると、ユンケが王城の話をねだった。当初は間諜の類かと疑ったが、あまりにもあけすけに聞いてくるうえ、聞いてくるのは他愛もないことばかりだ。純粋に庶民が一般的に想像するような煌びやかで豪華な暮らしに憧れ、実際にその世界にいるシリーグスに色々聞きたがるのだろうと、若い娘を可愛く思った。
王城における煌びやかな世界はほんの一面で、実際には綺麗なだけではないが、目の前の娘には関係ない。
「ああ、そうだ。我が国と友好を結ぶ国々から取り寄せた、我が国では育たない珍しい植物や、美しい織物、拳ほどもある宝石、希少な動物なんかも献上されてくる。それらを披露する饗宴は、それはもうこの上ない豪華なのだ」
若い娘が興味を持つだろう珍しい宝石などを話題に入れ込むと、案の定、目を輝かせた。
「素敵。大きな宝石なんて見たことないわ。一体どんなものかしら」
「陛下お自ら選ばれて、首飾りにして琥珀の方へ贈られる程に素晴らしい一品だった」
「琥珀の方…今町中で噂になっている陛下の寵愛深い方ですね。そのような素晴らしい贈りものを贈られるのですもの、とても美しく素敵な方なんでしょうね」
「ああ、わたしは会ったことはないが、城で働く女達も心酔しているらしい。少なくとも、あの王妃よりはマシだな…おっと、いかん。口が滑ってしまった」
おどけたように言うと、ユンケはくすくすと笑った。
「今宵の全ては薄絹の中に…私は何も聞いておりませんわ」
情事の際の色気のある表情とは裏腹に、年相応の、あどけなさが覗くその表情に、再び欲に火が付いた。いやらしく体をまさぐり始めたシリーグスにユンケは艶めいた喘ぎ声を漏らした。
「あ…もう旦那様、今宵は、もう」
「何、先ほどはそれほど致していなかったからな、もう一戦挑みたくなった」
「旦那様ったら…」
言葉ではたしなめつつもシリーグスを受け入れる体勢をとるユンケに満足し、彼女に覆いかぶさった。
朝日が昇る前の藍色の空に星が煌めく頃。シリーグスは満足して人目を忍ぶように娼館を後にした。
情事の跡が色濃く残された寝台に寝そべりながら、ユンケは嗤う。
旦那様は、いつお亡くなりになるかしら?
「美女とイイことして興奮しちゃって…ってのもいいんだけど。もうそれほどお若くないし、素敵な情報をくれた御礼に、素敵な死様を贈り物にしてもいいわね」
ユンケは既にシリーグスから必要な情報は得ていた。後はシリーグスを自然な形で消せば任務は完了だ。
だが…
ユンケはシリーグスにとある薬を盛っていた。それは、それ自体は毒などではなく、微小ながら興奮作用をもたらす媚薬として表にも出回っている薬だ。この界隈でも取り扱っている、なんら違法性はない物だ。だが、ある食物と掛け合わせると、呼吸困難や吐き気や眩暈など身体に異変をもたらし、処置が遅れれば、死に至る。一般には殆ど知られていないことだ。
シリーグスは薬の作用が効いている間に、その食物を食べるかしら…。どうせ指示が来れば処分するんだし、それまでは、とユンケは遊ぶことにしたのだった。
「…死んじゃえ」
くすくすと小さく喉を震わせた。
その時、ユンケの髪が、ふわりと風が撫でた。
ユンケは瞬時に起き上がった。ひゅっと風が空気を切る。
キンッと金属同士がぶつかる音。ほぼ同時に壁にガツッと一本の短剣が突き刺さる音がした。
壁に刺さる特徴のない短剣を見やり、ゆっくりと振り返った。
「……ひどぉい…何でこんなことするんですかぁ? …ホイップさぁん」
ユンケは甘えた声を出しつつも、数本の針を指から生やした。
先ほどまで間違いなく部屋にいなかった影が現れた。普通の者であれば、いきなり部屋に現れたように見えただろう。ホイップと愛称を呼ばれた黒い影―ネイリアスは刺さった短剣を引き抜いた。その表情は普段穏やかな笑みを浮かべている彼からは想像ができないほどに、無機質だ。
恐ろしい表情をしているわけではない。顔もいつも通り穏やかで一見微笑んでいるようにも見えるのに、どこかが違う。何も、感情が浮かんでいないのだ。
「…おれがここにきた理由はわかるかい?」
「え~何でしょう?」
「おれが、あの店の副店主をやっているのはね、一番の汚れ役…仲間だった者の処分を引き受けるためだよ」
「…」
「君がおれ達の仲間になったときにも少し説明したよね? そしておれが動いた時点で対象者の処遇は決まっている。疑わしきは罰するのが、おれ達の掟だ」
「……」
「…君が入ってから、こんな仕事はなかったから、おれがそれを担っていることは知らなかったかもしれない。情に厚く面倒見のいい店主に、こんな仕事は合わないからね」
確かにソネットには荷が重いかもしれないが、ネイリアスだって、普段は穏やかで優しくて、皆のいじられ役で、運がちょっと悪くて、武器の扱いだって蔭の中ではそれほど突出している訳でもなくて…とても一番の汚れ役を引き受ける者には見えない。
「…ホイップさんってば、嫌な仕事を押し付けられて大変ですね~人が良いんだから嫌なら嫌とちゃんと言わないといけませんよ?」
「いいんだよ。元々適役だと思ってる。副の素質はただ一つ。仲間だった者に対して、確証がなくとも躊躇うことなく殺せることだし」
つまりネイリアスはそれができる人物であるということだ。
普通は躊躇う。裏切りが確定したなら致し方ないと思い実行に移せる者は多いだろうが、はっきりとしていないのに、実行に移せる者は少ない。
「エリカはどこだい?」
「…なんで、仲間内の中では戦う力もそんなになさそうなホイップさんが副長なんだろうって疑問だったんですよね。エリ姉様も、なんだかんだ貴方の言いつけには背かないし…」
そしてエリカも、それが行える人物の一人だろう。寧ろ、エリカこそがそれを担う者だと思っていた。だが違った。エリカは考える能力が不足している。誰かが、指示を与えなければならない。
「エリカはどこだい?」
「……」
ユンケは紅い紅い唇を弧に歪めた。三日月のように。
うっとりとした瞳でネイリアスを見つめる。司令塔はネイリアスだ。
「エリ姉様にはぁ、眠っていただきましたぁ」