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鈴の音の子守唄  作者: トトコ
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第六十六話

「…ムーラン様…使用人の区域にお妃様ともあろう方がいらっしゃるものではありませぬと、何度おっしゃれば分かっていただけますの?」

フォーリー女官長は、先触れもなく現れたムーランを諌めた。このやり取りは何度もなされたのだろうと察せられる。フォーリーの声音はムーランを諌めながらも諦めも含んでいた。侍女が知らぬ間にいつフォーリー女官長の元に通っていたのか。ムーランは明らかに歓迎されていない雰囲気にも意に介さず懐から小さな巾着袋を取り出し、フォーリーに手渡した。

「女官長、五日分のお薬ですわ。ご自愛下さいませ」

「…ムーラン様。ムーラン様のお気遣いは大変有難いのですが、せめてこういったことはそこの侍女にでも任せなさいませ」

「あら、女官長の元へおでかけすることは私の楽しみのひとつですわ。楽しみを奪わないで下さいな」

ころころと機嫌が良さげなムーランの笑い声に、侍女はおや、と思った。“ムーランにとっての”面白いことを考えている時分の笑みではなく、純粋に笑っている。その笑声を、侍女は聞いたことがなかった。彼の方と過ごす時以外は。

「…全く。ムーラン様は変わった方ですね。使用人の棟など面白くもなんともないでしょうに」

「いいえ、女官長。とても興味深いと思っておりますわ。…とても」

常に微笑みを絶やさないムーランであるが、機嫌の良い笑みというのは実は貴重だ。かつてはムーランが微笑んでいるのをいいことに、ぺらぺらと好き勝手にしゃべり、ムーランが何も言わないのをいいことに、思うまま好き勝手に行動し、そしていつの間にか後宮から消える者が後を絶たなかったものだ。


フォーリーは苦言にも全く気にした風のないムーランにすっかり諦め、目を閉じ深い溜息をついた。すると身体がぐっと重くなった気がした。

ここのところずっと休まる時がない。疲労が蓄積し、一晩眠っても疲れが取れない。それが最も精力的に動けていた、かつての自分から体力の衰えた今を否が応でも自覚させる。しかも当時よりはるかにバルデロ国は大きくなり、それと共にフォーリーの責任はずっと重くなっている。レイディアが来る前より世話をする妃の総数は減ったが、妃一人あたりにつく人員は増え、他国へ豊かさを示すために王城も庭園も規模を拡張し、華美な区画を増やした為、女官の数を増やさなければならなくなったた為だ。それらの監督は全て女官長と侍従長といった上級使用人、そしてレイディアの役割となる。とはいえ、公表していないとはいえ正妃であるレイディアの意向が強く反映されるものの、城の管理くらいなら女官長達でどうにでもなる。

だが問題は、それが管理対象が人―つまり後宮の側妃となるとそうもいかなくなることだ。

彼女達はどんどん減っていく後宮の妃達の中で残った粒ぞろいの者達だが、その分アクも強い。その彼女達の仲を裏側でうまく取り持っていたレイディアがいなくなったことで後宮がうまく回らなくなっている。女官長は側妃達の生活を不自由させないために動くことはできても、感情まではいなせない。それは彼女達を正確に理解し、かつ悪い面さえも愛でていたらしいレイディアでなければ不可能な部分だ。

今は彼女達の仲がぎくしゃくしているだけで済んでいるが、仲たがいが決定的なものになれば、貴族間の争いが表面化する。側妃の実家はどれも大きな影響力を持つ貴族ばかり。当然王もその争いを無視できなくなる。文武共に掌握しているギルベルトといえども、展開次第ではどうなるか分からない。

…頭が痛い。

「いつも置いてくる侍女を今日伴ってきたのは、女官長に相談事があるからですの」

ムーランの切り出しに、フォーリーはまだ彼女達が帰っていないことに気付いた。いつもならムーランは薬を持ってきた後、二、三言ほど言葉を交わしてすんなり帰っていくのに。

そういえば、ムーランは未だ妃同士の争いに入っていない唯一の妃であったな、とフォーリーは何となく思った。年長者故の落ち着きと、生来の思慮深さが争いから一歩引いた態度をとれるのだろう。そこだけはムーランを称賛したい。…意外な行動力があるところは遺憾ともしがたいが。

「相談…ですか?」

「はい。実は私、近々お褥すべりを、と考えておりますの」

さらりと告げられた相談事にフォーリーだけでなく、侍女もぎょっとした。

お褥すべり。それはつまり、高貴な身分の女性が子を成せないままであっても、子を産む責任から解放される代わりにその地位から退くことである。たいていは、三十代に差し掛かるころからそのことは視野に入ってくるが、本人の希望によっては早い時期にお褥すべりを申し入れることもある。子を産める歳ぎりぎりまで粘っていると、誰とも子を成せる可能性がなくなるからだ。

たとえ後宮帰りといえども子を産めない歳の女にはまずまともな縁談はこない。あったとしても既に後継者がいる家の後妻か、老人の後沿いぐらいである。そういえばムーランは確か二十代後半の筈。確かに早すぎるということはない。だが…

「そのような重要なことを……私めにどんなご相談でしょう?」

お褥すべりをしたいというなら止めはしない。どうせギルベルトにはレイディア意外に自分の子を産ませる気はないのを知っているからだ。それでいえば他の妃達もまだ若く美しい内に下賜という形で優良な家に嫁ぎなおさせた方が、本人たちにも良いのだが、勿論そんなことは誰にも言えないことである。

「ええ、貴女にしか出来ない相談ですもの」

ムーランがおっとりと答える。ムーランがそう言うのならお褥すべりに関して女官長が関わっているのだろう。

何だろうか。新しい嫁ぎ先の斡旋? いや、女官長などより王に相談した方がより良い縁組がある筈だ。

引き抜きたい女官がいる? いや、それは女官本人の意志であり、女官長が命じることではない。

では…

「ええ、私、晴れてお褥すべりが叶ったあかつきに、欲しいものがあるのです」

ムーランはまっすぐにフォーリーを見た。いつになく真剣な表情だった。


「私、貴女のいる地位が欲しいのです。『女官長』という地位が」







日が沈んで空が赤黒くなる頃、レイディアはひとり昼間戦場となっていた草原に足を運んだ。…ひとり、とはいえ当然リシアスをはじめとするレイディアの護衛という名の監視員がぞろぞろと多数ついているが。レイディアは戦場があったその場の中央まで行くことは許可されなかったため、戦場であった草原の手前に立っていた。

「何故このような場所に…残党が出ないとも限りませんし、昼間の痕跡が残った状態です。女性が見ても何も面白いものなど何もありませんのに…」

リシアスがあからさまに帰りたそうに声をかけてくる。彼らは口には出さないまでもレイディアの行動を訝しんでいる。何か目的があるのか。それが脱走など、彼らの手を煩わせる目的であるなら油断はできない。そんな思いが透けて見える。

ダレンは万が一に備えて置いてきた。ダレンは未だに傍に人肌がなければ不安で泣き出してしまうが、いつまでもそうしていられない。ダレンも共にここに連れてきても何ら不都合はないが、丁度いい機会だったのでレイディアがいない状況に慣れさせるため、この時ばかりはレイディアはダレンの我儘を頑として受け入れなかった。ダレンはびっくりしながらも渋々とほんの少しの間ならと了解した。


片時も離れなかったダレンを置いてここまで来たのには当然理由がある。

レイディアは空を見上げた。草原に散る血を吸ったかのような真っ赤な空の縁。そして上を見上げるほどに藍色の深い深い夜。もうじき藍色全てが戦場を覆う。

逢魔時。

今の時間帯をそう呼ぶ。最も禍々しく、魑魅魍魎が跋扈する時間帯と信じられている。それが真実だというのなら、血で穢れたこの地ほど魑魅魍魎がうごめくに相応しい場所はないだろう。

だが、今この戦場は邪悪な気配もなくしんとしている。ただただ、戦が終わった後の静けさと、侘しさが佇んでいるだけだ。

人は人の死んだ地を恐れるようだが、最も恐ろしいのはこの場を作り出した生きたヒトだ。

この地で命を散らした者達は、魂だけの存在になって呪いを振りまきはしない。他者を害しはしない。ここで時を止める。永遠に。

ただ、それだけ。

レイディアはすぅと息を吸い、高らかに唄い始めた。


〈彼の戦士は勇ましく 槍の降る草原を駆け抜ける


 彼の戦士は愛情深く 故国に残した人の為 軋む身体に鞭打ち剣を振るう


 彼の戦士は強かで 迫りくる敵陣を軽やかに翻弄する


 彼の戦士は鮮やかに散る 数多の戦士の記憶に遺し


 彼の戦士は今も駆ける 敵陣の中を吹き抜ける風の中で〉


以前、ゼロがエリックの墓の前で唄ってくれた唄。ほんの数か月程前のことなのに、遠い昔のように感じてしまう。自身が唄うのは初めてだが、歌詞は不思議と身に馴染む。

もういない戦士の為の唄は、これまで彼らを偲ぶ者達によって何百何千と紡がれてきた。

何度も何度も。

だが、戦士を送る者達は戦場に足を運ぶことはできない。そこまで行く労力がないからだ。その労力はこれからを生きてゆく力に充てられる。レイディアにとって正式な葬送の儀は舞を舞ってそこに唄を乗せることだが、今この場では、市井の者達が唄う唄で送る方が相応しいと感じた。

葬送の唄を唄い終えたレイディアは、その余韻を残し、ゆっくりと口を閉じた。

「………」

小さく息を吐く。微かに煙る息がレイディアの唇から洩れた。さて、戻ろうかと踵を返すと、後ろに控えていたリシアス達が呆然としてレイディアを見つめていた。

「どうしました? 戻りましょう」

レイディアが歩き出すと、彼らははっとして何かを取り繕うようにレイディアの後に続く。リシアスは先程の文句たらたらな表情から一変して神妙な顔つきになっていた。少しの間皆黙ったまま帰路を歩いていたが、リシアスが護衛達を代表するように口を開いた。

「…先ほどの唄ですが」

「…はい」

「何故、我が国と関係のない貴女が唄って下さったのか…いえ、わたしが言いたいのはそんなことではなく…」

「……」

「とても素晴らしかったです。言葉ではうまく言えませんが…胸が震えるような、惹き付けられるような…」

まだ唄の余韻から抜け切れていないのか、リシアスはどこかぼんやりとしている。今敵方に襲われたら咄嗟に応対できるか疑問に思う程だ。

「死者に国籍は関係ありません」

レイディアは足を止め、リシアスと向き合った。

「リシアス様。私の唄で貴方が感銘を受けられたのは、きっと私が純粋に戦場で散っていった魂を想って唄ったからです」

「フローク殿…」

「死者に敵も味方もありません。あの地に散っていた者達には全て誰かと繋がりがある者ばかり。そしてその誰か達は、帰ってこない身内や友人、恋人を想い、あの唄を唄うのです。その者達の唄も、きっと心を震わせる音となるでしょう」

いや、送る者が明確な彼らの方が、彼らの人柄を思い出し、彼らとの思い出を偲び、腹の底から湧き出る悲哀を以て唄うだけ、レイディアの唄よりもよほど心に訴えかける筈だ。

唄は想いそのものだ。何かを想って唄えば唄う程に言霊は力となり、人の耳から心に届く。声が良いだとか、歌唱力があるだとかは関係がないのだ。レイディアは兵の一人一人の顔も名前も何も知らない。ただ、この地で今日、生の歩みを終えたことを知っているだけ。ダレンの母親が願った時のような強制力は決してないが、巫女に送って欲しいと(こいねが)う小さな小さな声にレイディアが応えただけの話だ。

小さな懇願だ。レイディアがその気にならなければ突っぱねることだってできるくらいに小さな願い。だけどレイディアは応えた。単純に巫女としての性分、といったところか。

ギルベルトの元にいた頃はそんな小さな願いはレイディアに届きもしなかった。何故なら鈴が、ギルベルトを主と認めていたからだ。

“みこ”は、全て覇王の物。覇王がいるうちは、その他の願いは全て却下されるのだから。


「……そうですか。…そうですね」

「………」

知らず、物思いにふけりそうになったレイディアの耳に、リシアスの声が滑り込み、はっとなった。

「それでも、あれだけ綺麗な唄声は初めて聴きました。何というのでしょうか。無心というか余計な思念が一切ない、まるで清水のような…」

「…ありがとうございます」

「私は拝聴したことがありませんが、まるで彼の巫女様の歌舞のような神聖さを感じました」

「………」

「言い過ぎかと思うかもしれませんが、それだけ、濁りのない唄でした」

リシアスは貴族なだけあって唄でも芸術品でも美しいものを鑑賞する素養があるのだろう。手放しの賛美にレイディアが照れたと思ったのか、称賛もほどほどにして口を閉じてくれたが、先程までの一歩引いた対応から幾分角が取れてレイディアに対して柔らかい対応になった。

リシアスの心変わりは予想外だが、僅かな期間とはいえ共に過ごす相手にいつまでも固い態度でいられるよりはずっといい。

棚からなんとやら…


心なしか、草原に吹く風も柔らかくなった気がした。






クレアは以前から引き続き、ズーマ国にいた。以前いた街からは移動して王都に移動しているのだが、中々いかんせん自由に動けなくなってきていた。クレア一行を狙う刺客が現れ始めたからだ。

あちこち移動して体力を消耗すれば、もしレイディアがクレアと全く真逆の方向にいた場合、すぐに駆けつけられなくなる。だから、訪れる各地でじっくり情報収集し、レイディアの気配を見逃さないように動くと、どうしても移動速度は遅くなる。

となると、出てくる問題として、邪魔者の存在だ。

例えばアルフェッラ。

レイディアの兄であり、現在アルフェッラの代表を務めるユリウス。

ギルベルトの元を飛び立ち、広い大陸に出て行ってしまった妹を、ユリウスは己の手元に取り返したい筈だ。ギルベルト達よりも、早く。

それは全くギルベルト側も同じ。つまり、お互いが邪魔なのだ。さらにお互い相手の戦力を削りたいことから、ギルベルトが従えている蔭達とアルフェッラ、というより、ユリウスの精鋭である御庭番達が時折衝突する。刺客を放ったり、出向いた先でばったり出くわしたり、自主的にけしかけに行ったりと、まあ経緯はそれぞれだが。クレアの場合は、あちらの陣営には蔭の中でも主要戦力とみなされ、しかも、他の蔭と行動を共にしている訳でもなく、どころかただの一般人を伴いながらであるので、消すには好機とばかりに随時狙われている。

そう、今だって…。

「…まあ、暇つぶしにはちょうどいいけどな…」

旅装をしながらも可愛らしい恰好をした少女が呟く。呟いた内容は可愛くはないが。

「お前ら下っ端だろ? いい加減、俺とまともに相手をしたいなら、それなりの奴をよこせよ」

足元に倒れ伏す相手方を睥睨する。相手はクレアを憎々しげに見上げた。

「…くそガキがっ」

「そのガキにやられたお前は何なんだよ」

クレアは鼻で笑った。この相手はこれまでで三件目。狙われているといっても、仕向けられる相手はいつも下っ端。相手が本気でないのが伺える。

大よそ予想はつく。クレアを消すことが叶えば相手の戦力を削れるが、遠方までたかが一人を消すために精鋭を寄越す労力は割けられないのだろう。相手の本命はレイディアで、彼女を保護することを最大で最優先の事案としているからだ。クレアを消せれば良し、そうでなければ、クレアを戦場から遠ざける。いくらクレアが戦闘力があるとはいえ、実際に武力を振るえる場にいなければ意味がない。以前、収穫祭の祭りの後、クレアを襲いまんまと控室から遠ざけて戦力外にさせられたのは苦い思い出だ。

「ま、精々ご主人様のご機嫌を損ねない言い訳でも考えながら帰るんだな」

「殺さないのか…? 随分甘ったれてんだな」

未だに立てない相手がクレアの甘さを嗤う。それを踵を返しかけたクレアは再度相手を振り返り、嗤い返した。

「…レイディア様に、感謝するんだな」




「クレアッ、何処に行っていたんだ。心配したんだぞ」

帰るなりベルに駆け寄られ、怪我をしていないか確認される。以前、他の刺客とやりあった際に腕に一閃切りつけられてしまった。怪我をそうと気付かれずに庇いながら動くことは可能なのだが、意外に目ざといベルには気付かれてしまい、相当問い詰められた。その際はうっかり路地裏に迷い込んでしまい、性質の悪い酔っ払いに絡まれてしまったからだと言い訳を立てたが、二度と危ない場所には近づかないと約束させられ、もうその言い訳は二度と使えなくなった。

ベルは良いやつだ。良いやつ過ぎて、過保護に心配される経験が乏しいクレアには少々鬱陶しい。蔭の任務に怪我はつきもので、いちいち心配されない。レイディアは、常にクレアを気にかけてくれていたが、そもそもレイディアの直属であるクレアには危険な任務は任されたことはないから怪我の心配はない。レイディアがギルベルトに掛け合い、通常はレイディアの護衛、後宮の監視に従事していたからだ。小さな御遣いにもレイディアはクレアをいっぱい褒めてくれる。それがこそばゆく、嬉しくて嬉しくて……

クレアはレイディアにぎゅっとされた時の柔らかさを思い出し、途端に寂しくなった。それをベルに悟られたくなくて、顔を顰めることでなんとか耐えた。

「別に…路地裏にも行ってませんし…。僕もちょっと自分で情報収集していただけだよ」

「…そうか、何もなければいいんだ。ただ、ここは異国だから、注意してしすぎることはないからな」

ベルの心配は一般社会の常識の中では当たり前のことだ。治安がそれほど安定している訳でもない街で、まだ成人していない子供が一人でうろつくことは、誘拐や追剥、性犯罪など犯罪に巻き込まれる可能性が高い。特に都会で女子供が一人で出歩くことはまともな家ならば決してさせないのだ。女子供が一人で歩いても安全が確保されていると判断されるのは、バルデロやノックターンのような大国ぐらいのものだ。一度誘拐などされてしまえば、二度と見つからない可能性が非常に高く、世間の親が最も警戒する犯罪だった。

クレアを誘拐なり、強姦なりできる一般人がいるとは到底思えないが、ベルはクレアの事情を知らない。しかもクレアは今は“少女”だ。

「はい、心配かけてごめんなさい」

クレアが作る弱々しい笑みで謝ればベルはたいていちょっと小言を言うだけで許してくれる。今日もそれで解放され、ベルが買い込んできた夕食に舌鼓を打つ。

「今日は何か分かった?」

「いや…まだ全て調べきった訳ではないがな…この国にレイディアの痕跡は一切見られない。ここにレイディアは来たことはないと思う」

「…そうですね、ではもうこの国に用はないですね」

「そうだな、俺もそう思う。明日にはこの国を出よう。じゃあ次は何処に行こうか?」

「………それは」


クレアは、レイディアに思いを馳せる。俗世に降り立った現世の巫女。清廉な空気は俗世にあっても穢れることはなく、寧ろいっそう清らかさが引き立てているようだった。けれどそんなレイディア本人はいたって自然体でいて、クレアには眩しい存在だ。

始めから暗い世界に身を置いていたクレアには決して真似できない。だってクレアは人を憎むことを知っている。相手を弱みを握る快感も知ってる。人を数えきれないくらい殺してきた…

昔、自分の汚さを自覚した時、レイディアに抱きしめてもらうことが怖くなった時があった。自分の手にこびりついた血が、綺麗なレイディアについてしまったら、と思うと申し訳なくて、怖くて、レイディアの手を拒んでしまったことがある。クレアを案じるレイディアに正直に告げると、レイディアは何とも言えない顔をした。

〈…私が綺麗だと?〉

〈綺麗です。存在が綺麗なんです。だから…血なまぐさい自分に触らないでください。汚れます〉

レイディアが数拍考えるように黙った後、クレアの頭を撫でた。

〈クレア。私はね、貴方以上の血を吸ってここに生きているの〉

〈…?〉

〈かつて、“みこ”の身柄を争って、アルフェッラに多くの国が攻め込んだ。沢山の死傷者が出たわ。あと、“みこ”の愛を得ようと選び抜かれた夫達は、どの時代にあっても血みどろの争いをするし、“みこ”の為と大義名分を掲げて随分無茶をした臣下だって沢山いた…一番最近は、そう、アルフェッラとバルデロの戦ね〉

〈でも、それはレイディア様ご自身の責任ではありません〉

どれも周囲が勝手に始めたことだ。

〈でも、原因はいつだって私達だった。“みこ”はアルフェッラの代表。アルフェッラに関わることは全て私達の責任になるの〉

部下の責任は上司の責任。ということをレイディアは語った。

〈私を綺麗だというのは、クレアが私を綺麗でいさせてくれるからよ。貴方は私との約束を違えず、あれ以降、人を殺めることはしなくなった。だから、私の手も綺麗でいられるの。…ありがとう、クレア〉

あの時のレイディアの笑みを、クレアは忘れたことはない。あの時の言葉を糧にクレアはいっそう武芸に励んだ。

人を殺してはいけない。それはレイディアの不名誉だ。クレアの手はレイディアの手。武器を握れない彼女に代わり、武器を振るう手がクレアだ。

殺さないことは、つまり、相手を殺さないでいられるだけの余裕を持っていなければいけない。相手が自分にとって脅威でなければ、相手を戦闘不能にもっていけばこちらの勝ち。殺さずとも、こちらに向かってこれなくすればいいのだ。

どこまですれば人は死ぬのか熟知していれば、逆をいえば、死ぬ前までに留めておけば相手は死なない。

だから、蔭達、特にエリカや長に挑んで鍛えて貰った。エリカは気まぐれだし、長は常にギルベルトについているため滅多に相手にしてもらえないが、彼らから得たものは決して小さくなかった。彼らは相手の死因も死に様も状況に応じて自在に工夫ができる。ただ嬲り殺すだけのクレアよりずっとずっと“殺し”の専門家だ。だからこそ自制が重要視されるし、相手の処遇を見極める余裕も求められる。それを貪欲に学んだ。


―――僕の聖女様。

クレアはぐっと拳を握った。

僕は頑張りました。貴女の手を汚さないよう、技量を磨きました。貴女の傍にいるために女性の所作も覚えました。あのいけ好かない(ギルベルト)だって、俺が気に入らないのに、レイディア様の傍から離せないくらいに、周囲に認められてきました。


全ては貴女の為に。貴女の傍にいるために。早く貴女の足元に侍りたい。


クレアは誓うように目を閉じた。




レイディアを探すためには、どうしても障害となる国がある。ギルベルトはレイディアを見つけるまで止まらない。ならば遅かれ早かれ、必ずその国とバルデロはぶつかる。

戦争が始まり関所の審査が厳しくなるその前に、レイディアの情報を探したい。クレア達が滞在している間に戦争が始まれば、当然バルデロ国の者は排除される。レイディアを探すどころではなくなるかもしれない。

でも、いや、だからこそ…レイディアの手掛かりがあるかもしれない。

何の根拠もないけれど、何故か今のクレアにはそれしか答えがなかった。


「…ノックターンに、行きましょう」


クレアは目を開き、確信をもってベルにそう告げたのだった。




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