第六十八話
覇王のものにはならない鳥など何の価値も無い。
その目は覇王を見る為に。
その耳は覇王の願いを聴く為に。
その羽は覇王の元へ参じる為に。
その記憶は覇王の事を留めておく為に。
その想いは覇王を気にかける為だけに。
その囀りは覇王を悦ばせる為に。
絶えず響く耳鳴りのようなその唄は、私を常に責め立てる。
いつまで正気を保てるだろうか。
「さあ、ここが、ノックターンの王都、ジュレーブだ」
オズワルドの手の先に見た景色は、険峻な山とそれにかかる太陽を背景に輝く石造りの街並み。活気あるその大都市はバルデロの王都ヴォアネロにも劣らないノックターン王都ジュレーブだった。
レイディアは歯車がひとつ、かちりと回った音を聞いた気がした。
「琥珀の方様」
「……ええ」
朝の陽ざしが柔らかく垂幕から漏れ出す頃、横になっていたレイディアへ侍女らの声がかかる。
レイディアはゆっくりと身を起こし、身支度を侍女らに委ねる。
「琥珀の方様、本日は良い天気ですわ。本日は風もそれほどないみたいですし、お庭で散歩をされると気持ち良いかもしれませんわ」
「琥珀の方様、陛下がともに朝食をと言付けを賜っております。食事の間にご案内致します」
「…分かりました」
レイディアににこやかに語りかけながら手を休めず手際よくレイディアの身支度をする侍女達に応える。琥珀の方とは、ここでのレイディアの呼称だ。レイディアと縁もゆかりもない名前なら気休め程度だが目くらましになるだろうとオズワルドにつけられた名前だった。レイディアがノックターンの王太子の乳母のとして城に迎えられ一晩、客人に近い待遇を受けていた。
王都ジュレーブに到着した昨日、オズワルドが厳選した使用人と、広く日当たりのよい部屋がレイディアを出迎えた。部屋の窓から覗く庭は宮の関係者以外は立ち入れないという、いわば離宮のような場所だった。
王太子宮だと説明を受け、そのわりに内装が柔らかく女性的であるように思ったが、代々の王太子のその御生母様もある程度王太子が成長するまで共に暮らすこともあるからだという。王太子の宮はあくまで王太子が主だが、おそらく歴代の妃達が自分の居心地の良いように改修してきたのだろう。
「さぁ、琥珀の方様。お支度が整いましたわ」
「陛下も既にお待ちでいらっしゃいます」
「ダレ…オルテオ殿下を起こしに行かなければ」
「既にお部屋の外でお待ちでございますよ」
使用人達のレイディアへの態度も初めから、どこの馬の骨とも知れぬ筈のレイディアに対して下にも置かない対応をされた。乳母は幼い貴人を最も身近で世話をする筆頭として使用人としての位は相応に高く、女官長とほぼ同格だ。そのため、対応が丁寧となるのは分かるが、突然現れた相手に対しては恭しすぎる気もする。幼少のころから身近にいる存在は貴人に多大な影響を与えるため、人選は家柄は勿論人柄も非常に重視される。どこの誰とも知れぬ筈のレイディアが乳母役になったのはオズワルドが押し通した為だが、そもそもダレンがレイディアと出会うに至った経緯が王宮内の醜聞に繋がるため、城の者達もノックターンの誰とも繋がりのない者が選ばれたことに異論はなかったのか。
侍女らに問うても柔らかな笑みを浮かべられ、王太子様の乳母様で命の恩人でもございますから当然でございますと答えられた。乳母といえどもすでにダレンは離乳はとうに済ませている歳だし、王太子教育も専門の教師がそれぞれの科目に着く。通常の貴族の家では世話の一切を乳母一人で切り盛りすることもあるが、ここでは王太子の世話係はいくらでもいる。レイディアには、特段それらしい仕事など与えられていない。
「お母さん!」
「…おはようございます、殿下」
部屋を出るとすかさず外に待ち構えていたダレンに抱き着かれた。レイディアはダレンへの呼称を改め、彼への対応を変えた。昨夜、一緒に寝るつもりだったダレンを別室で寝かせるのは大分骨が折れた。ここは、休める場所が限られる村の家でも野営地でもないのだから、幼くとも王太子であるダレンと共寝ができるわけもない。
「ぼくね、あのね、ひとりでおきられたんだよ!」
「まあ、それはすごいですね。ご立派です」
「あのね、それでね…」
「殿下、申し訳ございません。朝餉のお時間にございますれば」
レイディアの後ろに控えていた女官長が遠慮がちに、しかしきっぱりとダレンに告げた。
「う…ん」
ダレンは不満そうにしながらもレイディアから離れ、代わりに手をつないだ。
「殿下、朝ご飯を食べながら、ゆっくりお話ししましょう」
「うん」
レイディアの取成しにダレンは元気よくうなづいた。
「おはよう、よく眠れたか」
「お蔭様で、過分なお部屋を賜り…改めて御礼申し上げます」
食事の間に入ると既にオズワルドが座っていた。食事の間は広さこそ目を見張るほどの広さではないが、二十人は座れる長い食卓に三人だけの食事が用意されている。王太子が成人し執政に関わるようになると客人を持て成すのに使用されることもあるのだろう。その食卓に、王の上座のすぐ横にレイディアとダレンの席が設けてあるため、残りの隙間が余計に広く見えた。
食事は柔らかな朝の光を浴びて和やかに進んだ。オズワルドはレイディアに不都合はないかと気にかけ、ダレンにも話しかけた。
「オルテオの勉強は三日後から開始するつもりだ。少しの間ここに慣れてから、信のおける者を教師としてつかせる」
「左様ですか。忙しくなりますね」
「それまで、オルテオ。しっかりと英気を養っておくように」
「…はい」
あれからきちんと我が子にも目を向ける努力をしてくれている。まだぎこちないが、お互いの歩み寄りが少しずつ進んでいるようだ。
一刻程かけて朝食を終えるとオズワルドは執務のため部屋を出ていった。レイディアもスープ一杯とパンひとつの朝食を飲み終えると自室に戻った。
「琥珀の方様。本日はどのように過ごされますか」
「宝石商が王太子の乳母様にお目通りの申請がございますが」
「布地の商人も…上質な絹を扱う商人で…」
レイディアが部屋に戻ると部屋に待機していた侍女達がレイディアに群がってきた。
王子の生還は、そもそも公にされていなかった為、世間に報じられることもなく、まして新しい乳母のことなど対外的に全く出ていないはずなのだが、情報というものはどこからでも伝播する。商人という情報が命の人間は、早速上客(見込み)に売り込みを開始したらしい。レイディアの素性が漏れたわけではないが、王太子が帰り、新しい乳母が付いたという情報が電光石火の速さで駆け巡ったという事実にレイディアは身震いした。
「…全て断ってください。私に宝石や絹など不要です。それに、当分王太子宮に人の出入りは制限されている筈ですよ」
一瞬、残念そうな顔をした侍女らだったが、その後に続いたレイディアの言葉にはっと顔が引き締まった。元々、王太子オルテオは母共々失踪し、殺されかけたところを助けられ、昨日帰ってきたばかりなのだ。そして犯人はいまだ判明していない。そんな中でたとえ懇意の商人であろうと王が選別した者以外の部外者と接触するのは不用心が過ぎる。ここに入る前に幾度も身体の検査をされ、不審な物を持ち込んでいないか調べられるが、それだって完全ではない。小銭を握らされて見逃す者などどこにでもいる。
「…リアンヌ女官長。商人をこの宮に決して近づけないように」
「はい、仰せのままに」
レイディアは朝から常に後ろに付き従っていた女官長のリアンヌに声をかけた。現在レイディアに付いている筆頭は女官長で彼女を含めた女官三人と、十人の侍女がレイディアに付けられている。それから侍従としてリシアスもいる。
なんでも王子の失踪に加担した者が王太子宮に多く紛れ込んでおり、それらを一斉に切ったため、再編成するまで信のおける者たちによって采配を振るわせる為の臨時の人事らしい。だから正確には、女官長とリシアスはレイディア付きではなく、王太子宮に所属している。外向きの対応は女官や侍従に、内向きは侍女に。ダレン個人につけられた者達と合わせるとそれなりの人数になる
「私は少しダレンと庭を歩きます。殿下の支度を」
レイディアの一言で侍女らは一礼していったん下り、ダレンとレイディアに上着を着せた。
レイディアはリアンヌだけを伴い、ダレンと手をつなぎゆっくりと庭を歩いた。レイディアは庭の東屋に腰をかけるとダレンはレイディアの手を放し、周囲の庭を走り回った。今日は侍女の言葉通り小春日和だが、風が吹くとやはり少し寒い。ダレンの鼻の上がかわいらしく赤く染まっている。
リアンヌ女官長は手際よく茶の用意を始めた。レイディアは静かにその様子を見て、何とはなしに景色に目を向けた。この国は、東や北ほど雪深くはないが、鳥も虫も殆どおらず、今の庭は静かで寂しくて、とても穏やかだった。
外の戦など、何もないかのように。
「この国は温暖ね」
「はい。巫女様のお国ではそれはもう美しい雪景色ですが、このような柔らかな冬模様も悪くはございませんでしょう?」
「リアンヌ女官長」
「はい、失礼しました、琥珀の方様」
ここに到着したとき、真っ先に紹介されたのがこのリアンヌ女官長だった。オズワルドと乳兄弟で、同い年だそうだ。つい三年前、オズワルドが王に戴冠するのと同時に女官長に就任したのだという。彼女は年若いが、既に女官長としての威厳を備えていた。
リアンヌ以上に信のおける女はいない、というオズワルドが言い、リアンヌだけはレイディアを紹介するときに正体を明かされた。初めはたいそう驚いた彼女だったが、決して他の者には他言無用、片時もレイディアの傍を離れるなという命令の元、リアンヌは王太子宮付きになった。リアンヌは最初こそ恐縮しきった様子だったが、あまりに畏まられて周囲に不審に思われると困ると言い、少なくとも表向きは相応の対応を取ってもらえるようになった。
「琥珀の方様、お茶が入りました」
茶の準備を整え、リアンヌはレイディアに茶器を差し出した。レイディアは茶器から漂う湯気を眺めながら、小さくぽつりと呟いた。
「………ここは、どなたも立ち入りができない庭だと伺いました」
「はい? ああ、ええ、勿論、見張りの者も庭の外に常駐させております」
レイディアは、ひとつ溜息をついた。
「では…どちら様ですか? 先ぶれは頂いておりませんけども」
レイディアは顔をあげ、目を右に向けた。リアンヌもつられてレイディアの視線の先を向けると、飛び上がらんばかりに驚いた。
「カサンドラ殿下!」
身なりの良い見知らぬ少女が草木の隙間からレイディア達を覗いていたのだった。
「お初お目にかかります。私は琥珀と呼ばれております、オルテオ殿下の乳母にございます」
東屋にもう一つ茶器が用意され、少女―カサンドラの前に差し出された。
「………」
しかし、カサンドラは目を伏せ手元から目を離さない。自らここに来た割に居心地が悪そうに気まずげだ。なかなか近づいてこない彼女にこの東屋の席につかせるのにも時間がかかった。仕方なく、リアンヌが彼女を紹介する。
「琥珀の方様。殿下はカサンドラ第一王女殿下であらせられ…王妃様の御子でございます」
年齢は十ほどだろうか。クレアと同年代だろう。ダレンはカサンドラが現れた瞬間、レイディアの元に戻り、レイディアの裾の影に隠れてしまった。
「……貴女が王子の乳母というのは伺ってるわ」
漸く口を開いたカサンドラは言った。カサンドラはダレンに目を向けた。
「…生きてたのね」
「………」
ダレンの裾を握る手に力がこもった。
「それにしてもカサンドラ殿下。このような場所に先ぶれもなくいらっしゃるのは、いささか礼を失していますわ。まして、王女おひとりとは王城内といえど、不用心です」
それきり口を閉ざしてしまったカサンドラを女官長は窘めた。
「知ってるわ。……でも、誰か侍女を連れていけば、お母様の耳に入るから」
「まあ…」
レイディアは何となくカサンドラの目的を察した。彼女はダレンに用があるのだ。
「ねえ、女官長。貴女も当然知っているでしょう。王子の誘拐に、お母様が…」
「殿下、いまここでそれを口にしてはいけませんわ」
レイディアがすかさずカサンドラの言葉の先を奪った。レイディアもノックターン王妃がダレンとその母親を攫って二人の殺害を実行したその真犯人はおそらく王妃であろうということは聞いている。しかし、証拠が現在挙がっていない今、それを口に出すのはたとえ親子といえど不敬罪にあたる。もし誰かがこの会話に聞き耳をたてて、その内容を周囲に漏らせば、おそらくカサンドラの未来は暗い。そもそもここにカサンドラがいること自体、露見すれば王妃に対する裏切りと取られかねないのだ。
逆を言えば、その危険をおかしてまでここに来る理由がある。
しかし、その理由は未だ明かそうとはしないので、こちらの懸念事項を訊ねることにした。
「殿下、ここへはどうやってお入りになりましたの」
「生垣の一つに、小さな穴があるのよ。大人は無理だけど、私なら入れる」
「……まあ」
「私はこの王城で生まれ育ったの。子供だけの抜け道なんていくらでもあるわ」
「………」
どうやら、今はしおらしくしているが、それなりにお転婆娘であるらしい。それはそれとして、レイディアは内心頭を抱えた。いかな子供でも厳重な警備をすり抜けてここまで来れてしまう道がある以上、その経路をつぶさなくてはならない。部外者は入れないと聞いてすぐに穴を発見するなど頭が痛い。レイディアはリアンヌに目を向けると承知しているとばかりに頷いた。考えることは同じらしい。暗殺者が小さな子供しか入れない隙間に入れてしまう者だって考えられる。クレアが良い例だ。凶手が大人だけとは限らない。
「それで、わざわざ人目を忍んでここまでお越しになられた理由をお聞きしましょう」
「………」
カサンドラは再び口を閉ざした。レイディアには焦らず、ゆっくりと茶で唇を湿らせながらカサンドラの言葉を待った。
「…………私、貴方が嫌いよ」
どれくらい待っただろうか。ようやっと開いた口から漏れ出たのは恨み言だった。その先はダレンに向けられている。
「女の私には手をかけても仕様がないとお母様は私をお責めになる。作法を勉強しても、刺繍を頑張っても…性別なんて、私にはどうしようもないのに」
彼女は堰を切ったように話し始めた。目を合わさないまま流れる言葉は、極力感情を乗せないようにして、けれど失敗していた。
「だから、私、貴方がいなくなったって聞いて、嬉しかった」
そして震える声が告げた。流石にカサンドラを諌めようとしたリアンヌをレイディアは止めた。
「―――でも、貴方が生きて戻ってくるって聞いて、ほっとしたの」
カサンドラはゆっくりとダレンから目を離し、すっかり冷めた茶を飲んだ。
「……」
ダレンはじっとカサンドラを見つめた。言われた意味が分かっているのかいないのか分からないがどこか神妙な顔をしていた。
「……私の努力が褒められないのは、すぐ目の前に王子がいたからって思ってた」
「………」
「でも、女であるのはどうしようもないし、王子がいてもいなくなってもお母様は私を認めないことがわかったから、ここに来たの。……ねえ、琥珀…の方様でよろしかったかしら」
「…ええ」
カサンドラはここで初めてレイディアと向き合った。
「私はお母様のことは好きではないけど、それでも王妃の娘だから、貴女達の味方はしてあげられない。でも、敵にはならないから」
カサンドラは王族の顔をしていた。
「それを言いたくて、皆に内緒でここまで来たの」
「それは…とても有難く存じますわ」
カサンドラは来た時とは裏腹に堂々とした佇まいで暇を告げた。
「気を付けて。お母様は女の嫌なところをぎゅっと詰めたような方だから」
去り際に、カサンドラは忠告をひとつ残していった。
「……琥珀の方様」
レイディアはカサンドラが去った後も、暫くそこから動かずにじっと考えていた。
「…リアンヌ女官長」
「はい」
「王妃陛下は、どのような方?」
「………僭越ながら、少々気のお強い方ですわ。王妃の地位を誇りに思っておられます」
それはつまり、暗に権力欲が多大にある女性ということか。
「聞くのは憚られるのだけど…王妃様が御生みになられたのはカサンドラ王女おひとり?」
「ええ。その……陛下のお気が合わないのか、カサンドラ王女をお生みになられて以降、お渡りもなく…」
なるほど。権力に執着心を持つ者にとって王子を生むことは最大の関心事項だ。しかし、生まれたのは王女で、第一王子を生んだのは自分ではなかった。しかもそれ以降王の寵を受けることなく…王子を生まないまま後宮で王の寵を失えば立場がなくなるのは王妃であっても例外ではない。さぞやダレン親子が邪魔だったであろう。
傍から見ればどこの国にもひとつやふたつありそうなどろどろ劇だ……。
カサンドラは年齢の割にはとても大人びていて、とても聡明だった。親として十分誇らしい筈だ。王妃はそれを目に写せないほどに他事に盲目的な女性。
真実言葉通りの人柄であるなら、きっと心を通わせることは難しいだろう。
…初めから、分かってはいたけれども。最後にもう一仕事をする必要がありそうだ。
「お寛ぎのところ申し訳ありません」
侍女のひとりがレイディア達の元までかけてきた。
「そろそろ昼餉の御時刻になります。それから陛下の先ぶれが参りまして、昼餉を共に、とのことでございます」
朝食を食べてからもうそれだけ時間が経ったのか。いつの間にか太陽は真上に上っていた。
「まあっ、琥珀の方様申し訳ありません。長く寒空の下におられて身体が冷え切ってしまいましたわ。さあ、お部屋に戻りましょう」
今後の対策を考えながら、リアンヌの先導に従い、レイディアは庭の東屋を後にした。
その夜。後宮の中で最も豪奢な部屋の一つで、陶器が割れる音が、響いた。