第七十四話
ああ、本当に嫌になる
母親がいたころは幸せだった。父親は早逝したものの、食べるものに困らない程度の蓄えがあったし、何より母親に愛されていた自覚はあった。
母親が死んだあとは腐った世界に転落した。周りの大人達は身内のない幼子を庇護するのではなく、蓄えも何もかもをむしり取ったからだ。無力な自分はまさに身一つで寒空に放り出されて途方に暮れた。
そこからは我が身の不幸を嘆く暇もなく、ただ、その日を生きるために同じ穴のムジナを相手に、金と食料とその日の寝床を奪い奪われの生活を送ってきたが、今改めて振り返れば落差の激しさに我がことながら感心するくらいだ。
だが、母親の形見だけは奪い返したいという執念から、気が付けばもっと血なまぐさい世界に入ってしまった。そのことを嘆くくらいは許されるだろう。
決して表に出てこない案件をこなすその組織の連中は、裏路地は楽園だったと感じる程度にはヤバい仕事をしているし、戦闘能力や隠密行動などに特化した実力者ばかり。だけど、ヤバい仕事をこなす割に、目は死んでいないし正気を保っていた。少なくとも、俺よりは。
そこの女どもは喧しいし、男どもはなんだかんだ世話を焼こうとしてくるし、放っといてくれと言ったら余計構われた最初の頃は、本気で殺してやろうかと思ったし実践したが、実力的に無理だと悟って人生二度目の途方に暮れる経験をした。
なんだかんだ、あいつらをかわせるようになるころには、母親の形見を奪ったあの時の大人達から取り戻していたし、その世界で仕事をこなすのは日常になっていて、うっとうしいと思うこともなくなった――訳ではないが、なんとなく慣れた頃、一人の女を、王が連れてきた。
日常が、崩れた。
ピュウと、強い風が吹いた。目を開けて空を見上げる。眼前に広がる冬の星空は澄み渡り美しかった。
…まるで…
今はいない誰かを連想しかけ、自分に嫌気がさした。
――ああ 本当に 嫌になる
その日から、レイディアは与えられた部屋の外に出ることはなくなった。否、出られなくなった。
一人で立つことができず、意識を常に保っていられるのも難しくなったからだ。
オルテオとも面会が制限され、レイディアの部屋に通されるのは限られた者達だけだった。
中の様子をその者達以外は知ることはできず、また許された者達も口をつぐむ。
ただ、あらゆる高価な食材で作られた食事や栄養価の高い果物等が運び込まれ、少しでも減っていると王の機嫌が多少良くなることから、どうやら琥珀の方様はご病気らしい、と皆は察した。
ご病気とはいえ感染症の類ではないらしく―であれば王城から隔離されている―王は日に何度も琥珀の方の部屋に通う。政務を疎かにすることはないため、その献身に琥珀の方はすっかり王城の者達の認識は寵愛深い側室という位置づけだった。
もしやご病気ではなく、ご懐妊では?などと気の早い臣下もいた。いずれにせよ、正式な公表はきっとご体調がよくなったら、というある種呑気ともいえる者達の元に、ある早馬が到着した。
バルデロから親善の使者を送りたいという報せだった。
使者の代表はバルデロの側妃の一人、ローゼ。国王の従妹にあたり、出自は公爵家の姫君である。位は側妃だが、未だバルデロ王に正妃も子もいないなか、後宮においては正妃同然の待遇を受けているという噂だ。ローゼ妃本人も、聡明で美しく、教養に秀でた貴婦人の中の貴婦人と謳われており、その評判はノックターンまで届いていた。
主要な駆け引きは同行する外交官が請け負うが、使者の代表が誰かで自国がどれだけ重要視されているかがわかる。それで言えば、ノックターンはバルデロに相当に重要な国であるとみなされていることになる。
今や飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を広げているとはいえバルデロは新興国。国としてより長い歴史を持つノックターンに対しては当然の配慮といえるが、臣下一同は今ばかりはそれが非常に恨めしく思った。高貴な貴婦人には王妃が相手を務めなければならないからだ。
テルミアナ王妃に、相手が務まるのか。
城の者達は不安を抱く。王妃が聡明と評判の妃ローゼと相対して失態をしでかさないかと。テルミアナは自分よりも優れている相手には非常に攻撃的になり、自分よりも劣っているとみれば徹底的に貶める、いずれにせよ自分以外の女性を殊の外厭われる性根なのだ。
とはいえ、曲がりなりにも王妃である。彼女自身も公爵家の出身だ。最低限の嗜みや教養はテルミアナにもある。これまでもこのような機会にはその都度必死で仕込み、王から厳命という名の励ましのお言葉をかけていただき、どうにかこうにか無難に務めを果たしていただいてきたのだ。
そもそもそこまで手をかけさせるなという言葉を飲み込み、今回もそれで乗り切れるだろうと臣下達は準備にかけまわることになった。とにかく失態は演じられてはたまらないと王妃周辺に人が押し寄せ、城は準備の為に上に下にと大わらわとなった。他にも賓客の滞在する部屋を整え、歓迎の宴の料理の品目選びに、警備の見直し、相手の思惑への警戒と、やることはつきない。
ただ、よかった面もある。
レイディアへ嫉妬の想いが募って仕方がないテルミアナがバルデロを迎える対応を詰め込むため、王からの命令で詰めかけている臣下達に煩わされることでレイディアへ手を伸ばす隙がなくなったことだ。レイディアに付けられている者達は少しだけ肩の力を抜いた。
オズワルドはといえば、当然国王としてその対応に追われつつも、僅かでもできればレイディアの元に足繁く通った。
今はレイディアの容態から目が離せないところを、とは思うが、バルデロの申し出に好機ともとらえていた。
何故なら、もし、オズワルドの仮説が正しいのなら、レイディアの現在の不調はギルベルト王に原因があるはずだからだ。ギルベルト王からレイディアを奪わなければレイディアはいつまでも良くならない。
そしてギルベルト王のレイディアへの影響を除くことができれば、レイディア晴れて自由の身。どこに身を寄せようと、レイディアを縛るものはなくなる。
そう、いずれは剣を交える相手だ。あちらから来るのであれば好都合。
今はまだ国境に接している訳ではないからいきなり戦に突入することはないだろうが、この乱世、何が起こるかわからない。実際にアルフェッラはバルデロに滅ぼされた前例もある。
レイディアの方も勝機はある。自分の息子を我が子同然に可愛がっているのだ。オズワルドに対しては一歩引いているが、このまま良好な関係を続けていけば、オズワルドに気を許してくれる時もいずれ来るかもしれない。
だが、流石にすんなりとことが運ぶとは考えていない。それをなすには、まずは彼女を他国にとられないだけ自国をより強国にする必要があり、そして自国内の膿を出さなければ彼女を正式に迎えることは叶わない。
それには王妃を廃さなければ…だが、時期尚早だ。国を乱して勝てる相手ではない。
今の時期、冬は基本的に休戦の風潮があるなか、慣例を無視して戦に明け暮れる戦狂いのギルベルト。かといってただ猪突猛進するだけの愚か者ではないらしく、連勝を重ねている。また、内政においても圧政を強いているのでもないらしく、外の評判はともかく内の評判は悪くない。そして燃える炎のような灼熱の色の髪をもつ雄々しくもたいそうな美丈夫と聞く。
それが、今のレイディアの…
どうしようもなく悪感情を抱くのは王としては失格だと分かっている。先入観をもってことに当たれば冷静な判断が下せず、結果、失敗に繋がるのだ。
だが、自分が満足に触れられない彼女に、奴は触れられる。
刹那、白い肌が己ではない男に組み敷かれている姿を幻視した。暗い炎がオズワルドの身の内を焦がす。
「レイディアの容態は」
レイディアの部屋に着いたオズワルドは、内の感情を表には微塵も出さずに、近くにいたレイディア付きの侍女に尋ねる。
「琥珀の方様のご容態は、本日はお加減がよろしいようですよ。殿下と共に食事をされ、少しだけお召しになるお食事の量が増えましたの」
控えめに喜色を浮かべて報告する侍女に、オズワルドも表情を明るくした。
「そうか…今日は意識があるのだな。では、できるだけ、食事の間だけでもオルテオを同席させるべきか」
現在オルテオのレイディアとの面会はかなり制限されている。オルテオは乳母となったレイディアに甘えたくて仕方ないようだが、今のレイディアにそれを受け止めるだけの体力がないどころか、眠っている時間の方が多い。余計な体力を消耗させないための措置だったのだが、そのような効果があるのであれば見直さなければならない。
「やはり、生さぬ仲とはいえ、ご自身がお救いになり、母と慕ってくれる幼子は可愛いのでしょう」
周囲を見ればいつもと違って部屋の空気が明るい。
食事をとってくれたことで回復の糸口を見つけたようで、皆安堵しているのだろう。勿論予断は許されないが、最悪の餓死は免れそうだ、とオズワルドも息をついた。
レイディアの寝室に入る。侍医の診察後だったらしく、彼女は寝衣ではなく、緩やかながらも人前に出られる衣装を身に着けていた。そしてきちんと目を覚ましていた。
「レイディア、具合はどうだ?」
「お気遣いありがとうございます。今日は随分と身体が軽いようです」
その言葉に嘘はないようで、顔色も少し赤みがさしていた。このような些細な変化に一喜一憂している自分が可笑しく、しかし悪い気分ではなかった。以前の自分ならこんなにつぶさに女を観察し、その変化に気を揉んだりするなど考えられなかったものだが。
「それよりも、陛下。近々何か催しでもあるのでしょうか?」
「うん? 何故だ?」
「…周囲の者達に落ち着きがないようですので」
選び抜かれた侍女や女官、護衛の者達は簡単に感情を見抜かれる訳がない。だが、王城のざわつきが伝播したのか、僅かに落ち着きがないのを、レイディアは敏感に感じ取ったのだろうか。
「ああ、近々、少々面倒な催しがある。だが、それは体調を崩しているそなたには関わらせるつもりはない。そのような些事に気を煩わすな。それよりも、ここ暫く外に出ていなかったからな。外に出てはどうか? 幸い今日は良い天気で風もない」
オズワルドの提案にレイディアは顔を上げた。
「…よろしいのですか? …その催しの準備で城の皆様はお忙しいのでしょう?」
言った瞬間、レイディアは後悔した。今のレイディアはオズワルドの許可なく外に出ることすら叶わない身だ。数日間ずっと寝台の住人となっている現状に鬱屈はしていたからその申し出は素直に有難い。だが、既に自分は庭を一周できるほどの体力もなく、できるのはせいぜい東屋に少しの間お茶を飲む程度だ。
それにその催しの準備で多忙を極める王を付き合わせるのは悪いし、なにより、最近ますます、レイディアを見るオズワルドの目が、レイディアを落ち着かなくさせる。その意味を察せないほどレイディアは鈍くはないが、思いに応えられないし、応えるつもりもないのだ。そして今に至っては避ける余裕もない。
オズワルドと会うのを避けられないならば、素知らぬふりをし続けるしかない。だからなるべくならオズワルドと顔を合わせずに済ませたいのだが、希望を滲ませたレイディアにオズワルドが引くとは思えなかった。
「茶を一杯飲む程度ならば問題はない。…庭に行く。準備を」
案の定、オズワルドは庭に行く指示を周囲に下し、分厚い毛布でレイディアを覆い抱き上げた。
レイディアは気づかれないように息をつき、毛布に身を埋めた。
庭に出た。今は花が咲き乱れる目に楽しい季節ではないものの、久しぶりの外に少し気が晴れる。オズワルドに東屋の椅子に下ろされた。
オズワルドの言う通り、今日はとても良い天気のようだ。風もないので暖かい陽の光が降り注いでとても過ごしやすいと思われるが、当のオズワルドは違うようだ。
「晴れているとはいえ、やはり寒いな」
自分から外に出ると誘っておいて、とレイディアは少し可笑しく思った。
「…もっと北の寒さを知っているので、私にはとても暖かく感じます」
「そうか…あちらは極寒の地だからな。こちらの気候では春のようなものか」
「そうですね。寧ろ春が来ても雪がまだまだ残っていることが多いので、こちらの冬の方が暖かい気がいたします」
淹れられた茶を一口啜る。今日は本当に調子が良い。実のところ、もう殆ど寒いのも暑いのも感じられないが…多少の回復の原因は察していた。オルテオのためだ。
彼の母親の願いを聞き届けたが故に、その子の安寧を最優先にするが故に、子の甘えたいという願いを叶えるためレイディアに僅かばかりの力が戻ったのだ。
…ただそれも、諸刃の刃だが。
今日のレイディアの様子に嬉しそうな周囲に申し訳なく思いながら、僅かばかりの穏やかな時間を庭で過ごす。
そろそろ暇をというところで、ふわりと風がそよぎ、レイディアの髪を揺らした。
「……――」
「…いかがされましたか?」
数瞬動きをとめたレイディアに、リアンヌが声をかける。
「…いえ…」
そしてそのままオズワルドに抱き上げられて部屋に引き上げた。
催しの内容は…
ああ
来る
あの人が…
エリカはどこぞの街を歩いていた。ここがどこかは知らない。
レイディアが川に落ちて、それをゼギオスと追って、怪我したゼギオスがさっさとどこかに行って、エリカもしらみつぶしに―山に潜む盗賊を適当につぶしながら―探して、今はそれなりに賑わいのある街にきていた。
お肉屋さんないかな・・・お金はあるし・・・
エリカは徒歩で山をいくつも超えてきたため空腹であった。いや山の中であっても盗賊から肉と金を奪っていたため、食事はできていたのだが。うっかり出会ってしまった盗賊から根こそぎ奪ったのでエリカはいつになく大金を所持していた。とりあえずお金はあるだけもらったほうが良いということを最近覚えた。
エリカは知らないが、歩いているここはノックターン王都にある国内最大の花街。エリカの望む串焼きの屋台などあるわけがなかった。花街にその手の女でもなさそうな女が一人歩いているのはこの上なく目立つ。細い道に入ったときに良からぬ輩に狙われるのは当たり前であった。
「…ん?」
それらを拳一つで沈めて適当に積んでおくと、別の気配が近くにいくつかあるのに気づいた。
「……」
その気配はさっきのゴロツキとは全く異なるもので、エリカは首を傾けた。
お肉、まだ食べてないんだけど…
エリカの都合などお構いなしに周囲をぐるりと囲うように現れる気配。
花街の賑やかさから遠ざかったここは人などおらず、いても後ろ暗い者達か落ちぶれた者達だけ。多少派手な音を立てても誰も気づかないし、気にしない。
肩を一回ししたのを合図に一斉に襲い掛かられる。
エリカはとんと軽く足踏みして一番近くの奴に手を伸ばした。
ぽつり、と一滴の水滴が地に落ちたのを皮切りに、サァと雨が降り出した。
昼間の快晴から、夕方にかけて雲が出てきていた。一雨来ると皆が予想していた通りに振った雨に、予め用意していた雨傘を、“彼女”はぱさりと掲げた。
ころころと遊女の履物の飾りが音を立てる。その可愛らしい足音に、遊女の婀娜っぽさと愛らしさも加わり、その落差にはまる男も多いが、ここでは静寂に虚しく消えるだけだ。
ころ、と足を止める。
そこは血に染まった凄惨な光景が広がっていた。そこにいる者全てが地に伏していた。巻き添えを食らったのか、見るからに浮浪者とわかる者達も、周辺に散らばっていた。
ただ、彼女にとってそれは大した問題ではない。たとえそこには屍の山が築かれていたとしても。血は降り始めた雨が流してくれて丁度良いだろうと思っただけだ。
つ、と視線を横に流す。山のその脇に、どこかの町娘のように飾り気のない衣服をまとった小柄な少女が横たわっていた。
ころ、と足を向ける。
ぱしゃりと雨と血が混じった泥水を踏む。
傘に遮られ容貌はうかがえないが、かろうじて覗く赤い赤い唇が、笑みを刷いていた。
「……エリ姉様」
そっとしゃがみ、少女-エリカに傘を傾けた。
バルデロの王城。
その国において最も位の高い者が住む居室。
冴え冴えとした月明かりが部屋に差し込み、幽玄の美を作り上げるその空間に、その部屋の住人が一人、杯を傾けていた。机の上には酒瓶と、何事かが書かれた小さな紙片が数枚。これらは数日前にもたらされた報告書だった。
常なら幾人もの使用人達が彼の傍らに侍っているのだが、今はただ一人。
囁くように、呟いた。
「……見つけた」
今はいない誰かに向けて。