第六十三話
カチン、という音にフォーリーははっと我に返った。フォーリーの眼下には手元から滑り落ちた茶器の蓋がころりと転がっている。
「………あ、あら」
フォーリーはバルデロ王ギルベルトの乳母として王宮に上がってからずっと、女官長として働く現在までずっとバルデロ王家に仕えてきた。自らの手で育てた王ギルベルトからの信頼も厚く、王の腹心と目されて、自らもこの立場に誇りを持ち、これまで仕事中にぼんやりとすることなんてなかったのに…
「もう、歳かしらね…」
五十を目前に控え、そろそろ後継者を考える時期だ。自身はまだぴんしゃんしているつもりで、若い頃にはいくらでもきいた無理がきかなくなっていることも事実で。
「………駄目ね、弱気になっちゃ」
とにかく、レイディアが不在の今、フォーリーが倒れるわけにはいかないのだ。大丈夫だ。王宮には優秀は女官達が大勢いる。
フォーリーは引き出しから巾着袋を取り出し、さらにその中から小さな丸薬を一粒取り出すと、水と一緒に飲み込んだ。少しして気分も治ってくると、フォーリーは途中だった仕事を再開した。
「こちらの御子様は、失踪された我が国の王子、オルテオ殿下に間違いございません」
ノックターン王の行軍に追従してきた侍医がダレンの刺青を確認して恭しく告げた時から、周囲の空気ががらりと変わった。村の代表として同席していた村長は腰を抜かし、王の側近達がわっと喜びに沸いて、ダレンの前に膝を着いた。
「まことに喜ばしいことでございます。オルテオ殿下の行方の手掛かりもなく、どれほど心配したことか…」
「なんという幸運。この行軍の最中に…これも神のお導きでしょう。神に感謝せねば…」
一方で、顔を曇らせる者もいた。
「しかし、お声を失くしてしまわれているとか…御労しいことです」
「王都に戻ればきっとよくなりましょう。王都には喉に詳しい医師もおります」
「………」
王の側近達がダレンに跪きながら切々と訴える様子を、ダレンは喜ぶでもなく、困惑した表情でその様子を眺めている。
レイディアはそんなダレンを、彼らから少し離れた村長の隣から見守っていた。
…先程から、視線が痛い。
視線の主はノックターン王オズワルド。オズワルドは部屋の全体図を無感動に眺めているようで、その実ずっとレイディアを注視していた。ダレンがレイディアに向ける助けを求める視線よりも、うなじがぴりぴりと感じるような強い視線。
レイディアは安心させるようにダレンに微笑みかけ、軽く頷いてやる。その些細なやり取りにさえ、オズワルドは見逃さずに目を細める。レイディアの真意を探るように。
見つめられ続けることは気分が良いことではないが、気にするほどでもないので、レイディアは彼の視線をいなし続けた。どうせこの膠着状態も長くは続かない。ならばそれまでダレンを宥めていたところで何も問題はあるまい。
一方、レイディアの観察を続けているオズワルドも、この膠着状態に辛抱強く耐えていた。
他の者が一国の王にそのような目を向けられて平静でいられないだろう視線をあえてレイディアに向け続けたが、彼女は簡単にいなし、委縮した様子もない。気付いていない筈はないが、そんなそぶりを見せもしない。笑みさえ浮かべている。見た目に反して相当に肝が据わっている様だ。
…やはり、この女が“巫女”であることは真実なのだろうか。
決定的な証拠をほんの一刻前に自ら確認したばかりだというのに、未だに確信が持てないでいた。だがそれも仕方ないと思う。神の愛し子がこんな辺鄙な場所にいると誰が思うだろう。その一方で高く鼓動を打っている心臓が、彼女を本物だと告げていた。どうしようもなく胸がざわついて落ち着かない。
よもや、この村に来るまではこのような展開になるなど思いもよらなかった。彼女から視線を外さないまま、先程から頭から離れない光景を繰り返し見ていた。
彼女に顔を上げさせた時、垣間見た瞳。黒曜石よりもなお深い漆黒の眼は、オズワルドの顔を鏡のように映した。
オズワルドを、はっきりとその目に映して、そしてオズワルドの耳元で囁いたのだ。
『私に触れるな、ノックターンの王よ』
オズワルドの背筋に痺れが走った。不遜にも『自分に触るな』と言った。王である己に対して。だが、傲慢ともいえる台詞だというのに、オズワルドが感じたのは不愉快なものではなかった。むしろ…
オズワルドは咄嗟に目を閉じ、興奮をやり過ごす。
それはおそらく、彼女の態度があくまで自然だったからだ。下位の者が上位の者にたてつく無礼な態度ではなく、対等の者に対する者だった。そしてその態度が、すんなりとオズワルドに受け入れらるほど、当たり前のように。
……だが、一体何故こんなところにいる?
結局は最初の疑問に戻る。彼女が“巫女”であるとしたら、ここにいる理由は何だ。彼女がいるべき場所は、祖国アルフェッラか、そのアルフェッラを落とし、“巫女”を奪ったバルデロ王の元の筈だ。当時、バルデロ王は“巫女”の死亡を公式発表したが、その遺体を見た者はいない。葬儀も上げられていない。だからオズワルドは“巫女”の死亡説など信じていなかった。だから“巫女”が生きていたことに対して意外に思いはしないが、こんなバルデロにも、アルフェッラにも手が出せない遠い地にいるとは思わなかった。
……俺は、面倒なことに巻き込まれようとしている。
オズワルドはこめかみを抑えた。レイディアがここにいる理由をどう検討しても、導き出される結論はどれも面倒なものばかりだ。
“巫女”がこれまで何処にいたとしても、これまで決して表に出てこなかったことからすると“巫女”を匿っていた者がいるはずだ。その者から逃げたとしたら、彼女から逃げられた者は必ず追ってくる。その動きを察知して、“巫女”の捕獲に動き出す者達も新たに現れる可能性は大いにある。
たとえ国を失くしたとしても、“巫女”は“巫女”なのだから。欲しがる者は後を絶たない。
ここで問題なのは、“巫女”を欲しがる者は、力を持つ者ばかりだということだ。“巫女”は人知を超えた能力を有す、というのは古来から伝えられる伝説で、また“巫女”は平和の象徴、争いを諌める使者というのが世間一般の認識だ。だから権力を欲しがる男達は“巫女”を欲しがる。覇権を唱える者にとっては格好の大義名分となるからだ。平和の名の元に、己の権力を正当付けられる。
……その、旗印となり得る存在が、今、己の手の内にある。
能力の限りを尽くして歴史ある大国として領土を増やし発展し続けることが己の王として課せられた責務だと思っている。権力を持つ者の常として、覇王となったら、と思いを馳せることはあっても実行に移すつもりはなかった。そこに行きつくまでに多くの血を流し、世をいたずらに乱すことは望むところではなかったからだ。“巫女”に頼るなど以ての外。そもそも、オズワルドは実力主義なのだ。目に見えない不確かな能力に頼るなど王としてあるまじき軟弱な姿勢だと、“巫女”を崇拝していた前王である父と何度争ったことか。
前代“巫女”のシェイゼラが“巫女”であった当時、彼女の婿の選定に、婚約者候補として名乗りを上げたが代わりにノックターン王になれる年頃の王子がいなかったという理由で選ばれず、それでも諦めきれずに“巫女”の伴侶になることを切望して、その望みを己の子に託した前王。晩年は狂気じみて、アルフェッラへの貢金も惜しまず、第三王子ラムールを“巫女”の伴侶にと推し続けていた。
…そんな父王の背を見て、ああはなるまいと誓った。
世の乱れを正す筈の“巫女”が火種を生む。人の傷を癒す筈の“巫女”が人に血を流させる。皮肉なことだ。だが、そこに“巫女”の意志などない。一度“巫女”が表舞台に立てば、“巫女”を台風の目として争いが勝手に始まる。
……彼女の処遇をどうするにしろ、放置はできないことに変わりはない。
オズワルドは目を開け、彼女を今一度見た。考えが一応纏まって改めて彼女を見ると、違和感に気付いた。
現在、オズワルド達はアドス村村長宅にてささやかな祝宴で持て成されていた。最低限の護衛だけを連れて残りは麓の街に置いてきた。今から戻ると夜の山を歩くことになる。まして不慣れな山道では危険だと、この村に一晩滞在することとなった為だ。護衛たちは村の外で野営させている為、オズワルドと、その側近数名、村長とオルテオ、そしてフロークと名乗った彼女だけの宴会だ。
事前に毒見を済まされた料理ではあるが、オズワルドは殆ど手を付けず、彼女に注がれた酒を呑み彼女の動きを追っていたのだが、どうにも違和感が拭えないでいた。
この中でただ一人の女である彼女が、側近達に酒を注ぎ、息子に料理をついでやっている。彼女にダレン、と呼ばれている息子は落ち着かない様子ながらも彼女に声をかけられた時は少しだけ表情を緩ませ、料理に手を付ける。随分懐いているようだ。
至上の存在とされる“巫女”が給仕を手慣れた様子でやっていることも相当に不思議な光景だが、それ以上の周囲の反応がオズワルドには解せなかった。
………何故、他の者達は彼女を見ないのだろう。
相手には困らない王族であるオズワルドは美女という美女を見慣れている。愛らしく情けを乞い、可憐で健気に振る舞う女を飽きるほど見てきた。だが彼女はその女達の類とは全く違った。静謐で、侵し難い領域の向こうに彼女はいた。男に気に入られる為に咲く徒花ではなく、男に跪かれる高嶺の花だ。容姿だけでなく、化粧も宝飾品もなく、ただ己の持つものだけで他を圧倒できる女は、砂漠の中の砂金のようなものだ。
そんな女にオズワルドの側近達は誰も反応しない。中には女との浮名が絶えない臣下もいるというのに、不自然なほど彼女に対して注意を向けず存在を流している。
まるで、彼女を置物か何かだと思っているかのように。
ただの偶然かもしれない。たまたま彼女の顔を見そびれているだけかもしれない。室内は灯りがあっても薄暗いし、被り物をして、顔をうつむきがちにしているのだから。だが、最も離れた上座に座るオズワルドが見えて、側近達に見えない筈はない。
酒を注がれれば、反射的に相手の方に注意が向く。あまつ料理を勧められて、実際、彼女の声に反応しているというのに…一瞥もくれないなど、あり得るのだろうか?
これといった進展もないまま宴もたけなわとなり、オズワルドが杯を置いてとうとう切り出した。
「女…フロークと言ったな」
直接声をかけられてレイディアは、酒壺を床に置いてオズワルドに身体を向けた。オズワルドは笑みを浮かべていた。しかしその奥は笑ってはおらず、意図してレイディアに圧力をかけていた。
「我が息子を救ってくれたことを改めて礼を言おう。生存も絶望視していたところからの奇跡的な生還だからな。この村への礼は勿論だが、そなたにも礼をしたい」
「いいえ、お気持ちだけで結構でございます」
「そう遠慮せずとも良い。こちらの感謝の気持ちを示させてはくれぬか」
レイディアはさらに固辞しかけたところで、臣下達の目がこちらに向いていることに気付き、伏せた顔をさらに下げた。一度レイディアの存在をしっかりと認識されてしまえば、気配そのものを薄らげる“雲霞”は二度と使えない。それを面倒に思ったレイディアは、喉まで出かかっていた言葉をすり替えた。
「…ならば、扇を一つ、頂戴しとう御座います」
「ほう。では、その扇に合わせた衣装や宝飾品も付けよう」
「いいえ、そのような物は頂いても活用する場は御座いません。できますれば、大陸に古くから伝わる技法で作られた伝統ある扇を頂きたいのです」
「…なるほど、相応に拘った扇ということだな…」
王族が感謝の印として民に下賜する品として、王族が持つ品としてもふさわしい逸品を贈るのは妥当だ。オズワルドは手を口元に寄せ、暫し考え込んだ。
「……我が国にはアルフェッラに長年修行を積んだ職人が居る。その者に作らせよう。材料はそうだな…扇骨は樹齢百を超える大樹、扇面はこの大陸一の清き川ツラリヨの水で紙漉きをなされた和紙を張られた物はどうだ?」
この大陸中で最も古い技巧を持つ国は、歴史的にも最古だったアルフェッラだ。現在はバルデロに吸収されてしまったとはいえ、その技術までは失われていない。それに、彼女が望んだ技法はおそらくそのアルフェッラ式の物だろう。
「結構でございます」
案の定満足げに頷く姿を見られた。これを贈るのに何の障りもない、が…。
「その品を贈るのはやぶさかではないがな…、それだけ拘るとなると、一朝一夕で作ることはできぬ。何せ、腕の良い職人は居っても、材料を集めさせねばならぬのだから」
「結構でございます」
もう一度頷いたレイディアに、オズワルドはにやりと笑った。
「そこで、どうだろう、扇ができるまで、我が城に滞在しては?」
レイディアは表情こそ変えなかったが、微かに手首を擦った。
「栄えあるノックターンの王城に参るなど、恐れ多くございます」
「何を言う、そなたは我が息子の恩人。ひいては国の恩人。心ゆくまで持て成したところで誰が厭うというのだ」
「私はこの子を見つけただけで、凍えぬよう衣類や食事を与えてくださったのはこの村の方達です」
「だがそなたが見つけてくれたおかげでその救いを得ることができた」
「………」
さて、ここまで来ては、ただの村娘として相対しているレイディアではこれ以上オズワルド王の提案を退けることは難しい。恩人をもてなすという便利な建前の真意は、言うまでもなくレイディアを目の届くところに確保しておくことだろう。何処にも属さない“巫女”は火種にしかならない。為政者にとってすれば、火種が勝手に動かれる状況は空恐ろしいに違いない。それは理解できる。
しかしレイディアはノックターンに用はない。ダレンをあるべき場所に帰してしまえば、このアドス村にもいる理由はない。だが、人知れず逃げるには、この王が邪魔だ。
…なにせ、この王には、“雲霞”が効かない。
己の存在を薄くする能力は、稀にそれが通用しない者もいる。
バルデロ国国王にして夫ギルベルト、現アルフェッラ総督である兄ユリウス、盗賊“鷹爪”の頭目ドゥオ、レイディアの婚約者であったラムール、そして…ラムールの実兄でノックターン国国王オズワルド。
レイディアは揃えた手を握りしめた。予定がここにきて大きく狂ってきてしまった。
ダレンのこれからをレイディアがずっと見ていることは叶わない。ならばどうしたって自分以外の庇護の元に送り出すしか、ダレンにしてやれることはない。
そしてダレンの母親が何故あのような森の中で死なねばならなかったのか分からないまま、オズワルドへダレンを引き渡すのは危険であることは重々承知だが、彼以外にダレンを託せる者がいない。
だからレイディアは直接ここにダレンの実父を呼び寄せた。自ら見定めるつもりで。
幸い、オズワルドの目にダレンへの愛情は見えねども、憎しみなど悪感情は映ってはいなかった。息子を抱きしめようともしないけれども、義務は果たす意思はあるようだ。
オズワルドにダレンを守ると確たる言質をとったことで、少なくとも今後彼の命が脅かされることはなくなり、レイディアは安心してダレンの手を離せる。
そして、レイディアはここを一人で出て、姿を消せばいい。
そう思い計画を実行してあと少しというところで、この番狂わせ。
レイディアは苛立ちを押し込めるように唇を強く噛んだ。
煩い。鈴の音が。ちりちりと、誘うように、操るように、唄う。
思考を奪われる。奪い返す。行動の決定権を、己の手から離さぬように。
――あくまで邪魔するというのなら、逆らいましょう、歯車に。背きましょう、貴女の願いに。
私達の始祖、フロークフォンドゥ。
オズワルドはレイディアの様子を漏らさぬようじっと見つめていた。そして確信した。
今“巫女”の存在を知られて困るのはオズワルドではない。最も困るのは“巫女”本人。
理由は何にしろ“巫女”はここに身を潜めていたことは明白で、だから本当ならば危険を冒してオズワルドをここまで呼び寄せることはしたくなかった筈だ。けれど、オルテオを保護した為にそうせざるを得なくなった、といったところだろう。
オズワルドは息子である幼子を面白い物を見るような目で見た。
この子は幸運の星の元に生まれたようだ。“巫女”の庇護を受けることのその意味を。ひいてはノックターンに降り注がれる幸運を、未だ本人は知らぬようだが。そしてその幸運は、執政者として欠かせぬものだ。
そしてもう一度レイディアを見た。
――流石は、大陸の頂点に在った女といったところか。否、現在も…
村長の家にしてみれば部屋を灯す燭台から料理を乗せている皿に至るまで質素に尽きる。これが村にある最高の物であるとしたら、ノックターンの王都に暮らす庶民の方がよほど良い物を持っている。だがそんな質素に尽きる食器を彼女が持てば、不思議と風情のある品の良い食器に早変わりする、ように見える。姿勢正しく座す姿は楚々として、俯いて影が落ちる目元さえも麗しく、陰気さは欠片も感じられない。容姿が美しい為でもあるが、形ばかりが整っているだけの人形とも違う。その眼が、オズワルドを厳しく見定めている。
どうやらレイディアにとってオズワルドは畏敬の念を示すべき相手とは見做されていないらしい。事情の知らぬ者の手前、形ばかり体裁を整え、オズワルドに頭を垂れているに過ぎぬ。この大陸の中央を統べるこのノックターン王オズワルドに。
それが決して不愉快でないのことが愉快に感じた。それはおそらく、彼女の慇懃な態度はこちらを軽んじている訳ではなく、ただオズワルドが『王』という役職に就いているだけの人間だと見ているからだ。
―“みこ”にとっては王も農民も奴隷も同じ。
―“みこ”は己の勤めを立派に果たす者に微笑みかけ、手を差し伸べる。
―“みこ”の加護が欲しければ己の役割を自覚し義務を果たせ。
古来より伝えられる“みこ”を奉ずるアルフェッラの教えだ。ただ『王』であるだけでは敬意を示すには能ず、その役目を果たして初めて“みこ”が目を向けるべき人となり得るのだと。その教えの元、レイディアがオズワルドを見たとしたなら、まさしくオズワルドを見定めているのであろう。
一人興に乗っていたオズワルドの耳に、不意に耳障りな声が聞こえてきた。
「陛下! 僭越ではありますが、申し上げてもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
オズワルドに着いてきていた従者の一人が意を決したようにオズワルドの前に膝を進めた。
「は。では、この女人を王都まで連れて参りるということは、これからの従軍にも連れて参るということでしょうか」
「…そうだな。それが?」
当たり前だ。オルテオだけを連れてここを大人しく去れば、恐らくこの村から彼女は消える。
「ですが、女人にそのような辛い行軍は聊か不憫ではないかと…」
「ここは、一つ、一度王都に帰ってから正式に客人としてお呼びになっては」
どうお礼をするのは自由だが、王都まで連れて行かれるとなると話は違ってくる、ということだろう。侍従達にとってレイディアはただの村娘である。期限付きとはいえ、王の客分になるということは、少なからず王の情人になる可能性を含んでいるからだ。身分ある者が、身分のない者を慰み者にする、という構図はいつの時代にも何処の国にもあることだが、それだけ騒動があったということだ。
オズワルドに限らず、権力を持つ者が縁もゆかりもない異性を招く行為は、事実はどうであれ、そういう意味にとられる。この場合、レイディアが既婚か未婚かは関係ない。王の一時の戯れには問題にされないのだ。
「そのような面倒をせずとも良かろう? ほんの数か月程、我が城に滞在していただくだけのこと」
「は、しかし…」
ともあれ、侍従達にとっては少なからず恩がある村娘といえ、いや恩があるからこそ、レイディアをノックターンに招き入れることは、後宮の乱れを誘発するのではないかと危惧した。何せ彼女に懐いているのは、オズワルド王の一人息子なのだ。オルテオを操って後宮からノックターンの実権を握るのでは、とまでこの者達は危惧しているのだろう。
「…王妃様が何と仰るか…」
口を開きかけたところで、侍従は失言に気付き、口を閉ざした。オズワルドの笑みの消えた目を受け、侍従は震えあがった。
「何故俺があれの意向を気にしなければならぬ」
「申し訳ありません…」
「お前は俺の決定に反対というのだな」
「いえ、決してそのようなことはっ」
オズワルドは侍従の言葉を遮り、その他の臣下達を見渡した。
「他に、反対する者は?」
誰も何も言わない。静かに頭を垂れてオズワルドに恭順の意を示す。しかし、納得いかないのは反論した侍従だけではない。レイディアとて、ノックターンに行く理由がない。
「オズワルド陛下におかれましては、私への多大なご厚意を示して下さり、恐悦至極に存じます。しかし、私の様な者がノックターンの王城に居れば、ダレン、いえオルテオ殿下の障りにしかなりません。ですから、私は」
辞退させていただく、という前にレイディアは強く引っ張られた。レイディアが後ろを見ると、ダレンが力一杯レイディアの服を掴んでいた。
「………オルテオ殿下。お放し下さい」
ダレンは首を勢いよく横に振って、いっそう服を掴む手を強めた。けれどレイディアはその手を握り返しはしない。レイディアとて、常ならばこんな無責任に幼子を放り出したりしない。けれど、こればかりはどうしようもないのだ。
この森の中でなら、ダレンを守ってやれる。人の数より動物の数の方が多い山の中でなら、この村に―ダレンに近づこうとする不穏な影を遠ざけられる。森はレイディアの領域だからだ。けれど、アドス村を出てノックターンの王城に入ってしまえば、鈴と離れてしまった状態のレイディアではダレンを守ってやれなくなる。
何より、レイディアには、もう時間がない。
本当ならば、もっと確実にダレンの安全を確保してからダレンを親元に帰す。それができないのならば、せめて…
「おまじないをしてあげるわ。大丈夫、怖くないわ。オズワルド陛下もきっと貴方を守ってくれる」
ダレンの顔に張り付いた髪を撫で上げ、レイディアはダレンにこめかみ、額、鼻先に頬、そして両掌に軽い口づけを落とした。
瞳からこぼれる涙が宙に散る。ダレンはレイディアの返答が、つまり自分との別離を意味することを知っている。そんなことはさせない。一人であの地獄のような場所に戻りたくはない。一緒にいたい。けれど、ダレンの望みが叶うことは、そんな場所にレイディアを引き込むということなのだと悟り、裾を離す余裕もない。ただ、ただ願うのは…
ダレンの喉が引きつり、そして…
「お、いてかな、で………おか、さ」
それは小さく、掠れた声だったけれど、レイディアだけでなく、室内にいた者全てにその言葉は聞こえた。
「やだ、いかな、で、おかあ、さっ」
レイディアの目が、これ以上ないほど見開いた。何も言えず、唇が戦慄き、声にならない呼吸だけが空回る。オズワルドも驚いた顔をしたが、すぐに哄笑に転じ、膝を叩いた。
「なるほど、我が息子は既にそなたを母親と慕っていたか。これは愉快。これでそなたを城に招く正当な理由ができた。丁度、息子の乳母を解雇したところだったのでな、息子の乳母として城に参られるが良い」
「しかし王よっ! 私はっ」
このままなし崩しに決められてしまっては堪らない。ダレンから顔を背けてオズワルドの言を遮ろうとした。けれど、いつの間にかオズワルドはレイディアのすぐ傍まで来ており、強引にレイディアの頤を持ち上げた。
「お優しい“巫女”様。聖なる慈母とまで評される貴女が、泣いて縋る幼子を突き飛ばせるのか?」
耳元でいっそ甘く囁かれた言葉に、レイディアはぞっとした。オズワルドを離そうとするが止まる。
「お前は存在自体が争いの火種だ。あらゆる利を纏った土地よりも、どんな美しい宝石よりも、魅力的に映るんだよ、権力を望む者には、特に。たとえお前が望まなくとも、意図せずとも、勝手に火種は燃え上がる。お前の目的も読めない以上、それを野放しにしておくほど、俺は頓馬ではない」
次いで冷え冷えとした言葉に、しかし却ってレイディアの手足に力が戻る。オズワルドの指を顎から外し、大きな声を上げて泣きじゃくるダレンを痛ましげに見下ろした。かろうじて、ダレンを抱きしめようとした手を下すことだけはできた。レイディアにできたことはそれだけだった。
何故なら、オズワルドの言葉は、その通りだったからだ。