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鈴の音の子守唄  作者: トトコ
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第六十四話

その夜、レイディアは村長宅を辞すことを許されなかった。

オズワルドの相手を村長から頼まれたからだ。それは村長がオズワルドの無言の要求に屈しただけでなく、こういった閉鎖的な山村にはありがちな身分ある男を持て成す意味で、村の女を夜伽に差し出す風習もあったからだった。選ばれる女は未亡人か、適齢期の処女が多い。レイディアは未亡人でも処女でもないが、この村にレイディアの夫がいないことで、レイディアは未亡人扱いされ、かつオズワルドに圧されたこともあり、村長は特に問題にすることなくレイディアにその役目を頼んだ。ところがその夜の相手をしようにも(する気はさらさらないが)、ダレンがレイディアにひしとしがみついてがんとして離れなかった。村長は焦ってダレンを引き離そうとしたが、オズワルドが咎めなかったので、実質三人で夜を過ごすことになる。そもそもオズワルドはレイディアに夜伽を求めていなかった。恐らく、邪魔されずに二人で話がしたいのだろう。寝室の外には側近が一人、寝ずの番で控えているが、室内にはダレンと三人。腹を割って話す機会はそうそうない。それを証明するように、寝所に案内された今もレイディアとは一定の距離をとって一人酒を楽しんでいる。

一方、レイディアの方はダレンにかかりきりになっていた。いつもなら疾うに眠っている時間なのに、ダレンが眠いのをこらえてレイディアから離れない為、何とか寝かしつかせようとするレイディアの姿を眺めていたオズワルドはくっくと笑った。

「そうしてみると、すっかり母親だな。巫女様が子育てに長じているなんて、思いもしなかったぞ」

王侯貴族は子育てなどしない。乳母が乳を与え、家庭教師が教養を教え、両親はその報告を聞いて至らぬ部分を指摘するくらいが一般的で、それは“みこ”も同じだ。

「…私はこれまで市井におりましたから、子供と接する機会はありました」

「それはつまり、お前は庇護者から自由を与えられていたということか? 随分寛大な庇護者だな」

暗に巷に噂されている監禁説は嘘だったことを指摘された。

「…そうですね。私は自由でした」

ギルベルトの目と腕が届く範囲内で、という制限つきではあるが、それでも十分だった。“巫女”であった時分に比べれば、広い世界を見せてもらえた。

「そんなお優しい庇護者の元から何故離れた」

「……貴方には関係のないことですよ」

「そうはいかんぞ。この国は我がノックターン国の属国だ。そこに危険な火種が護衛の一人も付けずにふらふらしていたんだ。下手をすればこの国はお前の庇護者に攻め込まれていた未来もあった」

そしてオズワルドは痛くない腹を探られる可能性もあった。

「………」

一理ある言い分にレイディアは言葉に詰まった。

「…そのままの立場に甘んじることが、怖くなっただけです」

「どういう意味だ?」

「…自分を見失いそうになっただけです。私の主人の元から離れた理由は、本当に、個人的な理由で、特に国家間の問題など…深い意味はありません」

レイディアは少し長い“散歩”に出るつもりでいたこと。二度と帰るつもりはなかったが、そのことには触れず、その道中に事故に遭ったところ、この村の者に助けられたと、嘘ではない事実のみを簡単に伝えた。オズワルドは全てに納得した訳ではないだろうが、この村にいることはレイディア自身にとっても予定外のことであることは理解してもらえたようだ。

「…それで、お前はこの先どうするつもりだった?」

ダレンをオズワルドに返したら自分はこの村にいるつもりはなかった、と言ったレイディアに対してオズワルドは問うた。身を隠している以上、同じ場所に長く留まることは危険と判断して村を出ることは理解できるが、かといって見知らぬ土地で旅ができるほど彼女は世慣れているとは思えないし、女の一人旅そのものが危険だ。

「……それこそ、貴方には関係のないことですよ」

レイディアの儚い笑みに何かしら感ずるところがあったのか、オズワルドはその答えを無理に聞きはしなかった。

「…まあいい。どの道、俺の城で滞在してもらうことになるのだからな」

それに関してはレイディアも諦めた。ダレンに縋られて尚、一人でこの村を出ていけるほど、レイディアは非情になりきれなかった。それ以前に、“雲霞”が効かないオズワルドがいては、レイディアがここから誰にも見られずに出ていくことはとても無理だ。

「…せめて、城のどなたもおいでにならない場所で滞在させて下さい。いえ、寧ろ城外の方が…」

「それに関しては配慮しよう」

オズワルドは笑って杯を干した。その笑みに嫌な予感がしたが、レイディアが問うてもオズワルドは笑うばかりだった。

「それと、くどいようですが、ダレンのことですが…」

「ああ、それも改めてここに確約しよう。信用のおける者を傍付きに付ける、もう二度と隙は作らない」

レイディアはさりげなくダレンの耳をそっと塞いだ。

「…ダレンはこの子の母親と共に、暗い森の中にいました。その傍には彼らを襲う凶手が。恐らくは貴方の周囲にいるどなたかの手の者でしょう。彼が城に帰って、再び狙われないとも限らない。…その危険性も承知の上でしょうか」

オズワルドは杯を置いた。

「同じ過ちは二度と犯さない」

「……ならば良いのですけど」

オズワルドがダレンを保護する為にどれほど動くかは分からないが、正妃に第一王女以来懐妊の兆しがない今、後継者はダレン一人だ。相応の対応はしてくれる筈。レイディアは今はそれ以上追及せず、ダレンに向き直った。

「ほら、ダレン。私は何処も行かないから、もう寝なさい」

「や…だっこ」

不安が拭い去れないのか、ダレンはレイディアの言うことを聞かない。先程取り戻したばかりの声でレイディアに抱っこをねだる。

「きちんと眠らなくては駄目よ? 明日には貴方のお父様と一緒に村を出るのだから。しっかり眠らなければ辛い旅路になるわ」

必要以上に近すぎてはいけなかったけれど、幼いダレンとしては唯一自分を守ってくれそうなレイディアに依存することは当然で、縋る彼をレイディアに拒否できる筈もなかった。一度差し伸べられた手を失う方が絶望は深くなる。凡そ二月前に命を奪われかけ、目の前で母親が亡くなってしまったのだ。怪我は治っているが、精神状態は、完全に回復していない。これ以上ダレンに酷なことは強いたくない。

できないことをしようとして、ダレンを徒に不安にさせてしまった。けれど、このままレイディアがダレンの傍に居続けることはできないし、してもいけない。

どうすればいい。レイディアがノックターンにいることが知られれば、確実に動く国が二つ。だから、決してノックターンに行くことを知られてはいけない。

けれど、人がいれば噂は流れるものだ。幾ら箝口令をしこうがレイディアに関わらせる者を最小限にしようが、噂という形で情報は千里を駆ける。

レイディアは誰に知られることなく、誰も見てない間に消えていくことを最善とし、今もその選択肢を捨てていない。けれど、それにはオズワルドが邪魔で、オズワルドといると他の人間に囲まれることになり、レイディアの情報がギルベルト達の耳に届く可能性が高まる。八方塞り、とはこのことだ。

とにかく、オズワルドの元にいる間は、なるべく動かないようにしなければ。顔も出さず、口も利かず、自分が何処の誰か分からなければ…或いは。

「…―さん、お母さん、だっこ」

ダレンの催促の声にレイディアははっとした。いつの間にか考えにふけり、ダレンを抱く腕を緩めていたらしい。

「…ああ、ごめんなさい」

「お唄」

ぶすっとしたダレンは、さらにレイディアに要求してきた。今夜のダレンは徹底的にレイディアに甘え倒すつもりらしい。普段以上にべったりして、素直に寝ないで我儘を言う。我儘は不安の裏返しで、レイディアがどれ程ダレンを受け入れてくれるかを図っている。小さな手で一生懸命レイディアに抱きつくダレンが可愛くてならない。けれど、今もまだ必要以上に優しくしてはいけないと自制を促す理性もあり、レイディアは葛藤した。

「ん」

ダレンが再度レイディアに袖を引っ張って催促し、レイディアは観念した。

レイディアはダレンを抱き直し、小さな声で歌い始めた。優しい歌声にダレンは漸く安心したように目を蕩けさせていく。一曲歌い終える頃には、ダレンは完全に眠りについていた。

「…珍しいものを聞かせてもらった」

ダレンを寝台に寝かせ、毛布を掛けたところでオズワルドが言った。

「子守唄など珍しいものではありませんよ」

「はぐらかすなよ。巫女様の唄なんて滅多に聞けるものじゃない」

“みこ”は男女共に歌舞に秀でていると言われている。世間に披露されるのは舞のみだ。それも年に一度の降臨祭の時だけ。

アルフェッラの行事には先王かラムールが出向いていたから、オズワルドはレイディアに会うのも初めてだが、当代巫女の舞の素晴らしさはラムールから聞いていた。しかし、頻繁にアルフェッラに行っていたラムールからも当代巫女の唄については何も聞いていない。ということはラムールも巫女の唄声は聞いたことはないということだろう。

オズワルドからは微かに聞こえただけで、それが素晴らしいか否かまで判断できるほどの声量はなかったが、少なくとも、貴重な体験ではある。それを我が息子は巫女の歌声を日常で聞いているらしかった。彼女らのやりとりを見ればなんとなく分かる。オルテオ―レイディアはダレンと呼んでいるらしいが―は巫女相手に我儘を言い、それが許されている。

――なんとも随分贅沢な話だ。

と考え、オズワルドははっとした。“みこ”の目に見えない力に頼るなど国を預かる者として恥ずかしい、と先王を笑っていた自分でも、当たり前のように“みこ”を特別な存在として考え、そしてそのことに何の違和感も感じなていなかったことに気付いた。

…“みこ”を特別扱いはしない。

「さて、我が息子も眠ったことだし、俺達も眠ろうではないか」

「私は失礼させていただいても?」

「世話になってる村長の頼みでここにいるんだろ? 出て行ったら俺の不興を買ったのかと思われるやもしれんぞ」

「………」

芝居がかった好色な顔で言われたレイディアは溜息を吐いて寝台に近づいた。ダレンを真ん中にしてレイディアとオズワルドは向き直った。が、寝台に入るそぶりを見せない。それほど裕福ではない村長宅の寝台など精々二人眠れるか否かの狭い物だ。それで三人眠ろうとすれば当然密着することになる。

「私、これでも一応既婚者ですから、夫でもない男の方と同衾するなんて破廉恥な真似、できません」

「ほう、巫女が結婚していたなんて初耳だ。相手は誰だ?」

「聞いて後悔しますよ?」

「後悔などせんさ。ある程度予測している」

「……」

まあ、そうだろう。アルフェッラとバルデロの戦の後、巫女は姿を消した。死んだのでなければバルデロにいたという予想は簡単に立つ。

「であれば、今この状況が既にあまりよろしくない状況では?」

「よろしくないのはお前だけだな」

夫がいながら違う男と寝室にいる女の方が、世間一般的に批判の的になりやすい。だがそもそも、この状況は巫女の夫に知られようがないとオズワルドは思う。ここには彼女を巫女と知る者など皆無なのだから。

この時まではオズワルドは楽しんでいた。巫女とはいえ非力な女がこの状況をどう切り抜けるのかと。手を出す気はなかったが、からかうくらいは許されるだろうと、オズワルドは息子を超えて腕を伸ばし、レイディアの腕を掴んだ。


途端、レイディアの顔色が目に見えて変わった。


「…はっ…ぁ」

真っ青になったレイディアはがたがたと震え始めた。異変に気付いたオズワルドはレイディアに肩を回したが、レイディアは力弱く抵抗した。服越しに触れた箇所から震えているのが分かる。肩で息をして随分苦しそうだ。…腕も、死人のように冷たい。

「…く、ぅ…っ」

「おい、どうした? 気分が悪いのか?」

レイディアは話す余裕もなさそうで、必死にオズワルドの腕を離そうとした。けれど、その力は弱く、オズワルドの指を軽くひっかく程度の威力しかない。

「そんなに俺に触れられたくないのか?」

レイディアに嫌悪されているのだと感じて、女にこんな酷い拒絶を受けたことのないオズワルドは流石にむっとした。けれどレイディアは震えながらも必死で首を振ってとにかくオズワルドから逃げようとする。訝しく思いながらもレイディアを離してやると、レイディアはその場に崩れ落ちた。

「はっ…はぁ…」

「…おい、本当にどうした?」

レイディアの流石に尋常ではない様子に、流石のオズワルドも少々心配した。まさか、何処か患っているのだろうか?

「病では……今の…私は、男性に触れることはできないだけで…」

「……どういうことだ?」

「…仕組みは説明できませんが、今の私は、いくつもの制限を受けている身ですので」

「その制限の所為でお前の腕を掴んだ途端に真っ青になったのか?」

小さくレイディアが頷く。

「…“みこ”は基本的に伴侶以外との接触は禁じられていますが、その規則が物理的な拘束力を持ったような状態だと思っていただければ…」

オズワルドはその程度の決まりは知っている。男の神子であれ、女の巫女であれ、伴侶以外の性的行為を禁じられている。勿論、彼らが気に入った者であれば幾らでも伴侶に据えられるし、基本的に御簾の奥にいるのだから部外者が近づく機会もあまりないので、その規則はそれほど“みこ”達の行動を制限するものではない。けれど、今のレイディアの反応は…

「身体が拒絶するのです。そこに私の意志はありません。こちらの事情も都合も関係ありません。故意だろうが偶然だろうが…関係ありません」

流石と言おうか、すぐに落ち着きを取り戻したレイディアは冷静にオズワルドに説明した。

「だが、オルテオは幼かろうが歴とした男だ。だがお前はこれの世話をこれまでしてきたのだろう?」

「この子は特別です。この子の母親の願いの元…私に託された子ですから」

「……そういえば、お前はこれの母親の死に対面したのだったか」

オズワルドは先程の宴の際に簡単な事情を聴いたが、流石に第三者のいるあの場で詳しいことは聞けなかった。

「ええ、そうです。この子を抱えて、母親が襲われている場に居合わせました」

刺し貫かれる瞬間は見ていないが、何者かがいた気配と、それらが去った後に腹を貫かれた女を確認した。レイディアは夜目が利く。凶手が剣を振り上げた瞬間を逃しはしなかった。明らかに、確実にこの子共々命を奪うことが目的であった。そしてダレンの素性はこの王の息子。…下衆の勘繰りで幾らでも想像できるが…

「……貴方は…この子の母親について、安否を一度も訊ねませんでしたね」

ダレンが一人でいる時点で彼女の死は予想していたのだろうとは思うが、仮にも彼女との間に子を成した関係なのだ。彼女の死が分かっていても彼女を案じる言葉の一つくらい出てもよさそうなのに、それが少しも出ないのは……

「一つ、尋ねたいことがあったのです。あの場では流石に不敬となりますからね。この子の母親は、貴方の何でしょう? ご正妃様はいらっしゃるそうですから…愛人? ご側室? それとも一夜のお相手?」

あえてオズワルドを煽るように踏み込んだことを聞く。案の定オズワルドは嫌な顔をしたが、暫し悩んだように考えた後、答えてくれた。

「…一夜の相手に選ばれ、その一夜でオルテオを身籠り、側室となった女だ」

ありがちな経歴で、そんなところだろうとレイディアは納得した。王の相手をする者はいくらでもいる。そして最終的に彼女らの目的は王の子を産むこと。しかし流石に子供だけは授かりもの故に大人達の思い通りにはいかない。正式に後宮に迎えられたにも拘らず、何年たっても王の子を産めないことも、たった一夜限りの伽だったにも拘らず王の子を身籠ることもある。だが、後者の場合、身分のない者や後腐れのない、つまり産ませる予定のなかった女である場合が多く、それはつまり王が避妊に失敗したことを意味する。妃との間に子を諦め、とにかく子供を成す為に相手をさせた結果の場合を除き、後々問題になる場合がある。さて、オズワルドの場合はどうだろう?

「俺は正妃とは不仲でな。正妃との間に次の子が望めないから、後宮の女官で気立ての良い娘を選んで相手をさせていた。その内の一人がこれの母親だ」

ノックターンは複数の妃を持つことが認められた国であるが、当代の正妃の悋気が酷く、側室の存在を認めなかった。なまじ正妃の生家が国でも有数の貴族なため、その意思を無視することができず、しかし、子供を産まねばならぬ王の義務の板挟みに考えた結果、オズワルドは身元が確かな者である女官なら、誰が産もうと構わないと、側近に選抜させて相手をさせることにした。出しゃばらず、容姿も申し分のない者を条件に選ばせた。とりあえず一人一回ずつ相手をさせて、その一回で身籠れなかったら、また次の女を、と繰り返したら、当たったのがダレンの母親だったというだけだった。ダレンの母親はどう思っていたかは分からないが、特に王に見初められて後宮入りした訳ではなかった。何はともあれ、産んだのが待望の王子、オルテオである。このオルテオを暫定王太子とし、成人した暁には正式な王太子としてお披露目をすることを定められた。

「これの母親は、当然国母となるから正妃の、側室は認めない、という意見が通る筈もない。身籠ったことが判明した時点で正式に側室とした」

「………なるほど、そちらのご事情はお察ししますが、暗い森でそのご側室様がお亡くなりになるような事態が、どうして起こったのです。貴方が守らねばならぬ方が」

「証拠はないから、迂闊なことは言えぬ」

「……では、質問を変えましょう。貴方は、この子の母親の名前をご存じでしょうか?」

「…名前? ……」

レイディアは溜息を吐いた。この王は、王の義務以上のことを、ダレン母子に果たしていなかった。彼らを実質見ていなかったのだ。勿論後継者とその子を産んだ女性への対応は最高の待遇だったろうし、厳重に警備はされていただろう、生活も何不自由のないものを用意していただろう。しかし、オズワルド自身が彼らに無関心だと、その心境は配下にも伝わる。オズワルドの態度がそのまま使用人たちの対応に反映されてしまうのだ。特に王の寵愛が権勢を左右する後宮では、それが顕著だ。オズワルドが積極的にかかわり、彼らと言葉を交わし、彼らの様子を見ることはしなかったのなら、使用人も義務的に彼らの世話をするだけになる。だから、ダレン母子の敵が付け入る隙ができてこのような事態となってしまったのだ。現にオズワルドはダレンの母親の名前さえおぼろげだ。ダレンの母親を愛して側室に迎えた訳ではないようだから、無理はないかもしれないが、せめて後宮の女を守るのは、王の義務だ。義務のみ果たそうとして、結局義務さえ果たせていない。

義務も果たせないオズワルドに、レイディアは怒りを抱えていた。

「もう、彼女がいない今、彼女に対する貴方の仕打ちを言っても仕方のないことですが、この子だけは、絶対に守って下さい。それがこの子の母親の願いです。私を呼ぶ程にこの子を守ることを強く願った。だから私はこの子に触れられる。この子を守るように願われたから。でも、一番この子を守ってあげなくてはいけないのは、実の親でしょう?」

レイディアはその怒りをぶつけた。この王はまだ未熟だ。だが未熟が悪いのではない。その未熟さを支えるのが臣下だ。だがその未熟さの被害者がその後継者というのは非情にまずい。政治をどれほど円滑に行えたとしても、後継者を立派に守って育て上げられなければ国を乱す。

「貴方はそれでも王ですか、人の親ですかっ。今度は守ると言っても、相も変わらずダレンに無関心では同じことを繰り返すだけだと思われても仕方ないのですよ?!」

レイディアの訴えを、オズワルドは怒ることもなく真剣な表情で聞いていた。未熟でも、聞く耳の持たない子供でもない。そんなオズワルドに、レイディアは微かに期待を抱く。

「……そうだな。確かにお前の言う通りだ。これからはオルテオとその周囲に気を配り、守ることを神にかけて誓おう」

今度こそ真摯な答えを聞くことができて、レイディアはほっとした。

「………余所の者が、出しゃばったことを申し上げました」

「いや。俺にものを言うものはあまりいない。俺が耳を貸そうと思える者も少ない。お前の言葉は正直、有難い」

「身分に限らず、心から訴える者の声に耳を傾けてください。そうすれば、貴方はもっと成長できる」

「……巫女様がそういうのなら、そうなのだろうな」

そして、オズワルドがレイディアを伺うように口を開いた。

「もう遅い。今宵はもう眠ろう」

「……ですが」

「俺が床で眠ることも、お前を床で眠らすこともできぬ。安心しろ。俺は決して何もせぬから」

男が女に夜に、寝室で、何もしないという言葉ほど信用ならないものはないのだが、オズワルドはレイディアに説教のようなものを受け、現在は反省して宴の時とは打って変わってしおらしくなっている。

「……その言葉、信じますからね」


一夜明けて、レイディアはオズワルドの許可を得て朝靄が晴れぬ頃にジャンの家に戻った。

「ジャンさん、アンさん」

そっと戸を開けてみると、既に起きて仕事を始めていた二人は飛ぶようにレイディアの元までやってきた。

「ああ! レイディア。心配していたんだよ! その…それで、大丈夫かい? その…その…王様に、ご無体な真似は…」

「アンさん。確かに村長さんに頼まれて寝室をご一緒しましたが、その場にダレンもいたのです。私はダレンの世話に始終して、眠る時も隅で休ませていただきました」

レイディアはアンの手を取り、安心させるように微笑んだ。

「そ、そうかい。いや、良かったよ。村長がレイディアに王の世話を頼んだっていうから…いくら何でも家で預かってる女の子を差し出すなんてって、村長に抗議したんだけど、流石に王のご寝所に押し掛ける訳にはいかなくてね…」

アンは申し訳なさそうにレイディアの手を額に押し当てた。しかし、アン達が何もしなくて良かったと思う。もしいらぬ不興を買えばこの村に未来はない。

「ジャンさんも、お気遣いありがとうございます。昨晩は、ダレンのことや今後のことを話し合っただけですから」

「そうかいそうかい。うんうん、本当に良かった」

実際、レイディアはオズワルドと寝台は共にしてもダレンを間に挟んで眠ったので後ろ暗いことは何もない。…周囲はどう捉えているかはその限りではないが、何もなかったと一人一人に説明して回ることなどできはしない。

ともかくアンとジャンに安堵の笑みが浮かぶのを見届けると、レイディアは一歩下がって、二人に深々と頭を下げた。

「私は、これよりノックターン王と共に参ります。殿下も一緒に。彼の乳母として。これまで本当にお世話になりました」

「え、今日なのかい? いや、村長がそんなことを言っていたけれど…」

「ダレンは、ノックターンの王子で、そのお世話をする為と、殿下を助けた礼も兼ねてレイディアを城に招待するとか村長がそんなこと言っていたけれど、本当なのかい?」

「はい」

「でも、ノックターン王はそもそも遠征にいらっしゃって、こちらへはついでに寄っただけなんだ。行軍を女の身で、それもこんな小柄な体で追従するのはいくら何でも酷ではないかい?」

ノックターンの遠征軍に加えられることとなると、女子供にはついてこれないのではないか、もしかしたら戦に巻き込まれてしまうかもしれない、と心配するジャンにレイディアは頷いた。

「そうですね。確かに大変かもしれませんし、不測の事態が起こらないとも限りませんが、私とダレンはずっと馬車の中で過ごし、護衛も付けていただけることになるらしいので、王にはご配慮いただいております」

ダレンはオズワルドの息子でさらには初陣にはまだ早すぎる程幼い為に、護衛を付けてレイディア達は軍の最後尾の実際に戦に出ない部隊まで下がることになっているから、早々危険な目に合うこともないはずだ。

レイディアの顔を見て、アンは諦めた顔をした。

「…行くことを決めたんだね?」

レイディアが近いうちにここを出て行こうとしていたことは、何となく感じていた。きっとノックターン王と共に行くつもりではなかったろうが、誰かと共にいてくれた方がアンとしては安心だった。

「はい。本当にお世話になりました」

レイディア達が最後の別れの挨拶をしていると、戸口からレイディアの監視についてきていた側近の一人が顔を出した。

「…もういいでしょうか? そろそろ出発します」

レイディアはアンの手を離した。

「…私が作った布は、家計の足しにしてください。せめてものお礼です」

「レイディア…」


レイディアが外に出ると、何故かオズワルドがいた。彼は先に村の入り口で待っているのではなかったか。その腕にはまだ眠たそうなダレンを抱えている。アン達は慌てて跪いた。

「来たか」

「態々迎えにいらしたのですか? 逃げはしませんから、お待ちになっていればよろしかったのに」

「まあ、そういうな」

オズワルドは毛布を持ち、それをレイディアにふわりと纏わせた。

「この地域は比較的温暖だが、朝方は冷える。その薄着では寒かろう」

「直に渡してくだされば自分で纏えますわ」

「これなら、直に触れずに済むだろう?」

意地悪げにレイディアの耳元で囁かれ、レイディアは顔を顰めた。昨夜、オズワルドに直に触れられて体調が一変したことを指している。しかし、王がただの村娘に対して毛布をかけるなんて行為は、オズワルドとの仲が睦まじげに見えてしまうのだ。それも、労わられる立場…つまり大事な女のように受け取られる。これは村の者達へというよりも、自分の側近達への意思表示だ。レイディアはオズワルドを睨まないようにするので精一杯だった。

「…ダレンの乳母として共に城に赴くことは了承しました。これ以上私を目立たせないで」

「だが、王のお気に入りという立場は自分を守る盾にもなるぞ?」

「王のお気に入りの立場にいる者が何者なのか、詮索されることの方が煩わしい」

「王の庇護を拒否するとは、流石だな」

オズワルドは昨夜でレイディアの硬質な態度に慣れたのか、いくらか気安い調子でレイディアとのやり取りを楽しんでいた。そしてレイディアの予想通り、驚いた様子でまじまじと二人を見ているオズワルドの側近は、レイディアを注視し始めた。オズワルドの側近ということは、オズワルドが傍にいる限り、彼ら側近達との接触は免れないということだ。今後敬意を払うに値する女なのかと値踏みする目が恐ろしく、レイディアは目を伏せて極力気配を薄くした。

「では、行こうか」

オズワルドに背に手を添えられて歩くよう促された。

山の麓に馬車は用意されているらしく、下山する間はレイディアはオズワルドと、ダレンは側近と相乗りすることになるらしい。レイディアは一人で馬に乗る練習をしておくんだったと後悔しても遅い。最早、オズワルドの側近達には、レイディアはダレンの乳母などと認識はされないだろう。

レイディアは村を出る直前、村の出口に揃った面々を見渡した。ジャンとアンだけでなく、ガラックとモリー夫妻もいた。申し訳なさそうな村長もいた。ダレンを遊びに誘ってくれた子供達も、何かと話しかけてくれた村の大人達も、皆がいた。

レイディアがここで過ごしたのは二月と少し。時が止まったような穏やかな村での時間は、レイディアを、そしてダレンを確かに癒してくれた。

「…お世話になりました」

深々と頭を下げて、レイディアはダレンと共にアドス村を出たのだった。








カンッという小気味のいい音が聞こえてくる。ビアンカは家の裏手へ顔を出すと、予想した通り、我が家に居候しているネイリアスが薪を割っている音だった。細いのに意外と力のある後姿に自然と口端が上がる。

「お疲れ様、ネイリアスさん。お、お茶にしない?」

ネイリアスの右側に薪の山が積まれているのを確認して声をかけると、ネイリアスは優しい笑顔で振り向いてくれた。

「やあ、ビアンカ嬢。どうもありがとう」

斧を脇に置いてビアンカに近づいてくるネイリアスに琥珀色の茶を注いだ茶器を渡した。

「はいお茶。足、昨日の今日でまだ治ってないんだから、あんまり無茶しないのよ?」

「心配してくれるの? 優しいんだね」

「…ち、違うわよ。いつまでも我が家に居候されちゃ迷惑だって言ってんの!」

「これは手厳しい。…でも、そうだね。ご両親の好意に甘えてしまったけれど、お嫁入り前の娘さんと、何処の者とも知れない男が一つ屋根の下にいるってことは、外聞も悪いしね。早速今夜あたりに君のお父様に出ていく旨を…」

「そ、そんな急に出ていくことないじゃない!」

「え、でもさっき…」

「も、もう! いいから私の家で大人しく傷を治しておけばいいのよ!」

「…では、お言葉に甘えて」

ビアンカは彼に気付かれないようにほっと息を吐いた。それからそっとネイリアスの横顔を盗み見た。と思ったらすぐにネイリアスと目があい、ビアンカは反射的に目をそらす。

「…お茶。飲んだらそこに置いておいて。後で取りに来るから…」

ネイリアスの視線に耐えきれず、ビアンカは家の中に駆け込んだ。駆け込んだ勢いのまま、その場にしゃがみこんで自己嫌悪に陥った。

…何やってんの私。

ビアンカは自分の変化に戸惑っていた。つい昨夜、ネイリアスを遊んだ帰りに拾った。それは帰りが遅くなった大義名分の為であったが、純粋に心配する気持ちもあったからだ。そのネイリアスは自宅でビアンカを叱るために待ち構えていた父を前に穏やかな態度を崩さず事情を話し始め、どんな奇術を使ったのか、ほんの一刻もすればビアンカへの父の怒りは逸れ、更にはネイリアスをとっておきの酒で振る舞うほどにネイリアスは父に気に入られていた。

「……しかも、家の力仕事を手伝う代わりに怪我が治るまで家に置くっていうし……」

愚痴を言うも、その口がどうしても緩む。ビアンカはネイリアスの様な大人の男と知り合ったことがなかった。ノックターンの王都で遊ぶのは、遊びなれた同年代の男達ばかりで、彼らは大人ぶることはあっても、皆まだまだお子ちゃまで…遊ぶにはいいが魅力的に感じたことはなかった。本当に大人な男性、そう、それも父と同年代の脂臭いおじさんでもない、大人な人と知り合うのは、ビアンカには初めてだった。

ああいう人を、包容力がある、っていうのかな…

昨夜だって、王都の遊び友達だったらあんなに父と堂々と会話することなんてできはしないわ。見た目は何だか頼りないけど、意外に頼りがいあるし、優しいし、紳士だし…恋人いるのかな?

ビアンカはネイリアスに抱きしめられる(何故か)金髪くるくる美人な誰かさんの光景を想像し、ぼっと顔を赤らめた。そんな時、応接間から出てきた母と鉢合う。

「ビアンカ。あら、今日も王都に遊びに行くんじゃなかったの?」

「………どうでもいいでしょ。そんなこと」

ネイリアスが何だか気になって遊びに行く気が失せてしまい、朝からネイリアスの周囲をうろうろしていたビアンカだった。

「ちょうど良かった。新しい刺繍の先生をお招きしていたの。遊びに行かないなら花嫁修業の一つもしなさいよ。本当に貴女はお転婆で、いつになったら孫の顔を見せてくれるのかしら。だいたい…」

「ああー! 分かった、分かった。刺繍する。やるやる。やるから!」

母の小言は一に始まり、ビアンカに直接関係のない愚痴に変化して、そこからビアンカの至らなさに戻ってくるまで終わらない。ビアンカは母を遮って立ち上った。

「あらぁ珍しい。刺繍なんて出来なくても死にやしないって何度も放り投げてたくせに」

「もう、昔のことでしょ」

ビアンカは珍しく刺繍なんていう女の子らしいものに興味を示した。何となく、大人の男には淑女が似合うと思ったからだ。


刺繍がきれいにできたら、彼は褒めてくれるかしら?


ビアンカは針を持って考え、はっとした。

何? 何言ってんの私。あんな、あんな、頼りないひょろっとした男なんて、何でもないんだから。

ビアンカはむすっとして布に針を突き刺し、ついでに指も指して悲鳴を上げた。


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