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鈴の音の子守唄  作者: トトコ
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第六十二話

楚々とした佇まいで座す女に向けて布を放った。

精緻な刺繍が施された細やかな織目の布が広がり、女の膝を飾った。威圧的な空気の中でそのようなことをされても身じろぎもしないこの女こそ、布を織った本人だ。

「お前……こんなもので…何が目的だ」

低い声で問い質すと、俯いていた女の口元が、微かに、綻んだ。









ローゼは鬱屈した気分を持て余していた。それはもう何日も己の体内に蔓延っており、依然として払拭される様子はない。まだ夕刻前だというのに、部屋の窓から差し込む光は暗く、ぐずぐずと霙が降り続いている昼下がりの天候も、ローゼの気鬱に輪をかける。

気の休まる時がなく、常に神経を張り詰めて擦り削っていく感覚を、ローゼは知らないわけではない。不愉快ではあるが、馴染み深いものだった。そう、まだバルデロが小国であった頃に後宮を覆っていた空気だ。当時ここにはもっと多くの女がいて、今以上に酷く足を引っ張り合って、取り巻きはいても友人なんていなかった。そしてその頃のローゼは、自分よりも古参の姫が大勢いる中で己の立場を確保しようと躍起になっていた。

年数にしてみたら、忘れてしまうほど昔ではないのに、随分昔のことに様に思える。

「………ふぅ」

今、後宮にあの頃の様な数の女はいない、己の地位も最も権勢のある立場にある、なのに何故こんなに気分がささくれ立つのだろう。誰も王の子を産んでない今、正妃に一番近い位置にいるのは自分であるはずなのに…自分の心は晴れやかでいられない。

考えるまでもなく原因は分かっている。春妃と噂されている巫女の存在と、そして…

「ローゼ様、どうされました。お顔色が悪うございますよ」

「………ムーラン様」

気遣わしげな声にローゼは気だるげに顔を上げて目の前に座る女を見た。

秋妃ムーラン。ローゼが最も評価し、しかし最も動向を気にしている側妃である。収穫祭から少しした頃から、ムーランは度々ローゼの機嫌伺いに訪れては、共に午後の一時を過ごすようになった。ローゼも、不思議とムーランの穏やかな空気を疎ましく思うことなく自然とその時間を受け入れていた。素直に心情を吐露するくらいには。

「……こんな状況で、気分が晴れやかである筈がありませんわ」

現在、後宮は頭を悩ませる問題に直面していた。それはともすれば国内の勢力の分裂が危ぶまれるほどの重大な火種を孕んでいる。


それは冬妃キリエと、秋妃ソラーナの対立である。


彼女達は元よりうまが合わない様子であったが、去年までの四年間はそれなりにやっていた筈だったのに、最近になって急に仲の険悪さが表面化して、未だ収拾がつかないのだ。

たかが妃二人のいがみ合い…けれどその対立は二人だけの問題に留まらず、我々残りの妃を巻き込みつつあった。そしてそれはそのまま、それぞれに付く後ろ盾同士の対立に繋がる。さらに妃に付き従う侍女達の家も貴族が多く、それに倣う。現在の王宮の詳しい勢力図は分からないが、あまり楽観視できない。既に水面下では影響が表れていると考えてよいだろう。

均衡が崩れれば、ローゼの地位も揺らぎかねない。

ローゼは常であれば二人の軋轢に干渉などしない。けれど、見て見ぬふりをするには彼女達と親密になりすぎていた。秋妃シルビアも後宮に来てまだ日が浅いといえどもソラーナとそれなりに仲が良く、無関心ではいられまい。常にローゼの顔色を窺い、付き人のようにローゼに付き従っていた秋妃マリアでさえ二人の仲を取り持とうという姿勢を見せている。

マリアを取り巻きにしていたローゼがここで背を向けてしまえば、ローゼの影響力が削がれてしまう。それはつまり後宮の諍いを治める実力がないと、ひいては後宮の主には相応しくないと……そう判じられてしまうかもしれないということだ。そんなことは想像するだけでも耐え難かった。

ローゼは常に後宮の中心におらねば気が済まない。何年も守ってきた筆頭側妃の立場を今更明け渡すなど己の矜持が許さない。

ローゼは湧き上がってきた焦燥のまま、ムーランに強い視線を向けた。


もし、ローゼがその立場を追われるとしたら、代わりに納まり得る妃はムーランだけだから。


「怖いお顔。わたくしの顔に何かついています?」

ローゼの視線に気付いてもムーランは柔らかく微笑むだけだった。

ローゼはそれに答えず見定めるように見つめた。答えを探すように。期待といってもいい。ムーランは妃の中では年長者で、荒れたいた後宮時代から変わらず王の寵を競う女達から一歩引いたところにいた。それを見てきたローゼはムーランには権力欲が無いとみなしていたから、彼女を問題視したことはなかった。

それは今も疑ってはいないが、彼女が望むと望まざるに拘らず、状況が変われば周囲が彼女を推す可能性もなくもない。その他の妃にその器はない。ローゼはムーランを信用しているが、だからこそ、自分の後釜に足ると警戒している。家柄は少々頼りないが、貴族の身分には変わりない。だからこそ、自分の追い落とす気がないのだという確信を、彼女の眼の中から読み取りたかった。

「ムーラン様は、彼女達の諍いをどう思っていらっしゃいます?」

「…彼女達の争いは一朝一夕のものではありませんもの。今暫く様子を見るべきですわ。まだお二人とも誰の言葉も耳に入れる余裕がないようですから、下手に口を挿めば拗れて余計に長引くだけかと。少しほとぼりが冷めた頃に皆でお茶の席を囲めば、ことはすんなり治まりましょう」

そのくらいはローゼもとっくに考えている。当たり障りのない返答に、ローゼは少々焦れた。

「しかし、マリア様が大層お心を痛めておいでですわ。じっとしてはいられないようで、お淑やかなマリア様には珍しく、毎日のようにお二人に会いに行ってらっしゃるとか…」

その行動が、その対策を阻害しかねない。ここの所マリアはローゼに会いに来ない代わりに独断で行動しているらしい。侍女をやって諌めはしたが、却って意固地を張らせてしまった。あの気弱で従順だったマリアが。

何がマリアを突き動かしているのだろうか…。

「マリア様も何とかしようと懸命なのでしょう。後宮の一員として自覚がおありなのですわ」

考え込みそうになったローゼははっとした。マリアの行動は責めるほどのことではない。その動機はきっと皆で茶席を囲んだ時間を取り戻したいからなのだから。最善の手ではなくとも、気持ちは理解できる。…だからこそ困っているのだが。

「…けれど、そういった諍いの仲裁は…こう言っては失礼かもしれませんが、あまり雄弁でないマリア様には少々荷が重すぎる気がして。こういった仲介には、寧ろ…」

ローゼはちらりとムーランを盗み見たが、やはり彼女の表情に変化は見られず、最後まで言うことを諦めた。

…寧ろ、弁の立たないマリアよりも、ムーランの方が適任であるのに。

けれど当の彼女は、静観の立場をとっている。後宮のぎすぎすした雰囲気を気にした様子もない。その泰然とした態度には余裕さえ見られる。

「…ムーラン様は……いえ、何でもありませんわ」

ムーランに見つめ返され、ローゼは言葉を呑みこんだ。少しは事態の収拾に動いてはくれないのかと、一瞬でもムーランに頼る考えを抱いてしまった己を恥じた。ムーランのそれは権力争いに興味がないからこその静観の態度であり、余裕であるのに。


だが、同時にローゼは年明け前のムーランとの会話を忘れていなかった。


その中で、春妃と目されるレイディアと懇意であることを匂わせたことを。自分の知らない情報を知っていたことを。

その事情を最初から知る者がどれだけいる。その情報は何処から仕入れた。レイディア本人か、女官長か、噂からの推測か、もしくは…………王――

過った可能性が、震えとなって背筋を走った。

「ローゼ様? 顔色が先ほどからますます悪くなっておりますわ。やはり体調が優れないのではなくて?」

「…いいえ、お気になさらず…」

「ローゼ様が深くお悩みでいらっしゃる姿は心が痛みますわ。…わたくしでは力になれませんか?」

なんとか紡いだ返事に被さる様にして、ムーランは続けた。気遣いの言葉であるはずなのに、ムーランの声はどこか甘くて容赦がない。

「ムーラン様にお気遣い頂くほどでは…」

「ローゼ様が責任感が強い御方であることは、後宮の者達は皆存じておりますわ。ローゼ様が後宮を治めて下さることで、わたくし達は安心してここで暮らしてこれたのです。ですが、その為にローゼ様の御心を痛ませていたことを、とても心苦しく思っておりました」

ムーランの労りと称賛が、甘く甘くローゼのささくれ立った自尊心を撫でていく。同時にあくまでローゼを上位として扱うムーランの態度は、ローゼを安心させた。

これまでも、そしてこれからも自分が後宮を采配していくのだと自信が持てる。ローゼは居住まいを正し後宮の主に相応しい物腰を取り戻した。

「…どうということはありません。王の妃とは、かくあるべきですもの」

思わず頬を緩めてしまってもムーランの穏やかな笑みは揺らがない。それに勇気づけられ、さらに続ける。

「他国の後宮事情はどれも目も当てられない状況ではありますが、本来妃というものは王に忠誠を誓い、王の為に在る臣下です。役人が王の意向の元に政を行うように、国の次代を繋ぎ守るのが我々女の臣下の役目」

それは、ローゼが理想とする妃の在り方だった。先王の異母姉を母に持つローゼは、王家に対して精錬で潔白な在り方を求めていた。

王族は常に高みにあり、下々の者達に傅かれ、それに相応しい治世を布くものであると。だからこそバルデロを大国に押し上げたギルベルトを敬愛し、ローゼは、自分は王を支えられると自負していた。他の側妃達には、自分と同じように王に仕えそして自分に頭を垂れることを当然としていた。実際に、世継ぎの問題を除けば、この四年間はそれがほぼ実現していた。

「我々は皆立場を弁え、己を律し、諍いを避け、妃同士で歩み寄りさえして、後宮を住みやすい場所と維持して参りました。それを守ってきた皆様をわたくしは誇りに思っております。このような小さな諍いで、崩れる友好関係は結んでおりませんから、わたくしはさほど悩んでなどおりません。けれど、ここは後宮です。ここの女は皆王の物。王の意向に沿って行動することを義務付けられているのです。それを斟酌せずに振舞うことが果たして良いことだと言えますでしょうか。後宮の規律を乱しかねない行いを妃が率先しては、下の者に示しがつきません」

ローゼが一息に最後まで言いきるまで待ってからムーランはゆっくりと頷いた。

「ローゼ様の懸念は尤もでございます。では、ローゼ様はどのように事の収拾を図るおつもりですの?」

「…それは」

ローゼは言葉に詰まった。その手立てこそ、ムーランと言葉を交わすことで彼女から掲示を受けたいと思っていたからだ。

ローゼのこれまでの経験の中には、親しい妃同士の諍いの収束などない。してきたことといえば己に降りかかる火の粉を扇で翻し、自分が主催のお茶会で交友と牽制を図り、分不相応な者を投獄するくらいだ。

それだって己の魅せ方を熟知して上手く立ち回らなければ効果は知れたものになるのだから無駄なものではない。けれど、今の状況では役に立たない。

だからこそ、ローゼは鬱屈としていたのだ。初めて(まみ)える局面に対する緊張の所為で。

これまでこんなことはなかった。何故今になって皆離れ離れになろうとするのか。本当にこれまで春妃が…レイディアが影で纏めていたというのか。己も、その手の中にいたというのか。

苛立つほどにローゼが意図的に追いやっていた存在が大きくなり、振り切るように茶器を手荒く置いた。普段のローゼにあるまじき振る舞いであるが、ムーランは動じた様子はなかった。どころか笑みを深くしたムーランは、ゆっくりと立ち上がり、ローゼの隣へ歩み寄った。

「ローゼ様」

一方、隣に座られ、顔を覘きこまれたことに面食らったローゼは咄嗟に身を引きかけたが、ムーランの強くはない手の力に引き留められた。

「…なに」

「ローゼ様がそこまで歯がゆい思いをなさっているのは、ローゼ様が、如何なデノスリット公爵家の出であっても、あくまで立場は側妃に過ぎないからですわ」

まさか単刀直入に切り込まれるとは思わなかったローゼは怒りよりも不安を感じた。

「ですが、後宮の誰もが貴女を認めていらっしゃる。あとは…陛下の御心次第。だからこそ、こちらを向いて下さらない陛下が恨めしく、振り向かせられないご自分が口惜しい」

図星を突かれてローゼは喘いだ。

「………わたくし、は…陛下には気にかけて…頂いて」

「儀礼的に?」

ローゼの賢明な理性が警鐘を鳴らした。迂闊に答えれば、流されてしまうと。


彼女の手を振り払え

声を拒絶し耳を塞げ

無礼だと、彼女を叱責して部屋から追い出せ、と。


分かっていても、何故だかできなかった。踏み出せない。ムーランを無視できない。

ローゼはムーランの言葉が気になって仕方がないのだ。聞かなければ損をしてしまうと懼れるような。駄目だと分かっていても聞いてしまう矛盾に嵌ってしまえば、自覚しても抜け出せない。動けない。従ってしまう。じっとして、ムーランの行動を待つしかなくなる。

「後宮はローゼ様のもの。望めば手に入れられる。ローゼ様にはできますわ。誰も、ローゼ様の望みに否を唱える者はおりません」

望み。何の望みだ。わたくしの望み。後宮で最も壮麗で壮大な春の宮の住人になること。王の隣に立ち、王の支えとなって、王にも、自分を支えてもらえる、正妃の立場。ずっと欲しかった。ずっと王を見てきたのだから。

「……どうしたら…」

ムーランの微笑みが彼女の香りを強くして、ローゼの薔薇の香りを駆逐していく。

「……簡単ですわ。王に貴女のお力を認めて頂くだけです」

ムーランの添えられた手を握り返していたことを、ローゼは終に気付くことはなかった。







暖かい日差しが差し込む部屋の中で、レイディアは洗濯物を折り畳んでいた。衣類を捌くのはバルデロでの下女の仕事であるから、今ではすっかり要領を得ている仕事だ。家賃代わりに家事を手伝うことがこの家に居候する条件だが、彼らは何でもかんでもレイディアに押し付けることはせず、子供達も面白がって家事を手伝ってくれる。けれどすぐに遊びに興じてしまう堪え性の無さはどうしようもない。子供達が少し前に家を飛び出して行ってしまった後は、レイディアは一人で最後の仕上げを済ませているところだった。

最後の一枚を畳み終えた時、ぎい、と背後の戸が開く音がした。振り向くと、皆と遊びに行ったはずのダレンが隙間から顔を覘かせていた。

「もう帰ってきたの?」

ダレンは未だ口を利くことが叶わないままであったが、十分意思を伝える術は持っている。であるのに、ダレンはじっとレイディアを伺うようにこちらを見たまま、答えようとしない。そのくせ、何事かを訴えるかのような眼差しである。つまりこちらが察してくれるのを待っているのだとレイディアは理解した。

「……いらっしゃい」

レイディアは無理に問い詰めたりはせず、差し伸べた手を取ったダレンを引き寄せ、頭をそっと撫でてやった。ダレンの不安も一緒に拭うように。その手をゆっくりとダレンの肩に滑らせ、軽く叩いた。

「…もうすぐよ」

ダレンは何がと問いはしない。レイディアも説明しない。

ここ数日、レイディアとダレンの間には小さな溝が出来ていた。レイディアが何を言おうとダレンには聞く気はないらしく、不安に翳らせた瞳を向けてレイディアから目を離そうとしない。村の子供達がダレンを遊びに連れて行っても、こうしてすぐに帰ってきてしまう。レイディアはダレンの不安を承知していながら、軽くすることさえできず、どうすることもできない己に小さな落胆を感じた。

「貴方は大丈夫…何も怖くないわ……これは私の自己満足だから…」

ダレンの瞳が揺れた。レイディアは袖を抓んできたダレンに優しく、けれどきっぱりと、縋るその手を外した。

「私は貴方とずっと一緒にいることはできないけれど、貴方は一人じゃないから」

「………」

ダレンはレイディアの言葉の意味を完全に理解できずとも、レイディアの意図は察して、首を振った。


レイディアは、自分を置いて何処かへ行こうとしている。一人で。


それに気付いたのは彼女が特別手の込んだ布を織り始めてから…違う、ノックターン軍がこの村の近くを通りかかると報せが入ってからだ。レイディアは考え込むことが増え、ぼんやりと宙に視線を彷徨わせては、溜息を吐くようになった。人前では決して見せない憂慮の顔を、けれどダレンは知っていた。彼女の傍に立って、俯いた顔を下から見上げていたのだから。自分を優しく抱きしめてくれるけれど、懐の奥深くまでは受け入れてくれない壁を感じられないほど、子供は鈍くない。

「………」

瞼に焼付いた母親の最期の姿が離れず、声も未だ取り戻せず、精神が安定しないダレンにとって、救い上げてくれたレイディアの手は唯一の命綱だ。

まだレイディアに手を引いてもらわねば歩けない。

それでも敢えて手を放そうとしているということは、何か考えがあるからかもしれないけれど、どうしても、納得できない。

「………」

ダレンは空気を震わせても音にならない声で願いを口にした。そして外されてしまった手をもう一度彼女に伸ばす。決して外れぬよう、しっかりと彼女の背に回した。



その報せがやってきたのは、その夕刻、陽が山の端にかかる少し前の街の女達は夕食の支度で忙しく立ち働いている時刻だった。

麓の街からやってきた早馬は、いったい何事かと目を丸くする村人達に向かって高々と言い放った。


これよりノックターン王がこちらに参られる、と。


あまりに唐突にもたらされた報せに、すぐには理解できずに怪訝そうな顔をしていた村人達であったが、事の重大さが呑み込めると、俄かに上から下への大騒ぎとなった。混乱した村人達は、早馬に問い詰めた。けれど、先触れを持ってきたに過ぎない使者にしても詳しいことは知らされておらず、事態は変わらない。

その様子を、家の中から伺っていたレイディアは開けていた戸を閉めて、機織りの部屋に向かった。

「レイディアッ聞いたかい? 王がこっちに来るって…何でかわからないけど、大変だよ。おもてなしの準備をしろって村長が」

ジャンの妻のアンは家に戻るや興奮したようにレイディアに捲し立てた。

「…お帰りなさい。もうお鍋は煮えてますよ」

「ああ、そんなことはいいんだよ。これから大急ぎで村長の家を整えなきゃならなくなったんだ」

ノックターン王をもてなすにあたって、一番立派な村長の家を使うことになったらしい。村人総出で整えることになったと口早に伝えた。

それを受けてレイディアもそれに参加した。村の者達は一致団結して一刻もせずに村長の応接間を綺麗に磨き上げた。さらに何のもてなしもなければ失礼にあたるとして、各家庭で作っていた食事に少し手を加えて出すことしようと、村の女達はいったん家に戻っていった。

「食事といってもねえ、あたしらの食事が雲の上の方のお口に合うとはとても思えないんだけど…レイディア、どうすればいいと思う?」

アンはごく自然とレイディアに意見を求めた。品の良さが滲み出る彼女は、少なくとも良家の子女であることは一言二言言葉を交わすだけで分かる。そんな彼女に権力者への対応について意見を求めることは当然だった。

「どうもする必要はありませんよ。よっぽどひどい態度を取らなければ、何事も起こらないでしょう」

「でもねえ…何か失礼があってあたしらに何かお咎めが下るんじゃないかって、皆怖がっているんだよ」

「態々赴いた揚句に軍備施設もない村をどうこうなされば、寧ろノックターン王の評価が下がります」

ノックターン王の評判は、まだ王位について間もない故に真価を問うには早計であるが、概ね悪くなかった。少々強引なきらいがあり、古参の臣下と揉めていると聞いているが、周辺の傘下国の扱いも先王より改善し、ノックターンの一般的な気風からは随分外れた苛烈な性質ではあるが話が分からない王ではないと賛否両論で語られている。であるなら、そもそも寄る予定のなかった小さな集落に立ち寄ったところで、理不尽に弱い立場の者達を甚振るのを好む加虐的な権力者でないなら、王は村に何をする理由はないのだ。レイディアは心当たりがなければ、真実ただの気まぐれだと断じただろう。

「……大丈夫です。いきなりの通達で皆さん動揺しているみたいですが、ノックターン王に悪い噂は聞きません。きちんとした態度で臨めば、恙なくお帰り頂けるでしょう」

レイディアの断言に少し安心したようにアンは頬の強張りを緩ませた。

「そうかい? レイディアがそういうならそうなんだろうねぇ…やだよ、恥ずかしい。すっかり慌てちまって…」

アンが必要以上に不安に感じ、万が一を恐れているのは無理からぬことだ。封建制度の中での平民の存在は権力者の一存でどうとでもなってしまう。そして必ずしも権力者が理性的であるとは限らない。だが今回は、村を蹂躙するつもりで赴くのではないのだから、無闇に不安を煽ることはないだろう。それよりも、レイディアにはすることがあった。

「そうだ、急いで一番良い服も出さなくちゃね。みすぼらしいままじゃ、流石に…」


「……アンさん。少し良いですか?」


せかせかと準備に戻ろうとしたところを呼び止められ、アンはレイディアを振り返った。

「何だい? レイディアの服ならこっちでちゃんと…」

「いいえ、そのことではなく…差し上げたいものがあるんです」

アンは首を傾げた。随分唐突である。贈り物を貰う理由もない。

レイディアは棚から真新しい織物を取り出し、それをアンに差し出した。厚紙を芯にして丁寧に巻かれたそれは三本。一目でレイディアが織ったものだと分かる。

「……何だい?」

街に注文されていた分は今朝の内に全て納品された筈で、新たな注文だろうかと思ったアンだが、レイディアは差し上げる、と言った。

「お礼です。ここにダレン共々、置いていただいた…」

「その礼は十分貰っているよ。毎日の家事に、その布の売り上げの一部。あんまり気を遣われるのも、なんだか申し訳なくなっちまうよ」

「私の気持ちですよ。これまで本当にお世話になりましたから。これで、アンさんの服でも作って下されば、嬉しいんですけど」

「………」

アンは何となく見逃せない裏があるように感じた。

「何だい何だい、さっきから改まっちまって。まるで…」


…まるで、もうすぐレイディアがここを出ていくような口ぶりだ。


まさか。まだ春は遠い。いくらここが比較的温暖とはいえ、準備もなく野宿など出来ない。賢い娘がそんな無謀なことなどするはずがない。そう思っていても、一方で口にしたら現実になりそうな空恐ろしさに見舞われ、アンは口を噤んだ。

レイディアの手にある織物を受け取ることも、それを実現させそうで、手を伸ばすことが出来なかった。

それを察したレイディア手を引込め、棚に戻した。

「ここに置いておきますから、御入用の時は好きにお使いください」

「………」

結局のところ、レイディアに自分の物にする気がないなら、アンに拒否権などなかった。



殆ど日が暮れ、空は山の端だけが赤黒くなり、辛うじて隣の顔が分かる程の暗さになった頃、村を驚かせた張本人がアドス村に到着した。


ノックターンの最高位に在るその人は、馬上から土の上に額づいて出迎える村人達を見渡した。村長の懸命な謝辞を感慨もなく聞き流し、側近に何事かを耳打ちすると、身軽に馬から降りた。

「陛下はこの村から献上した織物を織った者は誰かと問うておる。織った者は前へ出ろ」

耳打ちされた側近の男がそう述べると、当惑した村人達はちらちらと後ろの方へ眼を向け始める。それを見咎めた王―オズワルドは唇を嘲笑に歪めて、村人達の肩越しに一人の女を見据えた。


「…お前か」


小さな呟きはすぐ傍の村長には聞こえず、けれど一番遠いレイディアには確かに聞こえた。少しだけ顎を挙げて、頭を覆うベール越しからレイディアも王を見据える。

あたりが暗くとも互いに目が合ったことを知る。オズワルドの眼が眇められ、レイディアを呼んだ。

レイディアはすらりと立ち上がり、前に歩を進めた。村人達はレイディアの為に王への道を自然と開けていく。

王との距離を十分にとってレイディアは再度土の上に膝をつき、裾を抓んで一礼した。

一連の行動を見届けてからオズワルドは漸く口を開いた。

「…名は」

「フロークと申します」

オズワルドは軽く頷くと、側近に目をやり、自分達を村長の部屋に案内させた。


レイディア自身も加わって手伝った村長宅の応接間に連れられたところで人払いがなされた。村人は勿論、警護についてきていた兵士まで。部屋に残っているのはオズワルドとレイディアの他は側近と、村長だけだった。

まだ混乱から抜け出せていない村長を除けば、室内の顔ぶれは冷静だった。オズワルドは馬上にいた時からずっと手にしていた織物を暫く弄った後、徐に口を開いた。

「…これは、お前が織った物だそうだな」

「はい」

上座に立ち、一歩上座いる村長よりもよほど肝を据えて座すレイディアを見下ろしたオズワルドは、出し抜けにレイディアの膝の上にその織物を放った。

「お前……こんなもので…何が目的だ」

問われて、レイディアは閉じていた目を開ける。

「どうと言われましても、これを知らせるべき御方は、陛下を置いていらっしゃらないではありませんか」

耳に心地好い涼やかな声が、流れるように言葉を紡ぐ。しかし、その声の質よりも、今は中身が重要だった。

「つまりお前は意味を知っていて、そんなものを俺に贈り付けたというわけか」

オズワルドはレイディアの膝に広がる布を指差した。


否、そのきめ細かい布を彩る、刺繍の模様を。


「その紋様が、ノックターンの王子に刻み付けられるものだと、何処で知った? 俺にそれを贈った真意は如何に?」

レイディアは膝を覆う布を下から掬い上げた。そこには自分が縫い付けた刺繍の紋様が鮮やかに彩られている。

それはダレンの鎖骨付近に刻まれた刺青のものを模写したものだった。レイディアはダレンを拾ったその日に気付き、以来なるべく隠してきた。レイディアはその紋様の意味を知っていたからだ。


その複雑な紋様は、王位継承権を持つノックターンの王族の男子に、生まれてすぐに刻まれるものだということを。


そのことを、レイディアはオズワルドの弟であるラムールを通して知った。当時婚約者だった彼が見せてくれた時、初めて見る白い肌に浮かぶ藍に驚き、酷く印象に残ったのだ。

王子に刺青が彫られることも、その紋様についても特に隠された秘密ではないけれど、広く広まっている情報でもない。まして、小さな山村の女が知っているはずもないものだった。

「私は、一月と少し前に、一人の子供を保護致しました。その子に、そのお印が御座いましたので、何事か変事があったと察し、みだりに触れ回るわけにもいかず、このような形でお知らせした次第で御座います」

レイディアの答えに、王だけでなく、側近も驚きを露わにした。

「ここにいるのか?」

「ええ。私共々、この村のある一家にお世話になっております」

オズワルドは冷静な態度を崩さず、レイディアの顔に他意を探しながら思案に耽った。

例えば、この女が王子を利用して取り入ろうとする可能性。

例えば、女が王子を攫った賊の手先である可能性。

例えば、己に仇なす反逆者である可能性。

例えば、刺青を知ることから女は実は高貴の出で、彼女自身に事情がある可能性。

先程の礼にしても洗練されたものであるし、四番目が濃厚であるが、決め手に欠ける。

化けの皮を剥がそうと、オズワルドは上座から降りてレイディアのすぐ前まで来ると、レイディアの抵抗を抑えて乱暴に顎を捕えて無理に上を向かせた。

「………お前…」

間近に迫る漆黒の瞳に息を呑んだ。たとえ薄暗い室内といえども、これほど近ければ誤魔化しようもない。漆黒に瞳を持つ者はある一族だけ。


「私に触れるな、ノックターンの王よ」


囁き合うようにして言われた言葉は、先程までの敬うものではなかった。ぎくりとして不覚にも力を緩めてしまったオズワルドは、いとも簡単にレイディアに逃げられてしまう。

「…事情は以上の通りです。お国に無事にお返しするには、これが私にできる精一杯でしたので」

殊勝な言葉で締めくくるレイディアの言葉に、二人の短いやり取りを聞き逃した側近は納得したように頷くのに対し、オズワルドはいっそう難しい顔をした。

「陛下。これが本当ならば何という僥倖でしょう。早速ご確認して殿下を保護しなければ」

側近の声に我に返ったオズワルドはああ、と気のないまま同意し、村長にその子を連れてくるよう命令した。オズワルドはその背中を見ることなく、レイディアから視線を離せなかった。

レイディアが、ほんの数秒前に考えていたような単純な輩ではないことは分かったが安堵はできなかった。むしろ、そちらの方が話は簡単に済んだというのに。


…何故、“巫女”がここにいる。


死んだのではなかったのか。バルデロはこのことを知っているのだろうか。フロークという名は偽名だろう。では、身を隠す理由は何だ。オズワルドはあらゆる可能性を打ち出したが、情報が少なすぎて、今はまだ纏められない。

ただ一つ分かるのは、この女を、こんな無防備な村に置いておけないということだ。

ノックターンの属国の、さらに小さな地方のこの村で、王太子だけでなく、こんな危険な火種を拾うとは、思いもしなかった。

討伐以上に疲れを感じたオズワルドは、唸るように声を出した。

「………事実確認が済んだら、お前にも同行してもらおう。詳しい事情を訊かねばならぬからな」

警戒心も露わにするオズワルドに、レイディアはちらりと目を向けた後は、再び静かに目を瞑った。








ビアンカはノックターンの王都から飛び出し、街道を走り抜けて隣街シュゼッテにある自宅へと急いでいた。

「うわあ…すっかり遅くなっちゃった…また外出禁止令を出されたらヤだな…」

シュゼッテの少女であるビアンカは王都で遊ぶことを好み、頻繁に街を抜け出しては王都の友人と遅くまで遊び耽るという少々怠惰な生活を送っていた。既に結婚適齢期を迎え、一、二年の内には嫁入りさせようと意気込む両親には悩みの種であることを知っているが、ビアンカにしてみればもう数年くらい自由にさせてほしいと思っている。自分はそこそこ大きな商家の娘で、自分の気持ちの有無に関係なく、いずれは店に利のある男に嫁がねばならないのだから。

馬車を捕まえようにも生憎捕まえられず、徒歩で帰るしかなかったビアンカだが、人気がない街道でもあまり身の危険を憂慮していなかった。何度も通った慣れた道でもあるし、治安は良くないことも知っているが、自分が危ない目に遭ったことはなく、シュゼッテまで女の足でも数刻、走ればもっと短時間で辿り着ける程近いからだ。僅か数刻の間に自分に何があるとは思えなかった。

「………ん?」

息を切らせながらも、速度を緩めず暫く走り続けていると、前方に黒い影が見えた。どうやら人のようだと気付くと、身の危険を心配していなかったビアンカも、流石にドキリと緊張した。

速度を速めて通り過ぎようと思ったが、その人影は蹲っており、しきりに足元を気にしていた。怪我をしているのだろうか。

甘やかされて育てられたが故に人の痛みに慣れていないビアンカは、つい足を緩めて様子を窺った。走ってきた所為で動悸が激しい。それでも何とか息を整え、乱れた髪を撫でつけるとそろそろと人影に近づいた。

「……あのお…どうかしましたか?」

もし怪しそうな人だったら、たとえ重傷者だとしても全力で走り抜ける気で恐る恐る声をかけると、人影が吃驚したように振り向いた。

「あ……いや、その」

呆れるくらい弱々しい声にビアンカの肩が下がる。緊張して損した。どうやらこの人は男の人みたいだけど、こんな気弱そうな人、逆立ちしたって自分を襲えそうにない。

「なあに、怪我をしてしまったの?」

警戒心が一気に解けたビアンカは親切心を出して足を診てやった。夜目では詳しくは分からないが、膝から踝にかけて血がべったりとついているところを見ると結構痛そうだ。

「何か巻くもの無いの?」

怖いのでなるべく血に触りたくないビアンカだが、放っておけるほど薄情にもなれない。

「いや、ちょうど切らしてしまって…少し休んだら王都に戻ろうと」

「王都の人?」

「いや、おれ、あちこち旅をしてるんだ。最近ここに来たばかりで…」

「ふうん。旅人ねぇ…何処の人?」

旅人の中には出自が怪しく、明らかでも国によっては警戒せねばならない時もある。

「ああ、メネステだよ。ここは向こうより暖かいね」

メネステ、という国名にまた一つビアンカの中で警戒の糸を解く。メネステは中立国で、比較的安全だ。父はあそこの商家はがめつくて抜け目がないと言っているが、そうでない商家の方が珍しいので気にしたことはない。

この時、警戒が解れると同時に沸いた親切心の他にずるい考えが浮かんでいた。この男の人を助けることで、帰宅が遅れたことの面目が立ち、両親からのお咎めが軽く済むのではないかという、あどけない悪知恵だった。

「貴方、宿とかは決まっているの?」

「いや、王都に着いたら探そうと思ってる」

「ならさ、ここからなら私の街の方が近いし、家に来る?」

「え…でも君のお家の人に迷惑だろう?」

「大丈夫よ。家には両親も、使用人だっているもの。怪我人の一人を一泊や二泊、泊まらせるくらい平気よ」

男とはいえこの男は優しそうだし、何より無害そうだと判断したビアンカは彼の手を取った。つられて立ち上がった男はビアンカより頭一つ分高いくらいで威圧感を感じないことにも安心した。ビアンカは友人にするように顔を近づけ、内緒話をするように声を潜めた。

「ただね、泊まらせてあげる代わりに、口裏を合わせてほしいの」

「口裏って?」

「貴方の怪我を診ていたから遅くなってしまったってね」

男は空を見上げた。ビアンカと出会う前には既に辺りはすっかり暗くなっていたわけで…。

ビアンカの小細工に気付いた男は笑った。

「そのくらいでいいなら、いくらでも」

「絶対よ? 外出禁止令なんて出されたら、一日中家庭教師と一緒に刺繍やったり詩を詠んだりさせられるんだもの」

「そうならないよう、尽力させてもらうよ」

男と約束を取り付けて満足したビアンカはにっこりと笑った。

「そうそう名前を言うのを忘れていたわ。私、ビアンカよ」

「おれはネイリアスっていうんだ。よろしく、ビアンカ嬢」

優しそうな旅人―ネイリアスは、怪我をしているにしてはしっかりとした足取りで、ビアンカと並んで街道を歩き出した。





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