第六十七話
夜は既に更け、暗闇が支配する時間だというのに、そこは真昼のように明るい。
ノックターン王都の一角、ノックターンで最大規模を誇る歓楽街であるそこは、夜こそが本番である。今宵も一夜の快楽を求めて身分の無い者からやんごとなき血筋の者まで夕方から開かれる門扉をくぐり奥に消えてゆく。
表通りに面する店はどこも客引きの声が熱心だ。街に慣れている者達はなじみの店に迷いなく進み、初見客達は店を覗いて好みの娼を吟味する。
表通りに面する店の中からは男のだみ声や女の甲高い声などがまじりあい、享楽に耽る独特の空気がそこにはあった。
さらにその街の奥をいくと、一際賑わう店がある。そこは一見落ち着いた雰囲気の宿のようであるが、場所柄、高級娼館であることが推測できる豪奢な建物で、店の娼達の衣装も美しく品が良く、建物の外装も他とは群を抜いて贅のこらしたものだった。
その店の中は、外装に劣らず煌びやかでありながら品の良さも失わない。
だが、酒が入り、妖艶な踊りと妙なる音色が合わされば、そこが以下に高級店であっても、出し物が上等であるだけで、宴の様相は他の店とあまり変わらない。裕福な一般庶民の年収に値する金が一晩で飛んでいくお座敷で広げられる宴会には、立派な衣装を身に着け、恰幅のよい男性が上質な絨毯にどっかりと座り、両脇に一晩に金貨が飛んでゆくとびきり美しい娼婦達を侍らせて美酒と美女との機知に富んだ会話を楽しんでいた。
「今宵もようこそおいでくださいました、シリーグス卿」
「おお、店主か」
にこにこと愛想の良い男がで磨り膝で近寄ってきた。この男はこの店の店主で、この店を先代以上に盛り立てた手腕を持つ。なかなかの目利きで、シリーグス卿にとって有益な情報をもたらすことも少なくない。シリーグスにとってこの店『白桃楼』は、最高の酒と女、そして有益な情報源として贔屓にしていた。
いつもはシリーグスの方から声をかけない限り決して宴の邪魔はしない男がわざわざこうして近づいてくるのは、有益な情報をシリーグスの耳にいれるためか、新しい女の紹介くらいだ。どうやら今夜は後者らしく、店主の後ろにはヴェールを深く被った女が控えていた。歓楽街一帯のしきたりで、初めて店にでる娼婦は、披露する時までヴェールを被り、そのヴェールをとり始めて正式な店の商品としての披露目をするのである。その日ばかりはその新人が主役となり、これから売れっ子になれるかどうかがその日に品定めされる。ヴェールをとる役が大物であればあるほど箔がつき、今後その娼婦には上流の客がつきやすくなる為、その役は大役である。たいていが、社会的地位のある、またその店に大金を落としてくれる常連客がなることが多い。実際、この店の高級娼婦と呼ばれる何人かは、シリーグスの手により、披露目を果たしている。
おおよその予想をたて、店主の後ろの女から目をそらさず、説明を求めた。
「お察しのとおり、今度新しく店に入る者に目通りを賜りたく…これ、ご挨拶なさい」
店主に促され、女が物音ひとつたてずにすべるようにシリーグスの前に出てきた。
「名は」
「初めて御意を得ます。ユンケと申します」
軽やかな声で答えが返る。
ふむ、声は悪くない。
娼妓には、容姿や芸は勿論、声の質も重要だ。歌唱力や声量は練習で鍛えられるが、声の質だけは本人の持った資質だ。顔はまだ見ることは許されないしきたりのため、シリーグスは顔を見ることは叶わないが、声の質からなかなか有望な新人ではないだろうか、と期待を高めた。
「初出で七日後を予定しております。ぜひ卿にヴェール外しの大役を担っていただきたく、こうして参上させていただきました」
店主がやわらかい笑みを浮かべながら説明する。そもそも店主がシリーグスに大役を依頼するのは、店主自身がこの新人に期待を寄せているからに他ならず、容姿も芸妓も他の娼よりも抜きん出ている証でもある。
「ふむ。良かろう。七日後だな」
「ありがとう存じます、卿。……今後とも、どうぞよしなに」
シリーグスは好色に目が眩み気づかなかったが、女はヴェールの奥で片方だけ唇をあげ、艶やかに笑った。
レイディアは戦場で歌った後、ダレンの待つ天幕に戻り天幕で待っていたダレンと共に夕食をとった。食事の内容は外の兵士が食べる野戦料理ではなく、きちんと調理されたものだ。まだ幼い王子に粗末なものは食べさせられないとの判断かは分からないが、オズワルドも同じような食事のようだ。レイディアも有難くおこぼれに預かっている。物資がすぐに手に入らない中で、きちんとした料理が出されることが如何に贅沢で有難いことか、レイディアはきちんと理解していた。野戦料理は食したことはないが、ギルベルトや蔭達から伺うにあまり美味とは言えないらしく、好き嫌いはあまりないが案外舌の肥えているエリカにも食べたくないと言わしめる野戦料理に少し興味は湧けど、積極的に食べたいとは思えなかったからだ。
「お母さん、こぉれ」
レイディアの隣に座るダレンがレイディアにパンを差し出してきた。最近ダレンはレイディアに給仕めいたことをしてくるようになった。リシアスの真似らしい。彼がレイディアに茶などを給仕する姿は確かに貴族然として優雅で真似をしたくなる子供心も分かる。恐らくあまり食事をとらないレイディアにもっと食べてもらうため、ダレンなりに考えた結果らしい。レイディアが受け取ると心なしか嬉しげだ。
「ありがとう、ダレン」
ここ最近食欲のないレイディアも、ダレンに勧められれば断りにくい。受け取ったパンを小さくちぎり、一口ずつ消費していく。
レイディアは、スープとパンひとつほどしか食さないことが殆どだ。あまりに少ない食事量に、初めは遠慮しているのか、それとも口に合わないのかと思ったが、一度無理にでも食べさせようと肉料理や魚料理を大量にレイディアの前に並ばせたが、大量に食べると―といってもリシアスにしてみれば腹の足しにもならない量だが―目に見えて彼女の顔色が変わってしまったのを見て、レイディアがただ小食なのだと結論付けた。オズワルドもその拒食ぶりに眉を潜め、なんとしたものかと考え込んでいたが、思わぬ形で一応の解決を見た。ダレンが積極的にレイディアに食べ物を運ぶようになり、レイディアもつられて少し食べるようになったのだ。スープを具だくさんにしてみたり、パンに栄養価の高い乾燥果物を練りこんでみたりと努力も相まって、レイディアの食事量は僅かだが増し、リシアスはほっとしたものだ。何気ない二人のやり取りも、見る者を和ませる。傍で仲睦まじい二人の様子をじっと観察していたリシアスも目を細めるほどだ。
二人は血のつながりはなくとも確かに母子だった。
二人のゆっくりとした食事は終わっても、オズワルドは天幕に顔を出すことはなかった。
捕らえた敵の尋問が長引いているのだろうか。
「………」
天幕に少し隙間を覗かせて夜空をダレンと眺めながら昼間の襲撃を思い出す。襲撃者たちは薄汚れてはいたが恐らく皆若い。中にはレイディアよりも若い者さえもいたように思う。決死の覚悟で臨んだのだろうが、彼らのことは恐らくオズワルドは死なせない。自決もさせない。大事な取引材料だからだ。
初めからその部族を皆殺しにする予定なら必要ない。皆殺しというのは、短絡的で、手っ取り早く敵を取り除けると思われがちだが、実際とても手間がかかるものだし、もし一人でも生き残りを残しえしまえば、後々大きな恨みの代償として自分やその子孫達に降りかかる。ならば、必要以上の禍根を残さずに初めから生きて返すことを前提に話を進める。その点でいえば、彼らの身の保障は心配していない。
リシアスに淹れてもらった暖かい茶を手に、時々見回りの兵がレイディア達の近辺を通りすぎる以外に邪魔されることなく静かな夜を過ごしていると、唐突に身体に腕を回された。
身を強張らせたのは一瞬で、すぐに腕の持ち主に察しがついた。気配もなくレイディアに近づけて、かつ、天幕の出入り口に立つ兵に何の咎もなく入れるものはオズワルドだけだ。
「夕食は済んだか」
「はい」
オズワルドはレイディアの手にある茶器を取り上げるといっそう自分に引き寄せた。以前のことがあってから、オズワルドは直にレイディアには触れない。その代わり、こうして服越しに触れられることが多くなった、気がする。
レイディアは体の前でダレンを抱いていたので、ダレンごと天幕の中に引き込まれ、まったりとレイディアと星を眺めていたダレンは突然の横槍に不満そうに鼻を鳴らした。
ああ、折角今まで上機嫌でいてくれたのに…これでは暫く機嫌を損ねて大人しく寝かしつけられてくれないかもしれない。
「そちらも、恙無く終えられたようで」
「ああ、まあな」
彼から血の臭いはせず、石鹸の香りがする。軽く身を清めてきたらしい。今は鎧ではなく、簡易な服を身に着けている。確認するレイディアに気づいたのかオズワルドは耳をくすぐるように笑った。
「巫女様の前に、血みどろで出るわけにはいかないだろう?」
「幼い息子へもその気遣いがほしいものです」
眠る前のダレンの機嫌を損ねる真似をするなといいたい。オズワルドはレイディアに遠慮はしてもダレンには全く気を遣うことがない。尤も、王で父である彼にしてみれば、王子で息子であるダレンは気を遣うに値しないのかもしれないが。
「安心しろ。交渉は上手くまとまった。多少事務処理をして、残りは後任に任せて、三日後には帰路につける」
「…そうですか」
例えば着る物。レイディアが身に着けているのは厚手の暖かい衣服で、富裕層の一般市民が身につける上等なものだ。これは女手がない中、一人で着替えをしなければならないレイディアにとって最適のものだが、良くぞ行軍中にすばやくこれを手配できたと思う。思うが、初めオズワルドはそれこそ手伝いが必要な貴族の令嬢の冬の衣装を揃えようとしていたらしい。後にオズワルドから詫びらしきことを言われ発覚。リシアスが説得してくれたらしい。仮にも行軍中で、レイディア自身は戦場に立たないので衣装などどうでもよいが、それはつまり何も役に立たないお荷物状態であり、王子であるダレンとは違ってノックターン軍にとって守るべき者でもない。あくまでオズワルドの命令でダレンと一緒に護衛しているだけだ。たかが着替えに人手を割かせる訳には行かない。
「お食事は」
「ああ、まだだ。交渉は今終わったばかりだからな」
「では、リシアス。軽食をお持ちいただけますか」
「は、すぐに」
天幕に入り口付近に控えていたリシアスが天幕を出ていくのを見送る。
これもリシアスから聞いたが、オズワルドはレイディアの身の回りの品を自身で選び吟味しているらしい。軍の総大将がそんなことをしている暇はあるはずがないのだが…ちなみにダレンの身の回りはリシアスなど周囲の側近達が担っている。
それもこれもオズワルドがレイディアの正体を知っているからだろう。今はまだレイディアの素性を他の者に知られるわけにはいかないが、やはり、親アルフェッラ国であった国の王として思うところがあるのかもしれない。そう思い、オズワルドが成す事に必要以上に口を出さないでいるが、実はオズワルドからレイディアの意見を求めてくることがある。
食材は何が好きだ。味付けは。好きな色は。柄は。型は。今の衣装で寒くはないか。不満はないか。周囲の者達が粗相をしたりしていないか。
何気ない会話の中にさりげなく織り込まれる探りに、ささやかである故にレイディアは気づいてはいないが、確実にレイディアの意見を取り入れている。レイディアに食事も衣服も人も好き嫌いは特にないが、ちらりと溢したりすれば確実に取り除かれるだろうくらいには、オズワルドはレイディアの意思を尊重していた。
レイディアは、基本的にオズワルドの好きにさせている。だからオズワルドのあれこれに気づいていないのだが、気づいていてもやはり何も言わないだろう。許容しているわけではなく、ソネットの教示による行動の選択だ。
以前、ソネットから男心について教わったのだ。
曰く、基本的に男は釣った魚には餌をやらない、と。
あれこれ反発すれば、男は意地になるが、男の成すがままだと、その内飽きる生き物だと。
―女に従順を求めながら同時に刺激を求める我侭な生き物なのよ、男って。
ま、それを利用して男に取り入るのが私らの仕事の内でもあるんだけどね、とソネットが悪戯な顔をして締めくくった。ソネットから教わったレイディアは早速その日の内にギルベルトに実行した。したら、むしろ悪化した。ついにギルベルトに懐いてくれたのかと無駄に前向きに捉えられたのだ。
恨めしげにソネットを見たとき、ソネットは悪びれずに言った。
―言ったでしょ。基本的に、よ。基本的に。心底想っている相手には、どっちだろうと変わんないわ。相手にあれこれ要求するのは、そうしてくれないと相手のことを好きになれないから。一緒にいたいと思えないから。
真実愛している人に対しては、そこにいてくれるだけで満たされるから、相手がどう振舞おうが関係ないの、と酷くうっとりとしてそんなことを言われ、脱力したのは苦い思い出だ。そんなレイディアにソネットは笑いながら続けた。
―ディーアちゃん、世の恋人同士の八割がそんなものよ。性格、経済力、貞操観念、家柄…。結局、目に見える形でしか自分の好みかどうか分からないからね。なるべく自分の希望に沿う恋人を探すわけ。自分が気に入った部分がなくなってしまったら、その人へも好意も失せる。だから出会いと別れを繰り返すのよ。感覚で、この人が好きだ、と思えば、そんな付属品、どうでもよくなるもの。でも、そんな人、滅多に出会えない。さらに、そんな人が同時に自分を好いてくれるとも限らない。だからこそ、とても貴重なものなのよ。
ソネットの話はレイディアの常識を覆すほどに驚きに満ちたものだった。
レイディアはどこか嫁入りする娘ではなかった。逆なのだ。各国から寄越される夫達を迎え入れる側として教育されてきた。夫一人一人をなるべく平等に接することを義務付けられ、好いた好かない、飽いた飽かない、の話ではないのだ。
世の男女はそんな風に出会いと別れを、恋愛を自由に謳歌しているのかと驚きとともに感じたのは…はっきりとした羨望だった。
レイディアは許されなかったそれ。誰もが皆を愛すように諭してくるくせに、一人を特別に愛することを禁じられていた。それなのに、少しでも自分だけは巫女の特別になろうとする周囲のなんと矛盾したことか。
彼とだって…
レイディアははっとして開きそうになった記憶の蓋を静かに閉めた。
…ともあれ、もともと自由恋愛とは対極の中で育ったレイディアには衝撃的だった。王侯貴族の政略結婚の方がまだ現実的だった。その彼らも感情で好悪をはっきりとさせ、しばしば本妻や夫以外の者達との逢瀬を楽しむのだとか。相手につれなくするのも、駆け引きだとか。釣った魚云々はかなり身分に限らず男性の多くに当てはまるのだろう。レイディアはそう学んだ。
ただ、ひとつレイディアが勘違いしているのは、ソネットは話はあくまで一般的な男女における恋愛事情だ。レイディアに限っていえば、あまり参考にならないだろう。何故ならレイディアはただ一人の巫女で、神の恩恵を持つ。彼女の素性を知り、彼女を得ようとしているとなれば、多少レイディアの態度が素っ気なかろうが頓着するはずもない。ソネットの講座はレイディアに“一般的な常識”を教えるためのもので、レイディアに実践させるためではなかった。
確かに何事にも基本はあれど、男女の色恋事情は千差万別である。レイディアにも、ひとつの事情がある。
レイディア、というより、過去“みこ”に対して、時の権力者達は執着した。それが正当な血筋であればあるほど、全うな執政者であるほど、それは顕著だった。何人も。何人も。
ここ数十年は侵略はなかったが、過去の記録を見ると、“みこ”の手を伸ばした者達は、“みこ”を手に入れんとし、“みこ”を攫い実際に自身の国に連れ帰ることが叶った者もいたという。そこまでは、ギルベルトも同じだ。
だが、そこからが真の試練が始まる。
…だんだんと、変わっていくのだという。
ある者は、“みこ”の言葉しか聞き入れなくなり、ある者は、“みこ”の望みをかなえるためだけに国を動かし、ある者は“みこ”を誰にも見せないために王城よりも豪奢な離宮を建て…
金銀宝石を“みこ”に差し出したり、自分を夫にと王自ら求婚にくるのはまだ易しいほうで、だんだん、民を思い、国を思い、未来を見据えていた者達が、それらのものを投げ打って“みこ”が彼らの中心となる。
彼らが国の執政者であるから、その下に住まう者達は当然混乱する。そして“みこ”に執着した者達は、国を傾け、過たず破滅していった。
そして捕らわれていた“みこ”達はアルフェッラの手の者達によってアルフェッラに戻されている。途中で命を落とした者は誰もいない。…いるはずもないのだが。
真実“みこ”を手に入れたいと望むならば、“みこ”に惑うことなく、国を良く治め、いずれは大陸をめぐる争いに勝利しなければならない。
“みこ”は、覇王のものだから。
覇王でない者のものには“みこ”はならない。
覇王になれなければ、いつか、必ず手をすり抜けていく。過去に巫女を欲した者達はその失う恐怖に狂っていく。記録にあるあの愚者に成り果てた者達は、皆、国を乱したくて乱したのではない。とても大きな覇道の壁に、敗れてしまっただけだ。
レイディアはそんな者達を哀れに思う。フロークフォンドゥの犠牲者達だ。歴代の“みこ”達もそれを分かっている。分かっているから誰も恨まない。当事者でありがなら静観するしかできない我が身を呪う。
これは何なのだろう。フロークフォンドゥの願いが歪んだ所為なのか。覇王の元に帰りたいと泣く彼女が覇王となり得る有望な者達をひきつけるのだろうか。そうして、無謀な試練を与えて潰すのか。今もそして過去の“みこ”達もそれを止められない。止める術がないのだ。
既に彼女が欲する覇王は過去の人だから。私達は無意味に血の鎖を紡ぎ続ける。どれだけ待っても彼女が望んだ人はいないと分かっていても。
意味はないのに、止まらない。止まらないが周囲がそれを欲する。
そうして歯車は回る。
レイディアは自分を離さないまま軽食をつまむオズワルドを見た。目の前のオズワルドもまた無関係ではいられない。彼もまた、レイディアをやたらと構いたがり、上質の物を与えようとするが、あまり良くない傾向かもしれない。しかもレイディアはオズワルドの実子である子の養母の真似をしている。
これ以上、こちら側に踏み込ませてはならない。今ならまだきっと間に合う。オズワルドはこのままいけば無難に賢王となれるかもしれない。いや、なってもらわねば、ダレンの将来に影響してしまう。ギルベルトのように、好き好んで覇道に進む必要はない。また、進ませたくない。
ギルベルトはまさに試練の真っ只中といえるだろう。アルフェッラを倒し、“みこ”を手に入れ、戦に明け暮れ、着実に領土を広げている。今後、その治世を持続そして発展させていけたら、その先にあるのは覇王の座。
ギルベルトは巫女の恩恵に固執していないし、何が何でもレイディアの希望をかなえようとはしない。触れ合いたがるのは少々難儀するが、しっかり自分を持ち続けている。けれど、最後までそうとは限らない。
ギルベルトに対しては四年間共に暮らした情がある。狂っていく彼を見たくない。だから…だから?
レイディアは自嘲した。
結局私は、信じられなかっただけ。あの騒がしくも暖かいバルデロでの日々が壊れるのを目にしたくないだけ。
あの祭りの夜、ギルベルトに抱かれながら彼の瞳に狂気を垣間見た時の恐怖が、レイディアを臆病にさせる。
そして、レイディアがギルベルトの元から離れた今、ギルベルトがたとえ将来覇王となり、”みこ“がギルベルトの元に戻ったとしても、“私”はもういない。
“みこ”はいても、“私”は、もういないのだ。
レイディアは溜め息を吐いた。
弱気になってはだめだ。最期まで。……ああ、でも、とても…心が軽い。
それはレイディアにとって、少しの寂しさと、確かな安堵をもたらすのだった。