第七十三話
愛してるわ
初めて貴方と出会った時 貴方に相応しい者であろうと心に決めて 礼儀作法も諸国の情勢の勉強も必死でこなした
今では誰もが私を素晴らしいと称賛するけれど 私が欲しいのは貴方からの称賛だけ
ねえ どうか 私を見てくださいませ
朝起きて、ベルは少し驚いた。自分が起床してもクレアは寝台の中だったからだ。いつも自分より早く起床し、朝から晩まで町に出ては情報収集に余念のない姿を見てきただけに、意外に感じた。とはいえ、まだクレアは子供。長旅で疲れもたまっていることだし、たまには寝坊することもあるだろうとあまり気に留めなかった。宿の階下から朝食を二人分もらって部屋の机に皿を並べる。スープが冷めないうちにクレアを起こそうとしたとき、クレアは自力でのそりと起き上がった。
「ああ、今起こそうと思っていたんだ。おはよう」
そう言ってクレアを振り返った時、クレアの気分がどことなく沈んでいるように見えた。昨日はそんな様子はなかったのでベルは首を傾げた。よく見れば少し目も赤い気がする。
「おい、どう」
した、と言葉を紡ぐ前にクレアはがばりと寝台から飛び出し、その勢いのまま窓から外に飛び出して井戸から水を汲みだし思い切り顔を洗い始めた。ひとしきり顔を洗った後思い切り両頬をはたき、少しすっきりしたのか、今度はきちんと階段を使って部屋まで戻り、ベルが用意した朝食をかきこんだ。その間ベルは固まっていた。
「……っよし!」
何がよしなのかは分からないが、クレアの沈んだ空気が薄れたのは良いことだとは思った。
「…何があった?」
「…何でもない」
何でもないはずはないがそれ以上問いただせる空気ではなかった。ベルはなんとなくクレアがただの子供でないことくらいは旅をしていて多少は分かっていた。何も考えていない子供ではない。ただ、何も考えていない訳ではないからこそ、一人で突っ走っていきかねない危うさがある。
「…言いたくないなら言わなくてもいいが、少しは頼ってくれてもいいんだぞ?」
クレアは少し罰の悪そうな顔をして匙を咥えていたが、少しの沈黙の後、口を開いた。
「………今日から収集する情報を追加したい。この国の上層部についてだ」
「は? レイディアのことはいいのか?」
「レイディア様にたどり着くために王城の奴らの情報を得る必要があるんだよ」
断定口調だ。まるでレイディアの居場所が分かっているかのような。
「まさか、ついにレイディアの居場所が分かったのかっ?」
つい身を乗り出す。クレアは苦い顔をする。ノックターンの王城にいたなんて言ったら何故分かったのかを当然きかれる。忍んでいったなんて流石に言えない。
「…手がかりくらいはな。それで、この国のお偉いさんがレイディアに接触している可能性があることが分かったから、この国の王族や貴族を調べる」
「昨日はそんなこと言って、、、あ、さてはまた夜に抜け出して街にでたな?あれほど夜の街は危険だとあれほど」
「…げ」
暫くベルの小言に付き合ったあと、漸くベルは話を先に進めさせてくれた。
「……で、貴族のことを調べるというのは口では簡単だが実行するのは難しいぞ。他国の人間がこそこそ貴人を嗅ぎまわって間者の疑いをもたれたら問題は俺達個人の問題ではなくなってしまう」
ベルは長期休暇をもらっているが現職のバルデロの王城に勤める衛兵だ。クレアも見習いとはいえ後宮に勤める女官である。捕まって尋問されて身元がばれたらいらぬ疑いをもたれる。
「なあ、ベル兄。ベル兄は全うな男だよな?」
そんなベルにクレアはやけに芝居めいたにやにや顔を向けきた。先程の小言は全く効いている様子はない。いつの間にやらクレアはベルのことをベル兄と呼ぶようになっていた。それだけ打ち解けてくれたのだと思えば嬉しい気もするが、最初の遠慮がちに呼ばれていたベルさんという響きが懐かしい。特に、こんな顔をするクレアを前にしては。
「俺は今まで女性になった覚えはないが」
「なら、娼館にも行ったことあるよな?」
流石にベルはぎょっとした。こんな年端もいかない少女から娼館などといかがわしい単語が出たのだ。
「何言って…大人をからかうんじゃない!」
「真剣に言ってるんだよ」
流石に叱ろうとしたベルにクレアは先程のにやにや顔を引っ込めて真剣な顔をした。ベルはたじろぐ。
「あのな、お…私だってもう十を超えて、大人の事情も知ってる。後宮で働いているんだよ」
確かにと思わず納得してしまうベルだが、それとベルと娼館と情報収集のつながりが読めない。
「ベルみたいな至極まともな男性も、たまには娼館にお世話になる。その辺の街の男も、商人も…貴族も」
そこまで言われて流石にピンときた。
「情報を拾って来いってことか?」
「娼館の店には階級があって、高級娼館になるほど情報管理はそりゃあ厳しいだろうけど、その分客層も上等な奴らになる。勿論あからさまに聞いたって教えてくれるわけないけど、貴族も娼婦も人間なんだ。つい気の緩んだ時にポロリと出てしまう時もあるだろ?」
色仕掛けで情報を取ってくることなんて裏の世界では初歩中の初歩だ。クレアはその手の仕事はやったことはないが、ソネットやユンケがレイディアに色々吹き込み、ギルベルトにバレて減給されているのをよく見ていた。
「何で、そんなことを知って…」
一方、後ろ暗い事情などない表の世界で生きてきたベルは目を白黒させた。クレアはにっこり笑ってしゃあしゃあと言ってのけた。
「最近流行りの小説が女間者と敵国の貴族の恋物語で、そんなことが書いてあったの。敵国の情報を集める間者ってなんかかっこいいよね!」
レイディアはクレアが忍んできた翌日、いつも通りの日を過ごそうとした。
朝、リアンヌ達が起こしに来て、着替えて、朝食をオズワルドとダレンと取り、オズワルドや商人達からの贈り物の目通りをして、庭を少し歩いて、少し本を読んで。勉強を終えたダレンを迎えて夕食まで共に過ごす。ここに来て日常といえる時間を過ごす予定だった。
だが、今日は少し違った。
静かにノックターン自慢の茶を飲みながら本の頁を繰っていると、部屋の外が騒がしくなった。
レイディアは茶器を机に置いて本を閉じる。来客の察しはついていた。裾を直して居住まいをただす。
レイディアの侍女らの静止を振り切って部屋の扉を乱暴に開けたのは、予想通り、ノックターン王妃テルミアナだった。
「王妃陛下。これはどういったことでしょうか? いかに王妃様といえど、このような振る舞いは無礼ではありませんか」
レイディアの傍で控えていたリアンヌ女官長が前に進み出てレイディアを隠す。テルミアナは一瞬部屋を見渡すと、憎々し気にまっすぐにリアンヌに、否、彼女を通り越してレイディアに目を向けた。
「琥珀とやらに用があるのです。お前はそこをどきなさい」
「なりませぬ。琥珀の方様へはどなたも取り次がないようにオズワルド陛下のご命令でございます。如何に王妃様といえど、陛下のご意向に背くことはまかりなりません」
「誰にも?連日のように商人はここに押しかけているというじゃない。嘘もたいがいにしなさい」
「いいえ、商人も琥珀の方様に御目通りは許可されておりませんわ。御品だけお預かりしております」
「そんな御託はどうでもいいわ。陛下の命令といえど、この、私への挨拶もなく、図々しくも宝石や絹を強請る浅ましい女をいつまでもこの城に置いておくなんて、城の風紀を乱す元よ。王妃として見過ごすことはできないわ。この女がいなくなればきっと陛下も目を覚まされることでしょう」
テルミアナの剣幕にリアンヌは引かない。彼女もオズワルドの乳兄弟である。城での立場は高い。
「王太子殿下の乳母であられる方をそのように呼ばれるなど、とても高貴な方のお口から出たとは思えませぬ。それに、琥珀の方様は、御生母が亡くなられて、途方に暮れている殿下をお救いした方、たった一人の王子を救っていただいた、いわばこの国の恩人ではありませんか」
その言葉にテルミアナは顔をゆがめた。色々な思いが複雑に絡み合った表情だった。何より、ダレン―オルテオの名を聞くのも苦痛のようだった。
「その救ったという言葉もどこまで本当か分かったものじゃないじゃない。結局金目当てにまんまとこの城に入って贅沢三昧しているこの様子を見ると……ねぇ? さっきから何で何も言わないのかしら、琥珀とやら。所詮貴女は田舎者。高貴な者の前での礼儀さえ示せないのかしら?」
「………」
レイディアはどうしたものか少し考えた。今レイディアが何を言ったところで、レイディアの言葉というだけで彼女は恐らく全て苛立つ要因にしかならない。かといって黙ったままも印象は悪い。どうしたところで彼女に認められることはないなと早々に判断を下し、とにかくこちらの礼を尽くすことにした。
「ご機嫌麗しく、王妃陛下。以前より王城にてお世話になっております、フロークと申します。ご挨拶が遅れまして大変申し訳ありません」
王族への最敬礼をする。その流れるような動作に一瞬テルミアナは目を見張る。とても田舎女が焼き付けばでできる動きではないからだ。
「ふんっ全くよ。挨拶一つできぬ無礼者と手打ちにされても文句は言えなくてよ。だいたい、カサンドラに贈ったあれはなに? 品のかけらもない物を送ってこちらの品を貶めようというのかしら? ああいやだ、なんて姑息なの」
「王妃様。口が過ぎますわ。琥珀の方様はそのような意図はなく…」
「私はフロークとやらに聞いているの。ねえ、どうなの?」
「陛下もこれならばとおっしゃっていただいたのですが、お贈り致しました品はお気に召していただけなかったのならば改めて送りなおします。王妃様方のお好みはどのようなものでしょう。お教えいただけないでしょうか」
テルミアナは一瞬醜く顔をゆがめた後、ひきつった笑い声をあげた。
「ほほ…陛下はお優しいのですもの。田舎女が必死で選んだものを無碍にするのを控えて下さっただけよ。改めての献上品も結構。オルテオ殿下の命の恩人だか知らないけれど、良い気にならないことね。お前のことは陛下は少し珍しいとお思いになっているだけで、飽きれば城を出されるだけよ。今の内に荷をまとめておくことね。好きな宝石を持って出て行くがいいわ」
レイディアは悟られないようにため息を吐いた。如何に産みの親でなかろうと、一国の王子の恩人といわれる者に対してこの物言い。レイディアを単なるオズワルドの新しい浮気相手とみなしているからこその態度なのだろうが、国としてレイディアへ感謝をしている、という姿勢を取っている以上、テルミアナの行動は国人としてあり得ない暴挙である。先程のレイディアからの贈り物の件も、オズワルドの了承の元送っているということは、それを貶めることはオズワルドの顔にも泥を塗る行為であることに思い至りもしない。元々王妃教育を受けて王妃の座についたのではないというテルミアナ。しかし王の子をなし、数年王妃として君臨し、義務も権利も行使している以上、教育を受けていないという言い訳は通じない。だが、今のテルミアナは先触れもなく先方に押しかけ、謂れのない暴言を吐くという、一貴族の令嬢としても非常識極まりない行動をとっている。
これでは宮中の者達の心が離れても仕方ない。
テルミアナをそう断じたところで、再度部屋の外が騒がしくなった。
「王妃が私の許しもなくここへ押しかけていると聞いて来てみれば…どういうつもりだ、王妃」
オズワルドが執務を中断してきたらしい。オズワルドの後ろにレイディア付きの侍女がいた。彼女がオズワルドを呼んできたらしい。
「陛下!」
明らかに歓迎されていないというのに、それでもテルミアナはオズワルドを見て一瞬嬉しそうな顔をした。そこから察するのは、痛いくらいに拙いオズワルドへの恋情だ。
「陛下、いいえ、陛下の言いつけを破るつもりはなかったのです。しかし、流石に王妃である私への挨拶は必要でございましょう? ですから礼儀を通すためにこうして…」
「私は、いらぬ、と言わなかったか?」
「陛下…しかし」
「くどい。碌に政務もこなせぬ者が礼儀だと? 己の普段の振る舞いを省みよ」
容赦のないオズワルドの叱責にテルミアナは流石に顔を青くした。
「おい、誰か王妃を部屋に戻せ」
「はっ」
王太子宮の女衛兵がオズワルドに敬礼し王妃を部屋の外へ連れだした。
「何でよ! 私は王妃よ。陛下、何故私を見てはくださらないのですか!」
テルミアナはオズワルドに手を伸ばすが、彼女と入れ違うように部屋に入るとまっすぐに未だ跪くレイディアに歩み寄った。
「お前が跪くことはない」
そういって、そっとレイディアを立たせた。その動作はどの女に対しても見たことのない労りに満ちていた。その光景が、テルミアナの目の前で繰り広げられる。
その光景を最後にテルミアナの目の前で扉が閉まった。
その扉の音はテルミアナを拒絶する全てのように思えた。
「陛下、何故ここに」
再び部屋に静寂が戻ってくるとレイディアはオズワルドに問いかけた。
「あれは、いつまでも我が儘な公爵令嬢のままだ。何をするかわからんからな」
「それでも、女の問題に口を出すのは野暮というものですよ。政務を中断してまでおいでなさるほどではありません」
「あれが問題を起こすのはいつも一方的なものだ。強制的に距離を離さねばいつまでもつまらないことでつっかかり続ける」
レイディアはリアンヌから聞いた。テルミアナの噂を思い出した。
テルミアナ。ノックターン国有数の有力貴族。当時、王太子であったオズワルドの正妃として最有力候補だったナスターシア嬢の実妹で、彼女の殺害の疑いを持たれた過去がある。オズワルドにひどく恋着し、寵愛を熱望するも、オズワルドから得られるものはなく、王宮における信頼も低い。
そして実際に相対して分かったのは、レイディアが先日舞った舞は、全く効果がないほどに、彼女の心は劣等感や屈辱といった負の感情に塗りつぶされている。
そして今オズワルドがテルミアナを素通りしてレイディアの元に行ったことも、それに拍車をかけた。自分が愛する者が自分以外の者を瞳に移して、かつ優しく扱うことほど傷付くことはない。オズワルドは知ってか知らずか、テルミアナが最も疎む行動をとった。
どうして男というものはこう鈍感で無神経な行動をとれるのか。少しでもテルミアナの焦燥感をやわらげ、卑屈になっている心を満たしてやらねば、それこそ自暴自棄になりかねないというのに。
もうこれで僅かもテルミアナとの関係が修復されることはないだろう。
それでも、ダレンを守らなければ。
ダレンへの守りの暗示をかけようとしたその時、レイディアはすうっと意識が遠のいた。
立っていられず、レイディアはオズワルドに抱き留められた。
「レイディア!」
揺さぶられても、レイディアは答えられない。手足の感覚がひどく鈍い。自分が倒れたという自覚も微かに天井が見えたから、倒れたと悟ったに過ぎない。
周囲の声が遠のく。
ああ、そうか。身体は、ついに限界を迎えたのか。
オズワルドは突然倒れ込んだレイディアを寸でで抱き留めた。
「レイディア!」
揺さぶるもレイディアの反応は鈍く、わずかに上下する胸元が、かろうじてレイディアの命を証明していた。
「医者を!早く!」
「は、はい、ただいま!」
レイディアに付けた侍女が部屋を飛び出す。リアンヌがただちに寝台を整え、水桶や清潔な布などの手配を指示する。
オズワルドはレイディアを抱き上げ、寝台に運ぼうとして、そのあまりの軽さに、今まで感じなかった違和感を感じた。
…なんだ?
レイディアは小柄で、軽いのは当たり前だ。だが、この軽さは、オズワルドの予想を超えるほどに、重さを感じなかった。
オズワルドはレイディアが常にかぶっているヴェールをはぎ取る。
「…っ」
そこには、これまで見えていたレイディアとは全く違う、儚く痩せ細った姿があった。
「なっ…」
「…まぁ!なんてこと…っ」
近づいてきたリアンヌも気付いた。オズワルドは咄嗟に周囲の者達からレイディアを隠す。
昨日まで見ていた筈のレイディアと今のレイディアの差異に混乱するも、まずはレイディアを寝かせることが先決だ。
人払いをして、駆け込んできた医者にレイディアを診せる。医者は驚いた。
「酷い栄養失調です。…この王宮で、何故このような…」
オズワルドも分からない。昨日まで見ていた筈のレイディアはここまでやつれてはいなかった。リアンヌも同様らしく、小さく首を振った。
ただ、これまで不思議なほどに気にしてこなかったことが思い起こされた。
彼女の食事量。元々少なかったから、もっと食べさせようと色々と侍女らに用意させていた。それなりに食べていると報告を受けていたし、実際に共に食事をとるなかで料理を口にする姿を見ていた筈だったが、それが急に自信がもてなくなった。
本当にそうか? 彼女は何を食べていた? 食べていたと、錯覚していた?
「……」
オズワルドは考えるも、答えはでなかった。
「…医師よ。レイディアの容体は」
「よろしくありませぬ。食事をとって頂かなくてはいずれ餓死してしまいます」
「どうすればよい」
「まずは、彼女が目覚めないことには…これだけ痩せているからにはここ暫く殆ど食物を口にしていないかと思われます。まずは目覚められた時の為に胃に負担のかからぬよう、薬湯を煎じます」
「……」
オズワルドは考える。レイディア達がいたアドス村。そこで彼女の腕を取ったとき、彼女は唐突に苦しみだしたことを思い出す。
『…“みこ”は基本的に伴侶以外との接触は禁じられていますが、その規則が物理的な拘束力を持ったような状態だと思っていただければ…』
『身体が拒絶するのです。そこに私の意志はありません。こちらの事情も都合も関係ありません。故意だろうが偶然だろうが…関係ありません』
彼女の言葉。伴侶以外の異性が触れると拒絶反応を起こすと。もし、今回の症状も、何らかの制限が原因で起こったのだとしたら…。
確証はない。根拠もない。けれど、それ以外に考えられるものはなかった。
その原因の元、レイディアを伴侶にしていると思われる…バルデロの王ギルベルト。奴をどうにかしなければ、彼女はこのまま。
それはすなわち…
ずしり、とオズワルドの胸に重いものが落ちる。それは覚悟を促す重みだった。だが、オズワルドは不思議と躊躇うことはなかった。そう、まるで、それが当たり前の行動であるかのように、すんなりと納得した。
そうだ
戦え 彼女の為に
バルデロと 戦え