第七十一話
小鳥というものは空を舞う生き物だ。
小鳥は風を切り、水を跳ね、木の実をついばみ、枝葉をすり抜けて空に生きる。
何処の詩人が唄うような言葉が浮かぶ。以前は嗜み程度しか呑まなかった酒を手の中で転がす。最近はすっかり酒量も増した。ソネットからの小言が煩い。
…生きる世界がそもそも違うのだ。
人間に羽はない。無いものは作れないが、有るものは消せる。だから、その小鳥と共に生きる為には奪わなければ。鳥が何を思おうと。
羽を奪い、風の香りを消し、水の煌めきから遠ざけ、樹々の青さを見上げるだけにして。
それを喜びを見出してしまう俺は、既に歪んでいる。
自ら望んで歪んだのか、小鳥に歪められたのか。彼女を初めて目にした時から少しずつ歪んでいく自分を顧みずここまで来た。もう引き返せない。引き返す気もない。
彼は眼下に広げた大陸の地図をなぞる。既に冬の期間だけで南部の半分を手に入れた。領土が増えることに何ら感慨は湧かないが、知らず口元がうっそりと笑みを形作った。
未だ俺の元には“不可解な程に都合の良い”幸運がある。そのことはまだ彼女が俺の手から離れていないことにほかならず、大陸すべてを手中に収めれば、小鳥がどこにいようとすぐに分かるようになる。
もうすぐ春が来る。さあ、俺の小鳥を迎えに行こう。大きな【手土産】を持って――…
レイディアは誰かが起こしに来る前に目が覚めた。
今日はどうやら天気が優れないらしく、さあさあという微かな雨の音が遠くに聞こえた。
「………」
レイディアは一度目を閉じ、ゆっくりと呼吸をする。
大丈夫。まだ、大丈夫。
意識して指先に集中する。指先に自分の意志でこめた力が宿るのを感じる。
…ほら、まだ、大丈夫。
今日も一日が始められることに安堵する。
だけどいつまで【今日】を迎えらるだろう。いつまで私は逃げ続ければよいのだろう。本当ならばさっさとこの城から出ていかねばならないのに。
安堵と焦りが同時によぎる。
早く早く眠らなければ。けれどどの道、いずれはその時は来る。けれどけれど、小さいあの子が心配で。そしてそして、バルデロのあの人は……
考えを遮るように手をぐっと握る。ゆっくりと身を起こして寝台の紗幕をめくる。
優しい雨の向こうから、あの人の軍靴の音が聞こえてくるような気がした。
少しして、レイディアを起こしに来た侍女らによって身支度を整えられると食事の間に連れていかれる。途中でダレンと落合い手をつないで室内に入る。既にオズワルドが着席しており、レイディア達に気が付くと立ち上がってレイディアの背に手を添えて席に導くためにこちらに近づいてくる。
ここに来てから習慣になりつつあるいつもの朝だ。
「おはようございます」
「おはよう、ございます」
ダレンもレイディアに倣ってきちんと礼をした。
「ああ、おはよう。今日は少し肌寒いな」
少しずつ春の訪れが近づいている中、まだまだ寒い日があるこの季節、雨など降ると特に冷える。レイディアはいつもより多く重ねられた衣を見下ろす。
「どうした?」
どことなくレイディアが不思議そうな顔をしているのに気づき、オズワルトが問いかける。
「…いえ、そうですね。今日は寒いですね」
何処か他人事のように返事を返すレイディアに少々違和感を感じるも、オズワルドは口に出すことはせずレイディアを席につかせた。
朝食後、オズワルドとダレンと別れたレイディアは部屋に戻ると、待ち構えていた侍女らに絹や宝石だのと色とりどりの高級品達を見せられた。
以前、不要と伝えたが、ダレン―オルテオ王太子殿下の立場は未だ弱い。実母も亡く、実母の実家は下級貴族、けれどオズワルド王に王太子と認められているため臣下の中にはすり寄る者はあれど絶対味方はなく、唯一の後ろ盾らしきは王に気に入られているらしい身元不明の女だけ。女が王にどれだけ気に入られているかで周囲は王太子の処遇を判断する。
馬鹿馬鹿しい話だが、レイディアの元に宝石があふれるほどダレンの地位は確たるものとなるらしい。実際、ダレンの部屋は飾りが増え、真面目な衛兵が扉を守り、確実に仕事をこなす侍女らが侍っている。
だからレイディアは宝石をもらい、オズワルドの前で身に着けているのを見せ、その他はダレンに横流しする毎日だ。
ダレンは王の胤であることは間違いなく、このまま有力な家の娘が王子を産まなければ王への道は確実だ。しかし、レイディアとしては彼の安全さえ確保できるなら、とっとと誰かが王子を産んでくれた方がよいとさえ思っている。妾の腹では王となっても何かと苦労するだろうし、けれど王子であることには変わりないのだから、どこか都市の太守にでもなれれば権力は望めなくとも安定した将来がある。…ただ、母親の後ろ盾がない王子はどうしても弱く、周囲の大人に振り回されてしまうから、今は他の王子が誕生すること自体が彼の存在を危うくさせる。せめて彼の道を少しでも緩やかな道にしておきたいのだが…その目途はついていない。
そんなことを考えながら、ふと、先日レイディアの宮にまで忍んできたカサンドラ王女を思い出した。彼女もまた王の子だ。女児であるから王位継承権は低いが、彼女もまた王家のしがらみにとらわれた一人だ。
「……」
ひとつ、目についた宝石を手に取る。細い腕輪だった。銀の腕輪に小粒の黄玉が連なっている。目に眩しい周囲に比べたら少し控えめだが、十分に美しかった。
「まあ、琥珀の方様。お手にとるなんてお珍しい。そちらがお気に召しましたでしょうか」
早速気付いた侍女が嬉しそうに声をかけてきた。
「…そうね、この腕輪とても素敵な意匠ね」
レイディアが肯定し、さらには称賛したことで侍女は舞い上がった。もしかしたらこれを選んだのは彼女なのかもしれない。
「まあ! それほどお気に召されたのであれば、これだけでなく、是非これを納めた商人に同じ意匠を持ってこさせましょうか?」
「…そうね。でも、ここ毎日のように宝石を頂いていて、私の宝飾品を納めた部屋は既にいっぱいです。これをある方に贈りたいのだけど。あまり存じない方で…こちらの習慣では知人に贈り物をする習慣はあるかしら?」
オズワルドからの贈り物と一緒に商人や貴族からの贈り物もある。侍女らの検問の時点で多くは既に省かれているとはいえ、その量は既に一つに部屋を埋め尽くしている。レイディアの言葉に侍女らは顔を見合わせたが、ひとつうなづいた。
「なくはありませんが…よくご存じでない方というのは、どちらの方に贈られるおつもりでしょうか?」
「王妃陛下の一の王女、カサンドラ王女殿下へ」
その人物が予想外だったのか、大半の侍女らは目を見開いた。あの日、カサンドラがこの宮に忍んできた時、偶然同席していたリアンヌだけが小さく首を傾げただけだ。
「まあ、カサンドラ王女様へ。失礼ではございますが、いかなる意図か伺っても?」
「王妃陛下へのご挨拶は陛下のご意向により叶いませんでしたが、ここでお世話になっているのだから、せめて先方へ何かをお贈りできればと考えておりました。私のようなものから王妃陛下へ贈り物をするのは却って無礼になります。ですが殿下ならば…」
意図としてはこちらに敵意はないという意思表示だ。
数多の女達が入った後宮では、王の寵愛をより受けて宝飾品を沢山抱える妃がいる。自身を飾り立てること以外にも、贈られた物を自分の配下に下賜したり、繋がりを強化したい物への贈り物にしたり、自分の寵愛を披露する目的で他の妃に贈ったりと、王からの贈り物というものは非常に有用な駆け引きの材料になる。如何にそれらを利用して己の立場を確たるものにするかが己の後宮人生を左右するといっても過言ではない。
ここで王から贈り物など貰ったことがないらしい王妃へ直接王の贈り物だった物を送るなど真正面から喧嘩を売るような行為だ。かといって、完全に没交渉というのも、ないがしろにしていると思われる。少なくとも周囲はレイディアは王妃を立てていない、とみなすだろう。ということで、王女へ―王妃陣営へ贈り物をするという行為は、はっきりと意図を伝えることはないが、少なくとも王妃をないがしろにする意図はない、と伝わるだろう。
本来ならばレイディアの私財で王妃へ贈るのが最善だが、今のレイディア自身はほぼ無一文だ。
「なるほど、それならばよろしいかと思います」
「本当に、琥珀の方様はなんて御思慮のあるお方でしょうか」
レイディアの意図に納得した侍女らがほっと息を吐く。彼女らも下手に王妃を刺激したくないらしい。
「ああ、それと、贈るのは陛下を経由させてください」
「はい?」
「私の独断ではなく、陛下も承知の贈り物だということを保証するためです」
なるべく王城の者達にレイディアの存在をはっきりとさせたくない。一時的に陛下の庇護のもと、オルテオ殿下の健やかなる成長の為にいるだけにすぎない。後宮で地位を確立するつもりも、ましてや後宮の女の争いを誘発するつもりなんてさらさらない。反王妃派に近づいてこられても迷惑だ。
「はい、承知いたしました」
レイディアの命を受け、侍女らは早速動き出す。
「……少し疲れました。昼まで皆さん下がって頂けますか」
レイディアは久しぶりに長く話したことで疲労を覚え、侍女らを部屋から下がるよう言った。
「かしこまりました。今日は昼でも冷え込みそうですわ。レイディア様、本日はお庭に出ることはお控えくださいませね」
「……ええ、わかりました」
誰もいなくなった室内にぽつりと言葉が落ちる。
「…そう。今は、寒いのね」
何処か、他人事のように。
ノックターン全土に降っていた雨は昼過ぎには止み、外出を控えていた住民がそれぞれの用を済ませに街に繰り出す午後。ノックターンの王都の一画に、画廊があった。王家御用達のような立派な画廊などではなく、殆どは裕福な平民や商人が見栄や記念事で依頼を寄こしたり、時たま下級貴族から依頼がくる程度の画廊だ。午前中に雨が上がったので、画廊の前に作品を出す。
作品は画廊の職人達がそれぞれ描いたものだ。通行人の目に留まり、画風が気に入られればお得意様になってくれることもあるから、店先に出すのはそれぞれの自信作だ。
その中で、ひと際目を引く絵画があった。
その絵師の画力は申し分なく、それだけでも十分一見の価値があるものだが、その描かれた“もの”が、通行人の足を止める。
描かれた情景は、どこかの深い森の中。その中央にある泉には、樹々の隙間から差し込む光が反射して煌めいていた。その泉の中で子供達が無邪気に遊んでいるのだろう、煌めく水飛沫が描かれ、そしてその泉の畔には、幼子の世話を焼いている一人の少女がいた。
光が降り注ぐ泉の中央からは外れ、ともすれば暗い森と同化してしまうところが、絵師の画力により少女は暗がりからも分かるほどに美しく、幼子に対して優しい笑みを浮かべている様子をはっきりと描きだされていた。決して中央にはいないのに、少女がこの絵画の主役であると絵を眺める者達は自然と悟る。
この絵が店先に出るようになって数日、不思議と見る者を穏やかな気持ちにさせるこの絵を買い取りたいと画廊と交渉する者が多数現れたが、肝心の絵師は顔を縦に降らなかった。
なんでも、この絵は自分が実際に目にした光景で、それが目に焼き付いて離れないのを絵にしたのだという。さらに続けて絵師は言う。この絵そのものは売れないが、この少女を題材にした絵なら、注文してくれれば描こう、と。
早速購入希望者達は同じ構図や、少し角度を変えた構図など、思い思いの希望する絵を注文した。この時代、絵画は金持ちの娯楽であり、美しい絵を飾るのは財力を見せつける手段だ。
それ以上に、この少女の正体は明かされないことが、余計にこの少女は何者かと見る者の想像をかきたてる。人間か、いや精霊か、森の中で戯れる妖精の子供と戯れる女神か、などど絵の購入者達は好き好きに少女の正体を予想した。
それがさらに幾日か続くと、その画廊の得意先周辺では、ちょっとした流行となり、少女がおおよそ“森の聖女”と呼ばれるようになった頃には、知る人ぞ知る人気題材となった。
ある日、旅人の恰好をした面長の男がその画廊がある通りに行きつき、その絵の前で立ち止まった。
「…………これは」
足を止めた男に、店先にいた画廊の職人が気付き、にこやかに話しかけた。
「あ、お客さん。旅の方ですか? この絵は今うちで一番人気の絵でね。この絵は非売品なんだけど、同じ少女を題材にした絵の注文は受けてます。どうです? この絵が気に入られたなら家族へのお土産にでも小さな絵を記念に一枚」
「……この少女は?」
「いや~それが僕も知らないんですよ。これを実際に書いたうちの絵師がね、実際に見た光景らしいんですけど、この少女が誰なのか、そもそも知らないのか、はたまた絵師の白昼夢か。絵師はもったいぶって教えてくれなくてね」
「…そうか」
「ええ、まあそのおかげでうちは儲かっているんですけどね。はは、注文する人達はそれぞれこの少女を精霊だとか、聖母だとか好きに呼んでますが、それでいいのだと思います。秘密は暴かれない方がずっと楽しいものですからね」
「………」
「でも、僕は彼女が実在しているとはちょっと信じられないんですよね。だって綺麗すぎるでしょ?それこそ精霊でもなければこんなに美しい娘がいるなんて、こんな森の奥深くどころかここ王都でだって見たことがないし。もしいるなら僕も一度お目にかかって僕にも筆をとらせてほしいものです」
慣れた調子で接客する職人にある程度好きにしゃべらせた後、旅の男は彼に向き直った。
「是非一枚書いてほしいな。その絵師には会えるのかい?」
「ええ!毎度ありがとうございます!では店内にどうぞ」
職人の手に促され旅の男は店内に入る。
「おおい、ガロン! お客様だ、絵の注文をお願いしたいそうだ。…それでは、お客様、後はこの者が」
職人は背を向けて絵を描いていた男に呼びかけ旅の男を託した後、また店の外へ出て行った。
そして二人きりになる。店内は静かだ。だが人の気配はする。他の職人はもっと奥の作業場にいるのだろう。旅の男は口を開いた。
「是非、この少女の絵を買いたいと思いまして。…この少女がいた場所も……ねえ、ガロンさん」
いや、と旅の男――ゼギオスは言葉を区切った。
「バルデロで情報屋を営んでいた酒場の店主さん、といえば話は分かるか」
男はぴたりと筆を止め、こちらを振り向いた。
「……あんた」
「会うのは初めてじゃねえよな。一度お前の酒場に行ったことがあるからな。まさかお前が情報屋とはね。ガロンは偽名か?お前の本名は俺らを以てしても分からなかった」
現在画廊で一番人気の絵師、そして元バルデロ王都の酒場の店主は警戒のまなざしを向けた。
「…ガロンでいい。そう名乗ってる。今は」
元酒場の店主―ガロンも思い出した。以前、いかにも田舎者な男二人を引っ掛けていた男だ。
「そう警戒すんなよ。うちの王の情報屋狩りは有名だが、今の俺は命令されて動いてんじゃない。今すぐお前をどうこうする気はない」
「……その言葉が本当であれ、後で狩りにこられちゃかなわん」
諦めたようにため息を吐いた後、男はどかりと足を広げてゼギオスの目の前に座った。
「で? 俺に用なのは絵の注文か、それとも…情報か?
「両方だ」
「聞きたいことは今の内に聞くんだな。…お前に見つかった以上、さっさと身を隠すぞ。…あのお嬢ちゃんがお前たちに見つかる前に、な」
「…交渉成立、だな」
ゼギオスが笑うと、ガロンは嫌な顔をした。
その夜、ノックターンの空は日中に雨が降ったために空が一層冴え冴えとして星が美しかった。しかしその空を見られるのも夜回りの兵だけの真夜中の王城に、人知れず暗躍する小さな黒い影があった。音もなく、衛兵たちが気付く前に姿を消し、小さな穴にも難なく潜れるその影は数日の間はあたりを飛び回るだけで王城に侵入することはなかったが、今、王城の中で最も厳重に警備されている、城の中でも奥に位置する王太子宮に侵入せんと宮を窺っていた。
「……」
音もなく小さく息を吐く。この数日間得られた情報は「琥珀の方」と呼ばれる女が暫定王太子の乳母やら継母やらとして召し上げられていること。
それも、王太子付きとは別に大勢の侍女達を付けられているらしい。食事も頻繁に共にとるのだとか。それは既に使用人ではなく妃だ。やれいつも庭を共に歩いているだとか、王に抱えられていただとか、王の御子の第三子に恵まれるのも遠くないかもしれないだとか今王城の噂の中心がその人物だった。
城の女達は洗濯場や使用人棟などで熱心におしゃべりに興じて中々面白い噂話を聞かせてくれた。玉石混合で殆どは根も葉もない話だが、それでも百の中に一の玉はある。
今のノックターン王オズワルドと正妃が不仲なのは公然の秘密らしく、城の者は概ね「琥珀の方」様を歓迎しているらしい。王妃に人望はなく、臣下からの人気も低い。さらに王の寵愛もない、王子も生んでいない王妃の王城での立場は弱い。ただ、実家が有力貴族だから今の地位があるわけだ。ないない尽くしの王妃としてみればさぞやその「琥珀の方」様は目障りだろう。
むしろ自分の地位を脅かす存在以外の何物でもない。
だとすると、この厳重な警備は外からというよりは、内側の、はっきり言って王妃の手の者から守るためか。であればこの厳重さも納得がいくが、ノックターン王は、どちらかと言えばバルデロのギルベルト王と同じで女に目がない好色な性質ではなく、多くの女を召し上げても特別な存在は特に作ってこなかった筈だと記憶している。この厳重な警備はその女の為だろうか? オズワルド王が情報の通りの人物なら、考えづらいが…
まあ誰も彼もが自分に跪いて寵を乞われることが当たり前な人生で食傷気味になったとしても、たまには女が欲しい気分になるのかもしれない。
「さて、と」
レイディアの情報が未だない中、虱潰しに探すのは効率が悪いので、一先ず噂を拾って気になる者を調べた。今日までに既に数人空振りに終わっているから今回も特に期待はしてないが、どうしても期待してしまう。そしてまた違ったらという思いが一歩を踏み出すことを躊躇わせる。
王城に入るのは問題ない。殆どの人間が寝静まる深夜だし、王城でも当直の衛兵以外は寝ているし、ベルだって宿で寝ている…が、いつふと便所にでも起きてクレアがいないことを知られるかわからないと思い至る。
「……」
よし、ささっと確認して、ささっと城を出る。うん、これで行こう。
音もなく、二度三度壁や枝伝いに跳躍を繰り返し、「琥珀の方」様の寝室の窓辺に立つ。さすがにここまで中に入ってしまえば逆に衛兵の姿はない。
窓の鍵は閉まっていたので手早く開けて滑り込んだ。
室内は当然暗い。普通なら寝ている時間帯だし、王と「琥珀の方」様が同衾しているという情報はまだないから、万が一、情事の真っただ中に突入するということもない。夜目は利く方なので少しすれば室内の様子はだいたいわかるようになった。室内は広く贅を凝らした造りになっている。置かれている家具はどれも上品で精緻な彫刻が施されており、どれも一級品とわかる。女性的な装飾類はまさに貴婦人の為の私室、といったところだ。やはり噂通り、使用人の扱いじゃないな。ここら一帯は特に警備が厳しいのはここ数日王城の様子を見ていて分かっている。何かしらあるのは確実だと踏んで決行したが。
軽く周囲を調べた後、そっと寝室の扉に手をかけた。
しかし
「……どなた?」
クレアはぎくりと足をとめた。明かりがついていれば起きている可能性も考えたが、こんな深夜に真っ暗な部屋で起きているという可能性は考えなかった。
そもそも不意を突かれた…気配を感じなかったのだ。クレアが。
それでも即座に退去しなかったのは、声に聞き覚えがあったからだ。
今の声は、まさか…
気配を感じなかったことに対する違和感を脇に置き、クレアは急激に膨れ上がった期待に少し足がもつれた。クレアは意を決し、そっと扉の奥に進んだ。
寝室の奥、寝台に人の影が見えた。身体が歓喜に震えた。
―ああ、漸く会えた!
しかし、その歓喜もすぐに消え去った。駈け寄った寝台の紗幕をそっと開けて中を見た先にいたのは確かにレイディアであったのに。
「……来たのね、クレア」
その声は、確かに聴きたくてたまらなかった優しい声なのに。
会いたくて仕方なかった人なのに、クレアは胸の中に飛び込むことができなかった。
「どうして…レイディア、様…」
クレアは愕然とそこに立ち尽くした。
そこには、今にも折れそうにやせ細ったレイディアの姿があったから。