第六十九話
今宵も夜の蝶達が街に訪れる男達を誘惑する。陽もすっかり落ちたのにそこだけは真昼の時と変わらずすれ違う者の顔もはっきり見える。
花街の奥、他の店よりも群を抜いて豪奢な高級娼館『白桃楼』。そこには、つい先日披露目を迎えたばかりに新人娼婦がいた。ノックターン国でも屈指のシリーグス卿をヴェール外しに招かれた披露目の宴は、近年まれに見る盛況な宴だったと、宴に参加した者達が口々に自慢した。その娼婦の美しさ、なよやかさを称賛し、彼らのおかげか、評判が評判を呼び披露目から半月も経たずに今や売れっ子となった娼婦に誰もがひと目会いたいと『白桃楼』につめかけた。こと、シリーグス卿もそのひとりで、披露目にその肌を味わってから三日と開けずにその娼婦の元へ通ってきていた。
「まあ、シリーグス様、今宵もおいで下さったのですね」
「ああ、今日は街でもなかなか手に入らないという布を持ってきた。これで服でも仕立てなさい」
「まあ! こちらは今若い娘たちの間で評判になっている布なんですのよ。なんでも繊細な刺繍が施されていて美しいだけでなく、布地も柔らかいのだとか。でも今は作り手が行方不明で今出回っている物だけしかないのだと」
「そうだ。それを知り合いの仕立て屋に無理を言って譲ってもらったのだ」
卿は軽く言うが、もう殆ど出回っていない布を手に入れるのにどれだけの金貨を積んだのだろう。娼婦――ユンケはうっとりと笑った。
「ああ、シリーグス卿、このようにお気遣い下さって、わたくし、とても嬉しゅうございます。一生懸命探してくださったのですね」
「ユンケ、お前がより美しくなれるなら、いくらかかろうと惜しくない」
シリーグスの伸ばされる手に、ユンケはまるで愛しい男に対するようにしなだれかかった。
レイディアがノックターンの王城に入り四日経った。
レイディアの元に訪れたカサンドラ王女と会話して三日になる。
「琥珀の方様、本日はどのようにお過ごしになられますか?」
「琥珀の方様、こちら、王家御用達の宝石商からどうしてもひと目でもと乞われ、預かってまいりました。ご覧いただけますか?」
今日も周囲に侍女達が恭しく侍る。ダレンの王太子教育も始まり、レイディアは一人。ダレンからレイディアも同席するようにせがまれたが根気強く説得し、一人送り出した。市井の者が学び舎に通う場合は、それなりに大きく育ってからになる為、親と一緒がいいとごねる子はいないが、王族は生まれた瞬間から王族としての責任を負うのでまだ言葉も怪しいうちから教育は始まる。王太子であるなら猶更甘えは許されない。一人で教師と向き合い、そして教師を超えていかなければならないのだ。だから基本的に母親や乳母をはじめとする身近にいる女性の使用人は同席が認められていない。
そういった事情もあり、ダレンが勉学にはげむ間、レイディアは宮で暇を持て余していた。
レイディアが座る回りには色とりどりの菓子や軽食が並べられ、さらにその周りには侍女らが持ってきた織物や宝石やらがきちんと並べられている。
先日、レイディアははっきりと、それらの品はいらぬ、他人を宮に近づけるなと言った筈だが…
商人は王城にも入れておりませんし、品の検問は私達自身でも執り行っておりますとリアンヌ女官長に胸を張られた。そういう問題ではないというレイディアに、商人をただ追い返すのはあまり勧められないのだと彼女は言う。
どうやらノックターンでは、貴族の格の高さはどれだけの豪商が“自ら”自分の元に商品を売り込みに訪れるかで決まるらしい。必ずしも購入する必要はないが、逆に来てもらえなければ商品を買うだけの財力もない家だと周囲に思われるそうだ。特に王城に近く屋敷を構える上級貴族の間ではそれが顕著らしい。ある意味商人が貴族の格を決めているのかと興味深い。ノックターンは西の諸国と繋がりが強い。そして西は商売によって成り立たせてきた国ばかりのため、利益があればとことん付き合いがよいが、金のないところにはよりつかない。金の切れ目が縁の切れ目がこれほど似合う言葉もない。その影響をこの国は強く受けてこの風潮があるそうだ。
でも、そもそもレイディアはこの国では貴族と公言していないし、レイディア自身に現在財産と呼べるものはない。
「国王の後ろ盾があって王城にいるのだから商人が”うま味”のある新規の客と見込んで近づいてくるのは分かるけれど、商人を手ぶらで追い返して悪評がたったところで私に貴族の格も何もないわ」
レイディアの冷静な分析にリアンヌはしっとりと笑んだ。
「今の王太子様の評価は全て貴女様に一存されているといって過言ではありませぬ。産みの母は亡く、母の実家は力を持たない下級貴族。傍にいるのは身元がはっきりと明かされぬが王の信頼を得ている女人のみ。殿下が王族として確かな実績を積まれていない今…貴女様が王に、どのような扱いを受けているかによって王太子の評価が決まるのですわ」
「…言いたいことは分かるわ」
王に手厚いもてなしを受ける女が王太子の傍にいれば、その扱いをそのまま王太子も受けていると思わせ、おのずと王が王子を大事にしている風に見える。直接王太子を大事にしているということを示さないのは、王の威光に寄って来る有象無象をあしらえるほどに成長していないからだ。矢面に立つのは王子の傍にいる者が適任だ。
しかし…
「……尤もらしいことを言ってるけど、だからといって、侍女達がこうも片時も傍を離れず何かと構う必要はないのではない? 商人もそう。相応の扱いを受けていると周囲がそう思う程度に人前でやればいいだけよ。違う?」
そう言ったレイディアにリアンヌ女官長は笑みを深くし、何も答えなかった。
レイディアの一挙手一投足を侍女達が見つめている為溜息もうかつに吐くこともできない。アルフェッラにいた頃も似たようなものだったが、あの頃はレイディアも勤めがあったし、侍女らはレイディアに暇をさせないように話術や芸をもっていたが、巫女の傍近くに仕える立場に選ばれるだけあって姦しさとは無縁だった。
ここの侍女らは、レイディアが食事をあまりとらないため、何かとこまめに軽食をとるように勧めてくる。どうやら王から日中何か食べさせておくようにと指示された、らしい。これらのものは全て侍女達が吟味し選んだものらしく、レイディアが手に取ったものを用意した者は王から直々にお言葉を頂ける……らしい。
全て“らしい”なのはリアンヌ女官長から聞いたからだ。王の覚えがめでたくなる機会がすぐ目の前にあることが皆の活力を持ち上げ、宮全体が明るくなって良い傾向だといわれた。
「………」
レイディアが小さく溜息を吐いた。溜息を悟られぬよう、その口元にそっと美しい扇を広げる。
この扇こそ、アドス村でオズワルドに王子を救った褒美として与えられた物だ。
ここに着いてわずか三日、つまり昨日渡された品だ。どうやら私が扇を希望してすぐに知らせをやり、職人を急がせたらしい。ふちに向かって淡い朱色が濃く広がる扇面には椿と鶴がさりげなくあしらわれている。扇骨にも非常に細やかな蔓草が彫り込まれ、要には上質な朱色の瑪瑙が使用されている。繊細なつくりは職人の練度が伺える。これだけで芸術作品のようだ。
しかしこの扇はレイディアの溜息の種でもあった。そこそこ滞在した後、完成した扇を受け取り城を退場するという目論見が狂ってしまった。乳母という立場はあくまで仮のもので、正式に王家に雇われた乳母とは違う。乳母の立場はレイディアを束縛をしはしないが、王の客人として招かれている以上、ひと月もいれば何を言われる筋合いもないが、ほんの数日滞在して品を受け取りさっさと出ていく、ということはできない。レイディアがノックターンの者に不作法者と思われようが構わないが、王の面子がかかってくるので王城側が了承しない。
扇を受け取る際も昨日王自らレイディアに手渡され、周囲の侍女らがざわめいたのを見て、レイディアはげんなりした。
「琥珀の方様、お飲み物をお持ちいたしました」
侍女らの声に応える気もおきず物思いにふけっていると、リアンヌ女官長が温かい茶を差し出してきた。茶器も、中に注がれた茶も一級品だ。王太子宮にもともとあった備品ではなく、全て王が新しく手配したもの。
レイディアをここまで優遇するのは何故か?巫女が一人で外にいるなど前代未聞。勝手に出歩かれて火種が作られるのは困るから王城にかくまうのは分かる。だが、そもそもオズワルド王は巫女に対して懐疑的だった筈だ。人目につかない適当な部屋に押し込んでおけばいいだけである。やはり巫女に価値を見出し抱き込むつもりなのだろうか。しかし巫女に心酔していた前王と折り合いが悪いということから巫女に阿る者とは思えない。では女人に気をつかう気質だからか。だがダレンの母親と子ができるまで日替わりで王宮の女に相手をさせていたことから伺えるに、特定の誰かと愛情を通わせる気はなく、女性との行為は義務と捉えているようだ。
では、王妃への何かしらの…
「………」
…何にせよ、ノックターンの事情にこれ以上巻き込まれるのはよろしくないわね。
レイディアはあの日の夜、つまりカサンドラと話した後、夕食を共に取りに来たオズワルドのことの次第を報告し、王妃への挨拶を打診した。
「王妃陛下に一言ご挨拶申し上げたいのですが」
正式に後宮の人間になったわけではないが、少しの間滞在するにあたってそこの主に一言挨拶するのはごく普通のことだ。必ずしも相手側の都合がつくわけではないので、王の了解があれば正妃に挨拶しなくとも問題はないものの、やはり可能な限り双方に了解をもらっておいた方が何かと通りが良い。王城側でレイディアの衣食住の面倒をみるのだ。一言あってしかるべきである。
しかし…
「その必要はない。私が承諾していることであるし、この宮の者にも王妃側の人間は通すなと言ってある」
「……―――」
オズワルドはレイディアの要望を退けた。それどころか接触を断つような措置まで。王妃はレイディアに対して何かしら不愉快なことを仕掛ける恐れがあるという。レイディアはその言葉に一抹の不安を覚えた。自分に危害が加わることを恐れたのではなく、王妃の扱いの軽さにだ。
ひそかに王太子母子殺害を命じた嫌疑がかけられている王妃とはいえ、それでも一国の王妃だ。証拠が確定するまでは、ノックターン国にとって王の次に尊ぶべき存在の筈である。王の子も王女とはいえ一子設けている。宮の者達もレイディアの前であからさまに陰口を囁きはしないが、言葉の端々に王妃を軽んじる色がにじむ。女官長の王妃への評価は優良とはいえない。少なくとも王妃は臣下の心をつかみ、期待に応えられるような人物ではないのだろう。だからといって、嫌疑云々とは別に、日頃から王妃が軽んじられている状況が良いはずもない。ここまで軽んじられるものだろうか。王妃には必ずしも秀でた者が選ばれるとは限らない。お飾りの者も過去にいくらでもいる。
皆、王が軽んじるのに倣っているのだろうか。
「…分かりました」
「王妃に関してはお前は何も考えずともよい」
レイディアが頷くのに満足げに返し、レイディアの背に手を回し食事の間へと促し、この時の会話は終了した。
…あれから、王妃のことが気になって暇であることも相まって、ずっと考えている。
好かない相手というのもあるだろうが、あからさまな王妃への対応は不可解だ。
とはいえ王が会うなという以上、レイディアに積極的に会う理由はない。レイディアは踏み入ったことが知りたいわけでもない。
ただし、ダレンが巻き込まれない限りは。
レイディアは王妃に会うことはなくとも、王太子の宮で静かに何もせずぐうたら過ごすわけにもいかないのだ。ダレンの母に乞われたのだから。
そもそもここに不本意ながらもいる理由はダレンただ一人のため。息子を守ってほしいと母親の嘆きがレイディアの行動の源である。
レイディアはつ、と山と積まれた菓子の中から、橙のジャムの乗った焼き菓子を一つつまんだ。
「……マイヤの実のお菓子ね、おいしいわ」
レイディアが小さく呟くと、一人の侍女が――おそらくこの菓子を用意した者だろう――が大きく目を見開いたかと思うと顔を赤く染めて思い切り破顔しレイディアに謝辞を述べた。
「あ、ありがとうございます! そのお菓子には私の故郷のマイヤを使っているんです。滋養に良いと…」
素直な娘だ。尻尾があればちぎれんばかりに振られていただろうと思うほどに喜色満面の笑みだった。そんなに王に言葉をかけられるのがうれしいのだろう。
「商人からの宝石や絹は殿下が講義からお帰りになられたら見せて差し上げて。殿下が気に入られた物以外は貴女達の好きになさい」
侍女らが控えめながら歓喜を隠せない声を上げた。そんな彼女らを横目に茶器を置くとゆっくりと立ち上がった。
「少し外に出ます…リアンヌ女官長」
「はい、お供いたします」
リアンヌ女官長は優雅に微笑み、一礼した。
「…ねえ、リアンヌ女官長」
「はい…琥珀の方様」
王太子宮の庭にリアンヌ女官長と二人でゆっくりと歩く。いや、さらに後ろに数名の侍女が控えているが、会話が聞こえるほどではない。レイディアが大勢の侍女らを引き連れて歩くことを快く思っていないことをこの三日で察してくれたようだ。彼女達の気づかいに感謝しつつ、レイディアはゆっくりと歩きながら冬でも葉を茂らせる低木に指を這わせ、リアンヌに問うた。
「…たった数日で、茶器や珍しい宝石や絹やらで私の部屋がうまっているのだけど…」
「は。それはひとえに陛下の覚えがめでたい故ですわ。まして王太子殿下の養母であらせられます。商人の者達が争うように琥珀の方様に目通りを願うのも当然ですわ」
「…まだ、ここに来てほんの少し。王の覚えがめでたいとなぜ分かるの? 正体も知れぬ女にこうも早く来るなんて。誰かが意図的に商人に情報を流したとしか思えない」
「それは…」
「リアンヌ」
職位を省いて名を呼ばれたリアンヌは反射的に背筋を伸ばした。
「は、はい」
「“誰が”流したかなんて犯人捜しをするつもりはないの。でも、過剰な応対は風紀を乱すわ。そうでしょう、リアンヌ?」
「は…」
リアンヌは言葉に詰まった。
乳母の役目を与えられた客人という、そもそもの状況がおかしいのだけど。それはまだダレンにとって誰が安全かが分からない今、仕方ない措置だと理解はできる。
だけど、まるでレイディアを王の愛人として扱われるのは容認できない。
「いえ、そんな、巫女様を妾扱いなんて、そのようなことは決してっ……!」
リアンヌが弁明をしようと口を開いたとき、離れた場所で控えていた侍女の一人がレイディアの元へ駆け寄ってきた。教育された侍女が駆ける姿はなかなか貴重である。
「お寛ぎのところ申し訳ありません、ただいまこちらに…」
侍女がレイディアの前で膝をついて要件を告げる前に、その“要件”がやってきた。
「……陛下が…」
最後まで言えなかった侍女が青くなるのも全く頓着せず、侍女を追い抜いた影がレイディアの腰を攫った。
「こんなところにいたのか」
「オズワルド王……」
「ここの庭は手狭だ。そろそろ飽きただろう。王城の庭を案内しよう」
ここの庭だって十分立派である。
「執務中では?」
「王にだって休憩する権利はあるさ」
「お昼休みにはまだ少し早い時間ですわ」
「なあに、たまには早めにとるのも悪くはないだろう?」
レイディアは王が現れたために庭に大勢の人間が集まってしまった。王が立ち止まってレイディアを傍に寄せて会話を始めてしまったために、レイディアに付いていた者も、王に付き従っていた者達も畏まって王の用事が終わるのを待つ。そして本来ならば王の“御言葉”をもらう際には膝をつかなければならないが、腰を掴まれているためにそれができない。何も言わないが、周囲の者達が興味深げにこちらを観察しているのがたまらなく不愉快だった。
「陛下、御放しいただけますか?」
「王城の庭には池もある。そこで昼をとるのもよいな、それほど寒くはないし丁度本日誰とも会食はない」
何が丁度だ。こんな衆人環視の中で王自ら城の中を案内するということは、臣下に向けて重要な人物であると公言しているも同然の行為だ。それが女性の場合、暗に“そういう立場”の女と目される。半ば強引に外の庭に連れて行こうと腰に腕を回したまま歩き出したオズワルドに、流石のレイディアも一言言いたくなって口を開きかけた。
「…っ――――」
「どうした?」
腕の中のレイディアが自らの喉に手をやっているのに怪訝に思ったオズワルドが顔を覗き込んできた。レイディアはあまり表情を変えないが、今は心なしか顔色が変わっているようだ。
「気分でも悪いのか?」
レイディアは数泊黙った後、喉にやっていた手をゆっくりと外した。
「……いいえ、何でも…」
今度はレイディアは抵抗せずオズワルドに連れられるまま、歩き出した。




