第七十二話
もう私達の血を紡いではいけない。
こんないびつな存在を、この世に残す意味はないのに。
神の愛し子…聖なる“みこ”だなんで、有難みのある名前なんてかいかぶりにもほどがある。
誰も彼もが私達をそう称するけれど、「私達」には皮肉にしか聞こえない。
私達はただ、覇王のためだけに存在するイキモノだ。その覇王がいない今、私達、否、始祖が覇王に付き従って共に消えるだけでよかっただけなのに。
それが叶わなかったから、私達がいる。…居続けて、しまっている。
その原因は、神の愛し子―“みこ”が攻め込む者を全てが破滅させ、その国に豊穣をもたらす神の加護と言われている力を惜しんだからだ。
その力を、国民が望んだからだ。
けれど、この力は決して国民をの守るための力などではない。
ローゼは王城で最も厳重に警護されている扉の前に佇んでいた。
「……」
意味もなく手を握っては開きを繰り返すローゼを、その後ろで腹心の侍女ダリアが心配気に窺う気配がする。扉の両脇に立つ衛兵も、夏妃であり、公爵家の姫であり、そして王と従兄妹関係でもある、王城で最も身分が高い貴婦人に話しかけることもできず、強制的に排除することもできず、ローゼの様子を窺っているのも分かる。ローゼ本人にしても、半分勢いで来てしまったのもあり、扉を前にして今更に緊張している。互いが動きかねている現状、バルデロ王の執務室の前は微妙な空気が漂っていた。
ローゼは改めて考えを整理する。
今、ギルベルト王は執務中の筈。今は夜中だが、王はここ最近根を詰めて執務に励んでいると聞いている。今この時も、仕事に励んでいるらしい。
王のお渡りがあれば話は別だが、本当ならば眠っていてもいい時間帯だ。ローゼも通常ならがとうに眠りについている時間だ。
秋妃ムーランが、そう言っていた。また戦に出かけるらしいから、溜まった仕事を片付けているとか…と教えてくれたのだ。
何故、ムーランはローゼが知らない王の予定を知っているのか、と思えばちりりと胸が妬けた。ムーランが夏妃に格上げされるかもしれないことと、時々王とムーランが逢瀬を重ねているという二つの噂が頭をよぎる。
けれど、今はそれより、王とお会いして話すことが大事な使命だ。
公爵家の姫として遇され、後宮の筆頭側妃として跪かれても、所詮ローゼの地位は王の側妃…妾にすぎない。基本的にどの国でも正妃でなければ政に携わることは本来許されていない。だが、何事にも例外はある。
各国の歴史を紐解いてみると、側室や愛妾が政治に関わっているか事例はある。多くは妃に唆された王の愚策であるが、中には政治的に有用な者を取り込むために愛妾として囲っていた事例や、無能な王にとって代わって政治を回していた有能な妃など、数は少ないが、例はあった。
そう、ローゼはそんな妃になりたかった。
子をなしていないローゼは、いくら公爵家の姫とはいえ、このままではローゼの妃としての地位は危うい。だが、そういった政治的に重要な妃となれれば、たとえ子を産めずとも…そしてギルベルト王に愛されずとも、ローゼはギルベルトに必要とされ続ける。
夜、仕事中に、それも先触れも出さす邪魔をするのは淑女としてあるまじき行為だというのは重々承知だ。そもそもローゼは執政権もないため宴もないのに表の王城に出向いたことなど殆どないし、褒められた行動ではない。
それでも…
自分の手が小さく震えているのがわかる。ローゼは、ここのところ殆どを城を空け戦争に明け暮れるギルベルト王を思った。元々戦乱の世だから、戦は珍しくない。国が興り、国が滅び、領土が増減して国境が変わる。アルフェッラの様に雪が天然の障壁となる地域は別として、雪も少なく凍らない土地では冬は農作業もないので兵を動員しやすい。不作だった国が食糧を奪おうとして争いになる。バルデロも、元々雪深くはない土地柄なので、戦ができる地域ではあるが、それは同時に冬でも周囲からの侵攻に警戒する必要もあるということだった。
けれど、今年の王は度を越して積極的に戦を仕掛けているように思う。これまでだって戦に出ることは多々あったが、どちらかというとこちらから攻めることが少なかったため、戦が好きという印象はあまりなかった。それが今や、戦争狂いにでもなったか、なんて陰口を叩く無礼者もいるほどだ。結果的に南部の大部分をこの冬の期間だけで手中にいれている。鉄などの鉱石が豊富な土地柄だ。来春から武器の大量生産をはかるつもりだろうと臣下達は噂する。
それが、何のためかなんて、誰も教えてくれないけれど……
今はいない深緑の髪の女奴隷が頭をよぎり、ローゼは振り払うように顔を上げた。誇り高い貴族の姫としての顔を完璧に作り上げて。
「…陛下はご在室ですわね。お取次ぎを」
ノックターンの王城の一画にある皇太子宮の一室で、クレアとレイディアは再会を果たした。恐る恐る近づいてきたクレアに、レイディアはそっと手を差し出す。壊れ物に触るかのようにクレアはその手をとり、ぞっとした。手の冷たさがクレアの不安を増大させる。
まるで、生きていないかのような。冬の夜だからとか…そんなものではない。
「…レイディア様、その」
言葉が出てこず、クレアは途方にくれてじっとレイディアを見つめてきた。その目は心細げで、助けを求めるようで…レイディアはすぐに答えてやりはしなかったが、クレアの手をそっと握り返してあげた。
どちらも何も言わないまま時が過ぎる。
その間クレアはずっと頭の中でぐるぐると考えた。
何でバルデロから姿を消したのか。貴女はずっとどこにいたの。貴女は今どうしてここにいるの。
…何で俺を置いて行ったの?
言いたいことはあったけれど、こんな姿のレイディアを見てとても詰め寄ることはできなかった。
「なんで、こんな…痩せてしまって…」
「……そうね、何から話しましょうか」
結局絞り出せたのはレイディアの現状について。泣きそうな顔をしたクレア。こんな素直に弱気な顔を見せる人は今のところレイディアだけだ。レイディアはそっとクレアの頬を撫でた。クレアもそっとレイディアの手にすり寄った。手は冷たいが、優しいのは変わらないことにクレアは僅かに安堵した。
ただ、レイディアは明らかに健康状態が良好とはいえないのが気にかかった。今ここにクレアが来ることなど予想できるはずもないのに、まるでここにクレアが来るのを分かっていたかのようにレイディアに驚きの色はない。
…それは驚けるほどの体力がないからなのか。
「クレア、私のことは…知っているでしょう?」
「…、はい」
レイディアはアルフェッラの当代巫女だ。ギルベルトがアルフェッラから奪って公式には死亡したと発表され、世間にはずっと秘されてきたことだがクレア達は承知のことだ。
「そう、それで、過去に“みこ”を巡る諍いが起こっていたのを知っているわね」
「はい」
クレアは素直に頷く。過去、“みこ”の恩恵を受けんとアルフェッラから略奪しようと試みた者が後を絶たなかった。歴史を紐解くと中には略奪に成功した者もいたらしいが、最後には全員身を滅ぼしている。それが繰り返されて、“みこ”について国々が話し合いをした末に、“みこ”は不可侵であるという取り決めがされた。この経緯はお伽噺にもなっていて、子供でも知っていることだ。
「じゃあ、そもそも、“みこ”の力ってどういうものかわかる?」
「……それは、どういう…?」
クレアは首を傾げた。
レイディアの巫女としての力。それは世間一般的に言われている、国を守る力や不毛な地にでも作物を実らせる豊穣の力。その加護を得んと各国が争った最大の原因ではないのか。
それとも、願いを叶える力だろうか。漠然としてその力の詳細は不明とされているが、アルフェッラに赴いて“みこ”に拝謁し、願いを聞いてもらうために人々は列をなしていたらしい。クレアはその当時のことは知らないが、レイディアには確かに少し不思議な力を持っているのを知っている。物語に出てくる炎を放つ魔法使いみたいな派手なものではないけれど、確かにレイディアには"力"があった。うまく言えないが、そっと何かに触れて、ほんの少し何かを“動かす”ような力が。
クレアは首を傾げた。知っていることを今確認して何になるのか?
そして、レイディアはさらに問う。
「“みこ”が短命であることは知っている?」
「……、はい」
考えたくないことだが、殆どの“みこ”が何故か短命で終わっているのは歴史の記録が証明している。確か最高齢でも、四十程度だったはずだ。中には十代でお隠れになった“みこ”もいる。ギルベルトも陰の皆も、誰も触れてこなかったが、明らかに“みこ”は短命だ。それはきっと、レイディアも…
「“みこ”は皆短命。だけど、同じ血を引く親族はそうではない。何故だと思う?」
「……」
何を言おうとしているのか。働かない頭は、しかし警鐘だけは鳴らしてきた。
「それはね、クレア。“みこ”の力はいつだってただ一人の“みこ”のもの。そしてその力は“みこ”の寿命を犠牲に生み出される力だからよ」
「――……」
口からは声にならない息だけが零れる。だって、それじゃ、これまで、レイディアが、その前の“みこ”達が、国を守り、実りを豊かにして、縋ってくる者達の願いを叶え続けたその代償は…
誰も彼もがよってたかって“みこ”達の、寿命を…
「働くには体力がいるし、けがや病気をすれば自分で治癒しようと体は働くでしょう。何かを成すには何かを代償にしなければ、何も生まれないわ。だけど、無休で働き続けることは不可能だし、治癒しきれないけがや病気もあるでしょう? 私達もそう。私達は寿命を使って使える力があるというだけよ。それが尽きたら使えなくなる」
それはそのまま死を意味するということにクレアも気付いた。
「力を使うのに必要な寿命は1秒。普通の人は自分の寿命を1秒につき1秒分使うけど、“みこ”は自分の寿命に加えて1秒余分に使っているから」
これが“みこ”が短命である絡繰りだ。“みこ”寿命が六十年として、常に力を使い続けているとしたら、単純に計算して三十年しか生きられないことになる。
「お、王は」
「誰も知らないわ。“みこ”だけが次代の“みこ”へ口伝で伝えているだけだから。少なくとも、私は教えていない」
そう、兄さえも知らないはずだ。もしかしたら察しているかもしれないが、問いただされたことはない。妙に勘のいいギルベルトも、もしかしたら察していたかもしれないが、それを知るすべはない。
クレアはもつれる口を懸命に開いた。
「で、でも、それと、今の状況に繋がりが見えません」
何故、今その話をするのか。当然、レイディアがバルデロを去ったのと繋がっているはずだ。
「何故ギルベルト王の元を離れたのですか? 少なくとも、王は貴女に願いを叶えさせようとはしていなかった」
そうだ。力を使うことで寿命が縮むなら、逆を言えば、力を使わなければ、寿命は縮まない。
レイディアは目をつむった。ギルベルトを思うと、平静ではいられなくなったのはいつ頃からだろうか。彼の体調を気にするようになったのは。彼の未来を悩むようになったのは…。
「ギルベルトは確かに私の力を使おうとはしなかったわ。これまで自力でバルデロを大国と呼ばれるまでに押し上げた。それこそ、驚異的な速度で」
「………」
「まさに、今覇王の座に近いのはギルベルトなのでしょうね」
敵国を攻め、敵国に攻められ、国を大きくしていくその才覚は、天性のものなのだろう。だけど、ギルベルトは決して戦争が好きな性質ではないこともレイディアは共に過ごした四年で知った。
「私があの人の傍にいると、あの人は、大陸の統一を成しえるまで、いえ、成しえても死ぬまで茨の道を歩み続けなければいけないから…」
「どういうことです?」
「“みこ”を自国へ攫うことに成功した者自体は過去に何人もいるわ。その全員が身を滅ぼしている。それはね、“みこ”が何かしたわけではないの。覇王への試練に耐えきれずに死んでいった結果よ」
そして今まさに、ギルベルトはその試練が降りかかっている最中だ。始祖は覇王に相応しい誰かを探して、「みこを攫った者」を「確認」するかのように延々と試練を与え続ける。
「フロークフォンドゥ…私達の始祖が、覇王か確かめるために与えた試練が…かつて大陸を統一した覇王を探し続ける哀れな亡霊となった彼女が…今も血を紡ぐのをやめない」
もう、とっくの昔に、覇王は彼女自身に看取られて逝ったというのに。彼女は理解しようとしない。
「レイディア…さま…?」
「私達は全くの別人格なのに、彼女の願いだけは生まれ落ちた瞬間から刷り込まれて、その願いを共有させようとする…私達は違うのに…貴女は覇王の元へ戻れという…」
「レイディア様…」
「もう覇王はいないの…だから、私の代で終わらせる…もう血は…」
「レイディア様!」
レイディアははっとした。クレアはつかんでいた手に力を込めた。レイディアの目がうつろになって、こちらを見ずに譫言を呟き続ける姿が、クレアの恐怖を抱かせた。
まるで、レイディアが"こちらの住人"ではなくなるような、何かに奪われる、そんな不安が。
「レイディア様、レイディア様……大丈夫、ですか?」
「…ええ、ありがとう。大丈夫」
クレアはこれ以上、レイディアに話をさせることを危険と判断した。だが、レイディアはクレアの手を握り締めて離さなかった。
「クレア…言わせて。もしかしたら、貴方と、もう、まともに話せる機会がないかもしれないから」
「……でもレイディア様」
「私はね、バルデロでの生活は、嫌いじゃなかったわ。ううん、活気のある街を見るのも、後宮の側妃様達のお世話も、とても楽しくて、充実していたわ」
第二の故郷と思えるくらいには。
「私がいると、確かに実り豊かになるかもしれない。他国からの侵略があっても国が落ちることはないかもしれない。でも、その先にあるのは、努力を忘れて堕落しきった国の姿があるだけなの」
「……」
「発展は不便があるから、皆考えて工夫してこそ発展はあるのよ。必要ないなら、誰がそんな手間をかけるのかしら」
だから、レイディア達にしてみれば、これらの力は害悪だ。じわじわとしみ込んでくる、遅効性の毒薬に外ならない。
何が神の加護だ。恩恵だ。それを真実恩恵として使いこなせるのは覇王だけだ。
否、覇王はそれを使いこなすことを求められ続ける。使いこなせる者を覇王と呼ぶのだ。
「大陸を統一するために戦を繰り返すだけでも大変な労力なのに、そのすぐそばには堕落させようとする力がすぐそばにある…すぐそばに使える力があって、それに溺れないだけの理性を保つのにどれだけ神経を削ることか」
ギルベルトは、ずっと四年間、それをこなしてきた。そしてこれからも、ギルベルトが大陸を統一を成したとしても、ずっと、ずっと、ずっと。
覇王になればずっと覇王でいられるのではない。覇王であり続けなければいけないのだ。そして道半ばに倒れれば、レイディアはまた誰のものでもない存在に戻るだけだ。だけど、その時にはギルベルトはもういない。
レイディアは知らないふりをしつづけた。ギルベルトが生きていても苦難を与え続ける。彼の死を思うだけで血の気が引く。そのどちらにも耐えられなくなったから、逃げた。エリックを言い訳にして。
最低な自分。自分のことしか考えていない。だけど、それを悔いる余裕も時間も、レイディアにはもう殆ど残っていない。
「だから、私は眠りにつくの。“みこ”はね、次代が生まれるまで、決して死ねないの。次代が生まれればお役御免となって、力は次代に引き継がれていく。だけど、私はまだ子を産んでいないから」
だからレイディアは死ねない。ギルベルトに死ぬことを禁止されようが、そもそもレイディアは死ねないのだ。たとえ首と胴体を切り離そうとする刃を向けられても、「何故か」“みこ”には届かない。次代を産むまでは。
“みこ”が必ず次代を残せていけた最大の理由がこれだ。始祖の執念ともいえる。
だからあの時、ゼギオス達や、鷹の目、兄ユリウス達の目の前で崖に落ちた時も、死ねないのだろうとは思っていた。そして実際に死ねずに、あまつ自分を助けてくれる善人に拾われた。
私達のような害悪は、もうこの世から消えるべきだ。だけど、次代を残すまで決して死ねない。ならば…
「誰も知らない場所で永遠に眠ることができれば……誰も私を見つけられずに、行方不明になれば…」
それは死んだも同然ではないだろうか。
その時のレイディアの壮絶な笑みにクレアは戦慄した。
「ねえ、だからお願い。私をここから逃がして、誰にも秘密にして、誰も知らない場所に捨ててほしいの」
「…………できません」
「……」
「…レイディア様が一体何をしたっていうんですか。そんなことをしなければならないほど、レイディア様は罪をおかしてはいないのに」
野に捨てるなんて、刑罰にも等しい。レイディアに言い募ろうとした途端、レイディアの手が離れた。
「……そう、ならもういいわ」
「…レイディア、様?」
「私の言葉が聞けないのなら、もう貴方は私のものではないわ」
「レイディア様!」
「ここから去りなさい。もう貴方にいうことはありません」
レイディアはこちらを見ようともしない。
「で、でも…」
「去りなさい。人を呼びますよ。貴方は侵入者なのですから」
「…………」
そこまで言われてクレアは漸く言い募るのを諦めた。ゆっくりとレイディアから離れる。
窓際に立ち、クレアは一瞬だけレイディアを振り返り、闇夜に消えていった。
「………」
クレアは滲む眼に構わず安全な場所まで闇夜を駆け続けた。
跳ねる鼓動を整えながら涙を乱暴に拭った。
レイディアの言葉に初めて背いた。そしてレイディアに見捨てられた。そのことに震える足は支えを失った枯れ木のように頼りない。
でも、それでも、レイディアを誰も知らない場所に連れて行くなんてしたくなかった。
そんな寂しい場所に、レイディアを一人にしたくない。クレアがお供して傍にいられるならクレアは満足だが、レイディアをそんな場所に置きたくない。もっといえば、こんな遠い異国の地にも。
「レイディア様……申し訳ありません。貴女の命令にもう一度背きます」
その数刻後、一羽の伝書鳩が東に向かって飛び立った。
どれほどそうしていただろうか。
レイディアはクレアが消えた窓を見つめ続けた。
「もう、貴方に私は必要ないでしょう」
どんなことでもレイディアの言葉をきいてきたクレア。レイディアの言葉が絶対だったクレア。それが、たとえ聞き入れがたいことだったとはいえ、初めてクレアはレイディアの言葉に逆らった。そのことにレイディアは安堵した。
レイディアは、クレアに言わなかったことが二つある。
ひとつは何故ここまでやつれてしまったのかということ。
もしかしたらクレアはレイディアが意図して餓死しようとしている、と捉えたかもしれない。
だが、レイディアは食べないのではなく食べられないのだ。
”みこ”は、鈴の傍を離れては生きていけない。というよりは、一定の距離を離れた瞬間、傍に戻るように、”みこ”の頭の中に直接警鐘が鳴る。絶え間なく。それは、クレアと会話していた時も、今も。眠っていても。常に。
始祖の訴えに鈴の元に戻ろうとする衝動を強引にねじ伏せている状態だ。これ以上遠くに行かせまいとしているためか、食事も喉を通らなくなってきた。その結果が、これだ。
さらに、レイディアの異常に、城の者達が騒がない理由。
レイディアの異常を認識させないように、常に暗示をかけ続けているからだ。
ここに来た時には既にレイディアは痩せ始めていたから、それが通常と誤認させることができた。クレアがレイディアの暗示が利かなかったのは、レイディアの通常の状態を知っているから。ふとしたきっかけで解けかねない脆いものだが、力は使う。それはつまり、ここにいる限り、レイディアは力を使い続けるということだ。食事も満足に取れないのに力は使う状況に、レイディアの体は城にきてから急激にやせ細った。
それを知れば、クレアは一も二もなくここからレイディアを連れ出しただろう。
そしてもうひとつは。
これまで過去の“みこ”達はレイディアと同じように血をこれ以上紡がないように抵抗してきた者達もいた。寧ろ皆が抵抗してきたといっていい。だけど、抵抗虚しく血は紡がれ続けてきた。それは次代が生まれるまで死ねないだけではない。
何代か前の男の“みこ”―神子が、次代が生まれないように誰とも交合を行わなければ、そしてそのまま老いていけば、生殖能力がなくなってしまえば、たとえ死ねなくとも血の連鎖はとまるのではないかと考えた。
だが、失敗した。
勿論アルフェッラの臣下達は猛反対したし、伴侶に選ばれた者達も懇願しただろう。だが、そんな外側の圧力に屈したのが失敗の原因ではない。
彼は発狂した。そして発情した。
これまでの禁欲的な様子が嘘のように、誰彼構わず相手に種付けを行った、子を残すためだけに行為を繰り返した。その時彼に理性はなかった。
まるで、獣のように。
それは次代が伴侶の腹に宿るまでその衝動が続いた。その後彼の狂態は治まったが、廃人のようになって、次代が生まれてすぐに死んでしまった。その時の亡骸はまだ齢三十だったのに、老人のように白髪で、肌もしわが寄っていたらしい。
本来ならば、こうしてギルベルトから逃げて、帰るそぶりを見せていない以上、レイディアも眠りにつく前に、彼と同じように発情して、誰彼構わず子種を求めるようになるはすなのだ。
それがないのは。
レイディアはそっと腹部に手を当てた。
「ごめんね…」
…でも、私が一緒にいるからね。
レイディアはそっと目を閉じた。