第五話 深夜の訪問者
男は唄を口ずさんでいた。
懐かしい故郷の唄を口の中で転がしながら歩いていた。
ボロボロの外套を纏いながら唄う彼は、どう見たって不審人物にしか見えない。
しかしこの界隈ではそんな格好はありふれていて誰も気にとめない。
王都の中でも特に治安の悪いこの一帯に、それもこんな真夜中に一人ぶらつくのは襲って下さいと言っているようなものなのだが、彼は陰から感じる視線を気にした風もなく飄々と歩く。
やがてその男は目当ての店を見つけると迷わずそこに入って行った。
「いらっしゃい」
薄暗い室内にはちらほらと客が見えた。ちらちらとこの新参者を値踏みするように客達が男を伺う。
男は気にした様子も見せず、ずんずんと店主に近づく。懐から取り出した銅貨を二枚カウンターの上に落とした。
「バーヌーンを一杯」
「あいよ」
安酒だが高濃度の酒を頼んだ男に店主は貨幣をしまいながら請け負った。
男はどさりと席に付くと外套を脱いだ。注文を差し出した店主はおや、というように少々驚いたような顔をした。
「見ない顔だと思ったら、“鷹爪”の者かい?」
かすかに室内がざわめくのを肌で感じた。視線が痛い。
「さすが情報屋は違うな。そのとおりだ」
臆したふうもなく彼はあっさりと白状した。
店主は予想外に整った容貌に驚いたのではなく、その顔に掘られた刺青を見て驚いたのだ。
翼を大きく広げ、爪をむき出しにした鷹の刺青に。そしてその腰に佩かれた、粗末な着物に不釣り合いな立派な剣に。
男は豪快に酒を空けると、店主に切り出した。
「店主、ほしい情報がある」
ずい、と身体を乗り出して声を潜める。
「……ご注文は?」
かすかに顔つきの変わった店主に刺青の男はニッと笑った。
「この店で一番高いものを」
レイディアは回廊を歩いていた。
すでに深夜と言っていい時刻で、後宮全体がひっそり静まり返っている。
しかし、不気味な雰囲気ではなく、何処かで鳴く鈴虫の音色が耳に優しいそんな夜だった。
今夜は誰の部屋にも王の訪れは無いので、後宮も静かなものだ。
普段、王は積極的に後宮へ訪れないせいで、たまに王が来ると知らせが入ると、女官達はやれ今夜は誰をお召しだの、誰を最も寵愛なさっているだの水面下で情報が飛び交い、上から下への大騒ぎになる。王の存在はそれだけで後宮の活力になる。
しかし、王の凱旋から暫く経ったが、レイディアの部屋へ忍んできたのを別として、公に後宮に訪れていない。
王が帰って来て、妃達、特に身体の手入れにいっそう力を入れていたローゼなどは日に日に機嫌が悪くなっていると女官達が恐々としていた。
また、せっつく必要があるようだ。どういう訳か最近レイディアが後宮へ来いと催促しなければあの王は妃の元へ通おうとしない。
レイディアが来る前はそこそこ訪れていたと彼の乳母でもあった女官長に聞いている。
最初はローゼ妃の所に行ってもらうつもりだ。彼女の宮の女達に八つ当たりを始める前に。
近々、新しい妃がやってくる。その知らせは近日女官長から後宮にもたらされるだろう。そうしたらローゼ達妃は面白くないこの知らせにいっそう機嫌を損ねるに決まっている。
その対策として新しくやってくる妃を守る手立てを立てなければいけない。軽い嫌がらせなら通過儀礼みたいなもの。悪質になると命を狙う者が出てくることもある。後宮とは、そういうこところだ。それをさせないために彼女に与える宮、配する女官、奴隷。それらにも少し手を加える必要があるようだ。
その前に王に妃達を一通り巡ってもらわなければいけない。暫く訪れがなく、寵愛が薄れたと劣等感に晒された妃ほど新しく来る側妃に対する対応は冷たい。少しでも新しい妃に向けられる風を和らげるためにここは王にひとつ頑張ってもらわねば。それだけでなく、それなりに身分のある女性は蔑ろにすべきではない。たとえ王にその妃への興味がとっくになくても。王にとって情事と愛情はあまり関係ないのだ。そんなふうに新しい妃を守る他に後宮事情は政治的思惑も絡んでくる。
それをギルベルトも理解している。だからレイディアの彼の意思を尊重していない催促に渋々ながらも重い腰を上げるのだろう。
それはともかく、これからやらなければいけない仕事が思いつくだけでもこれだけあるのに、また一つ増えた仕事がレイディアを最も悩ませる事柄だった。
正直、テオールに一任してもらいたい。しかし、後宮での捜査は男のテオールでは限界があるし、都合のいい手駒を獲得するために女を籠絡するという手段はテオールは毛嫌いする。そしてもちろん彼も忙しい身だ。
テオールと二人、手頃な部屋で情報交換や意見を交わしたのは数日前の事。
今もまだ特に表だって不審な点は無い。そのかわり、いつもより注意深く王宮内を見張っているせいか、『普通の』不祥事がボロボロ見つかった。何が功をなすか分からないものだ。
しかし、目的の『いつもと違う不審なもの』というのはいっこうに見つからない。今回ばかりは王の勘が外れて、何もないのではないかと勘繰りたくなる。
が、そうはいってもレイディアも動かない訳にはいかない。与えられた仕事はやらなければならない。信頼云々ではなく、性分的に。
そう思っているからこそ、部屋から外に出る事が禁じられているこんな夜更けに手掛かりを求めて歩いているのだ。
別に、あえて夜に動いている訳ではない。時間さえあれば昼にだって動きたかった。
今日も今日とてローゼの我儘や女官達から言いつけられた仕事のせいで時間が取れなかっただけだ。
――レイディアにとって夜の方が都合がいいのは確かだが。
人と出くわさないように忍びながら歩いていると、近くの庭の方から小さく草がかきわけられるような音がした。
また女官と逢引する男でも忍んできたのだろうか。ここ連日夜回りしているので頻繁に見かける。キリが無いのでレイディアは顔と身元を把握するだけで放っとくことにしている。女だけの世界に必要なものとして黙認している。
それはそうと、顔の確認はしようと、音の方へ足を運んだ。
しかし、近くまで来た時、違和感に足を止めた。
逢引が目的の男のように気が逸っているというか、浮かれるような気配が感じられなかったからだ。
賊…だろうか?
後宮は国の贅を集結させた、いわば宝の山。賊にとって垂涎ものだろう。
しかし、当然警備も厳重なので、小物は入る事さえできない。
つまり、この先にいるのは少なくともその警備を突破した者だという事になる。
レイディアの身に緊張が走る。陰に身を潜めて音の方を伺う。
「---〜〜…〜--〜♪」
小声でよく聞き取れないがどうやら侵入者は唄を口ずさんでいるようだ。
こんなとこに忍び込んでおいて随分と余裕がある。
「〜♪っと…誰だ?」
低い男の声がレイディアの方を向いて声を発した。
気付かれたようだ。レイディアは逃げるべきか大人しく出ていくか迷った。
しかし結局出ていく事にした。気付かれた以上、この際真正面から不審者の顔を見ておこうと思ったからだ。
「なんだよ、お嬢ちゃんかよ。警戒して損した。まだちびのくせに勇気あるな」
「…こんな夜更けに後宮へ何のご用ですか?」
冷静に口を開いたレイディアに意外そうに首を傾げた。
「オレが怖くないのかい? 殺されると思わなかったのかな? こんなに素直に出てきちゃだめだよ」
そんな事を言う侵入者、初めて見た。
どうやらレイディアを小さな子供と勘違いしているようだ。確かに同年代の娘達より小柄で華奢ではあるが、そこまで小さい子供に見えるほど小さくない、はず。
「いいえ。それに、死が怖くては後宮勤めなど出来ません」
男は沈黙した後、弾かれたように笑いだした。
「ははっその通りだなっ。後宮よりおっかないトコもないだろうさ。随分気丈なお嬢ちゃんだな」
レイディアは月を背にして立つ男を見つめた。しかし逆光になっててよく見えない。逆にあちらからはこちらがよく見える。なんだか不利だ。
男はボロボロの外套を纏っておりレイディアが分かるのは長身な男というだけだ。レイディアの背丈は彼の胸あたりまでしかない。レイディアを子供と勘違いしても仕方ないかもしれない。
「おっと、怯えなくてもいいぞ。オレは老人と子供には手を出さないから安心しろ」
女には別の意味で手は出すがな、と余計な一言を言ってまた笑った。
「……それ以外には手を出すんですか?」
「必要になればな。向こうが何かしてこなきゃ何もしねぇさ。オレは盗賊だが、悪党じゃないんでね」
どう違うのか訊いてみたかったが大事なのはそこじゃないので止めておいた。
「それで、何のご用ですか? 私でどうにか出来る事なら承りましょう。そのかわり、気が済んだら帰って下さいね」
「…ほんとに気丈なお嬢ちゃんだな。何事もなく帰しちゃっていいわけ?人を呼ぶとか…」
「呼んでほしいんですか?」
「そんなわけねえが…」
「こちらから何もしなければ何もしないのでしょう?職務に忠実な衛兵達は侵入者を見つけたら問答無用で襲いかかるように仕込まれています。そちらの言い分など聞かずにね。なので呼びません。無用な血を流すのは好きではないので」
「……そうかい。お嬢ちゃんとは気が合いそうだ」
顔は分からないが笑ったようだ。さっきの愉快そうな笑いではなく、柔らかい微笑。
「そういうことならお嬢ちゃんに訪ねようかな?お嬢ちゃんは信用できそうだ」
「それはどうも」
「―――なあ、巫女がこの国にいるってのは本当か?」
さっきまでの陽気な声が嘘のように射抜くような声がレイディアに向けられた。
巫女とは誰の事なのか、聞くまでもない。この世界において巫女を名乗れるのはただ一人。神の愛し子であるアルフェッラの王のみである。男の愛し子なら神子、女なら巫女と呼ばれる。当代の愛し子は女だから巫女というわけだ。
そして、この国がアルフェッラを滅ぼした直後からずっと囁かれてきた噂がある。
バルデロが、当代の巫女を国に連れ帰ったと。
王がそう主張したのではない。しかし、神国アルフェッラに手を出した国は裁きを受けるというのは世間の通説で、実際過去にアルフェッラに軍を向けた国々は次々と不幸に見舞われ、衰退の一途を辿ってきた。
それなのにこの国はいまだに栄えたままだ。衰退のすの字も見当たらない。
常識を覆したこの国を、人々が疑うのも当然と言えよう。
国の守護者である巫女を国に連れ帰る事で、その裁きを免れたのではないか、と。
アルフェッラ神国が神国たりえるのはその巫女がいてこそだ。
神は愛し子を守護するが、巫女を中心にその周りも影響を受ける。だから、結果的に国全体が巫女の受ける恩恵を共に享受できるというわけだ。
神は天災やその身を脅かす脅威となるものから愛し子を守っていると言われている。そのおかげで作物が不作になる事無く、欲にかられた国に蹂躙される事も無く太平の世を謳歌してこれたのだと。
しかし、バルデロが侵略に成功して四年経った今、アルフェッラに異変が起きていた。
作物が不作の年があったり、災害に遭うようになった。
他国にとってはそんなことは当たり前のことであるし、そうやってどうにもならない事態と戦ってきた。しかし、アルフェッラにはそういう事情から、免疫がない。
今アルフェッラは混乱期にある。四年経った今、当初よりは落ち着いてきたものの、それでもまだ右往左往している状態である。
そしてその反対に、バルデロはアルフェッラとは逆に収穫量が安定してきた。だから疑うなというのが無茶なのは分かる。
レイディアは頭を覆う布の奥の目を細めた。
証拠も何もないが、こうしたことからバルデロに巫女を探す各国の間者が後を絶たない。
――――レイディアはこの男もその口なのかと思った。