第六十五話
大陸一の強国と謳われる国の後宮の奥に住まう佳人は、ゆったりと目を閉じて寝椅子に横たわり、過去を振り返る。
周囲を枯らし 茎を手折り 虫を引き寄せては殺して 己はなお泰然と咲き誇るは毒の花。
周囲を彩り 傷を癒し 寄る虫と交歓して 他者に守られ可憐に咲き誇るは清らな花。
――私が毒の花だとしたら 貴女は清らな花ね 美しくて控えめで 世の殿方が守って差し上げたくなるような理想の花よ
そう笑う私に冷めた答えが返る。
――誰かに守られるということは その犠牲の上に立つということ さも無害な顔で清楚に咲き誇る花よりも 初めから毒だと周囲に知らしめて咲き誇る花の方が ずっと良心的だと思います
つまらなそうに言って ぱちりと最後の茎を切って花を活け終えた彼女は無感動な瞳をこちらに向けた。
――それに 綺麗なだけの花の何処が面白いのですか
その瞳を思い出すたびに彼女の口元は自然と笑みを形作る。
――ああ そうね 貴女は綺麗なだけの花“だった”わ 幾千の血が流れようと幾万の涙が流れようと それを捧げられることがごく当たり前であるように そう咲く花であるように 周囲から義務付けられた 温室の花だったわね
含むような言い方で揶揄したらその目をつ、と細められた。
くすくす くすくす
そんなあの娘が何だか可笑しくて 彼女は暫く笑い続けたのだった。
レイディアは砂塵が煙る戦場の真っただ中にいた。
すぐ傍で繰り広げられる剣戟の音は、レイディアにとっては馴染みのないもののようで、これまで何度か聞いた音だ。血が散る様は生死の境をレイディアに突きつけレイディアが目を逸らすことを許さない。しかし、ダレンにとっては兵達の怒声や剣の音は母親が殺された一幕を彷彿をさせるのか、がたがたと震えてレイディアの腹に顔を押し付けていた。
武道も嗜んでいないレイディアに剣を振って実際に戦う役目を与えられた訳では勿論、ない。オズワルドの遠征先に連れてこられただけのレイディアが何故こんな事態に陥ったのかというと、時間はおよそ一刻前に遡る。
レイディアは戦陣の最後方、流れ矢も届かぬ丘の上に十数名もの護衛と、用聞きにと付けられたオズワルドの側近の一人を従者として目下で繰り広げられる戦況を伺っていた。小さく届く戦場の音を聞きながら、従者に淹れられた茶を啜りながら戦が終わるのを待っていた。すぐ傍で命のやりとりがあるというのにのんびりすることに思うところが無い訳ではないが、この戦場においてレイディアの役割はなく、またオズワルドの息子であるダレン―オルテオ王子もまた幼すぎる為に同様だった。戦場に赴くわけでもないのに護衛を付けられているのは何故か。それは敵陣の襲撃よりも、むしろ自軍の暴挙を警戒してのことだ。
戦場、という特殊な場所では兵士は興奮し、気が立っている。興奮状態であることは兵の動きが格段に違う為、指揮官からすれば歓迎するべきものだが、血の気、というものは男の性欲にも繋がっている。そんな状況に女性がいれば男は女性を性の捌け口として目に止める。王の気に入りだとか、身分だとか、美醜はあまり歯止めにはならない。おまけにレイディアは若い。十分兵の気を引いてしまう。それを危惧したオズワルドは、自分がいない間レイディアが襲われては堪らないとオズワルドが付けたのだった。
それだけ男達の生理的な性欲は強く、御しがたいものであるらしいが、世の中うまくできているというか、性を生業にしている、例えば娼婦などは、通常以上に集客率があがり収益が増える見込みが狙えることで戦場まで出張してくるという相互利益が成り立つ面もあるのだから面白い。だが、そうではない女性への暴力は程度が過ぎれば風紀を乱し処分対象にもなり得る。それは各国で対応は違い、一般女性への暴行も兵士の士気を下げない為にも目をつむり、実状野放しにしている国が多い。政府の対応がそのようなので、襲われた側の女性は訴える場所もなく、泣き寝入りすることが殆どだ。
バルデロは、先王の御世から兵士への規律で厳しく取り締まられているが、さて、ノックターンはどうだろう。少なくとも前王の時代ではそれほど厳しく取り締まられてはいなかった筈だ。オズワルドの時代となってから厳しくしたとしても、たかだか数年で兵士達の気持ちまで変わるとも思えないから、やはり軍規を軽視してやりたい放題に振舞う者もいるのだろう。レイディアはこの物々しい護衛達を見てそう判断した。
「おかわりは如何ですか」
そうレイディアに話しかけてくる男は一時的にレイディア達の従者となったオズワルドの側近で、名をリシアスという。彼はノックターンでも有数の名家である伯爵家の跡取りで彼自身も子爵を賜っているという。側近に取り立てられる以前は軍部に属していたらしく、当時の名残なのか刈り上げた頭髪に太い指は彼を無骨な印象にするが流石貴族の跡取りとあって所作に粗さはない。腕も確かで、無暗に女に手を出さない、従者の中では一番の堅物なのだとオズワルドから太鼓判を押されて紹介された。
「ありがとう…でも、今は結構です」
リシアスはレイディアから返された杯を受け取り一歩後ろに下がった。彼は突然任命された身元の知れぬ者の従者の役目にも嫌な顔一つせず淡々と役目をこなしているが、オズワルドの命を諾々と従っているのではなく、注意深くレイディアを観察していた。外套を深く被り紹介される際にも顔を曝さない女を胡散臭い上に無礼者と感じるのは当然で、王の側近であるからには身元不明な女を王の傍に置いてよいものかと懸念するのも当然だ。正しい側近の在り方だ。
オズワルドは中々の臣を持っているようね…。
レイディアは軽くあたりを見渡した。リシアスだけではない。護衛にと付けられた兵達もまた、一人一人がオズワルドの信を得るに足る者ばかりだ。身なりは質素にしていても、顔つきまでは隠せない。一兵卒でないのは一目で分かった。
だからレイディアは彼らに自分の情報を渡さぬように、余計な口を利かないようにしているが、彼女の失敗はその静かな態度にあった。レイディアは四方から向けられる、男達の視線に恐れをなして…いる訳もなく、ごく自然体でいるレイディアは、周囲にはここがまるで王宮の庭園であるかのようにゆったりと寛いでいるように映るのだ。それがリシアスをはじめ周囲の護衛達には異常に感じられるのだが、レイディアにはそれに気付く余地はなかった。それ以上にレイディアが気になることがあったからだ。
彼らの最優先の任務はレイディアと王子の監視と護衛。自軍への牽制の護衛なんて本来なら二、三人で十分だ。街で不特定多数の女に手を出すのとは違って、味方が護衛している女へ手を出すのは問題が大きくなる。味方と揉めてまで女に拘る理由はなく、流石に気が立っている兵でも理性が働く。彼らの存在自体が正しくレイディアの守りである。
だが、必要以上の数の護衛を付ける他の理由は…
「………」
レイディアは空を見上げ、小さく息を吐いた。途端、周囲の視線が強まり、外套を被りなおす。
その時、ダレンが身じろぎして顔をのっそりと上げたことによって考えを中断した。レイディアと違い、周囲の視線に居心地の悪い思いをしていた。朝からずっと不機嫌そうにレイディアの腹に顔を押し付けていたのだが、ついに我慢ができなくなったらしい。
「お母さん。お唄うたって」
甘える声にしかし周囲の空気が重くなる。この状況は、周囲の者達にとっては苦々しい状況だろう。なにせ自国の唯一の王子が何者かも知れぬ女を母と呼び、傍を離れようとしないのだから。世継ぎの近くに不安要素は近づけたくない筈だ。レイディアも実に同感である。
「ううん…今は夜ではないでしょう? 今眠ったら夜眠れなくなるわ。お伽噺ではだめかしら?」
「…んん、じゃあ草のがいい、草でやるよね。ぷぅうって」
今は物語を聞くよりも何かしらの曲を聴いて気分を落ち着かせたいらしい。
レイディアは了承するとダレンに一声かけてから彼を膝から下ろし、立ち上がった――途端、周囲の空気が張りつめた。今朝からレイディアが何か動こうとする度にこのような反応をされている。
「…何処にも行きません。そこの草むらから笛に適した葉を探すだけです」
「…お伴致します」
リシアスは立ち上がってレイディアの後に従った。レイディアは好きにさせた。彼の他に数名ついてくることにしたようだ。背後でついてくる気配がした。
この女は一体何者なのだろう。
リシアスは考える。所作から彼女は良家の子女であることは一目瞭然だ。だから初めは没落した貴族の女が再び豊かな生活を望んで殿下を利用しているのだと思った。戦乱のこの世では、家長を失い保護を失くした上流階級の女はいくらでもいた。蝶よ花よと育てられた彼女達は自活できるほどの知識も胆力もなく、末路は決まっている。縁戚に引き取られれば幸運で、たいていは娼婦や金持ちの愛人に身を落とす。彼女もその一人なのかと。
だが、そもそも彼女はあの隠れ家のような村に身を寄せていた。豊かな生活を望むなら、少しでも期待が持てる大きな街に行く筈だ。それにあの村には短期間身を寄せていただけで、彼女の所縁の地でもなければ、彼女の親戚も情夫もいないという。一人でひっそりと村にいたことになる。そこにまず自分の仮説に矛盾が生じた。
それと顔を見せないのはどういうわけか。顔は女の武器の一つ。容姿に多少難があったとしても若ければそれだけで需要があるものだ。高貴な血を持っているということも、それだけでも金はあるが地位の無い男達にとっては魅力に映るというのに。
ということは顔に傷があるなり、とても外に見せられない風貌ということだろうか。
王が連れていくと決めたということは、少なくとも彼女の情報を少しでも得ており、傍に置いても問題ないと判断したということ。つまり犯罪を犯して顔を隠すことを余儀なくされている、などが理由でないのなら、顔を隠すことは彼女にとって女性としての矜持を守ることであり、正体を知られたくないという後ろ暗い理由に起因することではない。できるだけ人に見られたくないのなら、寂れた村にいた理由も納得できる。
そこまで仮説を立てたリシアスは、ある程度自分を納得させることができた。
だが、隠されると暴きたくなるのは人の性で、まじまじと彼女を注視することになる。
「リシアスさん…」
「…っは、何でしょう」
おもむろに彼女に名を呼ばれ、自分の思考に集中していたリシアスはぎくりとなった。彼女から話しかけられたのは初めてだ。彼女の落ち着いていて静かな声は不思議と人に耳を傾かせる。顔を上げると彼女の目線は前を向いてリシアスの方を向いてはいなかったが、武人として相手の気配を読むことがあったリシアスには分かった。彼女は笑っている。何故? と訝しんでいると、一枚の葉を摘まんだ彼女はリシアスの方を向いた。予想通り唯一彼女の表情が分かる口元は笑んでいた。
「お客様は、いついらっしゃるのかしら」
一瞬彼女の問いの意味が分からず首を傾げかけたが、じわりと彼女の意図を読めると体が中途半端に強張るのが分かった。
「…何故」
「それは何故私が知っているのかという問い? それとも知っていてなおこうしてのんびりしていられるのかという驚き?」
リシアスは目を険しくさせた。虚勢ともいえる、自身を見抜かれた時に張る警戒だ。
「…何のことでしょう? 我々がすべきはこうして一番安全な後方で貴女方をお守りつつ王をお待ちするだけです。客をもてなす予定は入っておりませんよ」
「ここに私達がいることは、密偵でも放てばあちらにもすぐに知れること。王は私達のことを特に隠してはおりませんでしたからね」
事実、オズワルドは行軍中、積極的にレイディア達を連れまわしたりはしなかったが、頻繁に後方に顔を出し、レイディア達の様子を確認しに訪れていた。その行動は逐一周囲の兵に目撃されている。オズワルドの態度も、レイディアの対応も。密偵が居ればすぐに気が付くくらいには。
王が自ら気に掛ける存在が軍中にいると。それも、最も弱い女と子供。
「………そんな存在は、あちらにとってどう映るでしょう」
元々あちら側には勝機の薄い戦いだ。あちらはおよそ一万、こちらは三万の軍勢だ。まともに戦っては勝てない数の上、ノックターン軍は王の禁軍で構成されている。
レイディア達に目を付けなければ正攻法に倒すだけだが、窮地に追いやられているあちら側が、目を付ける可能性は十分にあった。罠かもしれないけれど、それを掻い潜れれば、あるいは…と。
「奇襲する人員は敵方に知られないように少しでも減らし、成功率を上げるために腕の確かな者で構成される。彼らを生け捕ってあちら側と有利に交渉…悪くない戦法だわ」
オズワルドはどうやら敵を全滅させるつもりはないらしい。そこまでするにはこちらの兵も多く失ってしまうし、戦を長期化させる。それよりかは、ある程度敵を弱体化させて適当なところで交渉をちらつかせる。そうすればただ殲滅するより今後の和平もなりやすい。捕虜を無事返してやれば信用も買える。上位に立つ国だけが使える上に、使う相手は見極めなければならない手法だが、ギルベルトもよく使う戦略だった。
「……貴女は何者なのですか?」
ある程度経験を積んだ軍人ならば察しがついても不思議ではないが、今語ったのは戦場など全く知らぬ筈の女だ。
「…さて…貴方が納得のいくような説明ができますかどうか…」
フロークと名乗る女は笑みを形作ったまま、リシアスを煙に巻いた。
「………」
「今、私が千の言葉を重ねたところで、貴方が真に頷くことはないでしょう」
リシアスは王子の元に戻っていく彼女の背を追いながらも自身の不可解さに首を傾げた。
何故自分は彼女を問い詰められないのだろう。常ならばのらりくらりと答えない者でも如何様にも吐かせる術はあるし、今も使えないことはない。身体を痛めつけずに吐かせる方法だっていくらでもあるのだ。けれど、彼女を前にしては強硬な手段に出られないのはどういうわけか。彼女の行動に情けなくもこそこそと隠れ見て、笑みを向けられたら身体を強張らせることしかできない。
彼女に対する感覚をリシアスは知っている。自身よりも精神的に優位者に対するものだ。例えば、親であったり、尊敬する者であったり、相性的に自分が引いてしまう相手であったり…自分が敵わない、と認めてしまっている相手には、今のように強引な手は使えない。手が止まってしまうのだ。
非力な少女ともいえる年齢の女に…何故…気圧されている?…馬鹿な…こんな年端もいかぬ女ごときに?
ぐるぐると纏まらない考えに混乱している内に、彼女は王子に草笛の音を聴かせ始めた。
その音は不思議な優しくまろやかな空気をまとっていた。
草笛など、金のない民草の楽器だ。本来ならば美しさよりも、放牧した牛やヤギを誘導するための実用的な役目を求められる道具だ。その認識を一変させてしまう程に彼女の音色は、鮮やかだった。
ただ甲高く鳴る筈のその音色が、彼女の口元から漏れるのはただ優しかった。王子の気分を落ち着かせる為に奏でられる音色は慈愛に満ちていて、王子の目元からだんだん剣が取れていくのが分かった。
周囲の護衛も聞いていない風を装っているが彼女に集中しているのが分かる。
彼女の吹いている曲は庶民の親が子供に聞かせるごくありふれた簡単な曲だが、それだけに心にすんなりと入ってくる。
周囲を惹きこんだ短い曲を吹き終えると、彼女は余韻に浸ることなく、草から唇を離し、小さく呟いた。
「…来た」
次の瞬間、ひゅん、と風を切る音と共に男達の怒声が響きわたった。
護衛達を掠っていったのは矢だった。
奇襲だ。
「――フローク殿!」
咄嗟にリシアスは剣を構えて彼女を見たが、レイディアは先程の草笛が響く柔らかな空間が突如戦場と化してしまっても、先程の冷静さを些かも損なわず、王子の顔を自分の腹に押し付けて耳を塞ぐように抱きしめてやる余裕さえあった。レイディア達がいる場は奇襲を仕掛けてきた者達から一番遠い場所。彼女達に辿り着くにはここにいる兵を全て倒さなければならない。不意を突かれたのではなく、護衛達は元より彼らを待ち構えていたのだ。これなら十分に彼女達を守り切れる。
護衛する立場の者にとって守る対象が動転して勝手な行動することこそ最も警戒する。守る対象が大人しくしている方がずっと守りやすくいらぬ負傷もさせずにすむ。しかし非常時に大人しくしていることに如何に難しいかも、よく知っている。普通の貴族の女ではまず無理だ。守られる者の対応として最善な行動をとった彼女は『守られる』という行為に慣れていることを示していた。
…彼女は、見た目によらず、相当の修羅場を潜ってきたのかもしれない。
そんなことを頭の片隅で考えながらも周囲への警戒は怠らない。
奇襲の成功条件は短期決着に尽きる。すぐに対象者を捕まえられなければ、騒ぎに気付いたノックターン兵が駆けつけあっという間に取り囲まれてしまう。ところが、敵兵は焦る間もなく、これまで何処に隠れていたのか背後に現れたノックターン兵と、前方の護衛達との間に挟み込まれてしまった。
前後を挟まれて進退ができなくなった敵兵は対象者を捕まえることなく、ものの一刻でほぼ全員が捕縛されてしまった。元々隊長級の護衛達の集まりだ。王宮に詰める軍の隊長といえば、地方では一砦の長官に匹敵する。結果は見えていた。
「……フローク殿。敵は全て捕獲致しました。今陛下の元へ報せをやりました。もう安全です」
「……ええ」
リシアスは彼女の前に膝を付いて告げると、彼女は周囲を見渡した。見れば負傷はいるものの命に別状があるような者は敵味方両方に見当たらない。そのことに密かに安堵の息を漏らす。冷静さを欠きはしないが、やはり目の前で命の灯が消えるのを見るのは忍びない。
「…ご苦労だった」
それから暫くして報せを受けてやってきたオズワルドが護衛達をまずねぎらった。本陣もひと段落ついたのだろう。崖下ではノックターン兵の歓声が上がっている。
オズワルドは戦場から帰ってきたにしてはあまり汚れてはいなかった。本来なら王自らでるような戦ではないし、後方で指示を出すだけで済んだのだろう。
オズワルドはレイディアの方へ来るとレイディアの外套の頭巾の両端を摘まんだ。
「怖かったか?」
優しささえ含んだ声に、傍に控えていたリシアスは驚きに目を見張ったが、それも一瞬のみで済んだのは従者の鏡と言えよう。
「……」
「これが最短で最善の解決方法だった。…怒るか?」
答えないレイディアに気を悪くするでもなくレイディアの機嫌を伺うように話しかけるオズワルドに、レイディアは小さく首を振った。
「…最善だと“王”が判断されたのならば、私に言うことはありません」
息子を気にかけよとレイディアは言ったが、また身内の情のみで動くこともまた危険だ。それに他国の王の為すことまでレイディアに口を出す権利もないしする気もなかった。オズワルドは直接触れないように柔らかくレイディアを覆い、軽く背を撫でた。
「……そうか」
レイディアの答えにオズワルドは笑った。それは何処かほっとした笑みのようにも見えた。
それからレイディア達はその場から外され、リシアスと数名の護衛と共に簡易テントの中に移動させられた。
「我々は外におります。何かご入り用でしたら、何なりと」
リシアスを残してついてきた護衛は警備の為、レイディアに一礼するとテントから出て行った。
「本日はお疲れになりましたでしょう。少し早いですが、ご夕食も、まもなくこちらにお持ちします。それと今宵は陛下はこちらには参られずお二人のみのお食事となるでしょう…」
リシアスの語尾が小さくなった。今頃オズワルドは奇襲してきた敵兵と交渉しているからだろう。多少“強引な手”を使っても、オズワルドは自分が望む答えを彼らからもぎ取る筈だ。それをレイディアと幼いダレンに見せる必要はない。特に、未だ震えが収まらないダレンには。
「……お母…さん」
「もう大丈夫だから。貴方には貴方を守る者達がちゃんといるわ」
「………」
かたかたと震えるダレンに声を絶えずかけ続ける。怯えている時の沈黙は気を滅入らせるからだ。
「大丈夫…大丈夫…」
本来なら、あの場にダレンを置くのは避けるべきだった。しかしダレンとレイディア、どちらがあちら側の標的となるかが分からない以上、共にいた方が護衛を分散させずに済み安全面は保障される。怖い思いをさせると分かっていてもダレンだけを遠ざけることはできなかった。
「ごめんね。怖かったね」
「怖いの…おかあさまを殺した奴らみたいなの…声が…大きくて…手には…」
「もう怖くないわ…ごめんね…思い出させてしまって…」
ダレンを優しく撫で慰めるも、レイディアとて先程の戦闘で思わぬところが全くないわけではない。
怖くない筈がない。不安でない訳がない。けれどそれを気取られてはならぬと教えられたかつての教えが、レイディアに理想の行動を取らせる。
――貴女は 守られるだけの花――
幾千の血と幾万の涙の上に立つ…
「…………――。」
レイディアは、静かに目を閉じた。
ムーランはここ暫く見ない程に上機嫌、のように見えた。
それは傍目には分からねど、長く彼女に仕えている侍女にはかろうじて分かる程度には、そうと分かる上機嫌だった。
その日、ムーランは何処から仕入れたのか白い手巾をうっとりと眺め、昼間から良いワインを開けて手巾を肴に楽しんでいたかと思うと、唐突に立ち上がり、部屋を出て行こうとするなど不可解な行動をとった。
侍女が慌てて後に続いて前を歩くムーランを伺うと、珍しく鼻歌でも歌いだすのではないかと思うほどに口元には普段以上に優しげな微笑みを浮かべていた。足取りも軽い。
「…気になるのかしら?」
何が、という主語を入れずに突然話しかけられたが、慣れている侍女は特に驚くことなく淡々と返した。
「……いえ、彼の方がらみであることは察することができます故…」
「そう。…あのね、私、欲しいものがあるの」
「左様で」
「でも、今のままでは欲しくはないの」
「………」
まるで謎かけだ。何を欲しいのかも、その理由も、侍女には分からないし、ムーランが丁寧に語ることもない。今の後宮では室外で不用意に発言をしていつ足元を掬われるのか分からない程に、張りつめてぎすぎすした空気で満ち満ちている所為か、猶更ムーランの言葉は足りない。まあ、元々ムーランの言動は要領を得ないが。
その代り、全ての彼女の思惑が分かった時には、既にムーランの掌の内なのだが。
ただ、分かっていても、ムーランの上機嫌は、安堵よりも不安を煽ってしまうのは、どうしようもない。
その時、ふと彼の方がいつだったか侍女に語った言葉を思い出した。そしてそれはムーラン本人も自覚していること。
―――ムーランが動くのは己の楽しみの為。
侍女が無表情の下でぞっとしないことを考えている内にムーランの目的地に着いたようだ。
ムーラン自ら戸を叩き、中から返事が返ると、優雅に戸を開け、朗らかな笑みで挨拶を述べた。
「御機嫌よう、フォーリー女官長。お加減は如何?」




